レベル59
マデル郊外、臨時司令部として接収された石造館の一室。
夜明け前の薄青い光の中、ミリアは床一面に展開された魔導式の中心に立っていた。
「……妙ね」
彼女の声は低く、慎重だった。
未完成核の崩壊地点。
そこから回収された魔力残滓は、通常なら拡散し、消滅するはずだった。
だが今回は違う。
「流れが“切れている”」
アルフレッドが顔を上げる。
「逃げた、というより……」
「ええ。“向きを変えた”」
ミリアは指先で式の一部をなぞる。
魔力の痕跡は、一本の線ではなく、複数の断片的な方向へと分岐していた。
「観測点を分散させたのよ。追跡を嫌ってじゃない。……比較するため」
セレナが静かに息を吐く。
「つまり、次は一つの場所じゃない?」
「ええ。“同じ性質を持つ場所”を、同時に見ている」
調査は、理詰めで進められた。
・国家中枢ではない
・軍事拠点でもない
・大規模魔導施設でもない
そして、決定的な一点。
「“拒絶”に近い行為が、自然発生的に起きている場所」
アルフレッドが眉をひそめる。
「拒絶……?」
「命令や理論ではなく、誰かが“そうしない”と選び続けた場所よ」
ギルドから提供された各地の報告書。
冒険者、商人、巡礼者――雑多な証言の中から、奇妙な一致が浮かび上がる。
地図の上で、ミリアは三点を結んだ。
「ここ。通称――境界集落帯」
国家の境界に沿って点在する、小規模な自治集落群。
どの国にも完全には属さず、どの思想にも深く染まらない。
税も低い。
法も緩い。
だが――
「外敵に対しては、異様なほど“粘る”」
セレナが思い出すように言う。
「確か、天空帝都の侵攻時も……あの辺り、ほとんど壊滅報告がなかったはず」
「ええ。戦わず、従わず、逃げもしなかった」
ミリアの声が、わずかに硬くなる。
「ただ、“巻き込まれない選択”を、全員が取り続けた」
その夜。
アルフレッドは、眠れずに外へ出た。
空には雲が流れ、星はまばらだ。
――見られている。
根拠はない。
だが、確信に近い感覚があった。
ザカリーは、そこに“答え”を求めているのではない。
拒絶が、どこまで世界を成立させられるかを、測っている。
もし、その地帯が――
思想でも、装置でもなく、
人の選択だけで成り立っているのだとしたら。
それは、彼にとって最も危険な変数だ。
翌朝。
アルフレッドは仲間たちを見渡し、静かに告げる。
「行こう。ザカリーが“答えを見つける前”に」
セレナが剣の柄に手をかける。
「観測者に、観測される側の意思を見せるわけだ」
ミリアは微笑んだ。
「ええ。拒絶は、逃避じゃないってことを」
ザカリーは、まだそこに“干渉”していない。
だが――
観測が、続けば続くほど、彼は必ず踏み込む理由を見つける。
そしてその時、境界集落帯は、ただの“場所”ではなくなる。
ゲルマーシア王国の版図が、地図の上で意味を失い始める場所がある。
街道は次第に荒れ、石畳は途切れ、里程標は傾いたまま放置される。そこから先は、王国でも帝国でもない――境界集落帯と呼ばれる領域だった。
アルフレッドたちは、軍でもなく、王命を帯びた使節でもなく、名を伏せた一介の旅人としてその地へ入った。
ミリアは転移魔法を用いなかった。ここでは魔力の乱れが激しく、安易な術式は「呼び水」になる。
代わりに、徒歩と馬、そして人目を避ける夜明け前の移動が選ばれた。
空気が違っていた。
同じ大地のはずなのに、呼吸にわずかな違和感がある。魔力が薄いのではない。むしろ――削ぎ落とされ、使い尽くされた後の空気だった。
最初に見えた集落は、砦でも村でもなかった。
石と木と金属片を無秩序に継ぎ足した住居が、地形に縋りつくように点在している。防壁はなく、代わりに高台や瓦礫、崩れた遺構が自然の盾となっていた。
「……ここは、逃げ場だな」
バルトの低い声が、誰にともなく落ちる。
重戦士として幾つもの戦場を見てきた彼だからこそ分かる。ここは“守る場所”ではない。“生き延びるために身を潜める場所”だ。
集落に近づいた瞬間、視線を感じた。
一つではない。高所、物陰、半壊した塔の影――無数の目が、彼らを測っている。
セレナが、無意識のうちに魔剣の柄へ指を掛ける。
アルフレッドはそれを制し、両手を空にして歩みを進めた。
「通りすがりだ。敵意はない」
声を張らず、しかし隠さず。
その言葉に即座の返答はなかった。代わりに、集落の奥から一人の人物が姿を現す。
痩せた老人だった。だが背筋は伸び、片目には古傷の跡、腰には刃こぼれした短剣。
その足取りは、弱者のものではない。
「敵意がない、だと?」
老人の声は乾いていた。
「この土地に入る者は、皆そう言う。そして三日もすれば、奪うか、殺すか、死ぬ」
クレアが一歩前に出る。僧侶としてではなく、人として。
「私たちは、奪うために来たのではありません。追っている者がいます。黒衣の魔導士――」
その名を出す前に、空気が変わった。
老人の表情が、凍りつく。
集落のあちこちで、わずかなざわめきが走った。
「……その名を、ここで口にするな」
低く、しかし鋭い警告だった。
アルフレッドは理解した。
ザカリー・グラッドストンは、遠くの脅威ではない。ここでは“記憶”であり、“傷”であり、そして――今も続く恐怖なのだ。
「知っているのか?」
老人はしばらく沈黙し、やがて短く息を吐いた。
「知っている、どころか……ここにいる者の半分は、あの男の“理想”の残骸だ」
老人は彼らを、集落の中央にある半地下の空間へ導いた。
かつては神殿だったのかもしれない場所。壁には古代語の刻印が残り、その上から新しい補修が重ねられている。
そこには、地図があった。
正確ではない。だが、意図的に歪められた地形図――境界、裂け目、魔力の流れ、そして“消えた地点”。
「天空帝都が崩れた後も、あの男は終わっていない」
老人は続ける。
「彼は“拒絶”された。だから次は、拒絶されない場所を探している」
ミリアの瞳が細められる。
「……世界の外縁。法則が薄れ、選択そのものが曖昧になる場所」
老人は頷いた。
「そうだ。ここは、その入口の一つだ。境界集落帯とは、偶然できた難民地帯じゃない。“選ばれなかった実験場”の成れの果てだ」
沈黙が落ちる。
アルフレッドは、胸の奥で何かが静かに軋むのを感じていた。
拒絶――それは正しい選択だった。
だが、その先に残された者たちは、こうして今も世界の隙間で生きている。
「……俺たちは、止めに行く」
その言葉は、誓いでも宣言でもなかった。
ただ、事実として口にされた。
老人は彼を見つめ、やがて小さく笑った。
「なら、通れ。だが覚えておけ――この先で見るものは、“敵”よりも、“選ばれなかった正しさ”だ」
こうして、アルフレッドたちは境界集落帯に足場を得る。
同時に――ザカリーが次に観測しようとしている“座標”が、ゆっくりと輪郭を現し始めていた。
世界は、まだ終わっていない。
だが、終わり方を選ぶ段階に入っている。
半地下の神殿跡を出た後、アルフレッドたちは集落の奥へと案内された。
そこは居住区ですらなかった。崩れた遺構と自然の裂け目が絡み合い、かつて“都市”であった痕跡だけが、骨のように露出している。
夜が近づくにつれ、境界の空気はさらに重さを増す。
風は吹いているはずなのに、音がない。代わりに、耳鳴りのような低い振動が、地面の奥から伝わってくる。
「……魔力じゃない」
ミリアが静かに言った。
「これは、“観測された痕”よ。魔力が流れた後でも、術式が残った後でもない。世界が一度、測られた跡」
クレアは胸元の聖印を握りしめる。
祈りは拒まれていない。だが、応答もない。まるで――神すら距離を取っている場所だった。
集落のさらに奥、裂け目に近い一角に、異様な建造物があった。
古代列石と同じ材質の柱が、半ば崩れながら円環を成している。しかし完全な環ではない。三本、欠けている。
「……未完成だな」
バルトの言葉に、案内役の老人が首を振った。
「違う。完成しなかったんだ。ここは“起動前に拒絶された列石”だ」
アルフレッドは、無意識のうちに一歩踏み出していた。
列石に近づいた瞬間、胸の奥――かつて王胎と相対した時と同じ感覚が、微かに疼く。
だが、今回は暴走しない。
代わりに、視線を感じた。
上でも、背後でもない。
――世界の“向こう側”からだ。
「来るぞ」
セレナが低く告げ、魔剣を抜く。
その刃に宿る魔力が、境界の空気と反応し、淡い歪みを生んだ。
列石の欠けた部分から、影が滲み出す。
形は定まらない。人型でも魔物でもない。
だが、“意志”だけははっきりしていた。
《――拒絶、確認》
声ではない。思考に直接触れてくる、冷たい情報。
《対象:魔剣保持者、核反応保持者、聖性反応保持者
評価:干渉に値する》
ミリアが歯を食いしばる。
「……ザカリーの“残響”じゃない。これ、観測装置そのものよ」
老人が後ずさる。
「それは……“監査影”だ。完全起動に至らなかった列石が、自律的に残した“世界確認機構”」
影が、ゆっくりと動き出す。
攻撃ではない。解析だ。
触れれば、魔力構造、精神波形、核の共鳴――すべてを“測られる”。
「測らせるな!」
アルフレッドが前に出る。
魔剣を抜き放ち、刃を地面に突き立てた。
刃から放たれたのは、斬撃ではない。
拒絶の魔力――王胎との戦いで獲得した、“外からの干渉を断つ力”。
影が一瞬、揺らぐ。
《拒絶……確認
同一事象、再演算》
「来る!」
バルトが盾を構え、クレアが即座に結界を展開する。
セレナは側面へ回り込み、影の“輪郭”を断つように魔剣を振るう。
斬れない。
だが、薄くなる。
ミリアは詠唱を短縮し、極小の干渉魔法を重ねていく。
「分解じゃない、ズラすの! 存在座標を半拍、世界から外す!」
影が軋むような音を立てる。
《干渉……過剰
対象、観測不能領域へ移行》
次の瞬間、影は霧散した。
完全な消滅ではない。撤退だ。
裂け目に残されたのは、淡く光る紋様――座標情報。
老人がそれを見つめ、呻くように言った。
「……やはりな。ザカリーは、次に“境界の核”へ向かう」
アルフレッドは拳を握り締める。
拒絶した。
だが、それで終わりではない。
「……追えるな」
ミリアが頷く。
「ええ。でも、代償は大きい。あそこは、世界と世界の継ぎ目。入れば、何かを持ち帰れなくなる可能性がある」
誰も、引かなかった。
境界集落帯の夜が、静かに深まっていく。
そしてその向こうで――
ザカリー・グラッドストンは、次なる観測点に、確かに近づいていた。
境界集落帯を離れた瞬間、空の色が変わった。
夜でも、昼でもない。
星はあるが、配置が微妙に狂っている。
雲は流れているのに、影を落とさない。
「……ここから先は、“世界の表皮”だ」
ミリアの声は、いつもより低い。
魔導士としての直感が、警鐘を鳴らしている。
境界核――
それは場所ではなく、状態だった。
大地は続いている。歩ける。触れられる。
だが、足裏から伝わる感触は、どこか遅れてくる。
存在が、半拍ずつ世界に認識されているような感覚。
クレアは祈ろうとして、やめた。
ここでは、祈りは意味を持たない。
神に届かないのではない。
神という概念が、まだ定義されていない。
バルトが盾を叩く。
「……嫌な場所だな。敵が見えねぇってのは、こうも気持ち悪いもんか」
「敵はいるよ」
セレナが前方を睨む。
「ただし、こっちを“敵”だとまだ判断してない」
その言葉通りだった。
境界核の外縁――
そこには“迎撃”は存在しなかった。
代わりにあったのは、無関心。
岩のような構造物が点在しているが、人工物とも自然物ともつかない。
触れると、内部に幾層もの魔力構造が折り重なっているのが分かる。
「列石……いや、列石になる“前段階”ね」
ミリアが呟く。
「これらは、世界が自分を補修しようとして、失敗した痕。だから、ザカリーはここを――」
「“原材料”と呼んだ、か」
アルフレッドは魔剣を見下ろした。
この剣もまた、補修の結果だ。
拒絶という異常を抱え込んだ、歪な完成品。
そのときだった。
空間が、静かに割れた。
破裂音も、光もない。
ただ、存在の隙間が、開く。
そこから現れたのは、兵ではなかった。
魔物でもない。
人間だった。
だが、歩き方が違う。
呼吸のリズムが、世界と合っていない。
「……冒険者?」
バルトが目を細める。
確かに装備はそれらしい。
だが、目が焦点を結んでいない。
《侵入者、確認》
声がした。
だが、それは彼らの口から出たものではない。
《迎撃、不要
――最適化を開始》
瞬間、冒険者たちの動きが変わった。
恐怖も、迷いもない。
ただ、効率的。
斬撃は急所を外さず、魔法は詠唱を省略し、連携は完璧。
だが、それは“生きて戦う者”の動きではなかった。
「……使われてる」
クレアの声が震える。
「魂が、前に出ていない……!」
セレナが歯を食いしばる。
「ザカリー……いや、境界核そのものが、“戦力として再利用”してる!」
アルフレッドは、剣を振るった。
だが、躊躇があった。
相手は、生きている。
「ためらうな!」
ミリアが叫ぶ。
「今の彼らは、“選択権”を持ってない! ここで止めなきゃ、完全に構造に溶ける!」
アルフレッドは、決断した。
魔剣に、拒絶を流し込む。
斬るのではない。切り離す。
刃が触れた瞬間、冒険者の身体から光が抜けた。
倒れ伏すが、命はある。
だが――
一人、二人、三人……
倒すたびに、アルフレッドの胸の奥が、わずかに冷えていく。
何かが、削られている。
《観測更新
拒絶因子、依然有効》
声が、近くなった。
境界核の奥――
世界の継ぎ目が、はっきりと姿を現す。
そこにあったのは、巨大な半透明の“核”。
未完成。脈動は不規則。
だが、その周囲を取り巻く無数の光の糸が、世界中へ伸びている。
「……これが、全ての“接続点”」
ミリアが息を呑む。
「ザカリーは、ここで――」
言葉は、途中で遮られた。
核の表面に、人影が映る。
直接ではない。
幻影でもない。
“観測越しの存在”。
《拒絶を選んだか》
ザカリー・グラッドストンの声。
《ならば見せよう
拒絶の、その“代償”を》
核が、強く脈打った。
そして――
アルフレッドは、何かを思い出せなくなった。
それが何かは、まだ分からない。
ただ、胸の奥に、確かな空白だけが残っていた。
最初に異変に気づいたのは、クレアだった。
祈りを捧げようとして、言葉が途切れた。
「……?」
祝詞は知っている。
意味も、旋律も、身体が覚えている。
だが――向ける相手が、分からない。
「クレア?」
アルフレッドが振り向く。
彼女は、ゆっくりと首を振った。
「おかしいんです……“誰のために”祈っていたのかが、抜け落ちている」
沈黙。
それは混乱ではない。
恐怖でもない。
最初から、そうであったかのような空白。
ミリアが核を見つめたまま、低く言う。
「……始まったわね」
「何がだ」
バルトが問い返す。
ミリアは視線を外さずに答えた。
「拒絶の反動。境界核は、“拒否された要素”を無理に補正しない」
「だから――」
セレナが理解する。
「削る、のか」
その瞬間、核の脈動が一段強くなった。
光の糸が震え、一本が――切れた。
音はしない。
だが、アルフレッドの胸に、確かな衝撃が走る。
「……何だ?」
頭が、軽い。
いや、軽すぎる。
「おい……俺、何を考えてた?」
バルトが眉をひそめる。
「何って……」
言葉が、続かない。
“いつもなら”出てくるはずの名前が、浮かばない。
「……誰だ?」
誰のことを考えようとしていた?
前線に立つ重さ。
剣を振る理由。
守るべきもの。
確かに“あった”。
だが、それが何であったかが、思い出せない。
セレナが、ゆっくりと周囲を見渡す。
人数は、合っている。
誰も消えていない。
なのに。
「……一人、多かった気がしない?」
誰も、即答できなかった。
否定できない。
だが、肯定する材料もない。
クレアが、唇を噛む。
「私……誰かに、よく叱られていた気がします」
それは、確かに“感情”として残っている。
だが、記憶がない。
像が、ない。
ミリアが、初めて核から目を離した。
「……最悪の形ね」
「説明しろ」
アルフレッドの声は、低い。
ミリアは、はっきりと言った。
「境界核は、“世界の帳簿”よ。拒絶によって帳尻が合わなくなると――」
一拍、置く。
「存在そのものを、過去から調整する」
「過去、だと?」
「ええ。“今ここにいない”のではない」
ミリアの声が、わずかに震える。
「最初から、いなかったことになる」
空気が、凍りついた。
そのとき――
核の表面に、再び人影が浮かぶ。
ザカリーの“観測像”。
《理解したようだな》
その声は、静かだった。
《拒絶は、選択だ
だが選択とは、常に“代価”を伴う》
アルフレッドは、前に出る。
「……誰を消した」
即答はなかった。
だが、ザカリーは微笑んだように見えた。
《正確には
“誰か”ではない》
《役割だ
結節点だ
世界を支えるために、必要とされていた“歪み”》
ミリアが、はっとする。
「……拒絶因子を、緩衝していた存在」
ザカリーは頷いた。
《その通り
君たちの拒絶は、純粋すぎた》
《だから世界は、“支え”を失った》
《そして――》
核が、再び脈打つ。
《次は、君たち自身が支えになる》
観測像が、薄れていく。
《さあ、選べ》
《失い続けるか
――それとも、どこかで“受け入れる”か》
沈黙。
アルフレッドは、魔剣を握りしめた。
剣は、まだ重い。
拒絶は、まだ機能している。
だが――
胸の奥の空白は、確かに広がっていた。
「……進むしかないな」
セレナが言う。
「戻っても、失われたものは戻らない」
クレアが、静かに頷く。
「祈りの先が分からなくても……それでも、私は祈ります」
バルトは、盾を背負い直した。
「誰かがいなくなったならよ、その分、俺たちが踏ん張るしかねぇ」
ミリアは、核を見つめる。
「次に失われるのが、“名前”か、“感情”か……あるいは――」
言葉を切った。
アルフレッドは、前を向いた。
「それでも行く。拒絶した責任は、俺たちが引き受ける」
境界核の奥が、ゆっくりと開いていく。
そこは――“再構築の中枢”。
世界が、次に壊される場所。
そして同時に、まだ選択が残されている、最後の地点だった。
境界核の奥は、空間ではなかった。
距離も、高さも、奥行きも存在しない。
あるのは、層だけだ。
アルフレッドたちが一歩踏み出すたび、足元の感触が変わる。
石だったものが、次の瞬間には水になり、さらに次の瞬間には、記号になる。
文字とも図形ともつかない、意味だけを持つ痕跡。
「……地形じゃない」
ミリアが低く呟く。
「ここは“構造”。世界がどう在るかを定義する、下書きの束よ」
視界の先で、巨大な円環が幾重にも重なっていた。
それぞれが回転し、分離し、再結合している。
円環の内側では、光が流れ、光の中に――都市が生まれ、崩れ、消えていく。
「……今のは」
セレナが息を呑む。
「王都リョーデル……?」
誰も否定できなかった。
だが、次の瞬間、同じ場所に
“存在しなかったはずの街”が現れる。
塔の配置が違う。
城壁の形も違う。
「別の……可能性?」
クレアが問いかける。
ミリアは首を振った。
「違う。“候補”よ」
アルフレッドが眉をひそめる。
「候補?」
「世界が成立するために、どの形が最も安定するか。その試算結果」
ミリアの声は冷静だったが、内容は凄惨だった。
「ここでは、街も、人も、歴史も――数値として評価されている」
その言葉を証明するように、円環の一つが崩れた。
光が反転し、映像が裏返る。
そこには――
生まれなかった子供。
出会わなかった夫婦。
勝利しなかった戦争。
「……クソだな」
バルトが吐き捨てる。
「全部、“なかったこと”にしやがる」
「違うわ」
ミリアが訂正する。
「“なかった方が安定する”と判断されたものを、削っているだけ」
そのとき。
円環群の中心に、一本の柱が現れた。
上下が見えないほど巨大で、表面には無数の線が刻まれている。
線は文字ではない。
だが、見ただけで“意味”が流れ込んでくる。
《因果修正》
《矛盾排除》
《負荷分散》
《存在最適化》
「……再構築中枢」
ミリアが、確信を持って言った。
アルフレッドは、その柱に近づいた。
近づくほど、頭が痛くなる。
思考が分解され、並べ替えられる感覚。
「……ここに触れたら、どうなる」
「触れた瞬間、あなたは“入力値”になる」
ミリアは止めなかった。
「人間としてじゃない。変数として」
柱の表面が、アルフレッドの接近に反応した。
一部が開き、
そこに――五つの空席が浮かび上がる。
人の形をしているが、顔がない。
「……俺たちか」
セレナが、剣に手をかける。
「最初から、そのつもりだったみたいだね」
その瞬間、空間が揺れた。
中枢全体に、観測者の存在が重なる。
声が、直接脳裏に落ちてくる。
《ようこそ》
ザカリー・グラッドストン。
今度は幻影ではない。
“権限”としての存在感。
《ここが、世界が決定される場所だ》
《君たちが拒絶した結果も、すでに反映されている》
アルフレッドは叫ぶ。
「こんな場所で、世界を決めるな!」
《決めているのは、私ではない》
ザカリーの声は、淡々としていた。
《“存続可能性”だ》
《情緒では世界は保たない
理想でも、信念でも、祈りでもない》
クレアが、一歩前に出る。
「……それでも、人は選びます」
《だから失敗する》
ザカリーは即答した。
《選択は、常に局所最適だ》
柱の表面に、新たな映像が走る。
冒険者たちが裂け目の外で命を燃やしている光景。
誰かが、空間を固定するために崩れ落ちる。
誰かが、位相を繋ぐために消える。
《彼らの犠牲も、数値に換算されている》
《だがそれは“無意味”ではない》
《必要だった》
アルフレッドの拳が震える。
「……それを、是と呼ぶのか」
《呼ぶとも》
ザカリーの声に、迷いはなかった。
《犠牲を前提としない最適化は、幻想だ》
《拒絶は、痛みを先送りにしただけ》
《いずれ、より多くが失われる》
柱が、ゆっくりと回転する。
五つの空席が、明確に光を帯びた。
《さあ》
《次の選択だ》
《ここで中枢を破壊すれば、世界は“未修正”のまま崩れ始める》
《受け入れれば――
君たちは“調整者”となり、世界を支える柱になる》
セレナが、歯を見せて笑った。
「随分、性格の悪い神様だね」
《神ではない》
ザカリーは静かに言う。
《私は、医者だ》
《そしてこの世界は――末期だ》
沈黙。
再構築中枢は、待っている。
拒絶を貫くか。
それとも、誰かが“支え”になるか。
沈黙は、選択の余韻ではなかった。
それは――計測不能というエラーだった。
再構築中枢の柱が、初めて明確に揺らいだ。
円環の回転が乱れ、光の流れが詰まり、意味の層が、互いに衝突を始める。
《……拒絶を確認》
声が、変わった。
ザカリーの声ではない。
感情も思想も持たない、機構そのものの判断。
《入力値:人為拒絶》
《最適解、再算出不可》
《代替処理、開始》
ミリアが叫ぶ。
「来る……! これは、単なる防衛反応じゃない!」
アルフレッドは魔剣を握り締めた。
「何が起きる」
「“拒絶”を前提に、世界を書き換え直す!」
円環の一つが、破裂した。
映像が消えたのではない。
“存在していた可能性”が切り捨てられた。
次の瞬間、アルフレッドの脳裏に、あり得た記憶が流れ込む。
――王都で死んでいた自分。
――剣を取らなかった自分。
――誰も救えなかった世界。
「……ぐっ」
膝をつく。
それは幻覚ではない。
未採用だった未来が、拒絶に伴って逆流している。
セレナも、歯を食いしばる。
「……あたしが、ここにいなかった世界……」
バルトは盾を支えに立っていた。
「ちくしょう……消されたはずの後悔まで、引きずり出しやがる……」
クレアは祈ろうとしたが、言葉が出なかった。
祈りの“前提”が揺らいでいる。
神が定めた秩序。
世界が続くという前提。
それらが、再構築中枢の拒絶によって宙吊りにされた。
《拒絶は、破壊ではない》
再び、ザカリーの声が重なる。
だが今度は、わずかな歪みがあった。
《拒絶は――
世界を“誰も修正しない状態”に戻す行為だ》
柱の表面に、亀裂が走る。
そこから、光でも闇でもないものが漏れ出す。
――選択の残滓。
「……これが、未完成核」
ミリアが理解した。
「帝都の核は、最初から完成していなかった……人が“拒絶する可能性”を、組み込めなかったのよ」
《そうだ》
ザカリーは、初めて認めた。
《私は、“拒絶しない人間”しか想定していなかった》
《受け入れるか、折れるか。
どちらかだと信じていた》
円環が次々に崩れていく。
再構築中枢は、処理を続行しようとするが、入力が定義できない。
《修正不能》
《修正不能》
《修正不能》
機構の声が、繰り返される。
アルフレッドは、立ち上がった。
「これが答えだ」
ザカリーに向かって、はっきりと言う。
「世界は、最適化されるものじゃない」
魔剣が、微かに震える。
「間違いも、失敗も、後悔も――それを抱えたまま進むしかない」
柱の中心に、黒い空白が生まれた。
未完成核の心臓部。
「……拒絶が、連鎖している」
ミリアが呟く。
「列石、王胎、帝都……全部、“世界を代行して決める構造”だった」
「それを――」
セレナが続ける。
「まとめて、否定したってわけか」
《代償は、理解しているな》
ザカリーの声が、遠くなる。
《修正されない世界は、不安定だ》
《次に壊れるのは――
人が守ろうとする場所だ》
クレアが、アルフレッドの隣に立った。
「それでも……私たちは、選びます」
《…………》
返答はなかった。
代わりに、未完成核が反応した。
拒絶を“エラー”としてではなく、
条件として受け入れ始めたのだ。
柱が、崩れ始める。
だが、それは爆発ではない。
役割の解体だった。
再構築中枢は、世界を“決める”ことをやめた。
世界を“維持する責任”を、
完全に――現実へ返却した。
「来るぞ!」
ミリアが叫ぶ。
「この中枢が、存在理由を失う!」
空間が傾き、上下の概念が崩れ、円環が雨のように落ちてくる。
未完成核は、最後に“記録”を放った。
――世界は、誰のものでもない。
――だからこそ、誰かが背負わなければならない。
ザカリーの気配が、急速に遠ざかる。
《……拒絶、か》
それが、彼の最後の言葉だった。
再構築中枢は、完全に沈黙した。
そして――
天空帝都そのものが、崩壊を始める。
崩壊は、音を立てなかった。
爆発でも、破砕でもない。
前提が失われる音――それは、世界から静かに引き算されていく感覚だった。
足元の層が剥がれ落ちる。
記号だった床が意味を失い、意味が概念へ戻り、概念が空白へと溶けていく。
「……足場が消える!」
バルトが盾を突き立てるが、盾が支えているのは地面ではない。
“まだ崩れていないと信じられている部分”だ。
再構築中枢は、世界を維持することをやめた。
同時に、境界核という“状態”そのものが解け始めている。
「戻るわよ!」
ミリアが叫ぶ。
彼女の詠唱は転移ではない。
ここでは座標が意味を持たない。
行うのは――“帰還条件の再定義”。
「来た経路をなぞれない! ここはもう“過去”を参照できない構造になってる!」
「じゃあ、どうする!」
セレナが瓦解する円環を斬り落としながら問う。
ミリアは一瞬、躊躇した。
そして、はっきりと言った。
「誰かが“境界”に残って、出口を成立させる必要がある」
空気が凍る。
クレアが、即座に一歩前に出た。
「私が――」
「駄目だ」
アルフレッドの声は、低く、即断だった。
「祈りは、ここじゃ意味を失う。君が残れば、“戻れない”」
バルトが歯を食いしばる。
「じゃあ誰がやるってんだ……!」
そのときだった。
魔剣が、わずかに震えた。
拒絶の魔力が、周囲の崩壊と拮抗している。
否定された構造が、なお“外からの決定”を弾いている。
ミリアが、アルフレッドを見る。
「……あなたなら」
言葉を選ぶ。
「拒絶因子を持つあなたなら、“境界として留まりながら、世界に属し続ける”ことができる可能性がある」
それは、帰還ではない。
取り残されることでもない。
“中間に留まる”という選択。
アルフレッドは、魔剣を見下ろした。
胸の奥にある空白が、微かに疼く。
思い出せない“誰か”が、そこに立っていたような感覚。
「……俺がやる」
セレナが、即座に首を振る。
「冗談じゃない。あたしは、また誰かが“最初からいなかったことになる”のは御免だ」
「今回は違う」
アルフレッドは前に出る。
「消えるんじゃない。繋ぐ」
ミリアは、歯を噛みしめて詠唱を組み替える。
「……分かった。でも条件がある」
彼女は、アルフレッドを真っ直ぐ見る。
「あなたが境界に留まれるのは、“仲間があなたを覚えている限り”よ」
クレアが、はっと息を呑む。
「……記憶が、錨になる」
「ええ。忘れられた瞬間、あなたは“役割”に変換される」
崩壊が加速する。
円環が落ち、層が剥がれ、世界が“選択を放棄した空間”へと戻っていく。
「時間がない!」
バルトが叫ぶ。
アルフレッドは、剣を地面に突き立てた。
拒絶の魔力が、境界そのものを固定する杭となる。
「行け!」
ミリアが術式を解放する。
それは転移ではない。
“現実への復帰”。
光が、仲間たちを包む。
最後に、セレナが振り返った。
「――絶対、忘れないから」
その言葉が、錨になった。
世界が反転する。
境界集落帯・夜明け。
土の匂い。
冷たい風。
現実の重さ。
クレアは、地面に膝をついた。
「……戻れました」
人数を数える。
ミリア。
バルト。
クレア。
セレナ。
一人、いない。
だが――
“いなかったことになっている”わけではない。
セレナが、胸を押さえる。
「……いる」
「え?」
「見えないけど……
あたし、ちゃんと覚えてる」
ミリアが、静かに息を吐いた。
「境界は、閉じた。
でも……完全には消えていない」
彼女は空を見る。
ノーマンズ・リングの空の一角。
ほんのわずか、現実と噛み合っていない“歪み”。
「あそこにいるわ」
アルフレッドは、世界と世界の継ぎ目に留まった。
取り残されたのではない。
犠牲になったのでもない。
拒絶の結果として生まれた、“新しい境界”。
そして――
それは、ザカリー・グラッドストンが
決して想定できなかった形の“支え”だった。




