レベル50
王都に戻って数日。アルフレッドたちは《紅玉の旗亭》で束の間の安息を過ごしていた。
昼下がりの広間には、酔客の笑い声と楽師の奏でる笛の音が満ち、戦いの記憶さえ遠い出来事のように感じられる。
「やっぱり王都の飯は違うな」
バルトが豪快に肉の皿を平らげ、満足げに息を吐いた。
「あなた、戦いより食べてる時の方が生き生きしてるわよ」
セレナが呆れ顔で言うと、周囲から笑いが漏れる。
その時――
ふいに、宿の床がかすかに震えた。
杯がわずかに揺れ、テーブルの上の水面が細かく波打つ。
「……地震?」
クレアが不安げに呟いたが、次の瞬間、窓辺にいた冒険者が叫んだ。
「見ろ! 北の空だ!」
広間に人々が殺到し、窓から外を覗く。
遠くの雲を突き破り、黒い光柱が空を貫いていた。
その光景とほぼ同時に、駆け込んできた伝令が声を張り上げた。
「報告! 北方高原の列石にて異常発生! 周辺の村では地鳴りと魔力の逆流が観測されています!」
広間がどよめきに包まれる中、ギルド長はただ一点を見据え、低く呟いた。
「……奴らは、動いたか」
「この揺れ、あの光……王都からでもわかるなんて規模が違う」
ミリアの声は冷たく響く。
「今までの列石とは段違いね。高原そのものが目覚めてる」
セレナは剣を腰にかけ、表情を引き締めた。
「のんびりしてる暇はねぇな」
バルトが立ち上がり、拳を握る。
「神に祈るより、私たち自身が行くしかない……」
クレアは聖印を胸に当て、強く祈りを結んだ。
アルフレッドは光柱を見つめ、静かに言葉を落とした。
「次の戦場は決まったな。――北方高原へ向かう」
北の空を裂いた光柱を目の当たりにしてから、アルフレッドたちは急ぎ《紅玉の旗亭》の奥へと集められた。
ギルド長は険しい顔で羊皮紙を広げ、出立の支度を促す。
「異変の規模は過去最大級だ。王都からも観測できるなど前代未聞……。必要な装備はすべて整えていけ。戻れぬ覚悟を持つことだ」
鍛冶場では、バルトが新しい盾の修繕を受けていた。
鍛冶師が鉄槌を振り下ろし、ひび割れた表面を補強する。
「次は……砕けても文句は言うなよ。あんな怪物じみた影を受け止めたんだ」
バルトは苦笑しつつ、重さを確かめるように腕を振った。
一方、セレナは刃物職人とやり取りをしていた。
「双剣の刃は薄く鋭く。持ち手は――少し軽めに」
職人は渋い顔をしたが、彼女は即座に金貨を積み上げて黙らせた。
「一刻を争うの。細工の文句は後で聞くわ」
薬師の工房では、クレアとミリアが薬瓶を選び取る。
「癒しの薬草だけでなく、瘴気を払う香油も必須ね」
「ええ、光の祈りだけでは追いつかないかもしれません」
棚に並んだ瓶が荷袋に詰め込まれていく。
準備を終え、広場で馬を引き出すとき、仲間たちは束の間の会話を交わした。
「また列石か……いい加減、奴らの狙いを叩き潰してやりたいもんだ」
バルトが呟くと、セレナは小さく笑った。
「焦らないで。怒りに任せたら、逆に飲まれるわよ」
ミリアは地図を閉じ、アルフレッドを見やる。
「……あなたも気づいているでしょう。あの光の規模、次は私たちだけでは済まない」
「だとしても、俺たちが行くしかない」
アルフレッドは馬具を締め直し、仲間たちを見渡した。
「誰かが動かねば、すべてが遅れる。――俺たちが最初に辿り着く」
その言葉に、皆が静かに頷いた。
翌早朝。
王都の石門が開かれ、冷たい朝霧の中、五人の影が北方高原へと駆け出した。
見送るギルド長は小さく呟く。
「鎖環を守る者たちよ……どうか、無事に帰れ」
王都を後にした一行は、北方へと続く街道を進んでいた。
はじめは緩やかな丘陵と青々とした森が広がり、鳥の声や川のせせらぎに心を和ませることができた。だが道を進むにつれて景色は荒々しさを増し、風の冷たさと共に空の色までも鈍く濁っていった。
「……空が、揺れてる」
セレナが眉を寄せて指さす先では、遠い高原の空が波のように歪み、陽光が裂けるように乱反射していた。
「魔力の奔流が地脈を逆流しているわね」
ミリアが低く呟き、杖を握る手に力を込めた。
「普通なら地中深くに眠るはずの力が、空へ噴き上がっている……あれが続けば村はもたない」
やがて一行は街道沿いの村に立ち寄った。
しかし、いつもなら賑やかな市場も畑仕事の人影もなく、代わりに閉ざされた扉と怯えた視線ばかりが目に入った。
「旅の方……北へ向かわれるのですか?」
村の広場で声をかけてきた老農夫は、深い皺を刻んだ顔に恐怖を貼り付けていた。
「夜になると、黒い風が吹き込むのです。牛も羊も、影に呑まれて消えちまった……兵も派遣されましたが、誰一人戻りませんでした」
クレアは農夫の手を取って静かに頷いた。
「安心してください。必ず止めてみせます」
その言葉に、怯えた村人たちがわずかに顔を上げたが、その瞳にはまだ不安が深く残っていた。
村を後にして北へ進むと、草原に不自然な亀裂が走っていた。
裂け目からは蒸気のような魔力が吹き出し、空気は鉄のような匂いを帯びている。
馬たちは鼻を鳴らして落ち着かず、足取りを乱した。
「……地脈が壊れている」
アルフレッドが剣に手をやり、険しい表情を浮かべた。
「このまま進めば、列石の異変がどれほど広がっているか分かるだろう」
遠くにそびえる北方高原の稜線は、どす黒い雲と光柱に覆われていた。
まるで大地そのものが呻き声を上げているかのように、空気は重く淀み、足を進めるほどに胸を圧迫していく。
北方高原へ向かう山道は、すでに人の往来を失って久しかった。
風は唸りを上げ、木々は黒く染まり、森そのものが生気を失っているかのようだった。
「……静かすぎる」
セレナが剣に手をやる。
その直後、茂みの奥から低い唸り声が響いた。
現れたのは狼に似た獣――だがその毛並みは瘴気に覆われ、眼窩は赤黒く爛れていた。
背後からはさらに二頭、腐食した牙を剥きながら現れる。
「瘴気に呑まれた魔獣……!」
ミリアの声に、仲間たちは一斉に構えを取った。
「来るぞ!」
アルフレッドが魔剣を抜き、最前に飛び出す。
狼の一体が跳躍して襲いかかるが、彼の剣閃が一条の光を描き、獣を真横に叩き落とした。
別の一体がセレナへ飛びかかる。
「遅い!」
セレナは低く身を捻り、双剣で十字を描く。瘴気の肉が切り裂かれ、断末魔の咆哮とともに霧散した。
残る一頭はバルトに突進したが――
「おう、来いよ!」
巨躯を盾で受け止め、そのまま戦斧を叩き込む。地を割る一撃に獣の身体は粉砕され、瘴気が煙のように吹き散った。
背後でクレアが結界を張り、ミリアは炎弾を重ねて周囲の瘴気を焼き払う。
霧散した瘴気が風に流され、森に再び沈黙が戻る。
セレナは肩で息をつき、双剣を拭いながら吐き捨てた。
「こんな魔獣が徘徊してるなら、村人が近づけるはずないわね」
「本来なら、自然の結界が魔物を鎮めるはずです……それが壊れている」
クレアはうつむきながら、まだ震える光の結界を見つめた。
アルフレッドは剣を鞘に収め、険しい視線で前方を睨む。
「これはただの前触れだ。列石の中心に近づけば……もっと厄介なものが待っている」
仲間たちは無言で頷き合い、再び歩を進めた。
山道を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
眼前に広がるのは北方高原――大地を削り裂いたような亀裂が無数に走り、空には黒い雲が渦を巻いていた。
列石はその中心に立っていた。かつては祈りの象徴であった石柱群は、今や赤黒い光を帯び、脈動する心臓のように大地を震わせていた。
「……ひどい」
クレアが聖印を握りしめる。
「これは、もはや封印の場ではありません。異界への門に変わりつつある」
風はうなり、影が大地を這う。
そこかしこに瘴気を浴びた獣の亡骸が転がり、骨まで黒く侵されていた。
「周囲を警戒。奴らがもう潜んでいるはずだ」
アルフレッドが短く命じ、魔剣を構えながら列石の円環へと足を踏み入れる。
近づくほどに空気は重く、体に鉛を抱かされたように感じられた。
石柱の表面には古代文字が浮かび上がり、その文様の一部が黒い瘴気に塗り潰されている。
「……これ、封印の言葉を書き換えてる」
ミリアが指でなぞり、険しい表情を浮かべた。
「本来の文言を上書きして、列石を別の術式に利用しているのよ」
「やはりセイセス=セイセスの仕業か」
バルトが低く唸る。
突如、大地が大きく震えた。
列石の中心から黒い光が奔り、影が人の形を取って立ち上がる。
「……迎えが来たようね」
セレナが双剣を抜き放つ。
石の円環の内部で、複数の影の戦士が姿を現す。
甲冑のような瘴気を纏い、無言のまま武器を構えるその様は、まさに封印を守るはずの衛士が堕ちた存在だった。
「行くぞ――!」
アルフレッドの号令と共に、仲間たちは円環の中心へ踏み込んだ。
円環の中心に踏み込んだ瞬間、影の戦士たちは一斉に動きを止めた。
その奥――最も大きな石柱の前に、ひときわ濃い影が凝り固まり、人の姿を形作る。
全身を漆黒の霧に包まれたその存在は、仮面のような顔を持ち、口のような裂け目から掠れた声を漏らした。
「……来たか。鎖環の継承者よ」
冷えた声が列石に反響し、仲間たちの背筋を凍らせた。
「我らが成すは解放。石に刻まれし古き枷を打ち砕き、真の主を呼び戻すこと……。そのために、この列石は門となる」
影の仮面がわずかに傾き、アルフレッドを見据える。
「継承者よ。剣を収め、我らと共に来い。お前の血こそが鎖環を解く最後の鍵……。拒めば、この大地は影に呑まれる」
言葉は淡々としていたが、その響きは瘴気そのもののように粘つき、心を侵す力を持っていた。
「ふざけるな」
セレナが一歩前に出て双剣を構える。
「誰があんたたちに従うものか。私たちは封印を守る者。道を譲るくらいなら、この命を差し出した方がマシよ!」
ミリアは影の仮面を睨みつけ、冷ややかに言い放つ。
「真の主……その言葉がすでに証明しているわ。あなたたちは人の理を超えた存在に仕えている。だとすれば、交渉などあり得ない。ここは戦場になる」
バルトは戦斧を肩に担ぎ、低く唸った。
「俺たちに脅しは効かねぇ。大地を呑もうとするなら――その首を叩き割るだけだ」
クレアは祈りを込め、胸の聖印を掲げる。
「継承者を狙うなら、まずは私たちを超えていくことです」
影の仮面が一瞬揺れ、嗤うような音が列石に響いた。
「……ならば、滅ぶがいい。汝らは影の戦士を超えられまい」
その声と同時に、影の衛士たちが一斉に武器を構え、瘴気を噴き上げながら襲いかかってきた。
列石の中心は、瞬く間に戦場と化した。
列石の中心を取り囲むように、六体の影の戦士が立ちはだかった。
甲冑のように凝り固まった瘴気を纏い、眼窩に赤黒い光を宿す。武器は槍、剣、大斧と多様だが、その全てが闇の気配を帯びていた。
その場の空気は一気に張り詰め、仲間たちは即座に陣形を整える。
「行くぞ!」
アルフレッドが魔剣を振り抜き、前方の戦士に突撃する。
剣と剣が激しく打ち合い、火花のような黒い火が散った。
影の剣は尋常ならざる重さで押し潰してくるが、アルフレッドは魔剣に宿る力を解放し、必死に拮抗する。
「横は任せて!」
セレナが背後から回り込み、双剣の斬閃で別の影戦士を牽制する。
彼女の舞うような動きは速さで劣る敵を翻弄し、刃が瘴気の装甲を少しずつ削り取っていった。
中央では、戦斧を構えた影の戦士が突進してきた。
「俺が受ける!」
バルトは巨盾を前に構え、全身で衝撃を受け止めた。
金属音が轟き、地面がめり込むほどの力に耐えつつ、彼は戦斧を大きく振り下ろす。
衝撃波のような斬撃が影の戦士を後退させ、瘴気の装甲に大きな亀裂を走らせた。
後方ではミリアが短く呪文を唱え、火炎の矢を次々と放つ。
炎は影の戦士の甲冑に突き刺さり、黒煙を上げて瘴気を焼いた。
「焼け落ちろ……!」
その隣でクレアが光の結界を展開し、仲間の動きを守る。
影の槍が突き抜ける瞬間、光壁が割り込み、火花を散らして弾き返す。
「皆さん、傷は深くなる前に癒します!」
彼女の祈りの声が、戦場にわずかな安堵をもたらした。
影の戦士たちは倒れることなく、打ち倒されれば瘴気の霧となって再び形を取り戻す。
その無限のような粘り強さに、仲間たちは汗を浮かべながらも必死に応戦していた。
「こいつら……ただの衛士じゃない。列石そのものが力を与えてる!」
ミリアが叫ぶ。
「なら、力ごと叩き斬るしかねぇだろ!」
バルトが咆哮し、戦斧を振り回す。
「押し切れ!」
アルフレッドが魔剣を閃かせ、瘴気の鎧を砕かんと渾身の力を込めた。
光と闇の刃が交錯し、列石の中心で第一段階の激闘が繰り広げられていった――。
激闘の末、アルフレッドの蒼炎の斬撃が一体の影の戦士を貫いた瞬間――。
その体は霧散するのではなく、黒い光の奔流となって列石の中心へと吸い込まれた。
「……吸われた?」
セレナが息を呑む。
次の瞬間、大地が低く唸り、環を成す石柱群が揺れ始める。
中心の亀裂から、赤黒い光が噴き上がり、脈打つ心臓のような塊が姿を現した。
それは瘴気に包まれた影の心臓――列石そのものを動かす核だった。
石柱に刻まれた古代文字が反転し、赤黒く輝き始める。
まるで意思を持つかのように石柱が軋み、地面から伸びる腕のように動き出した。
「……まずい!」
ミリアが青ざめた顔で叫ぶ。
「列石そのものが、敵として動いてる!」
巨大な石柱が唸りを上げ、バルト目掛けて振り下ろされる。
「ぐっ……!」
彼は咄嗟に盾で受け止めるが、地響きの衝撃で数メートルも吹き飛ばされる。
「石柱が動くなんて……!」
セレナは剣で迫る石の腕を弾きながら、影の心臓を睨み据える。
「核を叩かなければ、どれだけ斬っても無駄です!」
クレアが叫び、聖印を掲げて光の矢を放つ。
矢は心臓に突き刺さり、黒い波動を散らしたが、完全には貫けない。
「なら、魔力を集中させる!」
ミリアが詠唱を開始し、稲妻の陣を展開する。
石柱を這う雷光が亀裂を広げ、内部の瘴気を露出させていった。
しかし影の心臓は鼓動を早め、周囲に黒炎の嵐を撒き散らす。
吹き荒れる闇の奔流が仲間たちを飲み込み、地面に叩きつけた。
「がっ……!」
アルフレッドが膝をつきながらも剣を支え、仲間を庇うように立ち上がる。
その眼前で、心臓の赤黒い光はますます強まり、まるで門を開こうとしていた。
「これ以上放置すれば、本当に開くぞ……!」
ミリアが呻くように言った。
「なら、ここで仕留める!」
アルフレッドが立ち上がり、仲間に声を投げた。
「全員、力を合わせろ! これを砕かなきゃ、大地ごと呑まれる!」
彼らの視線は一点――列石の影の心臓へと集まった。
赤黒く脈動する心臓が鼓動を速めるたび、列石全体が震動し、石柱は唸りを上げて荒れ狂った。
空は裂けるように渦を巻き、瘴気の奔流が門を開かんと押し寄せている。
「もう時間がない!」
ミリアが叫び、雷光の魔法陣を展開する。
「今、この瞬間に決着をつけなきゃ!」
「道は俺が作る!」
バルトが大盾を掲げ、迫り来る石柱を正面から受け止める。
衝撃で地面が陥没するが、彼は全身で押し返し、仲間たちの前に道を開いた。
「セレナ!」
アルフレッドの声に、彼女は頷く。
「任せて!」
双剣に炎を纏わせ、疾風のように駆け抜ける。
石柱の根元を連撃で切り裂き、心臓への進路を拓いた。
「聖なる光よ――ここに集え!」
クレアが祈りを込め、仲間の武器を祝福する。
剣も斧も炎も雷も、すべてが黄金の輝きを帯びた。
「これで終わらせる!」
アルフレッドが魔剣を掲げる。蒼炎が迸り、仲間たちの力がその刃に収束していく。
影の心臓が鼓動を高め、最後の抵抗として黒炎を噴き上げた。
しかし、その奔流をミリアの雷撃が裂き、セレナの斬閃が切り裂き、バルトの戦斧が押し返し、クレアの聖光が貫いた。
「いまだ――!」
アルフレッドが渾身の一撃を振り下ろす。
蒼炎と聖光が絡み合い、仲間たちの力が一点に収束して心臓を貫いた。
轟音――。
赤黒い光は爆ぜ、心臓は断末魔の鼓動と共に粉々に砕け散った。
直後、荒れ狂っていた石柱は次々と沈黙し、刻まれた古代文字が淡い青白い光へと戻っていく。
空を覆っていた黒雲も裂け、陽光が差し込んだ。
「……収まった」
クレアが深く息を吐き、聖印を胸に当てる。
列石は静けさを取り戻したが、その表面には深い亀裂が残り、再び崩壊する危うさを示していた。
「鎮めただけ、か」
アルフレッドが剣を収める。
「だが、門は閉じた。今はそれで十分だ」
高原に吹く風は、先ほどまでの瘴気を払うように清らかだった。
仲間たちは互いに視線を交わし、無言で頷き合った。
「また一つ……守ったな」
バルトが低く言い、戦斧を肩に担ぐ。
「ええ。でも、これは終わりじゃない」
ミリアが崩れた石柱を見つめ、呟いた。
「大陸全土の環が響き合っている。次は必ず来るわ」
アルフレッドは空を仰ぎ、拳を握った。
「その時も――俺たちが立つ」
列石での戦いを終え、アルフレッドたちは荒野へと下りていった。
黒雲は晴れたはずなのに、風はまだひどく冷たく、地表には赤黒いひびが幾筋も走っていた。
「……土地そのものが、まだ瘴気を抱えているみたいね」
セレナが剣の切っ先で土を突き、灰色の砂が崩れるのを見つめた。
「封印を鎮めても、完全には癒えていない……」
クレアが祈りを捧げると、ひび割れから淡い光がわずかに滲み出た。
「でも、少しずつなら――元に戻ろうとしている」
そのとき、ミリアが足を止めた。
「……待って。あそこ、見える?」
崩れかけの岩陰に、黒い斑点が残されていた。
それはまるで血の染みのようだが、近づくと瘴気の塊がまだ脈打つように動いている。
「燃やしてしまう」
ミリアが手を掲げると、炎弾が放たれ、黒斑は弾けて灰と化した。
「消え残り……か」
バルトが戦斧を担ぎながら唸る。
「まるで誰かが意図的に置いていったようにも見えるな」
さらに進むと、荒野の石碑に爪痕のような刻印が残されていた。
古代文字を歪めて刻んだような、禍々しい文様だった。
「……セイセス=セイセスの痕跡だわ」
ミリアが険しい声で言う。
「戦闘の後に残る自然の現象じゃない。奴らが、列石を目印にしている」
「つまり、ここは通過点にすぎないってことか」
アルフレッドが剣の柄を握りしめ、目を細めた。
不気味な静寂が続く荒野に、鳥の声すら戻ってはいなかった。
「ここに長居しても仕方ねえ。王都に戻って報せるのが先だ」
バルトの言葉に、一行は頷く。
だが、それぞれの胸には小さな棘のように違和感が残っていた。
戦いを終えたはずの大地が、なお誰かの意志に縛られている。
風が吹き抜け、砕けた岩片を転がす。
それはまるで、再び列石が呻き声をあげる予兆のようだった――。
長き荒野を越えたアルフレッドたちは、ようやくロムルストの城門を望んだ。
夕刻の陽光が城壁を黄金色に染め、旅の疲労を和らげるかのように街の喧騒が彼らを迎える。
「……帰ってきたな」
バルトが低く呟き、背負っていた戦斧を軽く肩に下ろした。
「街は変わらず活気に満ちている。でも……ここにいる人々は、何も知らないのよね」
ミリアは目を細め、背後に残してきた荒野の不穏を思い返した。
アルフレッドは黙って頷き、仲間たちを導くように歩き出した。
王都の冒険者ギルド《紅玉の旗亭》。
重厚な扉を押し開けると、賑やかな笑い声と杯の音が広間を満たしていた。
だが、アルフレッドたちの姿を見るなり、受付の女性はすぐに表情を引き締めた。
「お帰りなさい。……列石の件ですね」
案内された奥の記録室で、一行は戦闘の経緯を余すことなく語った。
影の戦士との交戦、心臓の顕現とその破壊、そして残された不気味な痕跡。
記録官は重々しく筆を走らせながら、やがて深く息を吐いた。
「……なるほど。列石は確かに鎮まったが、封印は不完全。そしてセイセス=セイセスの影が関与している、と」
報告を終え、広間へ戻ると、他の冒険者たちの視線が一斉に注がれた。
「また列石の件か……」
「影の心臓だと? 冗談じゃねぇ」
ざわめきが広がり、その不安は杯を傾ける者たちの手を止めさせた。
「落ち着け!」
ギルド長が声を張り上げる。
「アルフレッドたちがいる限り、封印は守られている! だが……これは王国全体の問題でもある。次の異変があれば、即座に報せる」
場は静まり返ったが、その沈黙には緊張と覚悟が滲んでいた。
席に戻ったアルフレッドたちは、葡萄酒の入った杯を手にしながらも、口数は少なかった。
「俺たちが戦っても……まだ残滓がある。まるで終わりのない戦いだな」
バルトが低く言い、苦く笑った。
「でも、終わらせるまで進むしかないわ」
セレナが鋭い眼差しで言い切る。
「そうね。次の列石が動き出す前に、備えなければならない」
ミリアの言葉に、クレアも聖印を握りしめて頷いた。
アルフレッドは杯を置き、短く言葉を紡いだ。
「俺たちが守る。それが継承者の役目だ」
その声は決して大きくはなかったが、仲間たちの胸に深く響いた。
夜も更け、冒険者たちのざわめきが徐々に落ち着いた《紅玉の旗亭》。
アルフレッドたちはギルドに併設された宿の一室に身を落ち着けていた。
戦いの余韻と疲労は濃く残っていたが、仲間と共にいる安堵がそれを和らげていた。
鎧を外したバルトは椅子に腰を下ろし、痛む肩を回していた。
「ふぅ……列石の石柱に押し潰されかけたのは、正直堪えたな」
「でも……あなたが前に立ってくれたから、私たちは無事でした」
クレアが温かな声で言い、掌から小さな光を放って彼の腕を癒やす。
「助かる……お前の祈りは骨よりも強い盾だな」
バルトは照れ隠しのように笑ったが、その言葉には真実が滲んでいた。
窓辺では、セレナが磨き上げた剣を眺めていた。
「……人の形をした敵を斬るのは、どうしても後味が悪いわ」
「それを覚えている限り、あなたは剣に呑まれない」
巻物を閉じたミリアが静かに答える。
「私は冷静に見えるかもしれないけど、内心はあなたと同じ。……怖いのよ」
セレナは少し驚いた顔をしてから、わずかに微笑んだ。
「ありがとう。あんたがそう言ってくれると、気が楽になるわ」
一方、アルフレッドは部屋の片隅で剣を抱き、静かに目を閉じていた。
列石に映った黒衣の影――ザカリー・グラッドストンの気配が、頭から離れなかった。
「また次がある……必ず立ちはだかる」
低く呟いたその声に、背後からセレナが近づき、短く言葉を投げる。
「でも、あなたがいる限り……私たちは前に進める」
その一言に、アルフレッドはわずかに肩の力を抜き、剣を傍らに置いた。
それぞれの思いを胸に、仲間たちはようやく訪れた安らぎに身を委ねた。
灯火が揺らめき、静かな眠りが彼らを包み込む。
だが、誰もが心の奥で理解していた。
次なる列石の異変は、すでに迫っている――。




