終わりを願い呼ぶ声に
辿り着いた先は、風にそよぐ一面の紅が美しい場所だった。
そこは地を埋めつくす程に彼岸花が咲き誇る奥庭だった。
普段は、鮮やかすぎる赤を恐れてか家人は中々寄り付かない。
片隅にある由来も定かではない程に古く朽ちかけた祠もまた、敬遠される原因の一つであるらしい。
『迩千花!』
「緋那……!」
彼岸花の中に、緋色の髪と瞳の少女が立っている。少女は迩千花の姿を認めると手を伸ばし叫んだ。
迩千花はそれに縋りつこうとするよう花へと駆けこむ。
迩千花が緋那と読んだ少女は、この庭に咲く彼岸花の花精である。
平素であれば二人肩寄せて語らうのだが、火急の今はそんな事無論出来る筈がない。
時を置かずして、迩千花を追う男達が庭に足を踏み入れる。
『迩千花に近づかないで!』
緋色の少女の言葉に応じるように、彼岸花は風がないのにざわめくように揺れる。
意味ありげに揺れる花々を不気味そうに遠巻きにしていた従者たちだが、やがて意を決したように一歩ずつ迩千花に近づいてくる。
彼らは、大なり小なり差はあれども異能を持つ者達である。
花弁を舞わせ惑わし、葉を刃のように飛ばして目暗ましをしようとも、不思議を物ともせずに歩みを進めてくる。
遂には、迩千花は両腕を男達に囚われ、地に引きずり倒される。
迩千花にだけ聞こえる緋那の悲鳴。気が付けば父母もまた庭へと足を踏み入れ、その傍らには罪人のように縄を打たれて引きずられ来る築の姿……。
もがいても腕を掴む戒めは緩まない、最早逃げる事など叶わない。
もう、自分は、何処にも――。
「嫌です! もう、嫌……!」
気が付けば迩千花は叫んでいた。心の底から湧き上がる想い、まだこんなものが自分の中に残っていたのかと思うほど強い感情のままに。
それは救いを切望するこころ。全てを諦め何も望む事もするまいと決め生きてきた日々に置き去りにしてきた、願い。
幸せになりたいなどとは願わない。願うのは、唯一つだけ。
「助けて! もう、私を終りにして……!」
その場に居る誰に言うでもなかった。しかし、迩千花の口から零れる言葉は止まらない。
誰に言いたかったのだろう、もう迩千花にも分からない。
幸せになどなれないのだろう。それはとうの昔に諦めた。
今望むのは唯一つ、この理不尽な今の終り。変わらず続いていくだろう辛い日々が、終わる事……。
迩千花が叫んだ、その瞬間だった。
雷が落ちたかと思った。それほどに眩く目を灼く程の光が彼岸花の庭に満ちたのだ。
その祠は天よりの奔流となり片隅に存在していた祠に降り注ぎ、そして祠を塵と化す。
光に続いて衝撃がその場を駆け抜け、次の瞬間には迩千花を捕らえる戒めが消失し、反動で迩千花は膝をつく。
何があったかと見れば、自分を捕らえていた男達が呻き声をあげながらその身を黒き炎に焦がしながら転がり悶えているではないか。
両親も、それに従う従者たちも。縛されていた兄も緋の友も、茫然として迩千花の傍らを見つめている。
狼だった。この世ならざる存在と一目でわかる、黒き焔を纏った巨大な狼。
呪いを帯びた黒焔を纏う、禍々しい真神……。
それが、地に膝つく迩千花を静かに見下ろしている。
開いた口からは恐ろしい牙が覗いて見えるというのに、何故か迩千花は逃げようとは思わなかった。恐ろしいとすら感じなかった。
ああ、願いを叶えにきてくれたのだ、と思ったのだ。
自分の生を終りにしたいという唯一の望みを叶えるために、この狼は現れたのだと。
迩千花は待った、齎される終わりを。
遠くに誰かが叫ぶ声がする。それすらももうどうでも良かった。
そんな迩千花の耳に、ふと囁きのような声が聞こえてくる。
『ああ、やっと……やっと、お前に、また……』
それは聞き覚えのない声である筈なのに、何故か聞いた事があると思う、不思議な声だった。
胸が痛い程に苦しくなる、あまりに切ない声音で紡がれる、不思議な言葉だった。
迩千花の黒い瞳と、狼のそれが静かに交差する。
周囲は何時しか暗雲が立ち込め陽を完全に遮り夜のように暗く、風は慮外者たちを焼く焔を纏いて荒れ狂う。
そんな中で、何故か迩千花の周りだけは温かな静寂が満ちていた。
囁きは、尚も続く。
『漸く、お前の元に、戻って来られたのか……』
一筋、迩千花の頬を涙が伝う。
知らぬ筈なのに、見た事もない荒ぶる存在である筈なのに。
何故こんなにも、あいたかったと、思うのだろうか……。
『俺の大切な、――……』
その言葉と共に、一瞬にして光が集いて参じ、旋風が吹き抜ける。
あまりの事に流石に目を開けていられず、目を閉じて。
再び開いた時、迩千花は広く温かな感触にとらわれていた。
何が起きたかはすぐに理解はできなかったが、一呼吸二呼吸して、漸く自分が見知らぬ美しい男に抱き締められている事を知る。
茫然とする人々も、呻く男達も、遠く感じた。抱き締める腕の確かさだけが、迩千花の裡を満たしていく。
離してと言わなければならないのに、それとは相反する願いすら抱いてしまいそうになる。
祟り神と震える声でいう者があった。
それは徐々に漣の如くその場に広まっていく。その場の皆が祟り神と口にしては震え、言葉を失う。
恐ろしさからではなく湧き上がる不思議な感情故に言葉を紡げない迩千花をその腕に抱きながら。
狼の耳と尾を持つ黒き美丈夫は居並ぶ人々を睥睨しながら告げた、これは俺のものだと。