レベル57
中枢空間が、ゆっくりと“剥がれて”いく。
光脈だった壁は解体され、床だったものは沈み、天井は裏返る。
世界の内側が、さらにその奥を露わにした。
そこに現れたのは――核だった。
巨大ではない。
むしろ、あまりにも小さい。
人ひとりを包めるかどうかという大きさの、半透明の結晶構造体。
その内部で、何かが“形になりきれず”に揺れている。
「……未完成」
ミリアが、思わず呟いた。
「そうだ」
ザカリーの声が、静かに響く。
「天空帝都は、まだ“産まれていない”」
核の周囲には、無数の魔法式が絡みつき、互いに干渉し、矛盾し、解決されぬまま回転している。
「完成すれば、帝都は“自律する”」
ザカリーは言う。
「誰の意思にも縛られず、世界が臨界に達した瞬間を検知し、自ら破壊と再構築を行う存在になる」
バルトが低く吐き捨てた。
「……世界を裁く神の代わり、ってわけか」
「神よりも、ずっと公平だ」
ザカリーは即答する。
「感情を持たず、躊躇せず、選択を先延ばしにしない」
クレアの手が、震える。
「……でも、それは」
声を絞り出す。
「人が、もう二度と“選ばなくていい”世界になる」
ザカリーは、彼女を見る。
「そうだ」
そして、否定しなかった。
「それが、最後の選択肢だ」
核が、淡く脈動する。
それに呼応するように、外界の映像が断片的に流れ込む。
裂け目の外。
帝都へと続く侵入口。
冒険者たちが、魔力を燃やし、
自らを位相固定の楔として消えていく。
アルフレッドの歯が、軋んだ。
「……完成には」
声が低い。
「何が要る」
ザカリーは、核を見つめたまま答えた。
「意思だ。世界の行く先を、誰かが決める必要がある」
ミリアが息を呑む。
「まさか……」
ザカリーは、初めてはっきりと頷いた。
「この核は、“人格”を必要とする」
「完成の瞬間、誰か一人の意思を、恒久的に刻み込む」
沈黙。
重すぎる沈黙。
「……器、ってこと?」
セレナが、乾いた声で言う。
「世界の判断基準になる、犠牲?」
「犠牲ではない」
ザカリーは、淡々と訂正する。
「昇華だ」
アルフレッドは、剣を握り締めた。
「……それが、あんたじゃない理由は?」
ザカリーは、少しだけ目を伏せた。
「私では、駄目だ」
初めて、そこに個人的な色が混じった。
「私は、もう世界を“信じていない”」
彼は言う。
「再構築は出来る。だが、委ねることは出来ない」
視線が、アルフレッドへ向く。
「君は違う」
核が、反応する。
アルフレッドの魔剣が、今までにないほど強く共鳴した。
「列石を修復し、王胎を拒絶し、それでも世界を捨てなかった」
「君の中核は、矛盾を抱えたまま立っている」
ザカリーは、静かに告げる。
「最も不完全で、最も人間的だ」
それこそが、条件だった。
クレアが、必死に首を振る。
「駄目です……そんな……!」
「アルフレッドは、まだ――」
「生きている」
ザカリーは言う。
「だが、完成すれば――」
言葉を、切った。
言わなくても分かる。
“彼”は、いなくなる。
個としての存在は、失われる。
アルフレッドは、核を見た。
未完成で、不安定で、それでも、世界を支えようとしているもの。
そして、外で命を燃やす者たちの姿が、脳裏をよぎる。
「……最後の選択肢は、三つだな」
静かに、言った。
ザカリーが、頷く。
「第一。核を完成させる。世界は安定する。代償として、自由は失われる」
「第二。核を破壊する。帝都は崩壊し、だが世界は、修正機構を完全に失う」
「第三――」
ザカリーは、少し間を置いた。
「核を“拒絶”する」
全員が、息を呑む。
「完成も、破壊もせず、未完成のまま、この構造を終わらせる」
「世界は不安定なままだ。だが、選択は人に戻る」
ミリアが、唇を噛む。
「……そんなこと、出来るの?」
「理論上は」
ザカリーは答えた。
「だが、責任はすべて、人が背負う。神も、装置も、もう介入しない」
アルフレッドは、ゆっくりと仲間を見る。
ミリア。
バルト。
セレナ。
クレア。
誰も、答えを強要しない。
ただ、彼の選択を待っている。
アルフレッドは、核に一歩近づいた。
魔剣を、静かに下ろす。
「……あんたの試験は、分かった」
ザカリーを見る。
「でも、答えは一つじゃない」
彼は、核に手を伸ばす。
「世界が未完成なら、人も未完成でいい」
光が、強くなる。
「完成させるために、人を捨てるなら」
「そんな世界、最初から引き継ぐ価値はない」
核が、震えた。
拒絶か。
共鳴か。
その境界で――
世界そのものが、息を止める。
未完成核は、静止しているようで、常に“揺れて”いた。
それは心臓の鼓動に似ている。
だが、生き物のそれではない。
決断を待つ器官――問いそのものだった。
アルフレッドが一歩、踏み込む。
足元の床が、彼の存在に反応して淡く発光した。
中枢空間全体が、彼を“認識”し始める。
「位相同調、始まってる……!」
ミリアの声に、緊張が走る。
「アルフレッド、気をつけて。あれは触れた瞬間に“定義”を始める」
ザカリーは止めない。
止める必要がないからだ。
「核は、拒絶も共鳴も区別しない」
彼は静かに告げる。
「意思を与えられた瞬間、それは世界になる」
アルフレッドは、魔剣を鞘に収めた。
剣を通してではない。
己自身で触れるためだ。
右手を、結晶へと伸ばす。
触れた瞬間――
世界が、反転した。
音が消えた。
色も、距離も、上下もない。
ただ、“問い”だけが存在する空間。
《――選べ》
声ではない。
意味が、直接思考に流れ込む。
《安定か》
《自由か》
《管理か》
《混沌か》
そして、さらに深い層から。
《犠牲を受け入れるか》
《拒絶するか》
アルフレッドの前に、映像が展開される。
完成した天空帝都。
世界は安定し、災厄は起こらない。
だが、人は“選ばない存在”になる。
次の映像。
核を破壊した世界。
神も装置もなく、
やがて再び同じ過ちを繰り返す未来。
そして――
第三の映像。
未完成のまま、崩壊する帝都。
世界は歪み、痛みを伴い、それでも人は、選び続ける。
誰も保証しない未来。
《――どれを選ぶ》
アルフレッドは、歯を食いしばった。
「……卑怯だな」
誰に向けた言葉でもない。
「犠牲を知った上で、“正しい答え”を選べってか」
だが、答えはすでに胸の奥にあった。
列石の修復。
王胎の拒絶。
マデルでの防衛。
そして――裂け目の外で消えていった冒険者たち。
誰一人、“完成した世界”を望んではいなかった。
ただ――
今を選び、次を託しただけだ。
「……拒絶だ」
アルフレッドは、はっきりと言った。
《拒絶とは、未定義を肯定すること》
《不安定を、世界の前提とすること》
《それでも、よいのか》
「いい」
迷いは、なかった。
「世界は、最初から未完成だ」
「だからこそ、人が選び、間違い、それでも立ち上がる意味がある」
未完成核が、激しく脈動する。
共鳴ではない。
拒絶の干渉。
だが――完全な否定でもない。
「……あんたの言う“再構築”」
アルフレッドは、ザカリーの方を見る。
「それは、人が“考えること”をやめた世界だ」
「そんな完成形なら、俺は未完成のままでいい」
核に、亀裂が走る。
だが、崩壊しない。
未完成核は、初めて“選択されなかった”のだ。
その瞬間――
外界。
裂け目の周囲で、命を燃やしていた冒険者たちが、同時に感じ取る。
何かが、変わった。
魔力が、抜けていく。
だが――引き換えに。
「……重さが、消えた?」
誰かが呟く。
帝都を固定していた圧が、緩んでいる。
「成功……したのか……?」
裂け目は、まだ開いている。
だが、それはもはや“処刑装置”ではない。
侵入口は、役目を終えつつあった。
中枢。
ザカリーが、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
敗北の声音ではない。
むしろ、納得だった。
「拒絶を選んだか」
未完成核は、光を失い、
ただの透明な結晶へと変わりつつある。
「これで、天空帝都は――」
「落ちる」
アルフレッドが言った。
「世界を裁く装置じゃなく、
ただの“間違った試み”としてな」
ザカリーは、初めて笑った。
それは、嘲笑ではない。
「……君たちは、本当に厄介だ」
中枢全体に、崩壊の兆しが走る。
時間は、残されていない。
「選択は下された」
ザカリーは、告げる。
「ならば次は――」
視線が鋭くなる。
「落ちる帝都から、どう生き残るかだ」
警報にも似た振動が、空間を揺らした。
天空帝都、崩壊開始。
未完成の世界が、最後の問いを突きつけてくる。
未完成核が光を失った瞬間、天空帝都は“都市”であることをやめた。
秩序を保っていた重力が反転し、通路だったものは裂け、壁だったものは、意味を失って崩れ落ちる。
帝都全体が、落下を始めていた。
「時間がない!」
ミリアが叫ぶ。
中枢空間の床が、紙のように裂け、下方に広がるのは――闇。
高度も距離も測れない、帝都の“内側”だった。
「来た道は――」
「もう、ない!」
セレナが振り返る。
侵入口として使われていた位相回廊は、すでに崩壊し、断片的な光の破片に変わっていた。
バルトが歯を食いしばる。
「……出口を、作るしかねぇな」
アルフレッドは、魔剣を抜いた。
刃が、空間の歪みに反応して低く鳴る。
「ミリア、外との座標は掴めるか」
「……不完全だけど、やるしかない!」
彼女は震える指で魔法陣を展開する。
「帝都全体が落下してる。通常転移は失敗する確率が高い……!」
「なら――」
アルフレッドは、前に出る。
「切り開く」
魔剣が、強く共鳴した。
位相断裂。
刃が、空間そのものに食い込む。
裂け目が生まれ、
その向こうに、白い奔流が見えた。
だが――
「アルフレッド、待って!」
クレアの声が、鋭くなる。
裂け目の縁に、黒い影が絡みついていた。
帝都の最終防衛反応。
崩壊に際し、“脱出する存在”を排除するための、自律的な残滓。
『存在保持、非推奨』
『最適化不能個体、除去』
影が、形を成す。
半透明の巨体。
帝都そのものの“死に際の意思”。
「最後まで、悪あがきかよ……!」
セレナが魔剣を構え、前に出る。
「アルフレッド、裂け目を維持して!」
「分かった!」
彼は歯を食いしばり、剣を固定する。
空間の反発が、全身を引き裂こうとする。
バルトが盾を構え、影の突進を受け止める。
「今しかねぇ! ミリア!」
「詠唱、完了!」
ミリアの魔法が、裂け目を補強する。
「でも……これ、一人分の余裕しかない!」
一瞬の沈黙。
誰もが、同じことを理解した。
このままでは――全員は通れない。
クレアが、前に出た。
「……私が、残ります」
「駄目だ!」
アルフレッドの声が、即座に返る。
「誰も置いていかない」
クレアは、首を振る。
「いいえ。これは“選択”です」
彼女は、微笑んだ。
「拒絶を選んだのなら……最後まで、犠牲を“前提”にしない道を」
その瞬間。
影が、大きくうねる。
時間が、ない。
セレナが叫んだ。
「そんな顔して言うな!」
彼女はクレアの腕を掴み、無理やり引き戻す。
「残るなら、全員で残る!」
バルトが笑った。
「そうだ。死ぬ時は、まとめてだ」
ミリアが、歯を食いしばる。
「……仕方ないわね」
彼女は、魔法陣を“歪めた”。
安全率を、切り捨てる。
「成功率、三割以下。でも――」
アルフレッドが、頷く。
「十分だ」
魔剣が、吼える。
裂け目が、拡張される。
影が、突進する。
「行くぞ!!」
アルフレッドが叫ぶ。
バルトが盾で影を押し返し、
セレナが斬撃で道を切り開く。
クレアの祈りが、
一瞬だけ、時間を引き伸ばした。
ミリアが、最後の力を振り絞る。
「――転移!!」
世界が、白に染まった。
次の瞬間。
冷たい風が、頬を打った。
夜空。
崩れ落ちる天空帝都。
彼らは、地上にいた。
荒野に、転がるように倒れ込む。
「……生きてるか?」
バルトが、息を荒くしながら言う。
「ええ……全員、います」
クレアの声が、震える。
アルフレッドは、空を見上げた。
天空帝都が、崩壊していく。
黒い巨体が、砕け、
無数の光となって、夜に溶けていく。
ザカリーの姿は、もう見えない。
逃げたのか、あるいは――
「……終わった、のか」
セレナが、呟く。
アルフレッドは、答えなかった。
ただ、魔剣を静かに収める。
これは、終わりではない。
選択の結果が、これから世界に現れるだけだ。
崩壊する天空帝都の最後の残光が消え、
夜空に、星が戻り始めていた。
天空帝都の残骸は、もはや「都市」と呼べる形を保ってはいなかった。
空を支配していた巨大構造体は、砕け、裂け、焼け焦げ、無数の破片となって荒野に散乱している。その中心にあった核の脈動は完全に止み、あれほどまでに濃密だった闇の魔力も、嘘のように薄れていた。
アルフレッドは、崩壊の余波がようやく収まりつつある瓦礫原を見渡し、深く息を吐いた。
魔剣を鞘に納めたその手は、わずかに震えている。戦いが終わったからではない。終わってしまったがゆえに、身体がようやく現実を受け入れ始めたのだ。
「……終わった、のか」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、その問いに即座に応じる者はいない。
ミリアは破壊された中枢の残滓を慎重に調べていた。術式の痕跡、魔力の流れ、そのどれもが途中で断ち切られたかのように歪んでいる。
彼女は眉をひそめ、低く呟いた。
「いいえ……完全な消滅ではないわ。少なくとも、“核”に接続されていた主術者の痕跡が、途中で途切れている」
「逃げた、ってことか」
バルトの言葉は短かったが、重みがあった。
重戦士として数え切れない戦場を踏み越えてきた彼には、それが「敗走」ではなく、「計画された離脱」であることが直感的に分かっていた。
クレアは瓦礫の中に膝をつき、祈りを捧げていた。
犠牲となった冒険者たち、軍兵、そして名もなき民衆――彼女の祈りは、彼らすべてに向けられている。だがその表情は、安らぎからは程遠い。
「……魂の行き先が、定まっていません。ここで終わった者もいる。でも……引き剥がされたまま、彷徨っている気配もある」
セレナは黙って空を見上げていた。
崩れ落ちた帝都があった場所には、異様なほど澄んだ青が広がっている。その静けさが、逆に不気味だった。
「ザカリー・グラッドストン……」
彼女は名を口にし、歯を食いしばる。
あの男は、最後の瞬間まで“敗北”を口にしなかった。
帝都が崩壊し、未完成核が暴走する中でさえ、彼は冷静だった。理想が未完に終わったことを嘆くことも、怒りを露わにすることもなく、ただ一つ――
「まだ“終端”には至っていない」
そう言い残し、姿を消した。
ミリアは、崩壊した中枢の最奥から回収した魔導結晶片を掲げた。
それは明らかに、帝都の中枢術式と同系統のものだが、完全ではない。意図的に切り離された“予備核”――あるいは、逃走用の媒介。
「天空帝都は、完成形ではなかった。ザカリー自身がそう設計していた可能性が高いわ。本命は……別にある」
アルフレッドは静かに頷いた。
思い返せば、ザカリーの思想は一貫していた。犠牲を前提とし、それを“最適化”と呼ぶ。世界を救うために世界を切り捨てるという、歪んだ合理。
そんな男が、たった一つの都市で満足するはずがない。
「セイセス=セイセスも……終わってはいないな」
バルトの言葉に、全員が黙って同意した。
今回の戦いで確かに多くの構成員は倒れた。だが、組織の中枢は姿を見せていない。むしろ、ザカリーの行動は、彼らにとって“次段階への試験”だった可能性すらある。
遠くで、マデルに集結した冒険者たちと王国軍が、瓦礫の処理と負傷者の搬送を続けている。
世界は救われたと、人々は言うだろう。
だが、アルフレッドたちは知っていた。
これは「終章」ではない。
セレナが静かに口を開く。
「次は……どこ?」
ミリアは結晶片を見つめたまま、答えた。
「まだ断定はできない。でも――帝都の設計思想、列石、地脈操作……すべてが“連動型”よ。一箇所潰せば終わる構造じゃない」
アルフレッドは、ゆっくりと拳を握った。
魔剣の柄に残る微かな鼓動が、まだ終わっていない戦いを告げている。
「なら、追うしかない」
彼の声は、疲労を含みながらも揺れていなかった。
「ザカリーがどこにいようと。
セイセス=セイセスが、どんな理屈を掲げようと――」
その先は、言葉にしなくても、仲間たちは理解していた。
崩壊した天空帝都の影が、朝日に溶けていく。
だが、その影は完全には消えない。世界のどこかで、再び形を取るだろう。
こうして、ゲルマーシア王国の戦いは一つの幕を閉じた。
しかし同時に――より深く、より広い闇への扉が、静かに開かれたのだった。




