第74話
意外にも秋山長雪が真っ直ぐ見返す。その眼差しには見逃せないほどの挑発の色が宿っていた。陸社長は口角に皮肉な笑みを浮かべ、圧倒的な威圧感のある視線が一気に和らいだ。薄葉夕夏はようやく周囲に凍りついた空気が砕け、流れ始めたように感じた。彼女は息遣いを慎みながら、自分の存在感を最小限に抑えるように努めた。
この時、沈アシスタントが 2 膳の食器を持って急ぎ足でやって来た。レストランの雰囲気が比較的和らいでいるのを確認して、心の中で大きな一息を吐いた。
「よかった… 社長が 2 人を難しくしなかった… 女の子を怒らせたらどうやってなつけるのか分からなかったのに…」
圧迫感は薄れたものの、秋山長雪は依然としてテーブル向こうの陸社長を不満そうに見つめた。
「この人、一体何を考えているの？丁寧に一緒に食事を誘ったのに、あの目でのぞき込む… 善意なのか、何か企みがあるのか、まったく分からない！」
「拘束されないで」なんて… 横の薄葉夕夏はすでにウズラのように縮こまっている！顧長雪は心の中で大声で愚痴をこぼした。
彼女はついに「ボス男の気まぐれ」を実感した。晴れ間と嵐が交互に訪れるような情緒の変化に、もうすぐカッとなりそうになった。
普段、彼女は恋愛小説の中の「ボス男の情緒の変化」シーンが大好きだった。形容詞を積み重ねたフォルムにのめり込み、「カッコイイ！」と思っていた。しかし、現実の人物にそういう性格があると、ただただ息苦しくて耐えられない。
陸社長には知られていないが、彼は美少女の恋愛に対する幻想を壊してしまった。ピンクの泡のように甘美だったファンタジーは、さわるだけで消えてしまう泡沫のようだった。
「呵呵（軽笑い）、陸社長のご招待ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」と秋山長雪は商談用の笑みを浮かべ、歯を食いしばって応じた。
そばの薄葉夕夏はこんな場面に慣れておらず、口を閉じてしまった。間違ったことを言わないよう、必死に我慢していた。
「では、めしあがれ。」
主人役の陸社長が料理を挟んだ後、薄葉夕夏と顧長雪は自分の近くの料理を挟んで一口試した。色香りともに完璧な料理なのに、口に含んでは味気なく、むしろ白米だけを食べるよりも苦しかった。
「うむ、これらの料理はすべて秀逸だ。小店長の腕前は本当にすばらしい」と陸社長はまるで 2 人の緊張を察知していないかのように、一つ一つの料理を味わった後、ある料理を指差した。「これは面白い。大根の皮に具を挟んで、遠目に見るとまるで花びらのようだ。ちょうど 16 弁。『清浄白蓮』という名前らしいが、何か寓意があるのか？」
「仏教の 16 種の修行方法を表しています」と薄葉夕夏は小声で答えた。
「おほ？小店長は仏教もご存じなのか？」陸社長は眉をひそめ、鋭い視線を向けた。
「なぜ 16 という数字を選んだのか？また、なぜ仏教の寓意を冠したのか？そして、突然肉の具を素の具に変えたのは？」
「私… これは偶然です。皿にちょうど 16 枚入るから、仏教の寓意を連想しました。仏教に関連する料理なので、肉の具を使うのは失礼だと思い、素の具に変更したのです。意図的に企んだわけではありません」と薄葉夕夏は慌てて説明した。しかし、陸社長にはそれが「隠すつもりがさらに疑わしい」としか見えなかった。
「そうなのか？キッチンには大きな皿も小さな皿もたくさんあるように記憶しているが…」
「おい！この人、一体どうして！夕夏が説明したのに、聞かないでいるのか！何か企みがあるとでも思ってるの？」秋山長雪は親友がいじめられるのを見て、怒りを抑えきれず声を上げた。「忘れてないでしょ？家宴の料理を依頼したのはあなただ！私たちが勝手に貼り付いたわけじゃない！」
彼女は思い切り立ち上がり、友人の腕を引っ張った。「夕夏、ここを離れよう！この注文は断るわ！戻ってから前金を返してやる！何でこんな理不尽な人間が…！」
薄葉夕夏は秋山長雪に力強く引っ張られて、足元をすべてかけた。慌ててテーブルの角を掴んでようやく立ち止まり、椅子は床と摩擦して「きー」という耳障りな音を立てた。
遠くで待命していた沈アシスタントはレストランの騒動を聞いて助けに入ろうとしたが、社長の冷たい視線で止められ、踏み入れた足を引き戻し、そっと後へ退いた。
「申し訳ない。誤解してしまった。」陸社長は座り直したまま、のろのろと謝罪した。
「誤解？呵呵、信じるわけないわよ。あなたって…」「クソオヤジ」という言葉は陸社長には合わないため、秋山長雪は言葉を変えた。「あなた、本当に意地悪な男！」
「はは」と後ろから軽笑いが響くと、秋山長雪はまるで逆毛を立てた猫のように薄葉夕夏を身の前に護り、振り返って敵対的なまなざしで黒名簿に登録済みの陸社長をにらみつけた。「何が可笑しいの？謝罪も誠意がないわね。これ以上のコラボレーションは断りたいと思います。」
「それでは更に申し訳ないが、2 人が署名した契約書には「甲乙双方は勝手に契約を破ることができず、違約者は協力費の 2 倍の違約金を支払う」と明記されている。」
陸社長は手っ取り早く協力費を支払い、市場価格よりも高い額を提示した。2 倍の賠償は薄葉夕夏にとって致命的な打撃だ。特に「福気」はまだ軌道に乗っておらず、赤字続きの状況だ。金は 1 円 1 円大切に使わなければならず、違約金を支払う余裕はない。
この点を考慮し、秋山長雪は怒りを抑え、薄葉夕夏をテーブルの前に引き戻し座らせた。「先ほどは私が悪かった。これから二度としません。陸社長の大人の度量で許していただきたい。お茶代わりに、この一杯で謝罪させていただきます。これからの協力が円滑になるよう、祈念いたします。」
言葉を落とした瞬間、秋山長雪は茶杯を持ち上げて一気飲みした。薄葉夕夏が止めようとする前に、すでに完了していた。
秋山長雪の態度を受け、陸社長は下り坂を探した。彼は本来、2 人を難しくするつもりはなかった。ただ、その料理の寓意が仏教に関連していたことから、思わず警戒心を強めたのだ。
「よし、話はここまでにしよう。食事をしよう。」
先の出来事で、テーブルの料理はほとんど冷めてしまい、出された当初の味わいは失われていた。3 人は沈黙の中で気まずい食事を終え、沈アシスタントに送られて帰路に着いた。
来る途中の興奮は、食事中の不快に取って代わられた。道路両側の夜景は華やかだが、2 人にとって魅力はなかった。後座に座った彼女たちの表情は、どちらも陰鬱だった。
助手席に座る沈アシスタントは、後座の様子を気遣いながら、车内の雰囲気を盛り上げる言葉を考えた。そして、自社の社長のイメージ挽回にも努めたいと思った。なぜなら、2 人は見かけの「普通の食堂の小店長」ではなく、確実に「特別な背景」を持っているからだ。
ちょうど前方 200 メートルに、地元で有名な夜の市街があった。さまざまな特色のある軽食が並ぶ。
「前に夜の市場があります。下車して散策しませんか？中の軽食はとてもオリジナルで、評判もいいですよ」
「行かないわ。」沈アシスタントとは長い間接しているため、秋山長雪は打ち解けて話した。「あなたの社長に腹を立てて、もう市場を散策する気分じゃないわ！」
「これは…」
沈アシスタントは応答も拒否もできない。考え抜いた末、社長が言い逃れした説明を代わって伝えた。「陸社長は故意ではありません。その点は確信しています。2 人に信じてもらいたいです。」
「故意じゃないなら、あの言葉を何で言うの？私たちが何か企んでいるとでも思ってるの？本当に腹が立つわ！」
「実は、今回の家宴に招待された客の一人は、近年一心に仏教に傾倒しています。陸社長は、2 人がその客の身元を知っていて、『清浄白蓮』を作って…」
そこまでで話を止め、沈アシスタントは後の言葉を飲み込んだ。
「何を企てたと？権力につかまろうと、陸社長の貴客をごますりするとでも？」秋山長雪は冷笑した。「馬鹿げたことよ。陸社長の行動は全く論理が通らないわ。仮に私たちが取り入ろうとしたとして、彼のような大物がいるのに、まだ会ったこともない客をなぜ世話かける必要があるの？彼との関係を積極的に維持すればいいだけじゃない！」
「これ……」沈アシスタントは再び言葉を失った。確かに秋山長雪の突っ込みは筋が通っていた。これまで「英明神武」と思っていた社長が、今回は確かに過剰な反応をしたように見えた。
「これこれ言わずに。陸社長があなたに私たちを送り届けさせたのは、監視の目的があるでしょ？私が何を言ったか、帰ったら丸字に伝えて。一字一句漏らさずにね！」
沈アシスタントはののしかし応じた。「は…… はい。」その瞬間、秋山長雪に陸社長の威圧感を重ねるような影を見たような気がした。
家に帰っても、薄葉夕夏は不安そうな表情を落とさなかった。陸社長の急な責め落としで、彼女は自信を失い、まだ終わっていないコラボレーションを前に臆病になっていた。
秋山長雪は友人の不安に気づきながら、直接慰める代わりに「味方」を呼び込んだ。「夕夏、冬木雲が近くにいるって言ってるわ。後でお菓子持って来てくれるの。夕食はほとんど食べなかったから、お腹すいたわ」
「冬木雲が来るの？」
「うん。見て、角のスーパーでお菓子買ってるわ。10 分ぐらいで着くかも」と秋山は携帯を振りかざした。画面には冬木雲とのチャットログが表示され、特に目を引いたのは彼が送ったスーパーの棚の写真。キラキラしたパッケージが並ぶ棚には、さまざまなお菓子が詰まっていた。
「藤間製果の新商品、ブラウニークリスプを頼んだの！最近めちゃくちゃ売れてて、大型スーパー 3 軒回っても売り切れてたのに、冬木雲が立ち寄った小さなスーパーにたまたまあったの！「踏破鉄鞋無覓所、得来全不費工夫」って言葉本当に当てはまるわ！私、運命の女神に愛されてる小さな宝物なの！」
秋山長雪がブラウニークリスプの人気ぶりをひたすら話している間、薄葉夕夏はもう聞く気力がなかった。そして、さっきの不安さえ、冬木雲に会う前の緊張に消えていた。
