その魔王は美しく笑う。ただし、その手には白い物体を持ったまま。
とある魔王の日常。
鼻先を掠めて行く血と煙の燻る臭い。
お世辞にもいい匂いとは思えないその現場で長年いると、臭いだの吐き気がするだのは考えなくなる。鼻が馬鹿になったのか、頭がマヒしたのかどちらかだろうが、今それを追及する気力がなかった。
この現場にいる誰もがそうであるように、魔力を使い果たした身体中はぎしぎしと軋み、目の周りは熱を持ち、ひりひりした。
「リュシュ」
ふらりとする足取りで私を呼ぶ声へと、ゆっくりと歩を進める。後ろに控えていた部隊の誰もが、今私と同じように黒焦げになった隊服をまとっている。ちらりと肩越しに見た限り、今回は大きな怪我をせずに済んだらしい。やれやれと息を吐きながら後方に手を振って、それでも足を進め行き着くところまで来ると、脱力するように膝を折り、地面に座り込んだ。スカートからのぞく膝が砕けたコンクリートに当たって痛んだが、それに構っていられるほどの力もない。虚ろな視線を、つと前方へと投げる。そこにはめり込んだ土の上に広がる、銀髪。
こんな月の夜にもきらきらと湖面のように輝くその髪は、どこか場違いな気がした。その髪を辿っていくと、白く伸びた角が二つ。鹿のようなそれではなく、水牛のような大きく弧を描く太い角が双方に。その生え際を見ると、血の気が引いたような白い顔。閉じられた目を覆うように、曲を描く眉は苦しげに顰められていた。唇には人を食ったように赤く濡れている。
「――〇勝五十敗か。完璧までは遠いな、リュシュ!」
突然ぱかっと開けられた目は、そのセリフと共に透き通るような緑色に光る。
「魔王ぉOHぅ…」
魔力切れでぎりぎりと痛むこめかみを擦りながら、呼びかける私の声は普段以上に不機嫌なものだった。それとは知らず、魔王はがばりと起き上がり、手の内にあった白い何かをこちらに見せた。
「リュシュ、難産だっ――シュークリームとは如何に難産な物かっ」
嬉しそうにそう言い放ちやがった魔王の額めがけて、私は渾身の一撃――拳固を食らわす。
「ぐあッ」
口からこぼれ出た声は言葉とならず、そのまま再び後方へと倒れる魔王。ああっ、と後ろの部隊からは悲鳴が聞こえるがこの際無視する。
「痛いっ」
「煩いッ。いい加減にスィーツブーム終わらせろッ」
私の怒声に魔王はひぃっと声にならない声を漏らし、手の中にあった白い物を握り潰してしまう。
「あッ、わたしのシュークリーム(失敗作)がッ」
自分で潰してしまった手の中の物を見下ろしながら、魔王は悲しげに叫ぶ。
「リュシュ、お前何をしたか分かっているのかっ」
さすがに魔王もつらりと美しい眉尻を上げてこちらを振り見る。
「ああ、その『かつてシュークリームという名のスィーツを目指すべく部隊の者たちが懸命に説得するにもかかわらず城の一角をふっとばしながら試作してみた謎の白い物体』ですか」
「塵を見る目で見てくる…っ、悪意だ…部下から悪意を感じる…っ」
震えながら訴える魔王は、その長い黒のローブの上から白い…真っ白いフリルの付いたエプロンを付ている。何処から何をツッコめばいいのやら。
「…魔王。上司が悪意なく城ごと自分たちの生命を吹っ飛ばそうとすれば、部下は容易く悪意を放ちますよ、ええ。――あと、上司が悪意なく勇者から貰った白いフリルエプロンを常時愛用すれば、部下は殺意を持って勇者の来訪を断りますよ」
「それだけは止めてッ」
自分よりも随分と低い私の肩を持って揺さぶる魔王。必死だ。魔族の長が、フリルエプロンを着けたまま、勇者の来訪を願い…すんごい必死だ。私は思わず、がくりと肩を落とした。
魔族の血を引く彼はもう五百年は生きているというのに、どこに落としてきたのか、貫録、とか、威厳、という言葉は終ぞ見られない。人とは違う流麗な双角、煌めく銀髪。並外れた魔力は歴代の魔王随一と言われる。
しかし、この魔王はどこまでも…期待を裏切る。魔王の国と人間の国の和平を取り付け、時折派遣される使節団の勇者と交流を深めた。勇者、そのかつては敵対していた相手を友人だと言って喜びを隠さない。
「…魔王、勇者が本当に好きなんですね」
そう言ってみると、魔王の白い頬がぱあぁっと薄桃色になる。それを見て若干引きながら、私はもう一度確認する。
「――あの、ド変態が好きなんですね」
「リュシュ、あの友に限らず人にはそれぞれ異なった性癖というものもがッ」
「はい、もう結構ですよー」
笑顔で魔王の口を押えにかかる。やれやれと周りを見渡すと、隊の者たちは残り僅かな魔力で城を原状復帰させてようとしていた。本当に優秀な部下たちだ。こんな上司を目の前にして文句一つ漏らさないとは。
ん? 心なし、ちらちらと私の方を気遣わし気に見やっている。何かを口にしようとして止める者もいる。なんだ、一体?
ああ、そうか。私は合点が行く。文句を漏らさない彼らだって言いたいことはあるだろう。毎度毎度こんなつまらない理由で魔力が0になるまで働かされたら文句も言いたいだろう。そうなれば、隊長の私がすることは一つだった。文句という名の、教育という名の、体罰を――上司へ。
くいっと顎を上げると、魔王がきょとんとこちらを見下ろしている。
「ま」
「ああ、そうだ。 こっちは無事だったぞ」
そう言いながら、魔王は後ろ手に持っていた何かを出す。
「――リュシュ、誕生日おめでとう」
魔王、と呼ぼうとした『ま』の口のまま、私はあんぐりと彼の差し出した手を見た。それは、勇者が以前に持ってきた物とは多少異なるが、シュークリーム。生クリームがはみ出してしまっている。それでも嬉しそうにこちらに差し出す魔王。
「――え…まさか、城を五十回も吹っ飛ばしたのは…」
「勇者が持ってきてくれたシュークリームとは程遠いけど、五十回目にしてやっと生地がほんの少し膨らんだんだっ」
見てくれ、と言わんばかりに、いまだ受け取られていない物をこちらに押し出す。シュー生地が十分に膨らんでおらず、ほとんどクッキー状態だ。どこが五十回も城吹っ飛ばした分の成果が出てるんだ、とツッコみたくなったが…。
「今日に間に合ってよかった。おーい、皆、城壊して悪かったなぁ。後でちゃんと城の原状復帰と魔力回復するからなー」
魔王が私の背後の部下たちに言うと、何故か歓声が起こる。ぎぎぎと振り返ると、彼らの頬はバラ色に染まり、誰もが私と目を合わそうとはしない。それでも全意識はこちらに集中しているような視線を感じる。
これはあれだ。ご家庭でお食事時に流れたテレビドラマのキスシーンを見てしまった家族の気まずさだ。しかも、キスシーン側がどうやら魔王と私側らしい。なんてこった…―――なんてこったッ!
「魔王ッ」
「なに?」
気まずさから勢いで目の前の魔王を呼んでみたものの、無邪気さ百パーセントで振り返られた日には…。
「あ、りが、とうご…ざいま、す」
からくり人形よろしくカタコトでお礼を述べるしかなかった。
「うん。 いつもありがとう、リュシュ」
「いえいえ、勿体ないお言葉で」
「大好きだよ、リュシュ」
視線を上げると、私よりも少しばかり低い体温の手が頬を撫でる。シュッと空を切るような音が聞こえたかと思うと、全身の倦怠感が一気に消えた。回復系の魔法を使ったのは判ったが、どこか頭に?マークが巡る。今何か聞こえたような。
魔王はくっと口角を上げて、私の頬を撫でる手を首に掛け、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「大好きだ」
耳元で囁かれた言葉に目を見開くと、魔王が不適に笑う。
「大事なことなので、二回言ってみました」
その笑みは、魔王の名にふさわしく禍々しさを孕んだ美しい笑みだった。
――けれどその頬は、尋常じゃないほど、赤かった。
美しい魔王様が、悠然と片腕を上げて微笑む…けれどその頬真っ赤っか、というイメージから始まった小噺です。その手には何故か、シュークリーム…。
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