レベル52
夜の名残がまだ空に薄く漂う早朝、ギルドの扉が開いた。
出発前の冒険者たちがちらほら集まり始めた時間帯だが、その静けさを破るように、慌ただしい足音が廊下を駆けてくる。
アルフレッドたちはギルド長からの呼び出しに応じ、応接部屋で待機していた。
扉が勢いよく叩かれた。
「ギルド長! 緊急依頼です! 王都方面局からの最優先印が――!」
血相を変えた若い受付員が書状を抱えて飛び込んでくる。
ギルド長は目を細め、深く息を吐いた。
「……来たか。予想より早いな」
彼が書状の封を切ると、赤い封蝋の下から現れたのは――王宮直属の魔術院章だった。
その瞬間、ミリアの肩がぴくりと震えた。
「魔術院……。こんな時間に最優先で届けてくるということは、ただ事ではないわね」
アルフレッドが表情を引き締める。
「昨夜の列石の異変と関係があるんだな?」
ギルド長は文面を流し読みし、低い声で告げる。
「……第二報が入った。――“北方山脈帯の環状列石に異常脈動発生。封印圧が安定領域を逸脱。至急、調査並びに対応に当たれる者を派遣されたし”」
「北方……? 予想より早すぎるわ」
ミリアの声に焦りが滲む。
クレアは胸に聖印を当て、小さく祈るように呟いた。
「まだ先の列石が収まったばかりなのに……もう別の列石が揺らいでいるんですか?」
「いや、揺らいでいるどころでは済まなさそうだな」
セレナが身を乗り出し、書状の端を覗き込む。
「“結界面の破損兆候あり。周辺に黒影の目撃情報あり”……。これってまさか」
「ああ。セイセス=セイセスの影だろう」
アルフレッドは机に手をつき、強く握りこんだ拳の震えを抑えた。
ギルド長は重く頷き、一行を見渡す。
「これはもう、単なる異変の連鎖ではない。敵は列石を狙って動いている。――明白な“意図”を持ってな」
バルトが鼻を鳴らす。
「ち、休ませる気がねぇらしいな。けど、こっちにもやることが山ほどあるんだ。文句は言わねぇよ」
ギルド長は書状を机に置き、改めて告げた。
「依頼内容は簡潔だ。――北方山脈の第三環状列石へ向かい、現地の魔術院駐屯所と合流、異常の調査・鎮静を図れ。その任、最優先。失敗は許されん」
その言葉に、一行の空気が張り詰める。
ミリアは静かに目を閉じた。
「北方山脈帯……あそこは封印陣の中でも特に古い。もし破損した場合、溢れ出すのは……単なる魔力じゃない」
「……“中身”か」
アルフレッドは呟いた。
クレアが不安を押し殺しながら訊ねる。
「登場しますか……? 封印の内側の存在が……?」
「まだ断定はできんが、そう考えて動くべきだろうな」
ギルド長は頷く。
「もう一つ。――王宮からの正式な召喚が、改めて届くようだ。恐らく列石の真相について話がある」
セレナは小さく笑った。
「じゃあその前に、一仕事ってわけね。北方までは馬で丸一日。時間はギリギリよ」
「行くしかないな」
アルフレッドが立ち上がる。その声には迷いがなかった。
「列石を守るのは俺たちだ。例え何が出てきたとしても」
クレアも頷き、光を宿した瞳で皆を見つめた。
「はい。行きましょう……北方へ」
バルトは戦斧を担ぎ上げ、ミリアは巻物を懐に仕舞いながら言う。
「準備は整ってる。いつでも行けるわ」
ギルド長は立ち上がり、一行の背に重い言葉を送った。
「気をつけろ。今回の異常は、これまでとは“質”が違う。……何かが動き始めている。お前たちが戻る頃には、王都もただでは済まんかもしれん」
その警告を背に受けながら――
アルフレッドたちは北方へ向かうため、朝靄の街へと踏み出した。
新たな環状列石で、何が待ち受けているのか。
その答えは、雪深い山脈の彼方にある。
ギルドを出立した頃には、太陽がようやく地平線を照らし始めていた。
王都の外れに広がる草原は、朝露に濡れ、馬の蹄が小さな光を散らす。
北方へ向かう街道は長い。
途中で商隊の往来もあるが、この季節はまだ雪崩の危険があり、旅人の姿は少なかった。
冷えた風が吹き抜け、空気には早くも山脈の気配が混ざり始めている。
「……寒くなってきたな」
アルフレッドがマントの襟を引き寄せる。
「これでもまだ入口よ。本番は山の中」
ミリアは巻物を押さえながら、冷たい風に目を細めた。
「北方は飯が美味いんだがなあ。これじゃゆっくり味わえねぇ」
バルトが肩をすくめる。
「緊急依頼なんだから贅沢言わないの」
セレナが軽口を返しつつ、鋭い視線で周囲を巡らせる。
クレアは祈りの言葉を呟きながら、馬の手綱を整えた。
「皆さん……何か、空気が重くないですか?」
「感じてたか。……早いな」
アルフレッドが馬を緩めて周囲を注意深く見渡す。
空気の揺らぎ――まるで地脈が浅く浮き上がっているような、嫌な震えが足元から伝わってきていた。
「列石の影響が街道にまで……?」
ミリアが眉をひそめる。
「いや、これは――」
アルフレッドが言いかけた瞬間。
――空気が破裂した。
耳鳴りを伴う衝撃音があたり一帯に響き、馬たちが一斉にいななき立てる。
「来るぞ!!」
セレナが跳ねるように馬を飛び降り、剣を抜いた。
街道脇の林が、黒く蠢いた。
絡み合う影が地面からせり上がり、まるで割れた絵の具から流れ出すように形を成していく。
「影蝕獣……!?」
クレアが息を呑む。
「早すぎる……まだ列石からは相当距離があるのよ!?」
ミリアの声は動揺していた。
黒い獣のような影が、形を変えながら彼らを取り囲む。
アルフレッドの手に剣が吸い付くように収まり、刃が霜のように白く光を帯びる。
「やるしかない! 全員、散開!!」
その号令と同時に、影獣が弾けるように襲いかかってきた。
「――ッらあ!!」
バルトの戦斧が唸り、影の塊を横薙ぎに吹き飛ばす。
しかし影は霧散しても、すぐに別の影が地面から湧き上がってくる。
「数が多い! 無限湧きですか!?」
クレアが聖印を掲げ、まばゆい光を広げる。
影は光に焼かれ悲鳴を上げるが、弱点ではないらしくすぐに形を戻し始めた。
「純粋な魔物じゃない……“汚染された力”ね!」
ミリアの詠唱が始まる。
セレナは地を蹴り、影の群れへ飛び込むように舞った。
刃の軌跡が白線を描き、影を切り裂くたびに黒い霧が吹き散る。
「全然減らないじゃない!! どうなってんのよ!!」
「群れの中心を探せ! 操り手か核があるはずだ!」
アルフレッドが叫ぶ。
そのとき――
影の海の奥、林のさらに向こうで、
一瞬だけ“赤い光”が瞬いた。
ミリアが目を見開く。
「今の……! 列石の力じゃない……“外側”の魔力よ!」
「敵の術者か!?」
バルトが怒号を上げる。
「違う! もっと……“深い”……!!」
ミリアの声が震える。
アルフレッドは呼吸を整え、全身の気配を研ぎ澄ませた。
影獣の動きが、まるで指示を受けたように一斉に変化した。
――次の瞬間、影たちが一斉に跳びかかった。
「全員、伏せ――!!」
アルフレッドが叫ぶ。
轟音。
影の一部が爆ぜ、黒い波が街道を押し流す。
クレアの光が盾のように広がり、一行を辛うじて守ったが――
その衝撃の中心から、ゆっくりと“人影”が姿を現した。
黒衣。
鈍く光る仮面。
揺らめく黒煙の外套。
セレナが即座に剣を構える。
「……セイセス=セイセス……!」
仮面の人物は一行を見渡し、わずかに首を傾けた。
そして――
「――“心臓”の鼓動が速い。継承者よ、君たちは想像以上に急いでいるな」
低く、空気を震わせる声が響いた。
アルフレッドは剣を構えたまま、一歩前へ踏み出す。
「お前らの目的は何だ! 列石を壊して何を――!」
「まだ語る段階ではないさ。ただ……“触れてはいけないものが、目を覚まし始めただけ”だ」
仮面の奥の赤い光が、一瞬だけ揺らめいた。
「……ここで死ぬ必要はない。今日は、ただの“観測”だ」
影が波打つ。
まるで風に吹かれるように、黒衣の人物の輪郭が揺らいだ。
「待て!!」
アルフレッドが駆け出す前に、黒衣は影の渦へと沈み――消えた。
残された影獣たちも地面へ吸い込まれるように消えていき、街道には静寂だけが残った。
「……くそっ!」
アルフレッドが拳を握りしめる。
「完全に遊ばれたって感じね……最悪」
セレナが肩で息をしながら呟く。
ミリアは顔色を失っていた。
「まずいわ……“外側”の魔力なんて……本来、封印の外へ漏れ出てはいけないのに……」
「つまり……封印が破れかけてるってことか」
バルトが低く呟く。
クレアは震える手で胸の前に祈りの印を結んだ。
「もう急がないと……北方の列石が……!」
アルフレッドは剣を収め、冷えた風を一度深く吸い込んだ。
「行くぞ。敵は確実に先回りしている。時間がない」
馬を走らせ、彼らは再び北の道へ向かって駆け出した。
雪の匂いが、風に混ざり始めていた。
日が傾き始める頃、一行はついに北方山脈の麓へ辿り着いた。
山肌はすでに雪に覆われ、木々は霜をまとい、吐く息が白く濃くなる。
風は鋭い刃のように頬を刺し、遠くから狼の遠吠えめいた音が響く。
「すっごい寒い……!」
クレアが肩をすくめながら呟く。
「まだだ。ここから先が本番だぞ」
バルトは平然とした顔で言うが、その鼻先は真っ赤だった。
やがて、雪原の向こうに、粗い石壁と魔術灯が灯る砦が見えた。
魔術院の北方駐屯所――列石を監視するために設けられた前線拠点だ。
「着いたわね……。異常は起きていないようだけど」
ミリアが目を細める。
「これだけ静かだと逆に不気味だな」
セレナが剣の柄を軽く叩く。
門へ近づくと、櫓の上から誰かが叫んだ。
「そこにいるのは何者だ! 名を名乗れ!」
アルフレッドが馬を進め、はっきりと声を返した。
「アルフレッド。王都ギルドよりの派遣隊だ。北方列石の異常に関する調査の依頼を受けて来た!」
一瞬の沈黙のあと、門上の兵は驚いたように叫んだ。
「継承者殿……!? すぐに門を開けろ!!」
重い鉄の門がきしみながら開く。
中から息を切らした魔術師たちが数名、走り寄ってきた。
「よく来ていただきました……! 本当に……本当に助かります!」
先頭の若い魔導師が深く頭を下げた。
年の割に顔色が悪く、目の下には濃い隈がある。
「現状を聞かせてくれ」
アルフレッドが問うと、魔導師は震える声で答えた。
「昨夜から北方列石の結界脈動が暴走しまして……。何度調整を試みても修復されず、ついに結界の一部が――」
彼は言葉を飲み込み、唾を嚥下した。
「――“破れてしまいました”」
一行の表情が一気に硬くなる。
「破損……確定なのね……」
ミリアは青ざめた顔で呟く。
「封印の外側に、何か出たのか?」
アルフレッドが続けて聞く。
「は、はい……。影の瘴が溢れ出し始め……。我々も一部が“浸食”されて……治療が追いつきません」
魔術院兵の数名が、腕に黒いしみのような痕を隠すようにしていた。
近くでは治癒師たちが休む間もなく回復魔法を施している。
クレアは思わず駆け寄った。
「こんなに……! 浸食が進んだら、どんな薬でも……」
「封印術そのものの汚染だ。一般の治癒では止まらん」
ミリアが重く呟く。
バルトが眉をひそめる。
「んで……その影は今どうなってんだ? 暴れてんのか?」
魔導師は首を振る。
「いえ……突然、収まりました。結界の破孔が、まるで“食い破った側から閉じられた”ように消えたのです」
「閉じられた?」
セレナが眉をひそめる。
「つまり、封印の外に出ようとしたものが……戻った?」
クレアの声は震えていた。
「そんな……内部の存在が勝手に引き返すなんてありえないわ」
ミリアが声を上げる。
魔導師は唇をかみしめた。
「……我々もそう思いました。しかし、破孔が閉じた直後、結界面の深層で……“赤い脈動”が確認されまして」
一行の背筋に冷たいものが走る。
「赤……!」
「またあいつらか……!」
「いや、もっと……嫌な感じがする」
それぞれの反応が重なる。
アルフレッドは拳を握り、魔導師を見据えた。
「つまり、列石の中で何かが動いた……そう言いたいんだな?」
「……はい。――『封印の内側の存在が、外へ干渉し始めている可能性が高い』。これが魔術院の暫定判断です」
砦の空気が一気に重くなった。
外では風が唸り、山脈の向こうで雷のような地鳴りが響く。
セレナが剣の柄を強く握りしめた。
「……列石、内部の“目覚め”ってわけね」
「行くしかないみたいね」
ミリアも覚悟を固めるように頷く。
バルトが大きく肩を回して言った。
「よし……なら、さっさと中で暴れてる原因をぶっ飛ばすだけだ!」
クレアは胸の前で祈りを結び、静かに息を整えた。
そして、アルフレッドが口を開く。
「案内してくれ。――列石の近くまで行けるところまでな」
魔導師たちは深く頷き、一行を砦の奥へと導き始めた。
北方の列石が呼んでいる。
その奥で、何かが目覚めかけている。
雪原の風は、ますます冷たくなった。
――荒れ狂う地脈の兆し
魔術院駐屯所を後にし、一行はさらに北へ進んだ。
雪は深さを増し、靴が沈むたび鈍い音が足元へ返ってくる。
「……空気が変だわね」
ミリアが足を止め、掌をかざすように空を仰いだ。
空は晴れている。しかし――
肌に触れる空気だけが、不自然にざらついている。
「魔力の粒子が……ぶつかり合ってる?」
クレアが眉を寄せ、周囲を見回す。
アルフレッドは黙って指先に魔力を通す。
すると、地面から――僅かな“脈”が返ってきた。
「これは……地脈の反転波動だ」
「反転?」
「本来、地脈は大地の下で流れている。だが今は逆だ――地表へ突き上げている」
「そんなことありえるの?」クレアが息を呑む。
ミリアは即座に答えた。
「列石が“押し返している”んだと思う。封印内部の魔力圧が高まりすぎて、地脈を逆流させてるのよ」
「だからこんなに空気が痛ぇわけか」
バルトは頬の横を撫でる。静電気のような刺激が指先へ跳ね返った。
そのとき。
――ゴォォォォォォン……!
地面の奥で、くぐもった鐘のような音が響いた。
「っ……!」
一行が即座に構える。
音は一定の間隔で鳴っている。
だがそれは鐘ではなく――地脈そのものが軋んで鳴いている音だった。
「いやな音……」セレナが剣を引き抜き、周囲を警戒する。「どんどん強くなってるわよ。これ……自然現象じゃない」
続けて、周囲の雪がふるりと震えた。
「っ! 地震か!?」
「違う! 地脈の波が――来る!」
ミリアが叫んだ瞬間、
地面がパアンッ!と弾けるように隆起した。
雪煙が舞い、一行は咄嗟に身を引く。
「おわっ!? 地面が爆ぜたぞ!?」
「浸食瘴の混じった逆流ね……触れたら危険!」
爆ぜた地面から黒い煙が細く立ちのぼる。
まるで大地が“内部の何かを吐き出している”ようだった。
アルフレッドが前に出る。
「列石の方向は?」
「まだ北東……。でも、この逆流は全部列石から伸びてるわ」
ミリアが魔力視で地脈を読み取り、険しい顔で続けた。
「まずい……。封印の中の存在が、列石の結界の“外側”に干渉してる。本来は絶対に起こりえない……封じたものが、その外へ届くわけがないのに」
「じゃあつまり、もう封印は……」
クレアが顔を強張らせる。
「“こちら側を見てきている”可能性があるわ」
その言葉に全員が息を呑んだ。
そして――
ズズ……ッ。
雪原のはるか先、列石のある方向の空が、
赤黒く、ゆっくりと脈動し始めた。
空気が震え、風がざわつく。
「見たか?」バルトが低い声で言った。「列石の上の空……“鼓動してる”」
「まるで巨大な心臓みたいね……」クレアは唇をかむ。
セレナが剣を構えたまま、視線を前へ向ける。
「行きましょう。ここまで地脈が荒れてるなら、途中でまた何かに襲われるわ。列石の方が、もっと地獄よ」
アルフレッドも頷き、杖を握り直す。
「急ぐぞ。列石の奥で――“何か”が目を覚ます前に」
その言葉を合図に、一行は脈動する赤黒い空へ向け、雪原を進み始めた。
列石は近い。
そしてその中心で、封じられた“異物”が確実に蠢いている。
雪原を抜け、森を越え、一行はようやく視界の開けた丘陵へと出た。
そこに――それはあった。
「……これが、北方列石……」
クレアが息を呑む。
列石は半円状に立ち並ぶ巨石群で、
一つ一つが人の背丈の三倍以上の高さを持つ。
だがそれ以上に目を引くのは、石ではない。
その“内側”に広がる気配だ。
空間そのものが、赤黒く脈動している。
まるで霧のように薄く波打ち、大地へ向かってゆらゆらと吸い込まれていく。
「こりゃ……もう封印とかいうレベルじゃねぇな」
バルトが呆れたように呻く。
ミリアが前へ歩み出て、指先で魔力を探る。
途端、眉根を深く寄せた。
「結界膜が……“内側へ引っ張られている”」
「どういうことだ?」
アルフレッドが問う。
「破孔が塞がれたのは、魔術院が処置したからじゃない……内側から結界を引きずり込んで“塞いだように見せただけ”」
「塞いだ“ように”? じゃ、まだ破れてんのか?」とバルト。
ミリアは無言で頷き、指で輪を作った。
「見て。結界膜の表層――“ゆがんでる部分”、わかる?」
よく見ると、列石の中心に近い一点だけ、空気が泡立つように歪んでいる。
そこから、細い赤黒い糸のような魔力がじわじわと漏れていた。
セレナが剣に手をかけたまま近寄る。
「ここが……破孔の残滓?」
「そう。表面だけは閉じているけれど、奥はそのまま。――中にいる“何か”が、この穴を通して外に触れた痕跡がある」
「……触れた? 何が?」
クレアの声は震えていた。
それに答えたのは地面だ。
ズ……ッ。
足元から低い振動が走る。
列石全体が、心臓の鼓動のように脈を打つ。
「うわっ……!」
「地脈じゃない、これは……!」
ミリアの目が大きく開く。
「封印の内部で“呼吸”が始まってる!」
呼吸――
その言葉に、一行の背筋へ冷たいものが走る。
列石の中心部、霧のような赤黒い気配が一瞬だけ引き、
次の瞬間、脈打つように膨張した。
まるで巨大な肺が膨らむように。
バルトが叫ぶ。
「なんか、吐き出す気配じゃねぇか!?」
「下がって!」
ミリアが全員を押し下げる。
その直後――
破孔の残滓から“影”が噴き上がった。
だが、それは形を成していない。
人影のようにも、獣のようにも見える“仄暗い力の塊”。
「っ……瘴の化生!?」
クレアが叫ぶ。
「違う……。これは、まだ“形になりきっていない”」
ミリアが震える声で呟く。
影は一瞬だけ、空へ向かって伸びた。
次の瞬間、列石そのものへ吸い込まれるように消える。
まるで内部の存在が、うっかり漏れた気配を“回収”したかのように。
静寂が訪れた。
「……今の、見たか?」
バルトは目を丸くする。
「中の何かが、明らかにこちらを――」
「……“観察している”」
アルフレッドが続けた。
セレナが剣を半ば抜いたまま、周囲を見渡す。
「まだ終わってないわ。
結界の奥、動いてる……こっちに来てる」
ミリアが強張った声で告げる。
「封印が完全に破られる前に、破孔を“本当に”閉じなきゃいけない。ここからが正念場よ」
そのとき――
列石の向こうで、小さな光点がひらめいた。
赤黒い脈動とは違う、白い閃光。
誰かが、列石の中心にいる。
アルフレッドが息を呑んだ。
「……人影だ。列石の中に、誰かいる!」
白い閃光がまたひとつ、列石の中心で瞬いた。
「……人影だな。間違いない」
アルフレッドがじりと前へ出る。
赤黒い瘴気の揺らぎの向こうに、
誰かがこちらに背を向けるように立っていた。
その周囲だけ、まるで瘴気が避けている。
「味方……じゃないよね、あれ」
クレアが声を押し殺して呟く。
「こんな場所に単独で入れる時点で、只者じゃないわ」
ミリアも険しい顔で魔力視を強める。
セレナが剣を抜き、半身で進み出た。
「行くわよ。近づくまでに何かあったらすぐ構えて」
一行は列石の結界膜ぎりぎりまで歩み寄る。
影の距離が縮まるにつれ、空気の圧が増していった。
――呼吸。
列石全体から、さきほどよりもはっきりとした“吸う、吐く”の気配が伝わる。
内部の存在が目覚めかけているのだ。
その中心に立つ人物は、その呼吸とまるで“調律”するかのように静止していた。
「おい……あいつ、全然動かねぇぞ」
バルトが額に汗を浮かべる。
アルフレッドは杖を握り直し、声を張った。
「そこにいるのは誰だ! ここは危険地帯だ、すぐに離れろ!」
呼びかけに、影がわずかに反応した。
ゆっくり、首だけがこちらへ向く。
その動きは、人間らしいが――どこか歪んでいた。
やがて、影は完全に振り返った。
そして、クレアが息を飲んで後ずさった。
「……人、じゃ……ない……?」
そこに立っていたのは、確かに人型だった。
しかし、肌は白く乾き、血色がなく、目は深紅。
赤い瞳孔は、列石の脈動と同じリズムで“脈打っている”。
だが――服装だけは、魔術院の研究服と同じものだった。
「魔術院……の服?」
セレナが目を細める。
ミリアが青ざめた顔で呟いた。
「……魔術院の北方調査隊が、一部行方不明になっているって報告があったはず。まさか……彼らのひとりが、封印の近くで――」
「浸食されたのか?」
バルトが唾を飲む。
だが近づくほどに違和感が増す。
男は立っているだけ。
攻撃の構えも、威圧も、敵意も感じられない。
ただ――
“外を観察しているだけ”のように見えた。
アルフレッドが慎重に声を投げる。
「聞こえるか? 魔術院の者なら、応答してくれ――」
その瞬間。
男の口が、がくりと開いた。
声が漏れた。
しかしそれは“声”ではなかった。
『……ぁ……ぁ……のぞ、くな……』
「のぞく……?」
クレアが震える。
さらに続く。
『……外……みるな……“目を合わせるな”……』
その言葉に一行が凍りついた。
セレナが剣を構え、周囲を警戒する。
「誰と、目を合わせるなって言ってるの……?」
男の赤い瞳がぎょろりと動き、列石の内側――破孔の残滓を示す。
その直後。
列石全体が、脈動ではなく、
“拍動”を打った。
ズシンッ!!
大地が震える。
空気が一瞬にして重く濁る。
クレアが悲鳴を上げる。
「だめ! 破孔の奥から――何かが“こちらを見てる”!」
ミリアの声が叫びに近い。
「視線干渉よ! 封印内部の存在が、外界を“認識”し始めてる!!」
男が突然、前へよろめき出た。
まるで何かに操られるように。
『……逃げろ。……もう……外……見てる……』
その瞬間。
破孔から、
黒い手のような影が伸びた。
まっすぐに男へ向かって――
――掴んだ。
「やめろッ!!」
アルフレッドが叫ぶより早く、
男の身体は影に引きずられ――列石の中心へ、ずぶりと沈んだ。
悲鳴はない。
ただ、赤い脈動が一度だけ強まった。
静寂。
そして、セレナが呟いた。
「……今の、“招かれた”みたいな引きずられ方だったわね」
ミリアは唇を噛みしめる。
「中の存在が、外を観察して……“必要なものを回収した”――そんな印象ね……」
アルフレッドは拳を握った。
「内部のものが、外に干渉し、外側の“目”を通してこちらを見ている……。封印の劣化を越えて、もはや対話……いや、捕食か……」
バルトが武器を構え直す。
「とにかく言えるのはひとつだ。――あれ、絶対やべぇやつだ」
列石の奥から、脈動がまたひとつ響いた。
今度は、確かな“意思”を持った脈動。
一行は決意を固めるように武器を構えた。
封印は崩壊寸前。
中の存在は目覚めかけている。
そして、こちらを“見ている”。
裂けた列石の亀裂から、黒い瘴霧が吹き出した。
その濃度は異常で、皮膚に触れただけで焼けるような痛みが走る。
「来る――!」
アルフレッドは魔剣を抜き放った。
刃に刻まれた魔紋が赤紫に脈打ち、周囲の魔力を吸い寄せていく。
魔力流を纏った一閃が、迫り出た瘴の触手を斬り裂いた。
斬撃自体が魔術式となって発動する――魔法戦士にしか扱えない、剣と魔術の複合攻撃。
「アルフレッド、左上ッ!」
セレナの叫びに合わせ、彼は魔剣を振り上げる。
一瞬で形成した魔術障壁が、瘴気の弾丸を受け止め、火花と濁光が弾けた。
亀裂から、形を持たぬはずの瘴が凝固し始める。
粘つく黒塊が蠢き、やがて骨格のような構造をまとい――化生が姿を成した。
瘴霊の獣。人の怨嗟にも似た叫びを上げ、四肢をもって外へ這い出してくる。
「出た! 化生体だ、全員構えろ!」
バルトが叫ぶと同時に、
アルフレッドは魔剣を地へ突き立て、瞬時に術式を展開した。
「《魔導陣・斬霊環》!」
魔剣から走る光が、彼の足元に結界紋を描く。
次の瞬間、陣から刃のような魔力が突き出し、近づいた化生の前脚を断ち落とした。
だが倒れない。
瘴の塊は失われた部分を再構成し、より不気味な形へと変わっていく。
「再生速度、速い! 浄化系の魔術で押すわ!」
クレアが詠唱を開始し、浄光の矢を次々と撃ち込む。
「アルフレッド! 前に出すぎるな、こいつら密度が違う!」
ミリアが叫ぶが、アルフレッドは首を振った。
「俺が切り開く。魔剣は瘴を断つためにある!」
その刃が、瘴気に触れるごとに硬質な悲鳴を上げる。
魔剣は“反応”している――列石の亀裂から溢れる異常な魔力に。
数体の化生が一度に飛びかかってくる。
アルフレッドは魔剣を旋回させ、魔法陣を纏わせて迎え撃つ。
「まとめて斬り払う――《魔剣技・裂界衝》!!」
刃が地を抉ると同時に、巨大な魔力衝撃波が放たれ、
化生たちは瘴の霧ごと引き裂かれて吹き飛んだ。
だが――
亀裂の奥から、さらに“別のもの”が揺れ動く影が見えた。
第一次戦闘は、まだ始まったばかりだった。
列石の亀裂がひときわ大きく脈動し、瘴が濁流のように吹き荒れた。
周囲の空気が一瞬で冷たく変質し、まるで地そのものが怯えているようだ。
「来る……! 全員、構えろ!」
アルフレッドが魔剣を構えた瞬間、
奥から“異形”が肢を引きずり出した。
瘴気と魔力と、複数の死骸の“名残”が溶け合って再構成された、巨大な融合体。
四肢の長さはバラバラ、頭部は三つの角度でねじれ、背骨は逆方向に折り返されている。
異常な魔力密度が、周囲の草木すら黒く染めていった。
「融合体……しかも、王級の瘴濃度……!」
ミリアの顔色が変わる。大魔導士である彼女ですら、魔力の質に息を呑む。
融合体が地を踏み鳴らした瞬間、大地震のような衝撃と瘴の波が襲ってきた。
「ッ――バルト!」
「任せとけッ!!」
バルトは大盾を地へ叩きつけ、全身で突撃を受け止めた。
衝撃で土が砕け、彼の足が地面に食い込む。
「うおおおおおッ!!」
鋼鉄の巨壁のような盾がきしむ。
普通の戦士なら一撃で吹き飛ぶ圧を、彼は強靭な体躯と技量で受け止めていた。
「バルトが抑えてる今のうちよ!」
セレナが叫ぶ。
「《炎刃展開》――燃えなさい!」
セレナの双剣に炎属性の魔力が走り、刃が赤く伸び上がる。
跳躍した彼女は、融合体の肩部の瘴核を正確に斬りつけた。
だが――
「再生……早い!」
斬り裂いた部分は一瞬で瘴気に飲まれ、元の形よりも肥大化して復活する。
「セレナ、属性を変えて! あれは火に強い!」
ミリアの声が飛ぶ。
セレナはすぐに魔力流を変え、双剣を蒼へと変質させた。
「了解――《霜刃変換》!」
冷気を帯びた斬撃が、瘴の肉塊を凍らせながらえぐる。
今度は再生速度が明らかに鈍った。
「効いてるわよ、アルフレッド!」
「なら――止めを刺す!」
アルフレッドは魔剣を構え、魔紋が赤紫に脈打つ。
剣に魔力を流し込むたび、刃が周囲の瘴を“吸い込み”軋むような音を上げた。
「《魔剣技・裂界衝ッ!!》」
地を蹴り、バルトの横をすり抜け、
凍りついた肩部へ魔剣の一閃を叩き込む。
衝撃波が走り、瘴の肉塊が大きく爆ぜた。
だが、融合体は倒れない。
再生速度は鈍ったものの、まだ“核”を断ち切れていない。
「クレア、浄化を!」
「任せなさい!」
クレアが杖を掲げ、柔らかな光があたりを満たした。
「我が祈り、闇を退けよ――《聖紋・浄界》!」
清浄な光が瘴気に触れた瞬間、
融合体の身体から黒煙のようなものが抜け、動きが一瞬止まる。
「今よ、ミリア!!」
「逃さないわ……! 《極式・雷鎖刻印》!」
大魔導士特有の複雑な詠唱とともに、
空中に雷の紋様が組み上がり、融合体へと降り注いだ。
雷撃が瘴気を焼き、内部の魔力路を麻痺させ、ついに動きを止める。
「アルフレッド、今なら核まで届く!」
「行く――ッ!」
仲間たちの連携で露出した瘴核めがけ、
アルフレッドは魔剣を振りかざした。
「終わりだ――《魔剣・断滅斬》!!」
紫紋が炸裂し、融合体の中心部をまっすぐ切り裂く。
核が割れ、瘴が霧散し、巨体は崩れ落ちた。
その場には、瘴の風が少し弱まった静寂が訪れた。
融合体が崩れ落ち、瘴が霧散したあと。
空気にはまだ鉄の味と焦げた魔力の匂いが漂っていた。
「……終わった、のよね?」
セレナが息を整えながら周囲を見渡す。
「核は完全に砕けてる。再生の可能性はないわ」
ミリアが確認し、杖の先を下ろした。
クレアが浄化の残滓を広げ、薄く残る瘴気を祓っていく。
「大きな怪我は……うん、みんな大丈夫そうね」
バルトは大盾を肩に乗せて、ふうと息を吐いた。
「しかし、厄介な化生だったな……普通の瘴気じゃねぇ。まるで意志があるみたいだった」
「ん? アルフレッド。どうした?」
仲間の声に、アルフレッドはゆっくり顔を上げた。
――聞こえる。
彼の視線は、裂けた列石の奥へと釘付けになっていた。
そこから、微弱な魔力の波が“脈打つ”ように流れている。
瘴ではない。もっと古く、もっと深い……地脈そのものの震え。
そして。
音とは呼べない“何か”が、脳髄を優しく叩いた。
(……アルフレッド……?)
「誰だ……?」
つい口から漏れた声に、セレナが眉を寄せる。
「アルフレッド? 何か聞こえるの?」
「……声がする。列石の奥から……直接、頭に……囁くような……」
ミリアがすぐさま魔力感知を展開した。
「魔力波は安定していない……でも、瘴の質じゃない。もっと……構造が古い。これは――“列石そのものの叫び”か、“内部にいる何か”の意志……?」
クレアは表情を固くする。
「この声、私たちには聞こえないわ。アルフレッドだけ……?」
バルトが武器を握りなおす。
「嫌な感じだな……また何か出てくる前触れじゃねぇだろうな」
しかし、アルフレッドは首を振った。
「違う……怒りや敵意じゃない。まるで……助けを求めてるみたいだ。呼ばれてる。俺を――“中へ来い”って」
言葉を発した瞬間、
列石全体が《脈動》した。
大地が震え、風が一瞬止まり、
裂け目から淡い光が滲み出す。
その光だけが、瘴の残滓を押し返し、まるで道を照らすように奥へ伸びていく。
「……開いた」
ミリアが息を呑む。
「列石内部への“本来の入り口”よ。本来なら、継承者か特定の魔力持ちにしか反応しない……はず。アルフレッド、あなた、まさか――」
クレアが彼の顔を見る。
「本当に行く気なの……?」
アルフレッドは魔剣の柄を握り直し、奥へ向けて一歩踏み出した。
「呼ばれてる。行かないと――次はもっと大きな崩壊が来る」
彼の背中に、仲間たちの視線が集まる。
瘴と列石の光の狭間で、
“声”はよりはっきりと聞こえ始めていた。
(……来て……アルフレッド……封じられた“記憶”を……届ける……)
列石は、何かを見せようとしている。
その奥にいる存在は、ただの敵ではない――
“何かを知っている者”だ。
列石の裂け目から放たれる淡い光――
それはまるで霧を押しのけるように道を形作り、アルフレッドたちを内部へ誘う。
「……ここが列石の“内側”なのね」
セレナが剣を握りしめつつ、光の壁を見上げた。
「入口というより……門が“開かれた”感じだな」
バルトが唸る。
アルフレッドは呼び声に導かれるように光へ手を伸ばす。
光は熱くも冷たくもない。ただ、懐かしさのような感触が指先に触れた。
「行くぞ――気を抜くな」
彼は一歩、奥へ踏み込んだ。
光の膜を抜けた瞬間、外の景色はすべて消えた。
「……っ!? ここは……」
ミリアが息を呑む。
そこは洞窟でも神殿でもない。
地形すら、この世界の理から外れていた。
空間はゆるやかに螺旋を描き、床も壁も天井も、
どこまでが境界なのか判別できない。
淡青の魔力が川のように流れ、空中に文字めいた光の粒が舞う。
列石の外側とは比べものにならない魔力密度。
その純度は、大魔導士のミリアですら思わず後ずさるほどだった。
「とんでもない……ここ、地脈の“中枢”がむき出しになってるわ。人の世界じゃない。間違いなく、列石が古代に造られた“本来の領域”よ」
クレアが辺りを見渡し、手を胸に添えた。
「この魔力……悪意じゃない。でも、管理者がいないせいで流れが暴走してる」
「だから封印が綻びるのか……」とバルト。
アルフレッドは魔剣を握り、立ち止まる。
“呼び声”が、さっきよりずっとはっきり聞こえる。
(……アルフレッド……こちらへ……あなたなら、見える……)
「こっちだ」
光の流れる方向へ進むと、回廊は徐々に形を変えていく。
まるで彼らの接近に呼応するように、道そのものが組み替えられているかのようだ。
「生きてるみたいね、この空間」
セレナは背筋に冷たいものを感じていた。
螺旋を抜けると、急に空間が開けた。
そこには巨大な円形の広間が広がり、
天井には星空のような魔紋が輝き、
床には失われた古代言語の文様が刻まれていた。
中央には――
青白い結晶柱が一本、そびえ立っていた。
「これ……列石の“心臓部”か」
バルトが目を見張る。
ミリアは近づき、結晶をじっと観察した。
「魔力の奔流……いや、記憶の残滓? これは……何かが封じられてる」
クレアが眉を寄せる。
「でも、瘴の気配はないわ。むしろ何かを守るために魔力が収束してる……」
そのとき。
――結晶柱の内部で、“影”が動いた。
「誰か……いる!?」
セレナが剣を構える。
影はゆっくりと姿を結び、輪郭を帯び、
やがて人の形を成していく。
アルフレッドだけが、つい息を呑んだ。
(……やっと……来てくれた……アルフレッド……)
影の声が、今度ははっきりと響いた。
結晶の中――そこにいたのは。
前に列石の外で遭遇した「謎の人物」と同じシルエット。
「お前は……!」
仲間たちも武器を構えた。
だが影は、静かに手を伸ばしてくる。
「敵意は……ない。私は……ここに囚われている“記録”。あなたに伝えるためだけに残された、“列石の番人”」
結晶全体が震え、影が少しずつ形を成す。
次に語られるのは、
列石が造られた“本当の理由”。
封じられた災厄の正体。
そして――アルフレッド自身の血に宿る“継承”の秘密。
結晶柱の中で揺らめく影は、
ゆっくりとこちらに向き直った。
輪郭は人の形をしているが、
身体は光の粒子で構成され、
その奥にさらに深い“記憶”の層が透けて見える。
「……聞いてほしい。私は、列石を造りし“古の守護者”の写し身。肉体はとうに失われたが……意思だけは封じられ、残されている」
淡い声は、空間の隅々まで響いた。
ミリアが小声で息を呑む。
「写し身……精神体の保存……? 古代術式の極致よ……」
番人は言葉を続けた。
「列石は、ただの封印ではない。――“地脈そのものの流れを整えるための装置”。王国の地下に広がる魔力の大河……それを安定させるために造られた」
「地脈の装置……?」
セレナが眉を寄せる。
「魔力の流れは生き物の血流と同じ。濁れば病となり、詰まれば命を脅かす。列石はその“血流”を整え、暴走を抑える役目を持っていた」
クレアは静かに頷く。
「だから瘴気の発生を抑えられた……」
番人の影がわずかに揺れた。
「しかし――数百年前、ある“災厄”が起きた。深層地脈の底に眠る、黒き魔力の渦が暴走したのだ」
アルフレッドは目を細める。番人は続けた。
「その災厄を抑えるため、我らは列石を“封印”へと作り替えた。本来の役目――地脈の安定化を犠牲にして、暴走源を封じ込めるための“錠”へと」
番人の声には疲れが滲んでいた。
「結果として……世界の魔力循環は歪み、瘴の化生は時折、地脈の綻びから溢れ出すようになった。――今起きている崩壊は、その“副作用”。封印が保てる限界が近い」
ミリアが震える声で問う。
「綻びを修復できる者は……いるの?」
「――アルフレッド。あなたの血に流れる《鎖環》の継承こそ、本来の列石を動かすために残された“鍵”だ」
「俺が……鍵?」
番人の影は、はっきりとうなずいた。
「列石を操る資格は、古代の守護家系だけが持っていた。その血統は滅びたと思われていたが……あなたにだけ、地脈の“声”が届いている」
アルフレッドは言葉を失う。
自分にそんな力があるとは知らなかった。
「じゃあ、アルフがいなければ……」
セレナが彼を見つめる。
「列石の崩壊は止められない。各地の封印は連鎖し、ついには《深層の災厄》が世界を飲み込む」
淡い光が不気味に瞬いた。
「アルフレッド。あなたに伝えるためだけに……私はここに残った。“封印の修復方法”を――」
その瞬間。
列石全体が大きく震えた。
かつてないほどの瘴気の圧――
そして、外側から何かが“殴りつける”ような衝撃。
「なっ……何が起きたの!?」
クレアが叫ぶ。
バルトが盾を構えながら仲間を庇う。
「外側で……誰かが列石を攻撃してやがる!」
番人の声が揺らぎ、結晶がきしむ。
「急がねば……崩壊が始まる……ルフレッド……あなたに、“術式の核心”を――」
影がアルフに手を伸ばそうとした、まさにその時。
回廊の入口から、轟音とともに黒い存在が侵入してきた。
回廊の入口を包んでいた結晶壁がひしゃげ、
黒い霧をまとった“影の巨体”が強引に空間へと侵入してきた。
形は人型だが、腕は異様に長く、
胸には瘴気の核が脈打ち、
眼孔には赤い光だけが燃えている。
「……あれ、第一波の化生とは質が違うわ……!」
ミリアがすぐさま魔力を構える。
番人が微かに叫んだ。
「外側の封印が破られつつある……! あれは《深層瘴兵》……!」
「名前はいい! こいつを止めりゃいいんだろ!」
バルトが前へ躍り出る。
巨影が咆哮し、床の魔力を吸い上げながら突進してきた。
バルトは巨盾を構え、正面衝突を受け止める。
衝撃で靴が床を削るほど後退するが、踏みとどまった。
「セレナ、右へ流せるか!」
「もちろん!」
セレナは魔剣を翻し、炎のエッジを纏わせて側面へ斬り込む。
だが、影の腕が蛇のようにうねり、彼女の刃を受け流した。
そのわずかな隙に、巨影のもう片手が振り下ろされる。
「甘いっ!」
アルフレッドが魔剣を横薙ぎに構え、
蒼い魔力の軌跡とともにその腕を弾き返した。
衝撃が弾け、影の肉体に亀裂が走る。
「アルフレッド、ナイス!」
「まだ浅い――行くぞ!」
クレアが両手を掲げ、仲間全員の身体を柔らかな光で包む。
「《聖護結界》――これで衝撃は抑えられます!」
「助かる!」
前衛の動きが明らかに軽くなる。
ミリアが詠唱に入ると、周囲の結晶柱が反応し、魔力が渦を巻いた。
「この空間……魔力の流れが濃い……これなら――!」
「ミリア、でかいの行く気だな!」
セレナが笑う。
「当然よ! アルフレッド、動きを止めて!」
「任せろ!」
アルフレッドとバルトが左右から同時に飛び込み、
アルフレッドの魔剣が蒼い光の斬撃を、バルトのハンマーが大地の震動を生む。
二人の衝撃で巨影の動きが止まった。
「今よ!」
ミリアが杖を前に突き出す。
「《連星落下》――!!」
天井から二つの光球が出現し、
巨影の頭上へ衝突。
爆裂と光の奔流が回廊全体を照らし、
影の肉体が激しく揺らいだ。
そこへセレナが急加速し、
炎を纏った魔剣を胸の瘴気核へと突き刺す。
「これで終わりよっ!」
蒼炎が内部から爆ぜ、
巨影は断末魔の咆哮とともに、
瘴気の霧となって砕け散った。
敵が消えると、番人の影が苦しげに揺れた。
「……封印の亀裂が広がっている……今のはその“漏れ出し”に過ぎない……」
アルフレッドが息を整えつつ問う。
「外に、まだあれ以上の奴がいるのか?」
「――いる。封印は崩壊の連鎖を始めつつある。あなたたちの戦いは……まだ“入り口”に過ぎない……」
結晶柱に走る光の模様が、まるで心臓の鼓動のように速まっていく。
「急がねば……アルフレッド。あなたに“術式の核心”を伝えなければ……列石は……持たない……」
影が震える手をアルフへ伸ばした。
影の番人はかすれる声で言った。
「……時間が、ない……本来なら儀式を通して渡すべき“鍵”だが……今は、強制的に――転写する……!」
「待て、強制って……何が起きるんだ?」
アルフレッドが身構える。
「痛みと、混濁……しかし耐えられる。あなたは“継承者”の血を持つ……行くぞ、アルフレッド……!」
次の瞬間――
番人の体が弾け、
光の粒子となってアルフの胸へ一気に流れ込んだ。
「っ……ぐ……!」
「アルフレッド!?」
セレナが駆け寄ろうとするが、
強烈な魔力の渦が彼を包み込み、誰も近づけない。
ミリアが目を広げた。
「これは……地脈情報そのものの“移植”……!? アルフレッドの精神が、列石と“接続”されてる……!」
視界が白く染まり、
次に現れたのは――浮遊する幾何図形と光の文様の世界。
足元には地脈の流れを模した巨大な光の川。
その中心に、番人の“影”が立っていた。
「……ここは、あなたの精神と列石が重なった界層……転写は始まっている……よく聞くのだ、アルフレッド」
影の声は外界とは違い、穏やかだった。
「列石を動かす“核心術式”は三つ」
影の指先が光を描き、三つの紋章が浮かび上がる。
■ 第一 《調律》
地脈の濁りを“整える”術。
列石が本来持つ機能を呼び起こす鍵。
■ 第二 《縫合》
地脈の裂け目を“縫い”、魔力循環を再接続する術。
瘴気の溢れを止める手段。
■ 第三 《起動》
列石を“真の姿”へ開く術。
その力は……封印の向こう側に眠る存在すら照らす。
「この三つを……あなたに託す。ただし――“代償”がある」
影の光が揺れ、わずかに沈んだ。
「地脈へ触れるたび、あなたの魔力はその循環と“同調”する。力を使いすぎれば……魔力そのものが、地脈に還る。――存在の希薄化だ」
「……つまり、使い方を間違えれば俺は消える、と」
「そうだ。しかし……あなたしかできない。地脈は、あなたを“選んだ”のだ」
番人の影はゆっくりと手を差し出した。
「受け取れ、アルフレッド。列石を救えるのは……あなたと、あなたの仲間だけだ」
アルフレッドは息を吸い込み――
その手を握った。
光が爆発的に広がり、
術式の紋章がアルフの胸へ、腕へ、そして剣へ刻み込まれていく。
◆ 現実へ
「――っ……!」
アルフレッドの身体から光が弾け、
魔力の嵐が一瞬で消えた。
セレナが駆け寄る。
「アルフレッド! 大丈夫なの!?」
「……ああ。だけど……列石の地脈が、全部“聞こえる”……」
その声は、どこか以前より深く、静かだった。
クレアが不安げに近づく。
「術式の……核心を?」
「全部わかった。だが――時間がない。奥の封印が……呼んでる」
列石の奥から、低い“呼び声”が響く。
番人はもういない。
しかし残された光だけが、道を示すように揺らめいていた。
アルフレッドが前へ一歩踏み出した瞬間――
列石の奥へ続く通路が、まるで生き物のように開いた。
結晶の壁が静かに裂け、
光の粉が舞い、
奥へ伸びる回廊が淡い青白さを帯びて鼓動している。
「……これが、封印中枢へ続く道……?」
セレナが剣を構えながら進む。
「いや、違う。“呼ばれてる”。地脈そのものが、俺たちを奥へ導こうとしてるんだ」
アルフの目には、他の誰にも見えない魔力の流れが映っていた。
ミリアが息を呑む。
「列石が……自己判断で道を開けるなんて、前例がないわ……中枢の状態がそれほど危険だという証拠よ」
クレアが不安げに周囲を見る。
「嫌な感じ……空気が重いです。瘴の濃度が、歩くたびに増してる……」
「気にすんな。瘴気が濃けりゃ濃いほど、敵もデカいってだけだ」
バルトは肩を鳴らしながら前方を警戒する。
回廊は徐々に広がり、天井は高く、
まるで神殿の内側を歩いているかのようだった。
壁面には、古代文字が脈動するように明滅している。
「刻印が……生きてるみたいね」
セレナが呟いた。
「いや、実際に“生きてる”んだ」
アルフが指で壁をなぞると、
刻印が彼の魔力に反応し、柔らかく輝いた。
「地脈の動脈、そのものがここに集約してる。中枢部は……列石の“心臓”だ」
その言葉に、皆が無言になる。
いよいよ、世界の根幹に触れようとしているのを感じた。
と――奥から、低く大きな音がした。
ゴ……ォォ……ン……
地脈の脈動音に似ているが、何かが“ぶつかっている”ようにも聞こえる。
「……これは?」
クレアが身を震わせる。
「封印が……内側から叩かれてるのよ」
ミリアの顔色が青ざめていた。
「封印を壊して外に出ようとする“何か”が……!」
ついに回廊が開け、広大な内部空間が姿を現した。
中央には巨大な光の球体が浮かび、
そこから無数の光線が地脈の通路へ伸びている。
しかしそのコアには、
闇色のひび――《破孔》が口を開けていた。
そこから漏れ出す黒い霧は、
瘴気とは比べ物にならない重さを持ち、
空気そのものを濁らせていた。
「……これが……封印の亀裂……」
セレナが思わず息を呑む。
バルトが険しい顔で槌を構える。
「こりゃあ……たしかに放っとけねぇな」
ミリアは震える声で説明する。
「封印中枢の“心臓部”が破壊されれば……瘴気じゃ済まないわ。地脈自体が暴走して、王国どころか大陸ごと崩れる……!」
「だから……止める」
アルフは静かに前へ一歩進む。
その瞬間。
封印のひびから、巨大な影が蠢いた。
黒い腕――
いや、闇の塊でできた怪物の一部が、
外の世界へ“触れようとしていた”。
「来るぞ!!」
破孔から這い出てきたのは、
この世の生物とは思えない漆黒の巨塊。
形は流動し続け、
中心には巨大な赤い核が脈動している。
「……あれが……封印の奥に眠る存在……!」
ミリアがぞっとした声を漏らす。
アルフレッドの胸が強く光り、
転写された術式が反応を始めた。
「みんな、構えろ。コイツを倒さなきゃ――封印は修復できない!」
深層の王胎が、核を脈打たせながら咆哮した。
世界そのものが震えた。
封印中枢を満たす巨大な闇の塊――
《深層瘴の王胎》が咆哮を上げると、
空間そのものが歪んだ。
黒い波動が周囲へ放出され、
床の紋章が軋み、天井の結晶柱が悲鳴のような音を立てる。
「くっ……なんて魔力密度……! 空間が耐えきれない……!」
ミリアが歯を食いしばる。
「だったら……こっちが押し返すしかねぇだろ!」
バルトが踏み込み、巨槌を肩へ担いだ。
「アルフレッド、いくよ!」
セレナは炎を纏わせた魔剣を構え、
仲間と並んで前へ進む。
アルフレッドは深呼吸し、
胸に刻まれた三つの術式が淡く光るのを感じた。
「――行くぞ。これが……世界を守るための戦いだ!」
王胎の主核が赤く脈動すると、
闇の触腕が何十本も伸び、
嵐のように一行へ襲いかかってきた。
「前衛、散開!」
アルフレッドの声が飛ぶ。
セレナは地を蹴り、軽やかに触腕を切り裂く。
炎の魔剣が軌跡を描き、闇を焼いて蒸発させた。
「まだまだっ!」
バルトは真正面から突っ込む。
巨槌を振り上げ、闇の束をまとめて叩き潰すように落とす。
――轟音。
闇が粉砕され、床が揺れる。
「いいぞバルト、そのまま押せ!」
「任せろおおッ!!」
後方ではミリアがすでに詠唱を完了していた。
「大地よ、炎よ、穿て――《双竜崩衝》!!」
二つの龍のような炎柱が王胎へ向かい、
その表層の闇を削り取る。
クレアはその横で聖光を展開し、
仲間の身体を守る結界を絶えず張り直す。
「《聖護結界・再展》! 皆さん、無茶はしないでください!」
「いや、今日は無茶しねぇと勝てねぇだろ!」
バルトが笑い飛ばす。
王胎の核が震え、
破孔からさらに濃い闇が溢れた。
「来る……!」
アルフが魔剣を逆手に懐へ抱く。
三つの術式が同時に光を放つ。
第一《調律》
第二《縫合》
第三《起動》
「――《地脈共鳴・第一式》!!」
アルフの魔剣から蒼い奔流が迸り、
空間の歪みを押し返すほどの力が生まれた。
闇の触腕がその蒼光に触れた瞬間、
悲鳴のように蒸発していく。
「すごい……! あなた今……列石と完全に同調してる……!」
ミリアが驚愕の声を上げた。
だが、王胎もただでは終わらない。
中心核が強烈な赤黒い光を放ち、
巨大な影の刃が空間を裂いて放たれた。
「――クレアっ!!」
セレナが叫ぶ。
「はいっ!」
クレアが即座に両手を広げる。
「《守護の聖障壁》!!」
光の壁が展開し、影の刃をギリギリで受け止める。
刃が壁を削り、火花のような闇が散る。
「っ……くぅ……重い……っ!」
クレアが膝をつきかける。
「よく耐えた、クレア!」
バルトが割り込んで影刃を叩き落とした。
「ここからもう一段、行くぞ!」
「アルフ、合わせるわよ!」
セレナが声を飛ばす。
「任せろ!」
二人が同時に踏み込み、
炎と蒼光が交差する。
「《フレイム・ブレイク》!」
「《アライズ・クラッシュ》!!」
炎と蒼の衝撃波が重なり、
王胎の表層の闇が大きくえぐれた。
その隙にミリアがさらに詠唱を重ねる。
「いまよ、仕上げにいくわ! 《神星落下》――!!」
天井から降り注ぐ光が王胎の核へ突き刺さる。
巨塊がけたたましい音をあげて震えた。
「やった……! 核に届いてる!」
クレアが歓声を上げる。
「だが……終わってねぇぞ……」
アルフが魔剣を構え直す。
黒い霧が再び集まり、
王胎は怒号とともに形を変えた。
封印中枢の闇が、低く震えた。
それは瘴の濁流ではなく――“声”だった。
耳に届くものではない。
頭蓋の内側へ、直接染み込むように響く。
《……ようやく来たか、子らよ》
その一言で、空間の瘴が波打った。
王胎が、こちらを“視た”のだ。
「……言葉を……喋って……いる?」
ミリアが蒼白になる。
「知性……いや、それ以上の……」
クレアは震える声のまま、杖を握り締めた。
王胎はゆっくりと形を変える。
人の胎動にも似た脈動――だが、その中心には巨大な縦孔が開き、
幾百の眼に相当する虚無が、こちらを覗き込んでいる。
《我は滓にあらず。この地がはらんだ、第一の “拒絶” だ》
「拒絶……?」
アルフレッドの眉が動く。
王胎は続ける。
《古において――この地は、異界より流れこむ力に満たされていた。だが、人が歩み、都市を築き、術式を紡いだ。そのとき生じた“ずれ”を、最初に受けたのが我》
「地脈の混乱……あれは、自然の異常じゃなくて……」
ミリアが呟く。
《人が世界を書き換えた痕だ。我はその“余剰”より生まれた。ゆえに――おまえたち人は我を、生まれながらにして殺そうとする》
王胎は、苦笑のような、嘲笑のような意志を漂わせた。
《我が求むは、ただひとつ。本来の地脈への回帰――この大地が、真に戻るべき形へと還ること》
「それって……まさか……!」
セレナが息を呑む。
《そうだ。書き換わったものを、すべて消す。街も、術も、生命も――世界が負った“人の書き損じ”を、余すことなく拭い去る》
「……世界の全否定……それが、お前の望みか」
アルフレッドの声は低い。
王胎は応える。
《我は滅びを望まぬ。ただ、“正しき位相”への復帰を求めるだけよ。だがそれを、人は破滅と呼ぶのだろう――》
瘴気が震え、王胎の声が深く沈んだ。
《――子よ。おまえたちは、我を封じるか。それとも、共に世界を書き換えるか》
この瞬間、
王胎が敵であることが確定した。
地の根を断ち切る破滅か。
世界を護るための戦いか。
全員が、武器と杖を握り直した。
王胎の外殻が、破裂した。
瘴が噴き出すのではない。
“空間”そのものが、裂けてめくれ上がった。
さっきまで肉塊に近かったはずの王胎は、
今や――形容できない“構造体”へと変わっていく。
光でも影でもない層が幾重にも重なり、
骨のような輪郭が伸びたかと思えば、次の瞬間には別方向に折れ、
その全てが調和も破綻もせず存在している。
「……これが、真の……!」
ミリアの声が震える。
《歪められた地脈の修正――本来の位相へ帰す》
あらゆる方向から声が響く。
王胎は、もはや“巨大な何か”ではなかった。
世界のエラーを可視化した“概念体”に近い。
その中心の裂孔が、ゆっくりとこちらへ向き――
空間が震えた。
《始めよう。還元を》
王胎が腕とも触手ともつかない“線”を伸ばすと、
列石の空間が波打つようにひび割れた。
「だめだ、空間が……侵食されてる!」
ミリアが杖を掲げ、広域防御魔術を展開する。
「《大系式・層壁展開!》 みんな、下がって!!」
薄青い壁が何十にも折り重なり、崩落を押し返す。
だが、王胎の触線が一閃すると――
層壁がまるで紙を裂くように破られた。
「くっ……! これ、長くは保たない!」
「なら、攻める!」
アルフレッドが魔剣を両手で握り、
転写された“術式核”が剣身に紋を走らせた。
「《魔剣解放形態――位相斬り!》」
振り下ろされた一撃が、空間そのものを裂き、
王胎の触線をまとめて切断する。
《なるほど。子よ。おまえは……我の核に触れられるのだな》
王胎の声が震え、怒気にも似た波動が満ちた。
「アルフが切り開いたなら、私が通す!」
セレナは魔力を矢と剣に同時に纏わせる。
「《多重撃式――魔装連矢、展開!》」
十数発の光矢が王胎の動きを牽制し、接近と同時に魔力斬撃を連続で叩き込む。
しかし触線が一斉に向け返り、彼女を包み込もうとする。
「やらせるかよッ!!」
バルトが前へ跳び込み、巨大な触線の束を盾で受け止めた。
盾が軋み、腕が悲鳴を上げる。
それでも一歩も下がらない。
「セレナ、続けろ! ここはオレが押さえるッ!」
「ありがとう、バルト!」
彼の背中に、全員の信頼が宿った。
「瘴が……侵入してきます! 私が止めます!」
クレアが胸の前で聖印を組み、祈りを放つ。
「《神聖式・大浄界――祓いの環!》」
白金の光が王胎の瘴を浄化し、
侵食の速度をわずかに遅らせる。
王胎が低くつぶやく。
《聖の力……不快だ。だが、消せぬ。おまえたちは、我の“外側”で繁殖した虫にすぎぬ》
「外側……? そんなもの、関係ありません! ここは――生きる者の世界です!」
光がさらに強まる。
「……解析、完了したわ」
ミリアの瞳が決意の色を帯びる。
「王胎の位相核――そこ! あそこを断てば、“修正”は止まる!」
王胎内部の、多層に折れた幾何学の中心。
常人には理解不能な構造――だがミリアは見抜いた。
「全員、軌道を空けて! 《大系式――星核砲撃》!!」
星の残光を思わせる魔力弾が放たれ、
王胎の中心へ直撃――
しかし、王胎は空間を“折り返し”、攻撃を飲み込むように消し去った。
《子らよ。我を“理解”できると思うな》
王胎の気配が、さらに巨大化した。
全員の総力戦でも、王胎はなお健在。
空間は崩れ、瘴が海のように逆巻き――
だが、そのときアルフレッドの魔剣が再び脈動した。
“番人”から転写された術式核が、
王胎の真核に反応している。
まるで――
「次の鍵はお前にある」と告げるように。
空間が、沈黙した。
王胎が攻撃を止めたわけではない。
周囲の音が、存在ごと消されたのだ。
アルフレッドは思わず呼吸を止めた。
息を吸った感覚がない。
音も、風も、気配すら――世界の構造から抜き取られたようだった。
「な、何……これ……?」
ミリアでさえ声を失う。
王胎の外郭が、また裂けた。
だがそこから現れたのは “肉” でも “瘴” でもなかった。
虚無そのもの。
光も影も持たぬ“断面”だけが、空間の中央に浮かんでいる。
その輪郭は常に揺らぎ、凹んだかと思えば裏返り、
次の瞬間には五芒に伸びる。
誰もが恐怖で後ずさった。
「これ……存在の、裏側……?」
クレアが聖印を握りしめる手を震わせる。
《――これが、本来の形だ》
声が、四方八方から同時に響く。
《世界が正しくあるために、間引かれた“余剰”の位相。それが我。人よ、おまえたちは世界にとって“過剰”なのだ》
虚無の中心が、わずかに開いた。
そこに“眼”などない。
ただ、見られていると分かった。
その瞬間、
アルフレッドの手の中で魔剣が震えた。
「……また、呼んでるのか……!」
剣身に刻まれた番人の紋が、眩い白光を放つ。
さきほどの位相斬りとは比にならないほどの脈動。
ミリアが叫ぶ。
「アルフレッド、その剣……王胎の位相と“同質反応”を起こしてる! あなたの術式核は――王胎の反位相よ!」
「反……位相?」
「簡単に言うと、王胎と同じ層に触れられるのは、あなただけ! あなたの剣は、“拒絶”を断ち切るために転写されたの!」
その言葉に、王胎が静かに反応した。
《番人よ……余計なものを残していったな》
虚無が王胎の中心でひずみ、
空間の境界が霧散する。
「……分かったよ。世界を壊させるわけにはいかない。みんなの未来も……俺たちが歩いてきた道も――全部、否定なんてさせない!」
アルフレッドは魔剣を胸の前に構え、
転写核の光を全身へ迎え入れた。
紋が彼の腕へ、胸へ、眼へと走る。
「《術式核、全開放――フェイズ・リンク》!」
魔剣が完全に光へと融け、
アルフレッドの手の中で “世界の輪郭そのもの” を象る刃となった。
ミリアが息を呑む。
「まさか……位相そのものを剣にしてる……!」
「アルフレッド、眩しい……!」
セレナが眼を細める。
クレアは胸に手を当て、涙すら浮かべた。
「あなた……こんな力を……」
バルトが大盾を構え直し、笑った。
「やれるか、アルフレッド!」
「……ああ。行く。これが――番人の託した“最後の鍵”だ!」
対する王胎も、その輪郭を大きく歪めた。
虚無の中心から、
光の筋にも影の筋にも見える軸が五方向へ伸びる。
それが次々と空間を削り取っていく。
《子よ。その刃で、世界を守るというのなら――見せてみろ。我を、断てるものか》
世界の崩落が始まる。
瘴が海嘯のように迫り、
列石の床が引き裂かれ、
奥の空間は黒い渦へと飲み込まれていく。
アルフは一歩、前へ踏み込んだ。
「みんな――行くぞ! ここから、最終戦だ!」
虚無の王胎は、存在の輪郭を震わせながらこちらを“視”た。
その中心の裂孔がゆっくりと開き――
世界の縁が削り取られていく。
《始めよう。過剰な世界の清算を》
空間そのものが襲ってくる。
もはや“攻撃”ではない。
「全員、私の陣の中に入って! これ以上削らせない!」
ミリアが床を杖で叩きつけると、
魔法陣が何百もの式で重なり合い、光の輪を広げた。
「《大系式・存在固定領域》!」
青白い膜が展開し、
王胎の“削り取り”を一度だけ防ぐ。
しかし王胎はすぐに気づく。
《……理解した。ならば――領域ごと消す》
「くっ……! 来るっ!」
ミリアの結界の外側が一瞬で崩壊し、
世界がざらりと剥がれ落ちる。
「ミリアを疲弊させるわけにはいかねえ! 行くぞ、セレナ!」
「合わせる!」
バルトが大盾を構え、虚無の触線を真っ向から受け止めた。
触線は質量があるのかも不明な“概念”だが、
バルトは力で押し返す。
「おおおおおおっ!」
「バルト、硬直させる!」
セレナは魔力を散弾状に変え、連射する。
「《魔装散矢・連弾》!」
魔力の矢が触線に叩き込まれ、
王胎の動きがわずかに止まる。
《人の力……取るに足らぬ。だが、邪魔ではある》
王胎が空間を湾曲させ、
セレナに向かって重力が“反転”する。
「くっ、動きが――!」
「セレナ!!」
バルトが体を投げ出し、セレナを抱えて滑り込む。
反転重力が彼の背を削るが、それでも踏みとどまった。
「大丈夫だ、行け……! まだ終わっちゃいねえ!」
「……ありがとう、バルト!」
「王胎の干渉……強すぎます……! でも――皆さんを護るために、私は……!」
クレアが両手を天に掲げ、祈りを放つ。
「《神聖式・逆流聖域》!」
聖光が床へ流れ込み、
虚無の侵食を押し返す“返しの奔流”を形成した。
王胎の輪郭がほんの一瞬、ひずむ。
《……光……我を拒絶するか》
「あなたが“世界を否定する”なら――私は“世界を祈るだけ”です!」
――領域が崩れ始める
ミリアの展開した存在保護領域が、王胎の正面から剥がれ始める。
「だめ……速度が違いすぎる……! あと数分も保たない……!」
汗がこめかみを伝い、足元の魔法陣がちらつき始めた。
「――十分だ」
アルフレッドはミリアの肩に触れ、前へ出た。
「ここから先は……俺が切り開く」
魔剣――否、位相そのものの刃が
白く脈動し、アルフの周囲だけ“世界が濃くなる”。
王胎が反応する。
《来るか、子よ》
「来る。全部断って――お前を止める!」
アルフの足元の位相が反転し、
彼は王胎の前へ瞬間的に“跳ぶ”。
王胎が五方向の触線を広げ、
同時に“存在削除”を叩きつける。
「アルフレッド!!」
「くそっ、守れねえ!」
「絶対に落ちないで……!」
「アルフレッドさん……!」
仲間の叫びが重なる。
アルフは応えるように剣を振り上げた。
「《位相断絶――フェイズ・ブレイク!!》」
刃が、光でも影でもない「境界そのもの」を裂き、
虚無の触線を一度に斬り落とす。
王胎の輪郭が大きく揺れた。
《――ッ……! ……それこそが、“我の外側”が託した力……》
「そうだ。俺たちは“過剰”かもしれない。でも――だからこそ、世界を広げてきた!」
アルフレッドが踏み込む。
「だから……消させない!!」
刃が王胎の中心核へ向かう。
虚無が裂け、光が差し込む。
ついに――
王胎の真核が露出した。
しかし王胎はまだ終わらない。
《ならば……最後の“意味”を示そう》
虚無がさらに膨張し、
アルフを飲み込まんと迫る。
仲間たち全員が叫ぶ。
「行け、アルフレッド!!!」
「押し込んで! あなたなら……!」
「決めろ!!」
「アルフレッド……あなたを信じています!!」
アルフレッドは剣を両手で握り直した。
「――終わらせる!!」
王胎の虚無が大きく開き、
その中心に“核”が姿を現した。
形を成しているようで、しかしどこにも存在しない。
光と影の狭間を常に反転し続ける不規則な点――
世界のエラーそのもの。
《これが我の核心。ここを断たれれば――“世界の修正”は止まる》
王胎の声には、怒りも恐れもなかった。
ただ、事実を述べるだけの静けさがあった。
「分かってる。だから斬る!」
アルフレッドは剣――
位相断絶剣 を両手で握りしめる。
仲間たちは、彼の背に力を重ねるように声を放つ。
「アルフッ!!!」
「今こそ……!!」
「あなたを信じています!」
「もう一歩だ!!」
クレアの祈りが光となり、
ミリアの魔力が大気を震わせ、
セレナの矢が王胎の触線を封じ、
バルトの盾が虚無の波を押し返す。
全ての力が――アルフレッドへと集まる。
アルフレッドは跳んだ。
世界の揺らぎを踏みしめ、空間の裂け間を越え、
王胎の核へと一直線に向かう。
《――来い。子よ。おまえの歩んだ世界を、我に見せてみろ》
「見せてやるよ!!」
アルフレッドの剣が、王胎の核へ――突き立った。
“何か”が裂けた音がした。
だがそれは空気でも、物質でも、
魔力ですらなかった。
世界の“境界”が切れた音だった。
核が光の反転を繰り返し、
次の瞬間――完全な“白”へと消える。
王胎の輪郭が崩壊を始めた。
《……そうか。これが……外側の“意思”……》
その声は、怒りでも憎しみでもなく――
どこか穏やかだった。
《世界を、託す……か》
虚無が解ける。
光の粒子となり、風のように散り――
王胎は完全に消滅した。
「空間が……崩壊を始めてます!!」
ミリアが叫ぶ。
床が波のようにうねり、
列石そのものがひび割れていく。
「出口まで走れ!!」
バルトが先頭に立ち、仲間たちを導く。
セレナが矢を連射し、崩落する瓦礫の軌道を逸らし、
クレアが祈りで落石を持ち上げて避け道を作る。
「アルフレッド、急いで!!」
「今行く!」
だが――
アルフレッドの足元に、崩落の裂け目が大きく開いた。
「くっ……!」
「アルフレッド!!」
セレナが手を伸ばすが、
裂け目はさらに拡がる。
「行け! ここは――!」
「黙れッ!!!」
ミリアが叫んだ。
「あなたを置いていくわけないでしょ!! 《大系式――拘束反転収束!!》」
空間を束ねる魔術が放たれ、
裂け目が一瞬だけ“閉じる”。
その隙に、
セレナとバルトがアルフを引き上げる。
「間に合った……!」
「走れ!!」
最後に、出口の光が見えた。
「――飛び込め!!」
全員が一斉に駆け、光へ飛び込んだ。
背後で、列石内部が完全に崩壊する轟音が響く。
だが、光の中でそれは遠ざかっていった。
気づけば、全員は北方列石の外に横たわっていた。
夜空が広がり、瘴は晴れ、冷たい風が頬を撫でる。
「……終わった……のか?」
バルトの声が微かに震えていた。
「王胎の存在反応……完全に消滅。成功よ……みんな、生きて帰ってきた……」
ミリアは座り込み、涙を拭った。
「ありがとう……みんなのおかげだ」
アルフレッドは魔剣を握り、その刃の光が静かに沈んでいくのを見つめた。
「生きて……帰れたんですね」
クレアの声は安堵に満ちていた。
セレナが空を見上げ、笑った。
「帰ろう。
きっと、みんな待ってる」
アルフも同じ空を見上げた。
――こうして、
深層瘴の王胎との戦いは幕を閉じた。
――北方列石事変、終結から数日後
北方山脈の瘴は完全に消え、風は澄み、鳥の声が戻っていた。
かつて崩壊寸前だった魔術院駐屯所も、いまは平穏を取り戻しつつある。
だが、それぞれの心にはまだ“あの日”の余韻が残っていた。
「アルフレッド、もう走っても平気なのか?」
バルトが鍛錬場で声をかけた。
「ああ。魔剣の負荷も、もうほとんど残ってない。……ありがとう、助けてくれて」
「礼なんざ不要だ。パーティってのはそういうもんだろうが」
バルトは照れくさそうに笑い、肩を叩いた。
一方その横では、クレアが呆れ気味にため息をつく。
「もう……本当に無理はしないでくださいね? あなたが無茶をしたら、誰がみんなを支えるんですか」
「ああ……わかってる。クレアの祈りがなかったら、今ここにいない」
アルフレッドが微笑むと、
クレアは胸に手を当て、ほっと安堵の息をこぼした。
――ミリアの報告と、新たな仮説
魔術院の移動研究車両には、ミリアが山積みの書類を抱えて座っていた。
「王胎の残滓、完全に消えた……はずなんだけど……」
「“はず”? 怖い言い方をするな」
セレナが覗き込む。
「核が消滅したのは間違いない。でもね」
ミリアは指で机を叩きながら言った。
「――誰も見たことのない“位相エネルギー”の痕跡が、まだ大地の底に微量だけ残ってる」
「残ってるって……危険なの?」
セレナの眉が寄る。
「現状は無害。でも、王胎は“外側の意思”と繋がっていた。その痕跡は、完全には消えていない」
「外側……」
セレナはアルフレッドの名を思い浮かべ、不安げに目を伏せる。
「もちろん、彼には影響ないわよ。少なくとも今のところはね」
「《今のところ》って言ったな……?」
「彼を不安にさせないで!」
「不安にさせるなと言われましても!」
研究車両に、二人の軽い小競り合いが響く。
夕暮れの坂道。
アルフレッドはひとり、北方山脈を見下ろしていた。
風が頬を撫でる。
あの日の崩壊の音が、まだ耳の奥に残っている。
「……最後に聞こえた声。本当に……王胎が言ったのか?」
彼は胸に触れる。
そこにあった熱も、圧力も、痛みも、もうない。
ただ――
(“外側の意思”。あれが消えたとは……思えない)
王胎が消える瞬間に残したあの言葉。
《世界を、託す……か》
それは敗北の声ではなく、
未来へ何かを渡すような声だった。
「託すって……俺の、何に?」
答えはない。
けれど、胸の奥が一度だけ脈動した気がした。
「アルフレッド!」
セレナの声が丘の上に響く。
「夕食の時間だよ。また独りで遠く見て……考え込むの禁止!」
「禁止って……子供扱いするなよ」
セレナはふっと微笑んだ。
「あなたが無事なら、それでいいの」
アルフレッドは照れ隠しに瞳をそらし、
二人は丘を降り始めた。
すると麓で、他の仲間たちが手を振っている。
「おい、腹減っただろ!」
「今日の食事は豪華ですよ!」
「アルフレッド、早く!」
その光景は、
戦いの果てにようやく戻ってきた“日常”そのものだった。
アルフレッドは小さく笑った。
「……ああ。行こう」
深層瘴の王胎との戦いは終わった。
だが“外側の意思”の痕跡は完全には消えていない。
それでも。
仲間と共に歩く世界は、
確かに守られ、いまも続いている。
夕焼けが静かに夜へ溶けていく。
その光の中、ひとつの物語は幕を閉じ――
そして、新たな物語が静かに、確かに動き始めていた。




