レベル33
ゼイドーアン王国、王都セルゼリッカ──
壮麗なる都の中心、冒険者ギルドの石造りの大広間には、重厚な木製の掲示板が鎮座し、その前には今日も数多の冒険者が群がっていた。だが、その喧騒の中にあって、一画は異質な静けさに包まれている。そこに集う五人の姿は、もはやただの冒険者ではなかった。
魔戦士アルフレッド。戦の先頭に立ち、剣と魔法をもって敵を斬り裂く。
魔法使いミリア。智と魔術を兼ね備え、数々の遺跡を読み解いた智の使い手。
重戦士バルト。岩の如き肉体と力を持ち、幾多の戦線を支えてきた盾。
魔法戦士セレナ。剣と魔力の旋律を奏でる、戦場の舞姫。
僧侶クレア。聖なる祈りをもって味方を癒し、闇を祓う光の導き手。
今や王国の軍政局も一目置く、歴戦の精鋭であることの証明であった。
「今日の依頼も、なかなか骨がありそうね」
ミリアが手にしていた巻物を広げながら呟く。上級依頼用の専用封印が解かれたその文面は、簡素でありながら、重々しい筆致で綴られていた。
【依頼名】灰獣の塔にて顕れしもの
【内容】
王国西部、旧軍道沿いにある灰獣の塔にて、古の結界が不安定となり、周囲の村落に悪しき影が現れている。結界の中枢に潜む者を討ち、封印を修復せよ。
【報酬】
王室特命報酬:金貨五千枚および魔道装備の支給。王都枢密院による名誉表彰の可能性あり。
「……灰獣の塔、か。聞いたことがある。数百年前、魔獣が封じられたという塔だ」
アルフレッドが顎に手を添えながら言った。
「結界が緩んでるってのが気になるわね。封印系の魔法が破られるなんて、並の相手じゃない」
セレナが厳しい視線で巻物を覗き込む。
「ってことは、俺の出番だな。塔ごとぶち壊す勢いで行こうぜ」
バルトが豪快に肩を鳴らすと、クレアが小さく笑って制した。
「塔そのものが遺物です。壊してしまっては王室から叱責を受けますよ」
「よし、ならばこの依頼を受けよう。……西部の地図を用意してくれ」アルフレッドの声に、受付嬢が神妙な面持ちで頷いた。
次なる戦いは、遥か西方、忘れられた塔にて。歴戦の五人の旅路が、再び始まろうとしていた。
王都セルゼリッカを出立したのは、陽が高く昇った昼前のことだった。春を過ぎた風が若葉を揺らし、街道には農耕車と商人の列が行き交っていたが、五人の姿はやがて、賑わいの範囲を超え、寂寥とした山道へと足を踏み入れていた。
道は北西へと折れ、王国西部の古き街道──《忘れられた軍道》と呼ばれる道筋へと続いていた。その名の通り、かつて王国と敵国との境界線だったこの地は、今や人の往来もまばらで、地図に記されていながら訪れる者のない辺境である。
「……見えてきたわ」
ミリアが木立の向こうを指差した。
そこには、灰色の石で組まれた塔が、谷間の丘にぽつりと立っていた。その姿は時の風雨にさらされてなお崩れず、異様なほどに静謐であった。塔の周囲には黒ずんだ草木が広がり、地を這うような濃霧が足元を覆っている。
「気味が悪いな。まるでここだけ世界が死んでるみたいだ」
バルトが肩に担いだ斧をそっと降ろした。
「魔力の濃度が異常……結界の亀裂が放つ残滓ね」
ミリアの額に冷や汗が滲む。
「でも、これが自然に崩れたとは思えないわ」
セレナが慎重に足を踏み入れながら言った。
「誰かが結界を破った。あるいは……内部から何かが目覚めたのかもしれません」
クレアの声は静かだが、その祈りの光はわずかに震えていた。
塔の麓に着いたとき、周囲の霧はさらに濃くなり、視界はわずか五メートル先も定かではなくなっていた。
「ここから先は、完全な魔域だ。覚悟はいいか」
アルフレッドの言葉に、四人は頷くのみだった。
塔の入り口は朽ちた鉄扉に覆われていたが、触れるとまるで呼応するようにギィ……と音を立てて開いた。その奥には冷たい石階段が続いている。
「行こう。ここから先は……もう戻れないかもしれない」
ミリアが小声で呟く。
「それでも行くんだろ? 俺たちの仕事だ」
バルトが笑う。
そして、五人は塔の中へと、重い一歩を踏み出した。
塔の内部に一歩足を踏み入れた途端、空気は一変した。外の湿った霧とは異なり、ここには不気味なほど乾いた沈黙が満ちていた。石造りの壁は冷たく、表面に刻まれた無数の文様は風化しながらもなお禍々しい力を湛えている。灯りはない。だが、天井の裂け目から落ちる光の筋が、床に浮かぶ古代の円形魔法陣を淡く照らしていた。
「まるで……時間が止まっているようね」
ミリアが静かに囁く。声が、まるで亡霊のように塔の奥へと吸い込まれていった。
「何百年も、誰も踏み入れていない空間のはずだ」
アルフレッドの手が剣の柄を握る音が、小さく響いた。
一行は慎重に足を進め、やがて中央の広間にたどり着いた。そこには巨大な石の扉がそびえ、その表面には五つの異なる紋章が刻まれている。そしてその下には、半ば埋もれた石碑と、いくつかの歯車のような機構が設けられていた。
「……これは、試練の門ね」
ミリアが跪き、石碑に浮かぶ文字をなぞる。
「五つの獣、五つの象徴。真なる順序を知る者に、扉は開かれん……」
彼女の口から、古の言葉が訳されて漏れた。
「五つの象徴か」
バルトが首を傾げながら、石碑の下部に並ぶ五つの歯車に目をやった。「それぞれに違う図が刻まれてるぞ。獅子、蛇、鷲、狼、そして……鹿?」
「それぞれ、力・狡猾・誇り・忠義・献身を表す象徴よ」
ミリアが答える。
「順序を見つけろってわけだな。どれかを間違えれば……」
セレナが周囲を見渡し、床に刻まれた焦げ跡を指差す。「前に来た誰かが失敗して、ここで……何かを喰らったようね」
クレアが祈るように目を閉じ、静かに石碑の前に立った。「順序……これは魂の試練。つまり、強さだけを尊ぶのではなく、心の秩序を問うているのです」
「……じゃあ、こうか。献身(鹿)から始まり、忠義(狼)、狡猾(蛇)、誇り(鷲)、そして最後に力(獅子)」
アルフレッドが一つ一つ、歯車をその順に並べて回していく。
カチリ――
扉の奥で、何かがゆっくりと動く重たい音がした。続いて、天井から青白い魔力の光が漏れ出し、紋章の輪郭をなぞるように輝いた。
「当たり……だな」
バルトが斧を肩に担ぎ直す。
「油断しないで。これはあくまで最初の試練よ」
ミリアがぴたりと後ろを振り返った。「塔は生きている。ここに封じられた力が、我々の意志を試している」
ゆっくりと開いた石扉の奥には、さらに深い闇が待ち構えていた。魔力の気配はより強く、ひりつくような緊張が空間を満たしていく。
「行こう」
アルフレッドの言葉に、一行はふたたび歩みを揃えた。
この先に何が待ち受けているのか――それはまだ、誰にもわからない。
石扉を抜けた先、塔の中層へと続く螺旋階段は、長い年月に蝕まれた風のような音を吐きながら、闇の奥へと沈んでいた。壁面に刻まれた古代語の詠唱は、かすかに魔力を帯びて光り、踏み入る者の気配に呼応するかのように微かに揺らいでいた。
「この感じ……魔力の濃度が上がってる。何かが近くにいる」
ミリアが眉をひそめ、霊視の水晶を手に取る。その奥底には、揺らめくような漆黒の影が映し出されていた。
「いやな気配だ……ただの魔物じゃねえぞ、これは」
バルトが斧を手に構え直し、階段の先を見据える。
やがて、階段を上りきった先に、広間が現れる。扇状に開かれた空間は、吹き抜けの天井まで続いており、中央には朽ちた祭壇が鎮座していた。その周囲に散乱した装飾品や書板の破片は、かつてここが神聖視されていた場所であることを示していた。
だが——今、その空間は死の沈黙に支配されていた。
「来るわ」
セレナが剣を抜き放った刹那、広間の奥、祭壇の影からそれは姿を現した。
黒鉄の甲冑を纏った騎士——いや、その姿は騎士の亡骸であり、意志のないはずの骸に濃密な魔力が宿っていた。瞳の奥で赤黒く燃え上がる魔の光は、生きた者の魂を喰らおうとする飢えを宿している。
「古の塔を守護する、呪われし騎士……!」
ミリアの声が震えた。
騎士の影が動いた。大剣を地面に突き立てたかと思えば、その反動を利用して一気に距離を詰め、轟音と共にバルトへ斬撃を放つ。
「来やがれっ!」
バルトが咆哮と共に斧を振るい、斬撃を受け止めた。だが、その一撃は異常な重みを帯びており、彼の足元がひび割れ、巨体が一歩後退させられる。
「防御を抜いた……!?」
クレアがすぐさまバルトへ治癒の光を送る。
「この騎士、ただの死霊じゃないわ。魂を呪いで拘束されてる……!」
ミリアが詠唱を開始した。「封ぜられし束縛の戒を断ち切る光よ、我に宿れ!」
光が爆発し、騎士をよろめかせるも、この敵が再び大剣を振り上げる。だが、今度はセレナがその前に飛び込む。
「影に紛れるような魔法剣、見せてあげるわよ!」
剣に魔力の風を纏わせ、斬撃と共に騎士の腕部を切り裂いた。甲冑が悲鳴のような金属音を響かせ、弾かれる。
「今だ、アルフレッド!」
セレナの声に応じて、アルフレッドが一気に踏み込む。
「剣よ、断罪の焔となれ!」
その刃に宿るは、聖と炎の双なる力。騎士の胸を貫いた瞬間、甲冑の奥から禍々しい黒煙が漏れ出す。
「まだ……終わらない……!」
だが騎士は、己の胸を貫かれながらも大剣を振るい、最後の一撃をアルフレッドへと放とうとする。
「やらせない!」
クレアの祈りが空間を染める。「永劫の安らぎを、魂に与えたまえ!」
その聖なる言葉が広間全体に響いた瞬間、騎士の体を包む黒い呪縛が解け、苦しげなうめき声と共にその骸は崩れ落ちた。
……静寂が戻る。
「やはり、この塔……普通の場所じゃない」
ミリアがゆっくりと息を吐いた。「この騎士は、塔そのものに魂を縛られていたのよ」
「奥には、もっとやばいのが待ってるってことか」
バルトが肩を回しながら言った。
「行こう」
アルフレッドの言葉に、誰もが黙って頷いた。
――塔の最奥、《灰獣の眠る間》。
そこに何が待つのか、それは未だ誰にも知られていない。
騎士の骸が崩れ落ちた広間の奥には、淡く光る魔法障壁が口を開けていた。まるで次なる試練への門のように。ミリアが指先でその光を撫でると、魔力の波動が揺れ、霧のように形を変えて道を開いた。
「この先……何か来る」
彼女はわずかに声を震わせた。「ただの魔法障壁じゃない。心を見透かしてくるわ」
「幻覚か」
アルフレッドは短く言い、剣の柄に手を添えた。
「精神干渉系の罠ね。気を抜いたら、自分が誰かも忘れてしまうかも」
セレナは眉をひそめた。
「俺はそういうの苦手なんだがな……」
バルトが渋い顔をしながらも、歩を進める。
そして一行は――幻影の回廊へと足を踏み入れた。
そこは、音もない廃墟のような空間だった。左右に立ち並ぶ無数の鏡が、彼らの姿を映すでもなく、ただただ虚ろに、深い闇を湛えていた。
最初に異変が起きたのは、クレアだった。
「……え?」
彼女の前に現れたのは、かつて失われたはずの村の風景。かつて彼女が癒やしきれなかった病人たちの幻影が、無言でこちらを見ている。
「あなたは、癒せなかった。私たちは苦しみのまま、朽ちていった……」
幻の声が呟く。
「違う……私は……!」
クレアの額に冷や汗が滲む。だが、その背中に手が触れた。
「戻れ、クレア。お前の使命は過去の悔恨じゃない」
アルフレッドの声が、真っ直ぐに響いた。手が、彼女の幻覚を断ち切る。
一方、ミリアの周囲には、かつての師が現れていた。偉大だった魔導士。だが、幻はミリアに囁く。
「お前は私を超えられない。才能も、意志も、足りていない」
ミリアの呼吸が乱れる。だが彼女は目を見開き、冷たく言い放った。
「それでも私は、自分の歩いた道を信じる」
指先から放たれた閃光が、幻の姿を打ち砕いた。
セレナには、昔の仲間が現れた。裏切りと死の記憶。バルトには、己が力によって傷つけた者たちの幻影。アルフレッドには――かつて彼を導いた、だが失われた父のような人物の面影が、鋼の眼差しで問うていた。
「お前の剣は、誰のためのものだ」
その声に、アルフレッドは答えを出す。
「仲間のためだ。過去の亡霊のためじゃない」
その言葉と共に剣を構えると、幻は霧のように消え去った。
やがて、全員がそれぞれの幻覚を乗り越え、再び一つの空間に立つ。足元に漂っていた霧が晴れ、奥に巨大な石扉が現れる。
その先にあるのは――灰獣の眠る間。
だが今、一行の心には迷いがなかった。幻覚の試練は、彼らを惑わすどころか、むしろ意志を研ぎ澄ませる砥石となったのだ。
塔の中層、幻影の回廊を越えた先に待ち受けていたのは、一際異質な空間だった。
扉を開いた瞬間、全員の視界が揺れた。空間が歪み、温度が下がる。その場所には、なにもない。ただ、無数の星屑のような魔素が浮遊し、宙に舞っていた。
「……これは?」
ミリアが眉をひそめる。
だが誰も返事をする暇はなかった。次の瞬間、視界が、切り替わったのだ。
――記憶。塔に刻まれた、遥かな昔の光景。
古の時代。
灰色の空の下で、塔はまだ完成していなかった。
瓦礫のような石材が積み上がり、若き魔導士たちがその周囲を囲んでいる。
その中心に立つのは、一人の男。漆黒の法衣に身を包み、手には七色に輝く石――まさしく星喰いの涙のようなものを抱えていた。
「異界の門は、ついに応じた。我らは境界を越える……神々の眠りに触れ、この世界に真の変革をもたらす!」
その声には狂気と歓喜が混ざっていた。
祭壇が輝き、虚空が裂け、塔の上空にもう一つの空が現れた。
そこから落ちてきたのは、無数の影。人ではない、在ってはならぬものたちだった。
魔導士たちは叫び、逃げ惑った。だが逃げ場などなかった。塔の基盤そのものが、あらゆる次元に繋がる門として機能していたのだ。歪んだ召喚、破綻した秩序。
そして、男はその中心で、最後まで笑っていた。
「これが真理だ……! これが、我が求めた力……!」
叫びが、空間を満たした。
……やがて、塔は封印された。
それが過去だった。
アルフレッドたちは、再び己の身体の感覚を取り戻した時、全員が静かに肩で息をしていた。
「いまのは……塔が見せた記憶?」
クレアの声が震える。
「この塔自体が、異界召喚の実験場だったのね」
ミリアは唇を噛む。
「このまま放っておけば、同じ悲劇が繰り返される……」
セレナの声に、誰も異を唱えなかった。
「止めよう。あの門を完全に封じなければ、この国だけで済まなくなる」
アルフレッドが静かに言うと、バルトが重々しく頷いた。
「行くか。今度は、終わらせるためにな」
幻視の空間を抜けた先、塔の構造は再び姿を変えた。かつての儀式の場であったのだろう、古代文字の浮かぶ半円状の壁が左右に広がり、空間の中心には崩れかけた祭壇がぽつりと残されていた。
空気が変わる。
――殺気。
気配が、異様に澱んでいた。
「……いる」
アルフレッドが足を止めた。全身に、無数の視線が突き刺さるような感覚。見えないが、確かに何かがいる。
その時だった。
「クククク……来たか、記憶を覗いた愚か者どもよ」
空間に響く声は、音ではない。脳に直接、鋭く叩きつけられるような「念話」だった。
祭壇の背後、影の裂け目から這い出すように、異形の者たちが現れた。
先頭に立つのは、細長く、骨のように痩せた身体をした者。人の形をしていながら、顔はなく、代わりに空虚な穴がぽっかりと空いている。
「なんだ、あれは……」
クレアが震える声で呟いた。
「名を失いし従者――虚無の従僕ね」
ミリアが静かに応じる。「儀式によって自我を失い、異界の意思をその身に宿した存在よ。もう、人じゃない」
虚無の従僕たちは一斉に動いた。まるで糸に操られた傀儡のような不自然な動きで、それでいて速度は異常だった。
「来るぞ!」
アルフレッドが剣を抜く。青白い魔力が刃を包む。
バルトが前へ出る。「俺が抑える! 後ろは任せたぞ!」従僕たちがバルトに殺到する。
「援護するわ!」
セレナが素早く矢を放つ。魔力を帯びたそれは、一体の従僕の胸を穿つが――
「……再生した?」
貫かれた傷はすぐに修復され、肉が盛り上がるようにして元通りになっていく。
「下手な攻撃じゃ無意味……!」
ミリアがすぐに解析を開始する。「意識が核になってる。身体じゃない。魔術で直に精神を貫くしかない!」
「ならば――聖域よ、清めの光を!」
クレアが両手を掲げ、聖なる光を塔内に降らせる。
光は従僕たちを包み、一瞬だけ動きを鈍らせた。
「いまだ!」
アルフレッドが突進する。剣が従僕の穴へと突き刺さり、深い青い光が爆ぜた。
絶叫――いや、声にならない無の震えが空間を走る。
その一体は崩れ、まるで砂のように砕けて消えた。
「……効く。確かに効くぞ!」
バルトが叫ぶ。「核を狙え!」
その合図に応じ、パーティは一斉に攻撃を集中させる。
セレナが素早く懐へ入り、魔法剣で穴を貫く。ミリアの雷撃が、従僕たちの意識を麻痺させる。クレアの光が常に仲間を守る。
短いながらも苛烈な戦いの末、全ての従僕が崩れ落ちると、塔内は静寂を取り戻した。
「はぁ……終わったか……?」
バルトが額の汗を拭う。
「いや、まだ終わっていない」
アルフレッドが前方の階段に目を向ける。階段は、さらに上へと続いていた。
「最上階……虚空の門がある場所よ」
ミリアが低く言う。「あの祭壇を使って、再び門を開こうとする何者かがいるはず」
「行こう。今度こそ、終わらせる」
アルフレッドの言葉に、全員が静かに頷いた。
踏みしめる階段の一段ごとに、空気は薄くなり、代わりに胸奥を圧迫するような静寂と重圧が満ちていく。
この塔が生きているとしたならば、それは今、最も深い呼吸を止め、彼らの来訪を見つめているに違いなかった。
塔の最上層――。
扉はなかった。ただ、空間が裂けるようにして開かれていた。壁も天井も存在せず、無限に広がる夜空のような黒の虚空が広がり、そこにぽつんと、台座があった。
その中央、禍々しい紋章が刻まれた石床の上に――
門が、口を開けていた。
それはまるで、空間に走る亀裂を縫い止めたかのような、異様な存在だった。円環に描かれた古代の呪印、中心には揺らめく紫黒の光。空間が引き裂かれ、その向こう側が覗いているような感覚。
「……虚空の門……まさか、本当に開きかけているなんて……」
ミリアの声が、わずかに震える。
「感じる……底知れない向こう側の気配……」クレアがそっと胸元の聖印に手を当てた。
「このままじゃ、また何かが這い出してくる……!」
「気づいていたか。いや、むしろお前たちが来ることを、あれは望んでいたのかもしれん」
聞き覚えのない声が空間を割って響いた。
台座の奥、虚空の門の縁から、音もなく一人の男が姿を現した。
黒衣の法衣。顔は仮面で覆われており、ただ瞳だけが異様なほど燃える紅を帯びていた。
「誰だ……貴様がこの門を――」
アルフレッドが剣を抜くと、男は滑るように一歩踏み出した。
「私の名は、エヴェノール。異界の媒介者。奈落の代弁者とも呼ばれている」
その瞬間、気圧が爆発するように変化した。ミリアが慌てて魔力障壁を張り、バルトが斧を構える。
「門の向こうに在るものは、かつて封じられた力。だが、時は満ちた。この王国、この世界、あらゆる境界を破るために、虚空は再び開かれる」
男――エヴェノールの身体から、黒い靄が噴き上がった。それはまるで意志を持つ霧であり、彼の背後に浮かぶ虚空の門へと繋がっている。
「貴様の目的が何であれ、これ以上は進ませない!」
アルフレッドが叫び、全身に魔力を纏う。聖と闇、炎と鋼が混ざり合うその気配は、彼がこの戦いに懸ける覚悟の深さを物語っていた。
「来い……その覚悟、試してやろう。お前たちがこの世界の命運を背負うに値する者かどうか……!」
エヴェノールが詠唱を開始する。空間が歪み、無数の黒き腕が虚空から這い出し始めた。
「くるぞッ!」
バルトが咆哮を上げ、セレナが先制の魔法を放つ。
塔の頂上にて、王国の命運を賭けた最終決戦の幕が、今まさに上がろうとしていた――。
塔の最上層。エヴェノールの力によって、その空間は変貌を遂げる。
そこはまるで異界へと繋がる裂け目のように現実から乖離し、宙に浮く石板と歪んだ柱が螺旋を描いて空間に漂う。空間そのものが静かに脈動し、何者かの呼吸が、視えぬ形でこの空を支配している。
魔戦士アルフレッドが、己が剣に手をかけ、鋭い眼差しで正面を睨む。
漆黒の法衣に身を包み、顔を仮面で覆った長身の男――エヴェノール。
彼の背後には、宙に浮かぶ巨大な魔導陣。七重に重なる環が、蒼白く輝きながら音もなく回転している。
「よくぞ来た、器たちよ……この塔は我が知の結晶。お前たちが打ち破ってきた封印のすべてを、我が再構成した」
その声は、金属を撫でるように冷たく、どこか底知れぬものを孕んでいた。
「いくぞ、全員構えろ!」
アルフレッドの号令と共に、一行は陣形を整える。
その瞬間、エヴェノールの足元の空間がゆらりと歪んだ。
第一形態――始動。
彼の身を覆う黒の法衣が翻り、袖口から無数の魔素の糸が走る。
それはただの攻撃ではない。空間そのものを裂き、虚空の概念を巻き込んでくる禍々しい波動。
「くっ……! 空間ごと斬ってきやがる……!」
バルトが斧で迫る斬撃を弾くが、斧の刃は見えない摩擦に削られていく。
「これは……時間を歪めている!? 触れただけで物理法則が狂わされるわ!」
ミリアが叫び、詠唱に入る。
彼女の魔導術式が展開される中、クレアの聖なる光が広がり、空間の乱れを一時的に抑え込んだ。
「浄化の環――展開します!」
白金の光が周囲を照らし、エヴェノールの魔力を一部打ち消す。
セレナがその瞬間を狙い、鋭く跳び出した。
剣に魔力を乗せ、渾身の一撃を叩き込む――だが、彼女の刃がエヴェノールの身体に届く直前、空間が逆巻くように裂けた。
「――遅い」
エヴェノールの冷笑と共に、彼の袖から飛び出した無数の闇の手が、セレナを包もうとする。
「セレナ、下がれッ!」
アルフレッドが割って入り、剣でその闇を払う。剣に宿した神聖の炎が唸りを上げ、エヴェノールの術式を打ち消していく。
だが、攻撃は終わらない。
エヴェノールは宙に浮かびながら両腕を広げた。
背後の魔導陣が赤く反転し、空中に炎の球体がいくつも形成されていく。
「我が知識の果てに眠る、虚炎の律動――見せてやろう」
次の瞬間、放たれた炎は爆発的な加速を見せ、蛇のような軌道を描いて襲い掛かってきた。
「逃げ道が……!?」
炎は空間を自在に曲げながら迫ってくる。まるで避けることなど許さないとでも言わんばかりに。
「――私が、凍らせる!」
ミリアが冷気の防壁を展開し、虚炎を包み込むように展開。
炎と氷がぶつかり合い、蒸気と轟音が空間を満たした。
「今しかない!」
バルトが炎の向こうから跳び出し、大斧でエヴェノールに渾身の一撃を叩き込む。
ゴォンッッ!
空間が砕けたような音が響き、エヴェノールの身体が数歩後退する。
「……ほう。ここまでやるとはな……」
その声は、初めてわずかに揺らいだ。
そして――彼の身体に亀裂が入る。
黒の法衣が焼け落ち、仮面がひび割れる。
「貴様らの力、確かに認めよう……ならば、その先を見せてやる」
彼の身体から黒き瘴気が噴き出し、魔導陣が再び回転を始める。
エヴェノールは次なる形態へと進化する――。
第二形態――虚壊の書架《エヴェノール・深層変化》。
空が、音もなく歪んだ。塔の最上層に広がる異空間に、凶兆めいた振動が響き渡る。
仮面が砕け落ち、衣が裂ける。
その内から現れたのは、人の形を模した何かだった。
骨のように細長い肢体。
全身に魔術式が焼きつけられ、脈打つ魔力が皮膚のようにその上を這う。
背には巨大な書架――否、本の墓標が六つ、浮遊していた。
それらはページを風もなく捲り続け、読まれることなき呪文を静かに囁いている。
「我が名は……エヴェノール・深層変化。知識の檻に囚われし、世界の限界を超える者なり……」
その声はもはや、知性と狂気の境界を越えた響きだった。
「気をつけて。もう、人の枠を超えてるわ……これは、古の叡智そのものよ!」
ミリアが顔を青ざめさせる。
「知識を喰う魔物か……相手にとって不足なし!」
バルトが斧を構え直すが、その瞬間、空間が弾けた。
――ゴゥン!
無数の文字が具現化し、鋭利な刃のように飛来する。
「っく、これは……詠唱そのものが武器になってる!」
セレナが急旋回し、斬撃で文字を弾き飛ばすも、跳ね返った文字はなお空中を漂い、次なる魔術として塔に刻まれた。
クレアが前へ出て、聖なる加護を展開する。
「結界・聖天の帳!」
光が波のように広がり、呪文の文字を一部払うが――すぐに別の魔導書がページを捲る。
「時の封鎖が来る! 動きを封じられるわ!」
ミリアが叫んだと同時、塔の空間そのものが静止し始める。
音が、風が、重力が、すべて凍りついたかのように停止した。
ただ、彼女の霊視の水晶が淡く瞬き、その効果を中和する。
「今しかない……!」
アルフレッドが動く。
凍った空間を、神炎の剣が突き破る。
エヴェノールの背に浮かぶ書架の一つ――深き黄昏の魔典を切り裂く。
「ぐぅ……」
エヴェノールの表情に、わずかに人間らしい苦悶が浮かんだ。
「やはり……背後の知識が力の源か!」
セレナが確信を持って叫ぶ。
だが、次の瞬間――
魔導陣が反転し、開かれた魔導書から黒い雷が降り注ぐ。
「全員、伏せて!」
クレアが叫ぶと同時に、アルフレッドが立ちふさがる。
聖なる盾と、剣に宿した意志が、雷を食い止める――その刹那。
ミリアが背後から放った《星の雨》が、一冊目の書架を完全に破壊した。
――バシュウッ!
音もなく、ひとつの知識が消失する。
「まだだ……」
エヴェノールの仮面の下から、無数の瞳が開いた。
「我を殺すには……すべての知識を、燃やさねばならぬ!」
残る五冊の魔導書が、空間全体を包囲するように展開しはじめた。
「奴め、次の段階に入るぞ……!」
アルフレッドが深く剣を構える。
終わりは、まだ先だ。
真の姿は、さらにその先にある。
第三形態――万象崩壊体《エヴェノール・終焉因子》――
塔の頂に、異界の門が静かに開いた。
空間は音もなく反転し、光と影の境界が融けあい、歪んだ円環を描く。
残された魔導書が一斉に空中で燃え上がり、燃え尽きるその炎から、何かが――新たな存在が立ち上がった。
それは、もはや人の形をしていなかった。
八本の腕を持ち、半ば機械的に、半ば肉体的にねじれた肢体。
全身は文字のような魔術式で覆われ、それ自体がまるで生きているかのように蠢いている。
顔は仮面すら剥ぎ取られ、無数の目と口が混在する知識の塊と化していた。
その口々が囁く――過去の呪い、未来の予言、世界を壊す言葉。
「……あれが、万象崩壊体……ッ!」
ミリアが声を震わせる。
重力が狂い、天井と床の概念が曖昧になる。
バルトが地面を踏みしめようとするが、その足場さえ液体のように波打った。
「空間そのものが崩壊してる……! ここはもう、この世界じゃない!」
クレアが聖印を高く掲げ、光の結界を張る。
エヴェノールの第一の攻撃――無名の一閃が放たれる。
それは光でも闇でもない。存在と非存在の狭間から放たれた一撃。
アルフレッドの剣が、紙一重でそれを防ぐ。
激しい衝撃に、空間の歪みが震え、塔の外壁が音もなく崩れ落ちた。
「避けるだけでは押し負ける……今こそ、全力で叩くしかない!」
アルフレッドが叫ぶと同時に、ミリアが高く杖を掲げ、詠唱を開始した。
「天の書庫に眠りし全知の燐光よ……我に仮初の知恵と力を貸せ――!」
星核術・アストラルバースト。
天空の星を模した七つの光球が現れ、エヴェノールを包囲する。
一方、バルトは巨大な戦斧を握りしめ、虚空の足場を踏み抜いて跳ぶ。
「お前がどんな知識だろうが、斧でぶっ壊れるなら、それで十分だろ!」
その怒声とともに、地響きのような一撃がエヴェノールの肩部を吹き飛ばした。
セレナが後方から跳躍し、魔力の刃で関節部を切断する。
「意志なき叡智なんて、世界には要らないわ!」
クレアが全身の力を込めて、最も強力な聖なる呪文を発動する。
「聖域封滅陣――神よ、忘却の書を焼き払え!」
黄金の十字が天空に輝き、塔全体を包む。
その中心で、エヴェノールが呻き声にも似た言語で悲鳴を上げた。
だが――それでも、なお、立ち上がろうとする。
知識とは死なない。
それがこの存在の本質だった。
「アルフレッド……今しかない!」
ミリアの詠唱が頂点に達し、七つの星が一直線に収束する。
アルフレッドが全ての力をその刃に込めた。
「終わらせる……俺たちの、意思で!」
剣に神炎が宿り、魔導と神聖、全ての力が一つになる。
アルフレッドの剣が閃光を放ち、星核術の中心に突き立った。
――砕けた。
塔が、空間が、そしてエヴェノールが。
静寂の中、断末魔の言葉が虚空に散った。
「……忘却にこそ……真の救いが……あるのだ……」
その言葉を最後に、魔導存在は塵となり、風と共に消えた。
崩れ始める塔の中、アルフレッドたちは互いの無事を確かめ合う。
「終わったのか……」
クレアが涙をにじませながら空を見上げる。
そこにはもう、星のような瞳も、呪いの言葉もなかった。
「終わったさ……俺たちの手で」
アルフレッドが、剣を収めた。
塔がゆっくりと、だが確実に崩れはじめていた。
空間の繋がりが壊れ、階層と階層の間に裂け目が走る。天井から落ちる石の破片、振動で崩れる回廊。かつての静寂と魔力に満ちた神秘の場は、今や終焉の音を立てて崩れ落ちていた。
「時間がない……このままじゃ崩落に巻き込まれる!」
ミリアが焦った声で告げる。
塔の構造そのものがエヴェノールの存在によって支えられていたのだとすれば、それが消滅した今、倒壊は必然だった。
「ルートは……こっちだ!」
セレナが回廊の亀裂を飛び越え、かすかに開いていた非常扉を見つける。塔の外周に沿って作られた退避用の通路――古文書でその存在は記されていた。
「行ける……! バルト、クレアを頼む!」
アルフレッドの声に、バルトが頷き、クレアの肩を支えて走る。
クレアは聖魔力の行使で体力を削られていたが、それでも仲間に寄りかかることなく自らの足で進もうとする。
「みんな……無事に帰りましょう」
塔の一部が崩落し、風圧が轟音とともに吹き荒れるなか、パーティは細い通路をひとつずつ越え、崩れた足場を飛び越え、重力の異常を抜けて――ついに地上へと滑り出た。
塔が、沈むように崩れていく。
黒い塵を空に撒きながら、重力の軸を歪ませ、闇の咆哮を吐き、そして静かに、全てを終えた。
星明かりが戻った夜空に、破片となった塔の残骸が舞う。
かつてそこにいたエヴェノールの気配は、もうなかった。
王都セルゼリッカ。
冒険者ギルド本部の広間では、王国魔術局の長官と、ギルドマスター、さらに王家の使者が揃っていた。
アルフレッドたちは戦いの詳細と塔での出来事を報告し、魔導存在エヴェノールの完全な消滅、そしてその存在が異界の知識の神々の断片であった可能性を伝える。
「これが、その封印された書物の断章です」
ミリアが提出した破れた魔道書の一部に、老魔術師たちの目が釘付けになる。
「これは……伝承にのみ記された第四の書……。未だ封じられている三つの門の一つを示す――」
その声は震えていた。
「つまり……終わったのではなく、始まりに過ぎなかった……?」
クレアの問いに、重苦しい沈黙が落ちる。
戦いの余韻は深く、静かに体の芯に残っていた。
それぞれの部屋、それぞれの夜。
ミリアは書架に向かい、得た知識を整理しながら、ふと静かにため息をつく。
バルトはギルドの酒場で、数杯の酒を口にしながら、仲間の無事に感謝を込めて静かに杯を傾ける。
セレナは夜風に髪をなびかせながら、訓練場にて静かに型を流していた。
クレアは礼拝堂に祈りを捧げ、神とこの世界に、ひとときの平和を願った。
そして、アルフレッド。
剣を膝に置き、空を見上げていた。
風が吹く。戦いの記憶がまだ温かく心に残る。
――世界は、再び静かになった。
だが、塔の瓦礫の底に残されたもう一つの扉の存在。
それが開かれるのは、きっと、遠くない未来だ。




