レベル60
異空間境界。
――観測者と拒絶者
境界は、音を失っていた。
崩壊の兆候は確かに存在しているはずなのに、爆発も、轟音もない。
あるのは、世界の“厚み”が削られていく感覚だけだった。
アルフレッドは、足元を見下ろした。
地でも空でもない。
踏みしめている感触はあるが、次の瞬間には、その「在る」という確信が薄れていく。
――ここは、もう世界じゃない。
その理解と同時に、背後から声がした。
「思ったより、落ち着いているな」
振り向かなくても分かる。
この声の主を、彼はもう見誤らない。
「……お前もな、ザカリー」
そこにいたのは、完全な肉体ではなかった。
だが幻影でもない。
境界に“固定された観測像”。
世界から切り離されつつある者同士だけが、同じ解像度で認識できる存在。
ザカリー・グラッドストンは、穏やかな表情で立っていた。
「逃げる時間はあったはずだ。仲間のところへ戻らなくていいのか?」
アルフレッドは、魔剣を肩に担いだまま答えた。
「行けば、連れていかれる。……ここに残る“誰か”がいるなら、俺だろ」
ザカリーは小さく息を吐いた。
「相変わらずだ。合理性を理解していながら、最後に踏み外す」
「違う」
アルフレッドは、ゆっくりと首を振った。
「最初から、踏み外してるのはお前だ」
一瞬、空気が張りつめた。
だがザカリーは怒らなかった。
それどころか、どこか興味深そうに目を細める。
「……では聞こう。君は、何を拒絶した?」
「最適化だ」
即答だった。
「誰かが“決めてしまうこと”を、だ」
ザカリーは視線を逸らし、崩れゆく層の向こうを見つめる。
そこでは、かつて天空帝都だった構造体が、
“理由”を失った建築のように静かに解体されていた。
「世界は、放っておけば壊れる。だから私は――」
「違う」
アルフレッドは、声を強めなかった。
だが、確かだった。
「世界は壊れるから、続いてきた。壊れたあとに、誰かが拾って、繋いできたんだ」
ザカリーの指先が、わずかに震えた。
「……感情論だ。それでは、必ず犠牲が出る」
「もう出てる」
アルフレッドは一歩踏み出した。
「お前が選んだ“正しさ”で、どれだけの命が数値になった? どれだけの“いなかったこと”が積み上がった?」
沈黙。
境界が、さらに薄くなる。
「……私は、救おうとした」
ザカリーの声は、初めて弱さを帯びた。
「世界そのものをだ」
アルフレッドは、しばらく黙ってから言った。
「世界は、救われたいなんて言ってない。生きたいって言ってたのは――人だ」
その言葉は、刃のように鋭くはなかった。
だが、確実に刺さった。
ザカリーは、微かに笑った。
「君は……最後まで“人間側”に立つな」
「それしか、知らない」
魔剣が、静かに境界と共鳴する。
遠くで、仲間たちの存在が揺らいでいるのを感じる。
戻れる時間は、もう長くない。
ザカリーが、一歩後ろへ下がった。
「なら、これだけは伝えておこう」
「次は――君たちの拒絶が、“世界を守れなかった証拠”として使われる」
「誰にだ?」
ザカリーは、はっきりとは答えなかった。
「観測者は、私だけではない」
その瞬間、彼の輪郭が崩れ始める。
「ザカリー!」
アルフレッドが呼ぶ。
ザカリーは、最後に振り返った。
「君は、正しかったかもしれない。だが――正しさは、いつも遅れてやってくる」
そして、彼は境界の向こうへ“滑り落ちた”。
消滅ではない。
逃走でもない。
――次の観測点への移行。
アルフレッドは、深く息を吐いた。
「……まだ終わってない、か」
――アルフレッド奪還作戦、決行。
境界を探査していた時、最初に異変を察知したのはミリアだった。
「……待って」
転移術式が、完了しなかった。
本来なら、境界核の崩壊と同時に引き戻されるはずの座標が、一本だけ“抵抗”を示している。
「誰か、残ってる……!」
セレナが即座に振り向く。
「アルフレッドだね」
確認は不要だった。
魔剣の共鳴が、一つだけ欠けている。
バルトが歯を噛みしめる。
「チッ……あの野郎、やっぱりやりやがったか」
クレアは、言葉よりも早く動いていた。
聖印を握り、崩れゆく空間を見据える。
「……戻ります」
「無理よ!」
ミリアが叫ぶ。
「境界はもう――」
「それでもです」
クレアの声は震えていない。
「“誰かを置いていかない”と、あの人が選び続けてきたなら……今度は、私たちが選ぶ番です」
一瞬の沈黙。
次に動いたのは、セレナだった。
「作戦を組もう」
魔剣を肩に担ぎ、境界の裂け目を睨む。
「救出だ。アルフレッド奪還作戦」
奪還計画。それは――世界を逆走する
ミリアが即座に状況を整理する。
「境界は、もう“道”じゃない。今は――排出中の構造物よ」
「つまり?」
「中に入れば、世界から“削除される方向”に力が働く」
バルトが笑う。
「上等だ。押し戻しゃいい」
ミリアは、地面に即席の魔導陣を描き始める。
「通常の侵入は不可能。だから――逆位相侵入をやる」
セレナが眉を上げる。
「正気?」
「正気じゃないから、通る」
ミリアの目は冴えきっていた。
「境界が“排出”しようとしているものを、私たちは“回収”する」
クレアが理解する。
「……奪うのではなく、引き戻す」
「そう。ただし代償がある」
ミリアは、はっきりと言った。
「この作戦は、世界に嫌われる」
「十分だ」
バルトが盾を構える。
「今さら、好かれようなんて思ってねぇ」
そして境界再突入。
――拒絶を拒絶する。
魔導陣が完成する。
ミリアが詠唱を始めた瞬間、空間が悲鳴を上げた。
世界が、明確に“拒否”している。
《侵入、禁止》
《存在、不要》
《修正対象――》
セレナが、魔剣を抜いた。
「黙れ」
一閃。
斬ったのは空間そのものだ。
拒絶の層が、一瞬だけ“開く”。
「今よ!」
四人が、同時に踏み込む。
境界の内側は、アルフレッドがいた時よりもさらに不安定だった。
存在が、剥がれ落ちていく。
クレアが結界を展開する。
だがそれは、防御ではない。
「……繋ぎます!」
祈りではなく、意思だった。
“ここに、まだ必要な存在がいる”
その主張が、かろうじて空間を縫い止める。
発見した。
一人、取り残された場所
見つけたのは、境界の縁。
アルフレッドは、膝をついていた。
まだ存在している。
だが――世界に認識されかけていない。
「……やっぱり、やりやがった」
バルトが駆け寄ろうとして、止まる。
足元が、消えている。
「直接は行けない!」
ミリアが叫ぶ。
「アルフレッドは今、“世界の外側”にいる!」
セレナが一歩前へ出た。
「なら――」
魔剣を、地面に突き立てる。
「繋げばいい」
剣が、境界と共鳴し、一本の“線”を引く。
世界でも、異界でもない、第三の足場。
「渡れるのは一人だけよ!」
ミリアが叫ぶ。
「それ以上は――」
「分かってる」
セレナは、迷わなかった。
「私が行く」
――選ばれる側ではなく、選ぶ側へ。
セレナが、線の上を走る。
境界が、激しく揺れる。
アルフレッドが顔を上げた。
「……何やってる」
「迎えに来た」
セレナは笑った。
「文句ある?」
「……あるに決まってるだろ」
「後で聞く」
彼女は、彼の腕を掴んだ。
その瞬間、境界が完全に拒絶を始める。
《回収、失敗》
《存在過剰》
《切除――》
「クレア!」
「分かってます!」
クレアの結界が、限界を超えて輝く。
祈りではない。
“あってほしい未来”の強制主張。
「バルト!」
「おう!」
バルトが盾を投げる。
盾は、世界の端に突き刺さり、支点になる。
「ミリア!」
「もうやってる!」
逆位相術式が暴走寸前で回転する。
「セレナ、今!!」
セレナは、アルフレッドを突き飛ばした。
世界側へ。
自分は一歩、遅れる。
「セレナ!」
アルフレッドが叫ぶ。
彼女は、歯を見せて笑った。
「貸し一つだからね!」
次の瞬間、魔剣が彼女を引き戻した。
剣が、所有者を拒否しなかった。
境界が、完全に閉じる。
帰還。
四人と一人。
全員、そこにいた。
息が荒い。
立っているのがやっとだ。
しばらくして、バルトが笑った。
「……成功、だな」
ミリアは座り込んだまま言う。
「ええ。世界から、一人を奪い返した」
クレアは、震える手を胸に当てる。
「神様に……嫌われましたね」
アルフレッドは、仲間たちを見渡した。
「……悪い」
セレナが即座に言う。
「却下」
「次やったら?」
「また取りに行く」
当たり前のように。
崩壊した天空帝都の向こうで、
世界は新しい“誤差”を抱え込んだ。
――拒絶を拒絶した者たち。
ザカリーが、これを見逃すはずがない。
――空が、意味を失う
それは、勝利の余韻が完全に冷え切る前だった。
マデル郊外、臨時司令部。
空は澄み、夜明け前の星が静かに瞬いていた。
ミリアが、ふと立ち上がる。
「……来る」
誰も、問い返さなかった。
その声には、予兆ではなく確定があった。
次の瞬間。
空が――割れた。
雷鳴でも、爆発でもない。
空そのものが、巨大な円環として回転を始めた。
「……魔法陣?」
セレナが呟く。
否――違う。
それは“描かれた”ものではない。
空が、魔法陣の形に組み替えられている。
ミリアの顔色が変わる。
「惑星規模……いいえ、惑星そのものを術式媒体にしている……!」
クレアが、膝をつく。
祈りが、拒まれたのではない。
祈りが――相対化された。
「神の領域を…超えている……」
観測完了。
空の魔法陣が、完全に展開した瞬間。
世界中で、同時に“見えてしまった”。
雲海の上。
大陸の外縁。
極地の空。
海の彼方。
――天空帝都。
一つではない。
二つでもない。
幾何学的に配置された、複数の天空帝都が、
惑星を覆う魔法陣の節点として、次々に現界していく。
「……冗談だろ」
バルトの声が、掠れる。
かつて一つで王都を滅ぼした存在。
それが――量産されている。
ミリアが、歯を食いしばる。
「召喚じゃない……投影よ」
「投影?」
「別位相で“完成していた帝都”を、
この世界に重ねている」
アルフレッドは、空を見上げていた。
胸の奥が、冷たくなる。
「……最初から、複数あったのか」
「ええ」
ミリアは、はっきりと答えた。
「私たちが壊したのは、最初に選ばれた一基にすぎない」
ザカリー・グラッドストンの宣告。
声が、空から降りてきた。
拡声ではない。
共鳴でもない。
惑星そのものを媒体にした思考投射。
《理解したか》
ザカリーの声。
今度は、隠れていない。
遠隔でも、幻影でもない。
世界全域への同時宣告。
《君たちは、私の想定を超えなかった》
セレナが、魔剣を構える。
「随分、余裕だね」
《当然だ》
《奪還は、前提条件だった》
《拒絶を拒絶する者たち》
《世界に“戻れない存在”を、引き戻す力》
《それが成立するなら――》
空の魔法陣が、さらに輝く。
《個の選択では、世界は止まらないと証明できる》
クレアが叫ぶ。
「あなたは……世界を人質に取るつもりですか!」
《違う》
ザカリーの声は、淡々としている。
《私は、実験を終わらせる》
最終構造。
――多重天空帝都
ミリアが、震える声で言う。
「……分かった」
「何がだ」
「彼の狙い」
ミリアは、空を指差した。
「天空帝都は、単体兵器じゃない」
「惑星規模魔法陣の補助演算装置よ」
各帝都が、役割を分担している。
・一基は、魔力循環の安定
・一基は、因果補正
・一基は、拒絶の観測
・一基は、犠牲の最適配分
そして中央に――
「……中枢がある」
アルフレッドが、低く言う。
「俺たちが壊した“未完成核”の、完成版だ」
《正解だ、アルフレッド》
ザカリーは、名を呼んだ。
《君たちが拒絶した結果》
《世界は“単一の答え”を拒んだ》
《ならば、答えを複数用意する》
《世界が選ぶ前に、すべての選択肢を“同時成立”させる》
バルトが吐き捨てる。
「……狂ってる」
《いいや》
ザカリーは、初めて感情を滲ませた。
《合理的だ》
絶望の広がり
各地から、報告が雪崩れ込む。
・空が封鎖され、長距離転移が不能
・魔力潮汐の暴走
・国家結界の無力化
・神殿系術式の沈黙
世界は、戦場ですらなくなった。
管理対象になった。
クレアの声が、震える。
「……もう、止められないんですか」
ミリアは、首を振った。
「止められる」
一拍。
「ただし――世界のどこかを、確実に壊す必要がある」
セレナが、笑った。
「いつも通りじゃん」
アルフレッドは、魔剣を見つめる。
奪還された存在。
世界にとっての“誤差”。
「……ザカリーは、俺たちを見ている」
「ええ」
ミリアが頷く。
「次は、どの帝都を潰しに来るかを」
《選べ》
ザカリーの声が、再び落ちる。
《一基を壊せば、他が補完する》
《二基を壊せば、世界が耐えられない》
《君たちが望んだ“拒絶の世界”で――》
《どこまで、壊せる?》
空に浮かぶ、無数の天空帝都。
これは最終戦ではない。
――拒絶を共有する者たち。
多重天空帝都の展開から、三日。
世界はまだ回っていた。
だがそれは「生きている」のではない。
停止するまでの慣性で動いているだけだった。
各地の空に浮かぶ帝都は、沈黙している。
攻撃も、侵略も行わない。
ただ――観測している。
王国評議会 ――軍の選択。
マデル王国・地下大評議場。
かつては諸侯の利害と軍事均衡を論じる場だったそこに、今は「国家存亡」という単語しか存在しなかった。
「……つまり」
老将軍が、低く言う。
「我々の軍は、天空帝都に勝てない」
沈黙。
誰も反論しない。
「迎撃砲は届かず、結界は無視され、動員すれば都市が先に壊れる」
王が、静かに問う。
「ならば、軍は何のために存在する」
その問いに答えたのは、若い参謀だった。
「時間を作るためです」
「冒険者が動ける時間。神殿が儀式を構築する時間。そして――彼らが“壊す決断”を下す時間」
王は、ゆっくりと頷いた。
「……よかろう」
剣を携えた者ではなく、国家そのものが、脇役に回る決断だった。
「王国軍は、帝都迎撃を目的としない」
「避難、補給、封鎖、欺瞞。世界を“使い捨てにされない”ための布陣を敷く」
それは敗北宣言ではない。
役割の確定だった。
神殿連合 ――神の沈黙と、人の祈り。
神殿は、最初に崩れた組織だった。
神託が降りない。
奇跡が起きない。
祈りが、返ってこない。
だが――完全には、折れていなかった。
大聖堂の奥、封印庫。
神官長セラフィアは、跪く者たちを見渡した。
「神は、答えなかった」
誰も否定しない。
「だが、それは“否定”ではない」
彼女は立ち上がる。
「神が沈黙した世界で、それでも人が立ち上がるなら」
「その祈りは、もう神に向けたものではない」
神殿が選んだのは、神の代行者ではなく――人の証人になることだった。
・治癒と保護の独占放棄
・軍・冒険者への無条件開放
・禁忌儀式の記録開示
「我々は、“正しさ”を保証しない」
神官長は、そう宣言した。
「だが、“拒絶する理由”は、共有する」
冒険者ギルド ――役割なき者たちの覚悟。
最後に集まったのは、冒険者だった。
王に仕えず。
神に選ばれず。
国家にも属さない者たち。
だが――世界の隙間を埋めてきた存在。
ギルド総会は、怒号から始まった。
「俺たちに、帝都を落とせと!?」
「報酬は!?」
「死ぬ確率は!?」
答えたのは、老ギルドマスターだった。
「高い」
一言。
「だがな」
彼は、静かに続けた。
「今回は、逃げ場がない」
沈黙。
「王国が滅びても、神殿が潰れても、冒険者は“次の仕事”を探して生きてきた。だが、今回は違う」
空を指差す。
「世界そのものが、契約相手だ」
冒険者たちは、理解した。
これは英雄譚ではない。
職業としての最終局面だ。
・帝都外縁での遅滞戦
・補給線破壊
・帝都間転移路の攪乱
・生還率度外視の撹乱部隊
「選べ」
ギルドマスターは言った。
「名を残すか、世界を残すか」
誰も、席を立たなかった。
合流 ――拒絶の共有
夜。
臨時連合司令部。
王国、神殿、冒険者。
そして――アルフレッドたち。
ミリアが、全体図を展開する。
「各勢力の役割は明確になった」
「誰も、世界を“救う”とは言っていない」
「ただ――世界を“選ばせない”ことを拒絶する」
アルフレッドが、前に出る。
「ザカリーは、合理を正義と呼ぶ」
「なら俺たちは、非合理でも選び続ける」
セレナが笑う。
「ぐちゃぐちゃで、無駄で、最適化されてない世界」
「最高じゃない?」
誰かが、息を吐いた。
恐怖は消えていない。
希望も、確約されていない。
だが――
全員が同じものを拒絶している。
その瞬間、初めて。
この世界は、
ザカリーの実験台ではなくなった。
王国軍による世界規模の欺瞞作戦。
――「世界は、まだ従っている」と思わせるために
王国軍の作戦名は、記録上こう残される。
《大静謐》
だが、その実態は――
世界そのものを“従属しているように演じる”欺瞞だった。
天空帝都は、観測によって最適化を進める。
抵抗が大きければ殲滅し、秩序が崩れれば再構築する。
ならば――
「抵抗も混乱も存在しない世界」を、意図的に演出する。
第一段階:戦争の消失。
王国軍は、あらゆる正規戦闘を停止した。
・迎撃砲の沈黙
・対空結界の解体
・帝都に向けた威嚇行動の全面中止
代わりに行われたのは、
・都市の放棄
・軍の地下化
・兵站線の分散・消失
天空帝都から見れば――世界は戦争をやめたように見えた。
第二段階:国家の分解
各国は、意図的に「統治機構の弱体化」を演出する。
・評議会の解散報告
・国王の行方不明発表
・貴族間抗争の偽情報流布
帝都の観測網には、こう映る。
世界は、統治を放棄した。抵抗意志を失い、分解を受け入れている。
だが実際には――
統治は地下に潜っただけだった。
命令は口頭。
補給は分散。
部隊は国家名を捨て、番号も消した。
最適化対象としての“国家”を、意図的に消したのだ。
第三段階:偽りの従属信号。
最も危険で、最も大胆な一手。
古代遺跡から発掘された、帝都通信網と同系統の魔術式――
王国軍は、それを逆用した。
「観測に応じます」
「指示を待ちます」
「最適化を受諾します」
世界中の空で、従属を示す偽の魔力波形が発信される。
それは完璧ではない。
だが――即時殲滅を誘発するほどの“拒絶”でもない。
天空帝都は、判断を遅らせた。
その一瞬の遅延こそが、冒険者たちとアルフレッドたちに与えられた――命の時間だった。
神殿が解放した禁忌儀式の使用判断
――「神に許されぬもの」を、誰が背負うのか
王国軍が“嘘”を引き受けたとき、神殿は“罪”を引き受ける番だった。
禁忌儀式の正体。
神殿地下、封印文書群。
そこに記されていたのは、神代の終わりに意図的に封じられた儀式。
名称はない。
あるのは、機能だけ。
世界と世界の“境界”を、一時的に不安定化させる儀式
使えばどうなるか。
・空間が歪む
・因果が乱れる
・祈りが、どこへ向かうか分からなくなる
そして最悪の場合――
神そのものとの断絶。
神殿内部の対立。
若い神官たちは、震えながら反対した。
「これは、神を裏切る行為です」
「二度と奇跡が起きなくなるかもしれない」
だが、老神官の一人が言った。
「違う」
「これは、“神を守らない”選択だ」
沈黙。
「神を守るために世界を犠牲にするなら、それはもう信仰ではない」
神官長セラフィアは、最後に問う。
「この儀式を使えば、帝都の観測と最適化にノイズを生じさせられる」
「だが同時に、この世界は“神に管理されない”領域へ踏み出す」
「それでも――やるか」
答えは、即座ではなかった。
祈る者ほど、決断は遅れる。
最終的に、神殿はこう決めた。
・儀式は限定使用
・神殿の名ではなく、個人の責任として発動
・成功しても、神殿は功績を主張しない
記録にも残さない。
英雄譚にもならない。
ただ――
世界が“完全に管理される”ことを拒むためだけに使う。
セラフィアは、祭壇に立った。
「神よ」
一瞬、言葉に詰まり――それから、こう続けた。
「あなたが沈黙を選んだなら。我々は、あなたの代わりに拒絶を選ぶ」
儀式が起動する。
空のどこかで、天空帝都の観測式が、一瞬だけ乱れた。
その一瞬が――
アルフレッドたちの侵入経路を、確かに開いた。
ザカリー・グラッドストンの観測
――国家は数値、信仰は雑音。冒険者だけが“変数”だった
天空帝都の中枢、数え切れぬ魔法陣と観測式が幾層にも重なる空間で、ザカリー・グラッドストンは静かに“世界”を見下ろしていた。
彼の視界に映るのは、都市でも、軍勢でも、人々の悲鳴でもない。
数式だ。
国家の動員、神殿の祈り、王の決断――
それらはすべて、すでに既知の範囲に収まっていた。
「……やはり、変わらない」
低く呟く。
王国軍の欺瞞作戦は、彼にとっては“予測誤差の揺らぎ”にすぎなかった。
国家とは、構造体だ。階層があり、命令系統があり、保身がある。
壊れ方も、逃げ方も、統計的に同一でしかない。
神殿も同様だった。
禁忌儀式の発動兆候は、即座に検知されていた。
だがザカリーは、それを遮断しようともしない。
「神に縋る行為は、常に遅い。そして、常に世界を保存しようとする」
保存とは、停滞だ。
停滞は、次の破綻を必ず生む。
彼は、神殿の選択を“失敗を先送りするための抵抗”と分類した。
だから――
国家と教会は、彼の関心から外れた。
例外:冒険者
観測盤の一角に、他とは明らかに異なる反応域がある。
個として独立した魔力波形。
所属も、命令系統も、忠誠先も不定。
だが、行動は一貫している。
中枢へ向かう。
危険を承知で踏み込む。
撤退基準を自分で決める。
ザカリーの指が、わずかに止まった。
「……冒険者」
その名を、彼は侮蔑でも賛辞でもなく、純粋な識別子として口にした。
国家に縛られない。
神殿の教義にも縛られない。
生存よりも、選択を優先する。
それは――
彼が天空帝都を設計する際、最も排除したはずの要素だった。
「なるほど」
静かな声が、空間に溶ける。
「だから君たちは、最適化の外にいる」
アルフレッド。
ミリア。
バルト。
セレナ。
クレア。
個々の戦闘能力ではない。
連携でもない。
ザカリーが見ているのは、“予測不能な決断”の発生確率だった。
死ぬと分かって踏み込む。
勝てないと知って抗う。
救えないと理解した上で、なお手を伸ばす。
それは、合理性の外側にある。
だが――
「だからこそ、観測する価値がある」
彼の唇が、わずかに歪む。
天空帝都の観測式が、国家指標をさらに切り捨て、冒険者たちの行動ログを高解像度で追跡し始めた。
魔力の揺らぎ。
視線の動き。
戦闘中の判断遅延。
恐怖と覚悟の相関。
それらは、帝都の“次の形”を決めるための――
最良の教材だった。
「君たちは自由だ」
ザカリーは、そう断じる。
「だから、壊れる。だが――」
視線が、アルフレッドの反応域に留まる。
「壊れ方次第では、世界を再設計する“鍵”にもなり得る」
彼は、国家を滅ぼすために帝都を造ったのではない。
神を否定するためでもない。
ただ――
世界が、どこまで“自由”を許容できるのか。それを確かめるために、ここにいる。
そして今、その問いに最も近づいている存在こそが――
冒険者だった。
観測対象の確定。
――試練は、すでに始まっている
惑星を覆う魔法陣は、すでに完成していた。
大陸全域、海洋、空域、地下――
世界そのものが、ひとつの巨大な術式として編み上げられている。
各国の王侯は動いた。
神殿は禁忌を開示し、儀式の是非を巡って分裂した。
冒険者ギルドは非常招集をかけ、世界中から精鋭が集まりつつある。
だが。
天空帝都の最深部。
虚数空間に構築された観測座標において――
それらは、一切表示されていなかった。
映っているのは、五つの光点のみ。
アルフレッド。
ミリア。
バルト。
セレナ。
クレア。
「……奪還は完了している」
ザカリー・グラッドストンは、淡々と呟く。
彼の背後で、無数の計測式が静止したまま回転していた。
奪還に至る確率分岐はすでに収束し、再演算の必要はない。
「想定誤差、許容範囲内」
奪われ、取り戻される。
その過程自体に、もはや意味はなかった。
重要なのは――その後だ。
国家と教会は、誤差である
別座標で、観測補助体が問いを投げかける。
「各国連合軍、神殿連合による対抗策が進行中です。干渉しますか?」
ザカリーは首を振らない。
そもそも、問いとして成立していなかった。
「不要だ。国家は損失最小化の範囲でしか動かない。教会は意味付けの外に出られない。どちらも、世界構造に依存した反応だ」
魔法陣が惑星を包もうと、
天空帝都が幾つ出現しようと――
それらは既存構造の延長線に過ぎない。
「観測価値は低い」
冷静な断定だった。
冒険者という“例外”
ザカリーは、五つの光点を見つめる。
彼らは、国家の命令では動かない。
教義によって選択を縛られてもいない。
それでいて――
世界の重要局面に、必ず現れる。
「……やはり、ここだ」
ザカリーは判断する。
「観測対象を、冒険者に限定する」
補助体が一瞬、沈黙する。
「条件を確認します。彼らは世界を代表しません」
「承知している」
「彼らの選択は、全体最適を保証しません」
「承知している」
「彼らは――合理的ではありません」
ザカリーは、わずかに笑った。
「だからこそ、だ」
試練の開始
次の瞬間。
惑星規模魔法陣の内部で、微細な位相改変が走る。
破壊ではない。
攻撃でもない。
選択肢の配置変更。
同時多発的に発生する危機。
救援が間に合う地点と、間に合わない地点。
冒険者ギルド経由でしか届かない情報。
国家を通すと遅延する事象。
すべてが、冒険者の判断速度と意志を基準に再配置されていく。
ザカリーは告げる。
「試練を開始する。目的は三つ」
一つ。
「彼らは、世界規模の破綻を前にしても、個の選択を維持できるか」
二つ。
「奪還後も、仲間を“資源”として扱わずにいられるか」
三つ。
「救えないと理解したとき、それでも行動を止めないか」
ザカリーは、アルフレッドの光点を見つめる。
「君は、もう一段階先だ」
「君は選ぶ側ではなく、選択に干渉する側になりつつある」
だからこそ――
「まずは、仲間たちを観測する」
世界は、もう試されている。
その頃、地上では。
冒険者たちは、まだ知らない。
なぜ“間に合った街”と、なぜ“間に合わなかった街”が生まれたのか。
なぜ自分たちにだけ、
不可解な情報が届き続けるのか。
だが確かなことがある。
これは偶然ではない。
敵の総攻撃でもない。
試されているのだ。
救う理由も、救えない理由も、すべてを抱えたまま――
それでも剣を取れるかどうかを。
天空帝都の奥で、ザカリー・グラッドストンは静かに観測を続けていた。
「さあ、冒険者たち。君たちが“例外”であり続けられるか――見せてもらおう」




