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レベル35

 ダウニシア帝国帝都ミハノルティ。

 それは精緻にして巨大、石と金属で構成された要塞都市であり、全ての力と知を一か所に集約するように設計された政治と軍事の心臓だった。


 白亜の城壁が屹立し、その上には黒鋼の装飾が施された尖塔群。空を裂くように立ち並ぶそれらの塔の影が、地上を昼でも薄闇に染めている。


 アルフレッドたちは、帝都の中央区画――王令院と学術院に挟まれた石畳の広場に降り立った。

 その一角に構える冒険者ギルド、《黒槍亭》の門をくぐった瞬間、王都セルゼリッカで馴染んだ活気とは異なる、重苦しい空気が彼らを包んだ。


「……妙に静かだな」

 バルトが声を潜めて言う。カウンターの奥では書記官が書類を束ね、幾人かの冒険者たちが淡々と話を交わしていたが、声は抑えられ、笑い声一つ響かない。


「この都市全体が、何かを恐れているような……そんな気配がする」

 クレアは眉を寄せ、聖印を撫でながら言った。


「情報収集から始めましょう」

 ミリアが淡々と告げ、受付へと歩み出た。


 カウンターの向こう、やや年配の女性職員は一行の姿を見るなり、小さく頷いた。


「ゼイドーアン王国の……アルフレッド一行。噂は耳にしております。ようこそダウニシア帝国へ」

 その声には礼節と、どこかしらに緊張が混ざっていた。


「噂、とは?」

 セレナが眉を動かす。


「この国は今、ひとつの影に包まれつつあります。いえ、影と呼ぶにはあまりに深く、静かすぎるものです……大厄兆とでも呼ぶべきかもしれません」


「……何が起きている?」

 アルフレッドが低く問うた。


「詳細はわかっておりません。ですが、帝都周辺では観測不能な魔力の揺らぎが相次ぎ、幾つかの貴族領では人々が忽然と姿を消しています。公式には封鎖や疫病とされていますが……噂では、門が開きつつあると」

 女職員の目が揺れる。「その兆候は、地下の古代遺跡にも波及していると聞きます。最悪、帝国そのものが喰われるやもしれません」


「……なるほど、俺たちのようなパーティにはうってつけってわけか」

 バルトが呟いた。


「ええ。今この都市で活動する中級以上の冒険者には、順次、優先調査依頼が回されています。皆さまにも、ぜひ協力をお願いしたいのです」


 彼女は机の下から一枚の封筒を取り出した。黒い蝋で封をされたその中には、帝都外縁の地下にある《〈静寂の根〉と呼ばれる未解析遺跡の調査依頼》が記されていた。


「まずはそこから、ですね」

 ミリアが呟き、封書を読んでいた。


「いいだろう。俺たちは来た以上、全てを調べてみせる」

 アルフレッドが剣に手をかけ、静かに立ち上がった。


 ギルドの扉が、また新たな試練の音を響かせて開いた。



 帝都ミハノルティの中心から北西へ半日の行程。

 都市の喧騒が徐々に遠のき、石畳はやがて苔むした古道へと変わっていく。頭上には帝国の旗も街灯もなく、ただ老いた梢が風に揺れ、影を落とすのみ。


「この辺りには、もともと要塞があったらしい」

 ミリアが古地図を手に呟いた。「数百年前、帝国創成期に建てられた地下式の魔力貯蔵施設……それが《静寂の根》と呼ばれるようになった、と」


「貯蔵、だと? 魔力を保存するのか?」

 バルトが半信半疑に眉を上げる。


「帝国の古い文献には魔力の脈流を押さえつけるための封じの楔とも記されてるわ」

 セレナの言葉に、クレアが頷いた。


「そしてその楔が……今、緩みかけている」


 やがて彼らの前に現れたのは、岩盤に埋もれたような石の門――苔と鉄錆に覆われ、何世紀も人の手が入っていないことを主張する無言の障壁だった。


 アルフレッドが前に立ち、門へと手を伸ばす。

 すると、門の中央部に刻まれていた古い魔紋が、彼の気配に応えるように淡く青白く輝き出した。


「……認証の魔法か。何かの血統か、気配を記録しているのかもしれない」

 ミリアが冷静に分析する。


「それより……この空気の重さ、わかるか?」

 セレナが囁いた。「中に何かがいる」


 アルフレッドが頷き、剣の柄に手を添える。

「行こう。ここが、帝国の影が生まれた場所かもしれない」


 重い音と共に門が開いた。


 その先にあったのは、石と鉄と魔力の残滓で構成された地下の回廊。

 壁面には奇妙な装飾が並び、そのどれもが抽象的な図形でありながら、見てはならぬ何かを暗示するかのような禍々しさを宿していた。


「……嫌な気配がするわ」

 クレアが聖印を握り、淡い浄化の光を発した。


 そして、最初の階段を降りきったときだった。


 ――ざぁ……ざざっ……ざぁぁぁ……


 音。音だった。風の通らぬ地下で、何かが石の床を這い、耳の奥に直接語りかけてくるような、意味をなさぬ囁きの奔流。


「声……?」

 ミリアが眉をひそめる。


「違う、これは……意識の浸蝕だ」

 クレアの顔が苦悶に歪む。「この地下には、長い年月をかけて染みついた魔力が、思念に化けてさまよってる」


「……俺たちの進行を拒んでいるのか」

 アルフレッドが剣を抜く。その刃が、空気そのものを切り裂いたかのように、回廊に一筋の振動を走らせた。


「なら、突破するしかないな。例え、過去に帝国が封じた存在であっても」


 こうして彼らは、かつて帝国が口を閉ざし、歴史から消し去った《静寂の根》の深奥へと、その第一歩を踏み出した。


 彼らがまだ知らぬ、かつて封印された帝国の罪と闇の胎動が、今、再び目を覚まそうとしていた。



 空気は濁っていた。

 それは塵でもなく、煙でもない。かつて何者かが息づいていたという気配そのものが、まるで亡霊のように漂い、鼻腔を刺してくる。


「この感覚……過去に、ここで何か喪われたな」

 セレナが警戒の眼差しで天井を仰ぎ、目を細める。


「まるで時の層が、幾重にも折り重なってるようだ。遺跡というより、記憶の井戸みたいだ」

 ミリアが呟くように言い、壁に手を触れた。


 触れたその瞬間、彼女の指先から淡い光が漏れた。


 ――〈記録の痕跡〉。

 それは、長い時を経て魔力の染みついた物体に触れた者が、過去の一端を垣間見るという稀少な現象だった。


 ミリアの視線の奥に、淡く揺れる幻影が現れる。


 それは、かつて帝国の魔術師たちがこの地下で実験と儀式を繰り返していた光景。

 無垢な理想と、技術への飽くなき渇望――そして、禁じられた次元の門を開けてしまった瞬間。


「……これが、影の始まり」

 ミリアが静かに呟いた。


「その門が、いまも残っている可能性があるということか」

 アルフレッドの声音は低く、剣の柄を確かめるように握る。


「影の呪いが、未だ根を張り続けている。浄化も封印もなされぬまま、いまも地下を蝕んでいるのよ」

 クレアの言葉に、空気が一層重たくなる。


 やがて、彼らは分かれ道へと至った。


 右の回廊は冷気が流れ込み、壁には氷のような結晶が散っていた。

 左は逆に、微かに温もりがあり、時折、微細な震動が床を揺らす。


「魔力の流れが両方に向かっている。ここからは選択の連続になるわ」

 ミリアは地図を開きながら言った。「しかも、間違えば……回廊そのものが変形するかもしれない」


「迷宮型か」

 バルトが低く唸る。「だったら、ルーン標識を刻んでおいた方がいい」


 アルフレッドは頷き、石壁に小さく剣先で紋章を刻む。

 彼らは、まず右の氷の回廊を選んだ。



 部屋の中央には、巨大な氷柱が屹立していた。

 その氷柱の奥、閉ざされた扉に通じるレリーフがあり、その表面には帝国の古代文字が刻まれていた。


 > 「力なき者、凍てつきて眠れ。

 > 意志ある者のみ、この扉を開けよ」


「精神的な強さ……意志を試す罠かもしれない」

 セレナが慎重に周囲を探る。


 その瞬間――


 氷柱が砕け、そこから白銀の仮面をつけた騎士が現れた。

 その鎧は異界の金属で編まれており、剣を抜く動作にさえ異様な気配が漂っていた。


「試練だな……来いよ、仮面の騎士!」

 バルトが叫び、前へと躍り出る。


「気をつけて!あれ、ただの幻影じゃないわ!」

 ミリアの警告と同時に、騎士の剣が光を纏い、バルトの斧と激突する。


 ――ガアァンッ!!


 音が遺跡全体に響き渡り、氷の結晶が砕けて飛び散った。


「魔力が反射されてる……この騎士、魔法無効かもしれない!」

 ミリアが歯噛みする。


「じゃあ、物理で叩くしかないのね!」

 セレナが跳ねるように飛び込み、連撃の剣を叩き込む。


 しかし――仮面の騎士は動じない。

 まるで存在そのものが、彼らの一撃では揺るがぬように設計されているかのように。


「意志の力……つまり、こちらの覚悟を量ってるのよ。攻撃の精度じゃない、揺るがぬ一撃が必要なの」

 クレアの声が仲間に届く。


 アルフレッドは深く息を吸い、剣に魔力と感情を重ねた。


「――ならば、全てを賭けて斬るまでだ!」


 次の瞬間。

 仮面の騎士とアルフレッドの剣が交差し、静寂が訪れた。


 そして――騎士は崩れ、扉が開いた。



 扉の先に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。


 そこはまるで、地下に封じられたもう一つの王立図書館だった。

 高さ数十メートルにも及ぶ巨大な書架が立ち並び、天井を支える柱には帝国の古文が延々と刻まれていた。空気は乾ききっており、巻物や書簡は今にも崩れ落ちそうな古さを帯びている。


「……書庫? でもこれはただの記録じゃない。ここにあるのは――帝国が残したがらなかった真実よ」

 ミリアの声は、震えていた。


「見て……この記録、異界の存在についての召喚実験。いや、それだけじゃない。闇の苗床を人工的に作る研究だと……?」

 クレアが手に取った書を読み上げ、顔を曇らせる。


「まさか……帝国は、過去に闇と契約していたのか……?」

 セレナが吐き捨てるように言った。「それも、支配の手段として」


「国を守るために――あるいは支配を拡大するために、禁忌に手を伸ばした……。そんな話、物語の中だけで十分だったのにな」

 バルトの声に、誰も応えられなかった。


 そして。


 その時、突如、空間が軋んだ。

 まるで何かが、彼らの存在を感知し、目覚めたかのように。


 ――ドォォォン……!


 音のない衝撃。だが確かに、それは地を這い、骨へと響いた。


 書架の奥、闇の帳が垂れるその先に、それはいた。


「気配が変わった。来るぞ……!」

 アルフレッドが剣を抜き、全身の感覚を一点に集中させる。


 そして、姿を現したのは、影の使徒――《インクラウス》。


 その存在は人型をしていたが、肉体は黒い霧のような魔力で構成されており、顔には一切の表情も目も持たなかった。ただ、空洞のような仮面が、冷たく彼らを見据えていた。


「記録の守護者……いや、証人かもしれないわ」

 ミリアが吐息を漏らす。「この存在、ただの戦闘体じゃない……見られること自体を拒んでるのよ」


「問う」

 《インクラウス》の声は、声帯を通して発されたものではなかった。

 それは頭の中に直接響く、思考の刃だった。


 > 「なぜ汝ら、記録に触れた。

 > それは罪を背負う者の記憶――忘れ去られるべき断罪だ。

 > 汝ら、外より来た者にその資格はない」


「だったら訊く!」

 アルフレッドが声を張る。「この記録が再び蘇ろうとしているなら、俺たちはそれを止める責任がある!」


 《インクラウス》の仮面がわずかに揺れた。

 それが喜びか怒りかはわからない。だが、次の瞬間、影が膨れ上がった。


「では、証明せよ。

 汝らの意志が、過去を超えるに値するかを――審判の炎で!」


 空間がねじれ、《インクラウス》が解き放った第一の攻撃――虚無の黒刃が迫る。


「くっ……ミリア、バリアを!」

 アルフレッドが叫ぶと同時に、魔法の障壁が発動する。


「間に合え……っ!」


 虚無の黒刃が障壁を抉り、衝撃が爆ぜた。


 いよいよ、記録の影に挑む戦いが始まった。



 黒き刃は音もなく空間を裂き、霧のように形を変えながら、次々とアルフレッドたちに襲いかかる。

 《インクラウス》の攻撃は切るというより、存在を削るものだった。防具を貫くという概念がない。ただ触れたものが消えていく。力ではなく、否定によって破壊される。


「防御魔法が……焼かれていく!」

 ミリアが驚愕の声をあげる。彼女の展開した結界が、黒い霧に触れた瞬間、音もなくほどけ、形を失っていく。


「こいつ……物理も魔法も、半端じゃ効かねぇ!」

 バルトが叫ぶと同時に、大きく斧を振るい、《インクラウス》の身体へと叩き込む。打撃は影の身体を貫いたかに見えた――が、霧が舞うだけで手応えはほとんどなかった。


「それでも核はある……!」

 アルフレッドは剣に魔力を込め、地を蹴って影の中心へ斬り込む。「ここに何かがいるはずだ!」


 聖炎の剣が《インクラウス》の胴を裂いた――その一瞬、仮面の奥が微かに歪んだように見えた。


「効いた……!」

 セレナが詠唱を開始する。「穿て、閃光の斬矢!」

 魔法剣が放たれ、光の軌跡が影の仮面をかすめた。たしかに感覚が通じている。


「核を狙うなら、タイミングを合わせて一斉攻撃よ!」

 ミリアが指示を飛ばす。周囲の霧の動きを読み、束の間の隙を探っていた。


 だが――


「無為な言葉。無価値な知識。裁くは、空に咲く断罪の鎌」

 《インクラウス》が低く詠唱を始めた。


 次の瞬間、空間そのものが裏返った。

 天と地が交差し、重力が消える感覚に、一同は意識を刈り取られるような眩暈を覚える。


「これは……精神攻撃……! 来ます、全員、意識を保って!」

 クレアが光の加護を展開し、仲間たちの心を護る。


 天井から降り注いだのは、記憶の刃だった。

 見覚えのない、しかしなぜか懐かしい断片――過去の痛み、罪、失敗――それらが刃となって降り注いだ。


「これは……俺が、あのとき……ッ!」

 アルフレッドの瞳に、かつて救えなかった者の幻影が映る。


「やめて……そんなの、見せるな……ッ!」

 セレナの剣が震える。


「落ち着いて!」クレアが叫ぶ。「これは影の術! あなたたちのせいじゃない!」


 その言葉で、アルフレッドは目を開いた。


「……ありがとう、クレア。もう惑わされない」

 剣に込める魔力が、再び形を帯びていく。


「奴の術式を乱す! 一気に叩き込め!」

 バルトが突撃し、ミリアが補助魔法を展開。セレナが魔法剣で加速する。


 アルフレッドの一撃が《インクラウス》の仮面を砕く直前、霧が爆ぜるように広がった。


 仮面が欠け――そこに、微かに人の形が見えた。


「人間……だったのか?」

 ミリアがつぶやくと同時に、《インクラウス》は霧となって後退し、空間が再構成を始める。


 第二段階へと、変質の兆しが始まった――。



 砕けた仮面の下から現れたのは、漆黒の仮初の人影だった。だが、それは誰かであって誰でもない。

 すでに魂の核を失った抜け殻。記録だけを継ぎ接ぎにして、なお動く影の残滓。


「……今度は、記憶を操ってきた」

 ミリアが顔をしかめる。「この空間……私たちの記録を読んで、術式を編み直してる!」


 インクラウスの背後、その壁面に不気味な文字が浮かび上がっていく。

 それはかつて彼らが歩んできた旅路――戦い、仲間の会話、後悔、誓い。

 そのすべてが、影の魔術式に書き写されていた。


「まさか……私たちの記憶を、武器に?」

 セレナの声が硬くなる。


「来るわ――構えなさい!」ミリアが叫んだ。


 《記録の槍》が生成された。

 それはアルフレッドがかつて振るった剣撃の記憶――、

 セレナが仲間を守るために展開した盾の記憶――、

 クレアが唱えた救済の祈り――

 それらが、歪んだ写し身として形を得た模倣の魔術として襲いかかってきた。


「俺たちの戦い方を……完璧に模倣してやがる!」バルトが斧でその偽アルフレッドの攻撃を受け止めるが、重さは本物に酷似していた。


「つまり、やるべきことは――」

 アルフレッドが唇を引き結ぶ。「それ以上になることだ!」


「やってみせるわ」

 セレナが跳躍し、空中から偽の自分に雷光を込めた斬撃を浴びせる。


「雷斬・刹光――!」

 空間に紫電が弾け、影はかすれた声と共に霧散する。


 クレアが負傷したバルトに祈りを向ける。「癒えよ、真なる意志に従いて!」


 本物の祈りは、模倣にはできない――。


「真実の魔法ってのは、式ではなく――心が導くものよ!」

 ミリアの魔導が燃え上がり敵を焼く。


 空間全体がうねり、インクラウスの中心から影の裂け目が生まれる。


「来るぞ――本体だ!」

 アルフレッドが前に立つ。


 そこから現れたのは、無数の目を持つ、ひとつの巨大な影の頭部だった。

 仮面を外し、言葉もなく、ただ記録を喰らう存在。


「虚無の深層へようこそ」

 誰かの声に似た幻聴が、全員の頭に鳴り響く。


「ここからが、本当の戦いよ!」

 ミリアが呪文を紡ぎ、天井を突き抜ける光を召喚する。


「行くぞ! 第三段階、見せてもらおうか!」

 アルフレッドが剣をかざす。



 迷宮の最奥。空間が音もなくひび割れた。

 すでに物理も魔術も意味をなさない領域。そこに現れたのは、形なき神を模したものだった。


「……あれが、インクラウスの本性……!」

 クレアが額に汗を浮かべる。全身を襲う寒気、それは魔力によるものではなかった。

 魂そのものが浸食されるような何か。忌まわしく、神聖を装った偽なる存在。


 その姿は、見る者によって異なっていた。


 アルフレッドの目には、かつて仕えた英雄の面影を映し、

 ミリアの視界には、失われた師が囁く幻を浮かべ、

 バルトの耳には、昔の戦友の怒声が響く。

 セレナには、姉のように慕ったかつての剣士の影が、

 クレアには、聖堂で共に祈った友の幻影が――。


「やめろ……! こいつ、俺たちの記憶を……!」

 バルトが呻き、斧を振るうが、その刃先は空虚にすり抜けた。


「違う……違う! あの人は……そんな風じゃ……ない……」

 セレナが膝をつく。思考の隙間に、喪われた記憶が侵入してくる。


「幻じゃない……これは記憶を装った呪いよ!」

 ミリアが叫ぶ。「インクラウス……お前は、私たちの記録を喰らい、自分の中に神を模倣した!」


 その声を遮るように、空間に祈りの声が重なった。

 それは――彼ら自身の声。過去に放った言葉。誓い、叫び、嘆き、願い。

 だが今や、そのすべてが歪められ、インクラウスという神の言葉として逆流していた。


「……自らの影に、自らが呑まれるとは……」

 アルフレッドが剣を握り直す。「だったら――この剣で、自分を取り戻す!」


 アルフレッドは魔力を呼び覚まし、オーラをまとって立ち上がった。


「ミリア、術式を集中させろ! 俺がその核に一撃を入れる!」


「援護するわ!」

 ミリアが両手を掲げ、無数の呪文を一つに束ねて放つ。

「《記録解除・光縛文》!」


 偽神の身に刺さる光。虚構の記憶が剥がれ、迷宮内の空気が軋む。


「バルト、前に!」

 セレナが叫び、バルトは雄叫びとともに突進。

「この斧が届かないなら、俺の心で叩き込む!」

 そしてセレナも加速。


「癒しを――ではなく、真実を与える!」

 クレアが祈りを変える。

「偽なるものに祝福はない。聖なるは、真実のみ!」


 その瞬間――


 アルフレッドの剣が、暴かれた核に届いた。


「俺たちの記録は、誰にも奪わせない……!」

 アルフレッドの声が轟き――


 冒険者たちの一撃が《インクラウス》の防壁を破った。


 《インクラウス》、崩壊。


 記録を模した神は沈黙し、渦巻いていた影もまた、ひとつずつ散っていった。


 静寂が戻った。


 傷だらけの彼らの上に、淡い光だけが差し込む。

 それは偽神が模倣できなかった、唯一の輝きだった。


 ――そして、その記録の最奥には、さらなる真実が待っていた。



 静寂が戻ってから、どれほどの時が過ぎただろう。

 瓦礫に崩れた回廊を踏み分けながら、アルフレッドたちは最深部へと歩を進めていた。


 最奥、かつて神を模したものが座していた石壇の裏に、一枚の扉が現れていた。

 誰が作ったものでもない、あるいは記憶そのものが生み出したような、奇妙な扉だった。


 ミリアがそっと手を触れる。

「……開くわ。記録が、私たちを認めたみたい」


 扉が音もなく開く。


 そこにあったのは、小さな部屋だった。書架が一つ、石造りの台座の上には一冊の古びた書物が置かれている。

 だがそれは、埃をかぶることなく、まるで昨日誰かが読んだかのような清澄さを宿していた。


 ミリアがそっと開く。


「……これは、世界の境界に関する記録よ」


 その文書には、かつてこの世界に存在していた闇の扉と、それに抗った英雄たちの記録が記されていた。

 ここが記録の塔と呼ばれた理由が、明らかとなる。


「闇は――また、来る」

 セレナが呟く。「これは……過去の記録じゃない。未来の予言、よ」


「俺たちが戦ってきた影は、その断片……」バルトの瞳が鋭く光った。


「クレア、これ……」ミリアが声を潜めて言う。「奈落の王子や星喰いの涙も、記録に記されてる。私たちは……過去の戦いの再演をしていたのよ」


「けれど、まだ間に合う。記録があるなら、備えることができる」

 クレアが言った。「この記録を――王国に送っておきましょう」



 帝都ミハノルティ、石畳の広がる一角に建つ冒険者ギルド《黒槍亭》は、昼を過ぎてざわめいていた。任務を終えた冒険者が報酬を求め、また新たな依頼に目を光らせる――そんな日常の只中、五人の影がそっと扉をくぐった。


「依頼の件、完了しました」


 アルフレッドの声は静かだが、確かな確信があった。カウンターの向こうにいたギルド職員の青年は、彼らの顔をちらと見て、特段の感慨を抱いた様子もなく書類をめくった。


「確認済み。……遺跡内部の魔力反応は確かに収束、ですね。これで一区切りついた、か」


 淡々とした口調で処理が進む。報酬が手渡され、一枚の証明書が発行される。それは帝都で仕事を継続する上での信頼の積み重ねにあたるもので、まだ大きく名を知られてはいないアルフレッドたちにとっては何よりの価値だった。


「ご苦労さまでした。また仕事があれば、掲示板に出しますので」


 それだけ言って、職員は次の冒険者に対応を移した。


 誰も彼らに拍手を送らない。誰も振り返らない。ただ、任務を果たし、無事に戻ってきたという事実だけが、淡々と時間の中に消えていく。


「……そんなもんだよな」


 バルトが苦笑しながら、斧の柄を肩に担ぎ直した。


「無名でいられるのも、悪くはないわ。動きやすいし」セレナが肩をすくめて言った。


「でも、何かが近づいている気がする。言葉にできない、重たい風のようなものが……」ミリアがそっと外の空を見上げる。


「世界そのものが、ゆっくりと軋んでいるような……そんな予感がある」


 クレアは手元の聖印を握りながら、小さく頷いた。


 アルフレッドは、まだ薄曇りの空を見ながら歩き出す。街の喧噪が背に遠ざかっていく中、その瞳は静かに燃えていた。


 ――嵐の気配は、確かに近づいている。


 そしてそれは、帝国の奥底から、静かに、しかし確実に――。


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