百姓剣豪猪野谷剛衛門
光福寺と楽念和尚
山間盆地に開かれた高峯藩五万二千石の城下町から遠く離れた岩川郷の地主郷士、藤谷影衛門の小作人米助と稲夫婦に男の子が生まれた。
米助は地主である藤谷影衛門に子が生まれたと報告に赴いた。影衛門が名は何と付けたと米助に尋ねると、親孝行させようと孝助と名付け様かと思うと答えた。これを聞いた影衛門は米助を叱ってこう言った。
「親の身勝手で孝行などと馬鹿な事を言う出ない。孝助ではなく剛助と名付けよ。元気で頑健な男に育つようにな」
これを聞いた米助は影衛門に頭を下げすぐさま剛助と名付けると告げた。
子を産んだ米助の妻稲は近郷近在に聞こえた怪力の大女で知られていた。それに引き換え米助は痩せたひ弱な男で妻の稲の尻に敷かれ家では頭の上がらぬ亭主だった。小作人仲間からも米助よりも稲を立てて物を言うのが常であり、米助は笑い者にされていた。
藤谷家は豪農らしく屋敷には長屋門があり屋敷はぐるりと土塀に囲まれていた。屋敷の敷地内には土蔵と納屋、それに牛二頭馬一頭の馬牛小屋があった。その藤谷家を遠巻きに小作人の草葺きの家が五軒建っている。小作人には苗字はなく呼び名は名のみである。
年月が過ぎ年号は享保の時代に入った。江戸では徳川吉宗が将軍となっていた。
藤谷家から西へ三町ほど行った山の丘陵地に光福寺がある。その光福寺の境内から元気な子供達の声が聞こえてくる。
「はっけよい。残った。残った」寺の小僧が寺に奉納されている行事軍配を持ち出して手に持ち、わら束を荒縄で巻いて作った丸い土俵の周りを動き回っている。
丸い土俵の中では二人の子供が、上半身裸で腰に巻いた荒縄の帯を握って組み合っている。
組み合っている子供二人はいずれも大柄で丈は五尺五寸はあるだろう。一人は色黒のがっしりとした肩幅の広い子供で、もう一人は細身の子供だった。
がっしりとした色黒の子供が、強引に寄って行こうとした。すると細身の子供は片手を荒縄の腰帯から離し半身になると片足で寄って来た子供の足を跳ね上げた。がっしりとした子供は宙に浮き尻から土俵の中に落ちた。
「勝負あった」小僧が叫んで軍配を細身の子供に上げた。
土俵を取り巻き声援を送っていた十人ほどの子供の内、半数の子供が溜息を半数の子供が歓声を上げた。
「また負けてしまった。ごめん」がっしりとした色黒の子供が小さくなって、溜息をついた子供達に謝った。謝ったのは米助の子供剛助だった。剛助に勝ったのは隣村の郷士小竹亀衛門の息子勇馬だった。
小竹亀衛門は古武術の達人として近郷近在に知られた男だった。
「ワッはっはっは・・」大きな笑い声が寺の本堂から出て来た。寺の住職楽念和尚だった。
「剛助よ。また負けたな。力ではお前の方が強いのに何故何時もお前が負ける。少しは頭を使え頭を」
「和尚さん頭を使えったって、おらあどう使えばよいか分からないよ。笑ってばかりいないで教えてくれよ」
「それは小竹の子倅に聞いて見ろ。どうしたらお前に勝てるかと聞いて見ろ」
和尚は又大声で笑った。
「勇馬お前に勝つ方法を教えてくれ。これこの通りだ」
剛助が勇馬に頭を下げた。
「剛助お前に教える事など何もない。ただ牛の突進をまともに受け止める馬鹿はいないだろう。
もう一つ、二本の腕で押す力は強いが腕一本ではどうだ。二本の足で踏ん張れば強いが一本足ではどうだ。良く考えて見ろ。俺に言えるのはそれだけだ」
それを聞いていた楽念和尚が又笑った。
「さすが小竹亀衛門の息子だけの事はある。感心感心」
和尚に褒められた勇馬は頭を掻いて照れ笑いを浮かべた。
小作人の子剛助の槍修業
光福寺の楽念和尚の元に藤谷影衛門が訪れていた。
「昨日米助の息子の剛助が尋ねて来てな。牛と腕と足の事を教えろと言いよった。この件を和尚は御存じか」
「ああよく存じておる。小竹の子倅は親父から武術の何かを少しは学んで居る様だ。それに対して剛助は己の力に頼るだけで押す事しか能がない。あっ。これは子供の相撲の話だ。あれでは何度剛助が小竹の子倅に挑戦しても勝てないだろう。剛助も十四歳ぼつぼつ術の一つも教えてやってはどうか」
楽念和尚に言われて影衛門は思案顔になった。
「確かに剣術には多少自信はあるが、剛助には今剣を教えるつもりはない。これは和尚にお願いするしかなさそうだ」
今度は和尚が思案顔になった。
「和尚。剛助が十六歳になれば殿の参勤交代に槍持ち奴として江戸に行かせようと考えている。ひとつ和尚の奈良宝蔵院流の槍術を教えてやってはくれまいか。さすれば剛助も術の何かを知る事になるのではなかろうか」
「剛助に槍術をのう。それは面白いかもしれぬ。稲刈りの終わった今がその時かもしれぬな。では明日からでも剛助を寺によこしてくれ。すぐに尻など割らぬよう良く言い聞かせてな」
和尚は小坊主朴念が運んできたお茶を美味そうに飲んだ。
翌日剛助は地主の影衛門に命じられて光福寺にやって来た。
「剛助来たか」楽念和尚がツルピカの頭を撫でながら本堂から出て来た。
「和尚さん。俺は何をすればいい。影衛門様は和尚の言われるままにしろとだけ言われた。それから和尚の許しなく寺からは帰れないと」
「おお影衛門様にそういわれて来たか。それでは事始めに寺の東側の竹林に行き、山裾から腕位の竹を十本、十尺より長い位に切って持ってこい」
「はい。和尚さん。物干し竿を十本も何に使うんだよ」
「馬鹿者。それはお前が心配する事ではないわい。さっさと行ってこい」
和尚に叱られ剛助は竹林に行き、十本の長い竹竿を担いで境内に戻って来た。
楽念和尚はその竹を境内隅に置かせると、一本だけ竹竿を持たせて相撲の土俵の中に剛助を立たせた。
「剛助。土俵の外に埋めてある杉の丸太が見えるか」
土俵の外に背丈ほどの太い杉の丸太が立っている。
「ああ確かに杉の丸太がありますだ。分かりました。あの丸太で突き押しの練習をせよと言うことですね」
「そうではない。その丸太は相撲とは無関係じゃ。手に持っている竹竿でその丸太を打つなり突くなりして、その竹竿が割れてササラになるまで続けよ。その一本が使い物にならなくなったら次の一本。十本の竹竿がササラになる迄続けよ。竹を取りに行く以外はその土俵から一歩たりと外に出てはならぬ。分かったら始めよ」
「和尚さん。これは何かの儀式ですか。変わった儀式の様ですが」
「馬鹿者それだから牛も腕も足も分からないのじゃ。黙って言われた通りにやれ」
そう言い残すと和尚は本堂の奥に消えた。
―これはどう言う事だ。訳がわからない。でも言われた通りやるしかないかー
ホイホイと長い竹竿を握って剛助は土俵の中から杉の丸太を横から打ち据えた。竹はしなって跳ね返り手の平がジンジンとしびれた。今度は丸太目掛けて竹竿を突き出した。竹の先がぐにゃりと曲がったが、ただそれだけで竹はササラにはならなかった。
次は竹竿を振りかぶり上から丸太の先端に打ち下ろした。竹竿は丸太には当たらず地面を叩いた。竹は折れなかった。
夕刻になり境内が暗闇に包まれても剛助は丸太に対峙し悪戦苦闘していた。楽念和尚はその様子を覗き見たが何も言わず寝所で寝てしまった。
翌朝薄暗い境内に出て見た和尚は、境内の隅に割れてササラになった竹竿十本の残骸を見た。和尚は満足気に頬を緩めー今日は出て来るかーと箒を持ち境内の落ち葉を掃き始めた。
日が昇り境内が明るくなった頃、剛助は境内に上がって来た。手にはぼろ布をまいている。
―手の平の豆が潰れたかーその手を見ようともせず、和尚は昨日と同じ様に剛助に竹十本の持ち帰りを命じた。剛助は不満を顔に出さず和尚の命に従った。その日も境内が闇に包まれるまで剛助は竹竿の破壊に精を出した。その翌日も、その翌日も剛助は休まず寺にやって来た。
半月過ぎるころ剛助に変化が現れた。竹竿で杉丸太を相手に立ち向かう中で、最初は無言であったものが気合を発する様になっている。「エイーヤア。オリャー」と竹竿を打ち下ろし、薙ぎ払い突き出している。「ほう・・少しは上達してきたようだな」和尚は目を細めて見守った。
杉丸太の杉皮が剥がれ落ち木肌も傷だらけになっている。剛助の手に巻かれたぼろ布は今は見えない。手の平の豆は破れ皮膚は固いたこになってゆく。
一月が過ぎた。その日の朝和尚は竹の切り出しを命じなかった。
「そこに座って待て・・」和尚は本堂の上がり框の階段を指し示し、自身は立って境内に上がる石段を見つめている。―なんだ。今日は様子が違うぞー剛助は疑いの目で和尚を見た。
しばらくすると、がやがやと石段を上がって来る大勢の声が聞こえて来た。石段を登り切り一人二人三人と手に鎌や鍬を持った村人達が次々と境内に姿を現した。地主の影衛門の小作人は元よりその家族もやって来た。剛助の母親稲も鍬を担いで、その大きな体を見せている。村の百姓やその家族二十人程が集まった。その百姓達に手を合わせ出迎えた和尚は、何やら手で指図し、ササラになった竹も指し示していた。
「では皆の衆よろしく頼む・・」和尚の一声で皆が動き出した。男達は手にしていた鍬や鎌を女子供に手渡し、ササラの竹竿三百本を手分けして担ぎ石段を下りていった。
寺地の竹藪は剛助によって三百本が切られ山裾は開かれていた。そこで和尚は竹の株や根を抜き取り畑に変えようとしていた。剛助が打ち砕いた竹は畑を囲む、獣の侵入を防ぐ竹柵に利用する事にした。
村人が竹藪の開墾を始めた頃、楽念和尚は長さ十尺の長い棒を二本持ち出し、一本を剛助に手渡した。
長い棒を手にした和尚は丸い土俵の真ん中に仁王立ちして言った。
「わしはこの土俵の中から一歩も出ぬ。お前はどこからでも打つなり突くなり、わしを杉丸太と思ってかかってこい」
「和尚。怪我をさせたら俺が影衛門様に叱られしまう。止めて下さい」
「影衛門様な先刻承知。グズグズ言わずに掛かってまいれ」
「では本当に参りますよ・・ごめん」
剛助は棒を頭上に振り上げ和尚の頭目掛けて打ち下ろした。棒は和尚に当たらず土俵の地面を激しく叩いた。和尚は何事もなかったかの様に土俵の真ん中に立っている。
「剛助。何処を叩いている。わしは此処じゃよ」
「くそっ・・」剛助は棒を横殴りに和尚の胴を払った。手応えはなく棒は空を薙いだ。
「これ剛助。何処に目を付けている。わしは丸太じゃ。動きはしないぞ」
それではと剛助は左半身に棒を構え、和尚の胸を目掛けて駆けよりながら棒を突き出した。
剛助の体が宙に浮きうつ伏せに土俵の中に落ちた。和尚は棒を突き出し飛び込んできた剛助の足に足を掛けていた。勢い余った剛助は自ら痛い目にあった訳だ。
剛助が起き上がろうとすると、コツンと棒の先が剛助の頭を叩いた。
「痛・・」頭の芯まで響いた痛みだった。剛助は頭をさすりながら和尚に食って掛かった。
「和尚さん。これはあんまりではないですか。俺は言われた通りにしているだけですよ。俺に恨みでもあるのですか」
「これ剛助。一度の負けでもう弱音を吐くのか。このひと月竹竿修業は何のための修業だった。このくそ坊主ともう一度掛かってこい」
剛助は考えた。和尚さんの近くに寄れば又何をされるか分からない。ならば土俵の中に入らなければ良い。ならばと剛助は土俵の外側をぐるぐると回り始めた。
「剛助。考えたな。少しは頭を使う事ができる様だな」
土俵の真ん中にいた和尚が動いた。剛助の動きに合わせ体を回すと棒の先をクルリと回した。「カッ」と棒と棒が絡まった。剛助の手から棒は弾き飛ばされ、境内の隅に聳え立つ一本杉の根本に転がった。「あっ・・」と驚く剛助の腹を棒が軽く突いた。「うっ・・」剛助は腹を押さえてその場に蹲った。
「剛助。何をしている。早く棒を拾ってこい。お前はもう二度死んだも同然だぞ」
剛助は腹を押さえたままで棒を拾い土俵の外に戻って来た。
「さあもう一度掛かってこい。何故和尚が土俵の中に居てお前が土俵の外に居る。その訳を考えろ。得物を持てば相手との間合いが生じる。打つ間合いと打たれぬ間合いじゃ。土俵の外にいるお前は攻めるも引くも自由自在のはずだ。長い棒を振り回せば、相手は何処を打ち突いてくるかすぐに見極めるだろう。相手の動きを、隙を見る目を養え。さあもう一度掛かってまいれ」
剛助には和尚の言葉の意味を理解する事など出来なかった。ただ打たれる突かれると思えば相手から離れて逃げればよい。それだけを理解した剛助だった。
棒を突き出し構えた剛助は土俵の外から遠く離れ和尚を見た。和尚は土俵の真ん中で棒を地面に立てて立っている。「オリャー」剛助は遠く離れた土俵の外から気合を発した。
和尚は苦笑いを浮かべて言った。
「これ剛助。そんなに離れていては修業にならないではないか。お前の棒が和尚に触れぬ限り今日は帰れぬぞ。ならば・・」
和尚が土俵の側まで寄ってきて、棒を立てたまま背に隠した。
「これでどうだ。わしは一歩たりと動かない。思い切り攻めてまいれ」
馬鹿にさせたと剛助は土俵の近くに戻り、棒を横殴りに和尚の胴を狙った。和尚の体がピョンと飛んだ。棒は空を叩たいた。和尚は棒を背に元の位置に立っている。
「そんな大振りでは子供でも何処を打ってくるか分かるだろう」和尚は笑っている。
「くそっ・・」剛助は棒を小脇に構えて和尚の胸板目掛けて突進した。棒が和尚の胸板に届いたかに見えた瞬間、和尚は右足を軸に半身になってこれを交わし、腰を落とすと右足を軸に右に回転した。「カンー」剛助の足元で音がした。剛助は向う脛を押さえて転がった。和尚の背にある棒は横たえられていた。和尚の回転と共に横たえられた棒は風車のように回転して飛び込んできた剛助の向う脛をしたたかに打ったのである。痛みに声も出せず脛を抱いて転がっている剛助を横目に和尚が言った。
「ただ突進するだけの牛は惨めじゃのう。剛助牛は頭が悪いのかのう」
和尚の言葉に堪忍袋の緒が切れたのか、剛助は足の痛みを忘れて飛び起きて棒を握った。剛助は握った棒を頭上から和尚の頭を目がげて振り下ろそうとした、その瞬間和尚の背にあった棒が倍の長さになって剛助の顔面に突き付けられた。剛助にはその棒の先が丸太に見えた。
「あっ・・」剛助は棒を振りかぶったまま尻もちをついた。
また「コツン」と頭に棒の先が落ちて来た。剛助は頭を撫でさすった。また一つこぶができた。
「和尚さん。さっきの丸太は何だったので」頭のこぶを撫ぜながら尋ねた。
「うむっ・・棒の先が丸太に見えたか。それはお前が弱すぎるからじゃよ。修業を積めば、棒の先は棒の先に見えて来る。それはもっと先の話じゃ」
「はあ・・そんなもので・・それにしても和尚は何処で修業されたので」
「若い頃はわしもお前と同じだったよ。弱くて何度も頭を叩かれたものよ」
「えっ和尚さんも叩かれた・・そんな事は信じられません」
「お前が信じようが信じまいがどうでも良い。強くなりたければ続けることだ」
「はい和尚さん。俺は強くなりたい。和尚さんの様に強くなりたい。毎日修業に励みます」
「では始めるとするか。棒を持て・・」
其日は夕刻まで「ヤアー」「コツン」「ヤアー」「コツン」と剛助は頭を打たれながらも和尚に立ち向かっていった。
がやがやと境内に村人達が上がって来た。影衛門の小作人の一人が竹藪の開墾と竹囲いの設置が終わったことを和尚に告げた。
「皆の衆ご苦労であった。畑は檀家の作地とし、できた野菜はほんの少し寺に寄進してくれればよい」
和尚は皆を労い手を合わせて言った。剛助の母親稲は境内の隅で長い棒を抱いて大地に腰を落としている息子を見つけ声を掛けた。
「これ剛助。和尚さんがら槍の手ほどきを受けていると聞いたが少しは進歩したかい。その様子ではまだまだ進歩はなさそうだな。おや・・お前の頭のタンコブは修業の成果なのかい。随分と鍛えられているようだな」
稲はクスクス笑いでその場を去った。
「おっ母まで俺を馬鹿にして。今に見ていろ。和尚を痛い目に合わせて見返してやるから」
村人達が境内から去ると和尚は剛助に帰宅を許した、
家に帰った剛助は褌一丁になり裏を流れる谷川に足を踏み入れ頭から水を被った。少年の体全体に痛々しい青あざがある。水に浸したぼろ布を頭に乗せた。熱を帯びた頭のこぶに冷たい水が染みた。
野菜を洗いに来た母の稲が剛助の痣だらけ体を見て驚いた。
「剛助。その痣は和尚さんにやられた痕なのか。お前は頭が悪いから和尚さんの指導の意味が分からないのだろう。何故打たれるのか考えて見たのかい。母が思うにお前の事だ。後先考えずに和尚さんに向かって行ったのだろう。我が身も考えず我武者羅に突進したのだろう。違うかい」母の稲は谷川の岸に腰を下ろし藁で大根を洗い始めた。
「お母。お母の言うとおりだ。何度和尚に打ちかかり突いてもこの通り痛い目にあった。俺はどうすればよいのかな」
「長年修業を積んだ和尚さんに半人前のお前がどうあがいても勝てはしないよ。一つ言える事はいかに打たれず突かれず攻めて交わすか考えろ」
「打たれず突かれず攻めて交わすか。お母それは無理と言うものだ。それが出来れば苦労はしないよ」
「ならば和尚さんの棒を交わす事だけ考えろ。攻めは格好だけにしてただ逃げて交わせばよい」
「お母それなら俺にもできそうな気がするよ。明日は試してみるよ」
稲は野菜を洗う手を止めて「なら試しにやってみろ」と笑った。
翌日剛助は棒を持って和尚と対峙した。和尚は前日と同じ土俵の中に立っている。
「さあ何処からでも掛かってこい」和尚に促され剛助は棒を脇に構えて「おう・・」と気合を入れた。気合を入れたが剛助は直ぐに打ちかかろうとはしなかった。
「おや・・。剛助今日はいやに慎重だな。さては誰かから入れ知恵をしてもらったか。ではその場から逃げるなよ」
言うが速いか和尚の棒が剛助の胸に迫った。剛助は夢中でその棒を払った。「カン」と音を立てて棒ははじかれた。剛助は初めて和尚の棒を避けた。「おお・・」和尚が声を上げた。
剛助は和尚の棒をはじくと共に、土俵の内側まで来ている和尚の胸に棒を繰り出した。
「おお・・」和尚は剛助の棒を半身で避けると又半分驚きの声を上げた。
しからばと剛助に棒を向けると、剛助は和尚の棒が届かぬ遠くに身を引いて棒を構えていた。
「小癪な奴。一晩で考えた仕業とは思えぬ。どうやらお前には軍師が居る様だな。ならば和尚も考えを変えねばならぬな。では和尚も土俵の外へ出ることにしょう」
和尚が土俵の外へ一歩踏み出した。
「これからは境内全体が闘いの場と思え。では思い道理に掛かってまいれ」
和尚が初めて棒を剛助に向けて構えた。剛助も棒を和尚に向け右に左へと動き回った。
「あっ・・」と思う間もなく剛助の棒は叩き落され、半回転した和尚の棒が「コツン」と剛助の頭を叩いた「痛・・」頭のこぶが又一つ増えた。
「どうした。攻撃は最大の防御と言う。掛かってこなければ又打たれるぞ」
剛助は棒を拾い上げると思いっきり和尚の足を薙いだ。和尚は片足を上げただけでこれを交わし、片手に持った棒で剛助の頭を又「コツン」と叩いた。声も上げず剛助は頭を押さえた。
「このくそ坊主・・」剛助は棒を無茶苦茶に振り回した。「おっと、これは危ない」
和尚が一歩足を引いた。剛助は尚も棒を振り回して和尚に迫った。十尺も離れていた和尚との距離が棒が届く距離に狭まった時「パシリ」と剛助は右の二の腕に痛みを感じ、続いて右足の向う脛に激しい痛みを感じた。何時の間にか和尚は剛助の後ろに立っている。
「わしは此処じゃ。何処に目を付けておる。相手も見ずにやたらと棒を振り回しても棒は当たらないぞ」
剛助には和尚の素早い動きが見えなかった。その後何度も棒を振り回して和尚に迫るが、腕を足を打たれて痛みが増すばかりだった。
其日も剛助の棒は和尚に触れる事さえできず夕暮れとなった。
剛助は家に帰ると褌一つになり谷川に足を浸した。左右の向う脛に何本もの赤黒い痣が刻まれ、二の腕にも同じ様な赤痣が刻まれていた、。
「今日の修業の成果はあったかい。おやまあ。今日も派手に叩かれた様だな」
母の稲は驚きませず今日の和尚とのやり取りを聞いた後こう言った。
「この手この腕に問題あり。この両足に問題あり。和尚さんはちゃんと教えてくれているよ。
お前は本当に馬鹿だね。明日は打たれてもいいから和尚さんの腕と手の動きを見ていてご覧なさい。それからあしの動きも見て覚えなさい。和尚さんの技を盗むんだよ」
「お母。泥棒はいけねいよ。技を盗むなんて俺にはできねえよ」
「お前は本当に底抜けの馬鹿だね。和尚さんに打たれたくなければ、強くなりたければ、それが一番の方法だと気が付かないのかい。和尚さんもそれを気づかせ様としているのさ」
「和尚さんも技を盗めと言っているのか・・」剛助は考え込んだ。
「騙されたと思って和尚さんの動きをよく見るんだよ。明日もがんばりな」
母の稲は笑いながら帰って行った。
棒を交えた和尚は、すぐに剛助の目の動きに気ずいた。棒を頭上に振りかぶると剛助の目も和尚の腕を追って頭上に、棒を下げると剛助の目も下がる。剛助が気合を発して打突を繰り返すが、それは芝居にしか見えず剛助の目は絶えず和尚の手の動きだけを追っている。
―こ奴の軍師は誰だ。よもや影衛門ではなかろうに。拙僧の手の動きを学ばせ様とは考えたものだ。いずれ誰かは判るであろう。では期待道理に手の内を見せてやろうー
和尚は緩慢な動きで棒を操り、受けて攻めて見せた。それでも時々「コツン」と気合を入れることを忘れない。そのたびに剛助は目から火が出る様な痛さを頭に感じた。
和尚は棒の中心を両手で持ち頭上に差し上げるとぐるぐると回転させ、片手でも回転させて見せた。剛助の目が釘付けになった。棒に見とれる剛助の腹に棒が差し込まれた。「グウッ」
腹を押さえて剛助は膝をついた。
「これ油断は大敵。一つ物に目を奪われていては痛い目に合うと知れ」又「コツン」と頭に棒が落ちて来た。
其日は終始このような修業に終わった。
家に帰った剛助がこの日の出来事を話すと母の稲は笑って言った。
「和尚さんは私の考えなど全てお見通しだよ。それでもいい。明日は足の運びを見て学びなさい。和尚さんは馬鹿なお前にも分かるように足を運んで下さるだろう」
翌日。母の稲の言った通り和尚はゆったりと、しかも素早く足を運んで見せた。剛助はその和尚の一挙手一投足を目を見開いて頭に叩き込もうとした。いずれその努力が和尚を打ち負かす日に繋がると信じて。
竹竿修業から境内に修業の場が変わり又一月が過ぎようとしている。その間剛助の修業見物に来る子供達が増えた。剛助が頭を棒で叩かれるたびに歓声と笑い声と悲鳴が湧いた。悲鳴を発したのは影衛門の娘お花だった。お花は影衛門の一人娘で歳は剛助の一歳歳下だった。
剛助は叩かれその悲鳴を聞くたびに赤面した。色白で可愛い藤谷家のお嬢さんに無様な姿をさらす自分に腹が立った。それでも村の子供達の手前何でもない顔をして和尚に立ち向かった。
北風が寺の境内にも吹き降ろしてきた。剛助一人棒を構え突き打ち払い、棒を頭上で不器用に回転させた。「棒は長くも短くもなる。それが術とも技とも言う」和尚の言葉が耳に残っている。頭上の棒を腰に巻いて回した。腰を落としてさらに回した。和尚に打たれた向う脛の痛みが蘇った。
白雲斎と楽念和尚
其日和尚は村の葬式に出向いていた。「今日は一人で訓練しろ」和尚に言われた通りに剛助は真面目に練習に励んでいたのである。今日に限って取り巻きの少年達の姿はなかった。
「小僧棒振り遊びか。和尚はいるか」境内に上がって来た髭もじゃの僧侶と思しき男が声を掛けて来た。破れて解れた汚れ僧衣を羽織った男は本堂に向かって大声で和尚を呼んだ。
「楽念おるか。俺だ白念じゃ・・」
「和尚さんは葬式で留守ですよ。帰りは夕方になると思うよ」
剛助が答えると汚れた僧侶は剛助に向き直り髭もじゃの顔でニヤリと笑顔を見せた。
和尚さんより十歳は若いと思われる僧は和尚の同僚とは思えない。
「坊主は和尚の弟子か。まだ弟子になって日が浅いようだな。和尚が帰るまで一つ教えてやろうか。練習を続けてみよ。見ていてやる」
髭もじゃの僧侶は本殿の上がり段に腰を下ろした。剛助は怪しげな坊様を気にしながら棒を振った。しばらくすると「止めろ」と声が掛かった。剛助が棒の動きを止めると「坊主お前は祭りの見世物にでも出るつもりか。全く稽古になっていない。一つ場所で棒を振り回しているだけではないか。見えぬ相手を想像したことがあるか。動く相手を想像して棒を振っているか。どう見てもお前は動かぬ立ち木を相手にしている様にしか見えぬ。動く相手を想像したなら目線も顔も体もその方向に動くはずだ。この坊主の言う事が理解できたならやってみろ」
剛助が坊様に言われた通り、和尚さん相手に棒を交える事を想像し棒を振るった。しばらくすると又、「やめろ」と声が掛かった。剛助が振り向くと髭もじゃの坊主の顔が睨んでいた。
「もっと腰を落とせ。足も腰も肩も腕もバラバラじゃ。それでは棒に気は伝わらぬ。気のない棒はただの棒きれに過ぎぬ。気合を入れてやり直しだ」
再度の指摘に嫌気がさした剛助だったが、それを面に出さず棒を振るった。何度もあれやこれやと指摘を受け続けるうちに陽が傾き境内に闇が迫る頃和尚が寺小僧の朴念を連れて帰って来た。
朴念は手に酒徳利と葬式の炊き出しの包みを下げていた。
「楽念遅かったな・・」石段を登り境内に帰って来た和尚に髭もじゃの僧侶が親し気に声を掛けた。「あっ。これは白雲斎様お久しぶりでございます。何時お帰りで・・」
「楽念和尚。今日帰って来たが何処にも顔は出してはおらぬ。暫く厄介になろう」
「それは、それは・・何もおもてなしは出来ませんが何日でも御逗留下さりませ」
和尚さんの髭もじゃ僧呂に対する遜った態度を、境内から帰ろうとしていた剛助は足を止めて見ていた。―いったい、あの髭もじゃは誰なんだ。和尚さんより偉い人なのかー。
「これ剛助。さぼらず修練を重ねていたか」和尚から声が掛かった。
「はい。和尚さん。そこな髭の坊様よりご指導を賜りました」
「おっ白雲斎様より直々に指導を受けたと・・」和尚は髭もじゃの僧侶を仰ぎ見た。
「おお、小童が一人で稽古をしていたので少し手直しをな」
髭もじゃの僧侶は笑って言った。
「これはこれは、剛助めの生涯の宝となりましょう」
「剛助良く礼を述べて今日は帰れ。明日また出てこい」
和尚に帰宅を許され剛助は帰途に就いた。―あの方はどう言うお方なのかー考えても剛助に分かる筈はなかった。
白雲斎襲撃
翌朝剛助が棒を担いで家を出ると一町程先の道を腰に刀の若侍が五人、寺の方向に駆けて行くのが見えた。―何処に行くのだろうー剛助はそれ以上の事は考えず四町程離れた寺に向かって歩いて行った。
前日の昼間、剛助には考えの及ばぬ出来事が一里ほど離れた宿場で起きていた。それは宿場の一膳飯屋「丸吉」の店の中での出来事が発端だった。昼間から酒に酔い丸吉やって来たのは、岩河代官大道幸左衛門の息子与一郎と城下の若侍浜口利三郎の二人だった。丸吉の店主善平は当然与一郎とは顔見知りだった。
「これはお代官の若様、何をお召し上がりになりますか」
「善平何をふざけた事を言っている。酒に決まっているだろう」
「でも若様昼間からお酒を召し上がっていては父上に叱られはしませんか」
「善平野暮は言うな。今日は友連れだ。早く酒を持て。ところで看板娘の菊の姿が見えないぞ。
何処へ行った。早く呼んで来い」
「若様菊は今出かけていておりません。はい・・」
善平が店の奥に消え酒を持って出て来ると「只今」とお菊が表から帰って来た。
「おっ、お菊何処へ行っていた。待っていたぞ。此処へきて酌をしろ」
「若様嫌ですよ。何時も駄目だと言ってるでしょう」
「今日は城下の友達が来ている。俺の顔を立てて注いでくれ」
「駄目です・・」菊が店奥に去ろうとすると与一郎はお菊の腕を掴み自分の膝の上に引き寄せた。与一郎の連れの若侍、浜口利三郎は笑いながら待ちきれないのか、勝手にぐい飲みに酒を注ぎ飲みだした。「駄目です。若様許して・・」与一郎の膝の上から逃げようと抗うお菊の腰に手を巻き与一郎は徳利をお菊に持たせ様とした。その徳利をお菊は振り払った。徳利は床に落ち割れてしまった。「おのれ、お菊許さん・・」見かねた伯父で店主の善平が調理場から出て来た。
「若様許してやってください。まだ十三の小娘で御座いますれば。お酒は代わりを直ぐにお持ちしますので」
「いや許さん・・」
「これ若造いい加減にしろ。若様若様と持ち上げられていい気になっているようだが、お前はそんなに偉いのか」
店の隅に座って飯を食べていた髭もじゃの僧侶が鎌首を擡げた。
「何。乞食坊主が何をぬかす。親父、俺が何者か聞かせてやれ。聞いて驚くなよ」
丸吉の親父が言いにくそうに髭もじゃの僧侶に代官の息子だと告げた。
「何。代官の息子とな。此処の代官は息子の仕置きもろくに出来ぬ様だな。拙僧がその程度の事で驚くとでも思ったか。この馬鹿者が」
驚いて逃げ出すと思っていた与一郎はお菊を離して刀の柄に手を掛けた。
「おのれ。くそ坊主が表に出ろ。手打ちにしてくれる」
「くそ坊主とは良く言った。拙僧には白念と言う法名がある。お前の親父に変わって仕置きをしてやらねば目が覚めぬか。どれ表に出てやろう。店で刀を抜くなよ。お前が怪我をする」
代官の息子与一郎とその友浜口利三郎が表に飛び出した。もっそりと金剛杖を掴んで髭もじゃの僧侶は表の道に出た。通行人が何事かと足を止めて見ている。髭もじゃの僧侶が店から出て来ると与一郎と浜口利三郎は刀を抜いた。足を止めた通行人増えた。
「馬鹿め。親父の代官の面子はなくなるぞ。切りかかって来ぬなら此方から行くぞ」
言うが速いか髭もじゃの僧侶の金剛杖が目にも止まらぬ速さで二人の刀を叩き落した。二人は手首を押さえて逃げ出そうとした。
「こらっ・・。武士の魂を置いて逃げるな。早く拾って退散しろ」
髭もじゃの僧侶の言葉に通行人からやんやの喝采が起きた。店の前で成り行きを見守っていた丸吉の亭主は、あまりにもあっけない結末に驚いた。
「和尚様ありがとうございました。お礼を申し上げます」頭を下げる亭主に飯代を手渡すと髭もじゃの僧侶は去って行った。
この出来事は時を得ずして代官の大道幸左衛門の耳に入った。―このバカ息子が折檻してくれるーと手ぐすね引いて待ち受けるも、その日与一郎は代官屋敷に帰って来なかった。
翌朝早く与一郎の姿が人待ち顔で宿場の道外れにあった。城下の方向から浜口利三郎が三人の若侍を連れて現れた。五人となった若侍達は宿場を通り過ぎ岩川郷の光福寺の方向に小走りで駆けて行った。
前日与一郎は人知れず代官所の小物に白念の行き先逗留先を確かめさせていた。
「敵は光福寺にあり」とばかりに五人の行き先は決まっている。
若侍五人は光福寺の石段を駆け上がった。境内に至ると与一郎が本堂に向かって大声で叫んだ。「白念。ここに居る事は先刻承知している。逃げても無駄だ。大人しく出てこい」
一度の呼びかけに本堂は静まり返ったままだ。与一郎は二度三度と叫んだ。
「うるさいぞ若造。何ようだ。昨日の仕返しに来たか」
本堂の奥から楽念和尚と白念坊が姿を現した。白念坊は昨日の白念坊ではなかった。顔の髭も残バラだった頭髪も綺麗にそり落とされて壮年の男らしい綺麗な僧に変身しており衣類も楽念和尚の僧衣を身に着けている。白念坊の手には既に六尺棒が握られている。
「代官所の若よ。この仕儀は何事だ。この事をお父上が知ったらどうなると思っている。この寺がどう言う寺か知らぬのか。城代様はおろか殿様直々の庇護を受ける由緒ある寺だと言う事を知らぬのか。馬鹿者どもめ」
楽念和尚の一括に与一郎を除く四人の若侍に戸惑いが見えた。
「やかましい。楽念和尚そんな事は百も承知だ。庶民の前で恥をかかされた恨みは武士としてそそがねばならぬ。和尚邪魔建て無用。白念坊降りてこい」
本堂の上から若侍達を見下ろしていた白念坊が本堂から境内に降りた。
「懲りない奴だ。今日は手心は加えないぞ。覚悟して掛かってこい」
白念坊が棒をビユーウと振った。若侍達は一斉に刀を抜いた。
剛助は棒を担ぎ境内に上がって来て、その光景に驚いた。
「参る・・」
白念坊の棒の風を切る音に、腕を脛を肩を打たれそして全ての留めは腹に棒先を突きこまれて倒れこむのは若侍達だった。若侍五人全てが地面に倒れこむのに要した時間は瞬き数度の時でしかなかった。若侍達の頭は誰一人打たれて居なかった。頭を打たれていれば死に至ったであろう。
―うひょー白念和尚様は強すぎるー剛助は境内の隅の一本杉の太い幹に隠れて成り行きを見守った。
バタバタと石段を登って来る大勢の足音が聞こえて来た。境内に上がって来たのは代官率いる十人の侍と捕り手だった。代官大道幸左衛門は境内に転がる若侍達を見て息を飲んだ。
「お代官。死んではおらぬよ。それより遅すぎる」
楽念和尚に責められても二の句も告げることができない代官だった。
「代官大道幸左衛門。やったのは拙僧だ。この始末どう付ける」
楽念和尚の後ろに立つ僧から呼び流されて、ムッとして代官大道幸左衛門はその僧の顔を睨んだ。これ以上不始末を続けさせる事は出来ぬと楽念和尚は代官に耳打ちをした。
顔色を変えた代官が白念坊の前に跪いて地面に頭を擦り着けた。
「初めて御意を得ます。白雲斎様とは露知らずご無礼をお許しください」
「良いわ。代官己の息子の始末をどう付ける。腹を切らせるか。坊主にさせるか何れかにせよ」
戸惑う代官に楽念和尚が言った。
「お代官。御子息は仏門に入れなされ。さすれば改心した暁には又新たな道も開けよう。これは白雲斎様の慈悲の心じゃ。髪を下ろすのも父親の手でな」
楽念和尚の言葉に釣られた様に大道幸左衛門は腰の脇差を抜いて、気を失っている我が子の髷を切り落とした。
「もう一人昨日拙僧に刀を抜いた知れ者がそこにいる。そ奴の髷も落とすがいい」
「それは・・」と又も躊躇する代官に楽念和尚は「お代官に同輩の息子の髷は落としにくかろう。拙僧が引導を渡してやろう。刀を貸してくだされ」
代官から刀を受け取ると楽念和尚はいとも簡単に浜口利三郎の髷を切り落とした。
「代官。人の好さだけでは人は導けぬ。時には厳しい事も言わねばならぬ。出家の儀式は明日行うとしよう。明日息子を寺に連れてこい。それから、そこに転がっている若侍達を連れ帰り牢につなぎ置き親に引き渡せ。何か言いたい事の有る親は光福寺に居る白雲斎に会いに来いと言え」
気絶していた者、気が付いても死んだ振りをしていた者を代官は叩き起こして捕縛して連れ帰った。
「剛助隠れていないで出てこい」和尚に呼ばれて一本杉の幹に隠れていた剛助が顔を出した
おずおずと和尚の前に出て来た剛助は土下座して白雲斎に平伏した。
「剛助。少しは見学して何かを掴む事が出来たか」「ハハア・・」と頭も上げず剛助は這いつくばった。「剛助。今日の事は他言無用じゃ。分かったな」
「はいお師匠様。心得ました」這いつくばったまま剛助が答えると「お師匠ときたか。愛い奴よ」
白雲斎は笑った。。
「剛助今日の修業は止めじゃ。白雲斎様の棒の技を、頭に刻み込んで家に帰り思い起こして練習せよ。又明日じゃ。もう帰れ」「はい。帰ります」和尚の許しを得て剛助は飛び起き
脱兎の如く棒を担いで石段を駆け下りた。
白雲斎の弟子
家にに帰ると荒縄を縒っていた母の稲は手を止めて尋ねた。
「おや剛助。今日はいやに早いね。和尚さんに叱られたのかい」
「そんなんじゃないよ。今日は家で練習しろと言われて帰って来ただけだ。ちょっと裏山に行ってくる」
剛助は裏山の山道を登り少し開けた尾根で棒を振るった。先程寺の境内で見た白念和尚の棒の動きと身体の動きが脳裏に蘇って来る。白念和尚の動きのままに棒を振り続けた。日が暮れるまで剛助は動きを止めなかった。汗びっしょりで帰って来た息子に稲は何も言わなかった。
翌日、光福寺の本堂に読経の声が流れ、本堂中央に真新しい法衣を身に纏った代官の息子与一郎が観念したように神妙な顔で正座していた。読経を上げているのは和尚ではなく白念和尚だった。
手に剃刀を持って与一郎の髪をそり落としているのは楽念和尚だった。少し離れてその様子を代官の大道幸左衛門が涙を浮かべて見つめていた。こうして代官の息子与一郎は改念の名をもらい楽念和尚の弟子となった。其日剛助は寺には来なかった。
翌日、境内では楽念和尚と剛助が棒を交えていた。つい先日までぎこちなさが目立っていた剛助の棒の動きが見違えるほど上達していた。早い動きで棒を繰り出し、早い動きで楽念和尚の棒を避ける。
「ほう・・」これを見ている白念こと白雲斎は目を細めた。ただ一度の実戦を見ただけで、これほどの上達を示した小童に驚きを隠せなかった。
本堂の隅で改念こと与一郎が覗き見していた。その与一郎の頭を木魚のバチでコツンと小僧の朴念叩いた。「改念さん。サボっていると和尚さんに言いつけますよ」先輩となった朴念が与一郎を睨んだ。
「剛助と言うあの小童。我に一月貸してはくれぬか。我が教えて見たくなった」
白雲斎の申し出に楽念和尚は否やもなしに承諾した。何故なら白雲斎は念流棒術の達人だったからだ。
剛助は新たな師匠の教えを受けた。その教えとは師匠の打突を受けて避けることだった。
毎日剛助は師匠である白雲斎の打突を腕に足に腹に受け続けた。多少手心を加えた打突でさえ十四歳の少年には厳しかった。以前にも増して体中に青あざができた。
正月が過ぎ、雪の積もった境内でも修業は続けられた。一月が過ぎ、一段と寒さが増した境内で剛助は師匠の打突を受けていた。其日も何度も打突を避けられず体に青あざを作っている。
そんな時だった。突然師匠の棒の動きがはっきりと剛助には見えた。危険を感じた体が無意識にこの棒を避け、剛助の棒を握った腕が師匠目掛けて突き出されていた。
「おっ・・」声を発した師匠は更なる強烈な打突を送って来た。それら全ての打突を剛助は交わし、棒で受けて見せた。
「やっと目覚めた様だな。打たれて初めて身体の五感が目覚める。これで相手に容易に打たれる事はないだろう。この坊主の教える事はもうない。後は楽念和尚に返すとしよう」
「これ剛助。師匠に礼を言わないか。棒術の達人白雲斎様から免許をあたえられたのじゃよ」
楽念和尚に言われて「はっ・・」と顔を上げた剛助の目に薄ら笑いを浮かべた白雲斎様の顔が見えた。「お師匠様。俺は、いや私はもっと教わりたいです。これで終わり等と言わないで下さい」「小僧いや剛助。修業は一生涯付いて回る。修業に終わりはないと知れ。これからがお前にとって本当の修業になるだろう。励めよ」
白雲斎は楽念和尚と共に本堂に消えた。白雲斎が光福寺から去ったと剛助が知ったのは次の日の午後だった。白雲斎の行き先を楽念和尚に尋ねても答えてはもらえなかった。
春が来て田には水が張られ、あちらこちらの水田で田植えが始まっている。剛助も地主藤谷影衛門の田圃で、父母と小作人一同に混じり田植えをしていた。この農繁期の時期には武術の稽古など口には出せない事だった。
光福寺の和尚楽念は農繫期が近づいた頃影衛門と会った。
「影衛門殿、物は相談だが剛助の事だ。技はまだまだだが長い棒には慣れた。棒には慣れたが今一つどうしても教えられない事がある。それは相手を打ち据える気骨が芽生えぬ事だ。それ故に技は進歩しない。拙僧だけを相手ではそれも致し方ないが、それでは剛助の素質を無駄に終わらせることになる。どうだろう。この辺で棒から木刀に修業の方法を変えて見てはと思うが」
「和尚様がそう仰るなら私から剛助に伝えましょう。この半年剛助目を鍛えて下さりお礼を申し上げます。これから木太刀の稽古をさせますれば、時々は指導してやって下さりませ」
「あい分かった。必ず見に行くとしょう」
程なく剛助は楽念和尚から弟子解消を言い渡された。剛助にとっては、とても納得できる事ではなかった。楽念和尚はその訳を語らなかった。ただ影衛門様の指示に従えとだけ言った。
半年の間、手に馴染み身体の一部になった棒を追い空とは放せなかった。百姓仕事の合間を見つけ剛助は棒を持って山に登った。長い棒を自在に振る事ができる場所は、寺の境内か影衛門様の屋敷の庭先しかなかった。足場の悪い山でしか棒を振ることが出来なかったのだ。
田植えが終わり人段落着いた時、剛助は十五歳の誕生日を迎えた。剛助の体は半年前より一回り大きくなっていた。その数日後剛助は影衛門に呼ばれ屋敷に赴いた。
影衛門の屋敷に赴くと、影衛門は庭先で太い木刀の素振りを繰り返していた、
剛助が来訪を告げると影衛門は木刀の素振りを止めた。
「剛助来たか。待っていたぞ。今しばらく、そこで見ていろ」
影衛門は持っていた太い木刀を、黒光りする赤樫の普通の木刀に変えて又素振りを始めた。影衛門が木刀を振るたびにピッピッと音がする。赤樫の木刀が空を切る音だ。影衛門は直ぐに素振りを止め、その木刀を剛助に手渡した。
「剛助木刀を振ってみろ・・」剛助は言われるままに棒を振った。ぎこちない素振りに影衛門は直ぐに木刀を取り上げた。
「こちらの木刀で毎日千回素振りをせよ」影衛門は重くて太い木刀とは言えぬ栗の木の棒を剛助に渡した。ずっしりと重い木の棒を手にした剛助はしばし木刀とは言えぬ木の棒に目を落とした。「どうした。それを振る自信がないか。いいから此処で振ってみろ」
剛助は重い棒を持ち直して構えた。
「右足を前に、腰を少し落とせ。棒は肩の高さで止めろ。始めろ」
剛助は棒を大きく振りかぶって振り下ろした。重い棒は肩の高さで止まらず地面を打った。
剛助の手が痺れた。―これを千回振るのかー剛助は気の遠くなるような絶望感に襲われた。
「これ剛助、斧や鍬ではないぞ。最初から力任せで振ったのでは肩を壊すぞ。もっとゆっくりと棒を振って肩の高さで止めて見ろ」
影衛門は、さもあらんと言った顔で剛助に言った。剛助は言われた通りに、棒をゆっくりと振りかぶりゆっくりと肩の高さまで下ろした。
「よし。それで良い。そのまま続けろ」言いおいて影衛門は縁側に腰を下ろした。
剛助は影衛門が止めろと言うまでその動作を続けた。肩が痛み腕がブルブルと撓った。
「よし。今日のところは是迄。明日は百回明後日は二百回、毎日百回ずつ増やしていけ」
影衛門はそう告げると帰宅を許した。
家に帰った剛助は、飯を食べる箸さえ持てぬ程手の震えが止まらなかった。肩と腕は熱を持ち腫れていた。母の稲は息子の上半身を裸にして濡らした布で肩と腕を冷やしていた。
「剛助。影衛門様の屋敷で何をしてきた。巻き割りではなさそうだが・・」
心配する母に剛助は何も語らなかった。話しても何も変わらない事を知っていたのだ。
次の日百回、次の日二百回十日目千回とはいかなかった。寺で棒を握って固くなっていた手の平の豆が破れていた。新たな豆が固まり千回の素振りができるまでに一月を要した。
以後、半年影衛門は素振り以外剛助には何も教えなかった。半年過ぎて初めて思い棒太刀から赤樫の木刀に持ち替えさせた。剛助は赤樫の木刀で素振りを試した。軽く感じた赤樫の木刀は空を切る事は出来なかった。影衛門は細い女子竹を剛助の前で振って見せた。細い女子竹は
ピュッピュッと音を立てて空を切った。
「剛助これを何と思うか。何故この細い竹が空を切れるか。赤樫の木刀で何故空が切れぬ。よくよく考えて修練せよ。空が切れたら次を教えてやる」
又新たな素振りの日々が始まった。
日照り続きの夏が水田の水不足を招いた。あちら此方で水争いが起こっている。此処岩川郷でも言い争いが起こっている。地主である影衛門の処へも苦情や相談事が持ち込まれ影衛門が出かける事が多くなった。
その夏関東以西の藩では干ばつによる百姓一揆が起こったとの噂も聞こえて来る。剛助は家の裏を流れる谷川の少ない水を溜めようと谷を掘り起こしていた。
其ころ影衛門の小作人達は山の谷のため池に陣取り水の番をしていた。隣村では百姓同士の水争いの喧嘩に代官所が出向く大事になっていた。谷川に居る剛助を母の稲が呼びに来た。
ため池の番に行っている父の米助に弁当を届けに行けと言うのだ。剛助は弁当の包みと長い棒を担いでため池に向かった。谷に沿って登って行くと言い争う声が聞こえて来た。
「止めろ。止めてくれ・・」父米助の声が聞こえた。剛助は足を速めてため池の土手に急いだ。
ため池の土手の上で谷に水を落とす垂木の栓を地元百姓三人が抜こうとしていた。それを影衛門の小作人,米助と市助の二人が必死で止めている。垂木に腕を掛けた男の肩を長い棒が叩いた。「何・・」振り向いた男の二の腕を棒が激しく打った。「痛っ・・剛助貴様・・」
「小父さん達。水が必要なのは皆同じだよ。水は上から下に順番に流れていく。もう少し待てば小父さん達の田圃にも水は届くはずだよ。どうしても水の栓を抜くと言うなら俺は容赦しないよ」剛助は長い棒をビューと振った。
剛助が光福寺の住職から槍術を習っている事は皆が知っている。百姓三人が二三歩後ずさった。
「当分俺が番をするから、もう来ない方がいいよ」剛助が言うと栓を抜こうとした男は「おぼえておけ」と捨て台詞を残し踵を返し他の百姓もその男の後を追った。
その夏岩川郷は十数個のため池の御蔭で干ばつの難を逃れ、秋には例年に近い米を確保することが出来た。
秋祭りの相撲大会
秋の村祭りの日、光福寺の境内では恒例の相撲大会が行われた。大人五人抜きの優勝者には米俵一俵が、子供五人抜きには餅五十個が与えられる。
大人の五人抜きが始まると、昨年も優勝をさらった隣村の郷士亀衛門の作男権助が一人二人三人と勝ち抜いていく。「次は誰じゃ・・」行事軍配を持った楽念和尚が次の対戦者を促した。
四人目には影衛門の小作人作平が名乗りを上げた。作平は昨年も権助と対戦し互角の勝負を演じていた。二人は土俵の真ん中でがっぷり四つに組んで力勝負になった。ガマに似た権助の顔が真っ赤に染まると作平をじりじりと押してゆく。
「はっけよい残った残った」楽念和尚が二人の周りを回った。「ぐわっ・・」ガマガエルは叫ぶと作平を高く吊り上げ土俵の外に釣り出した。「勝負あった・・」行事軍配が権助に上がった。
「ああ今年も駄目か・・」溜息と諦めの言葉が聞こえて来る。
「次は誰じゃ。次は五人目じゃぞ。我と思う者は名乗り出よ」楽念和尚が土俵の周りを見回した。ざわざわがやがやと騒がしいが誰も手を上げる者がいない。
「誰も居ないのか。居なければ四人抜きで優勝者が決まってしまうがそれでいいか」
楽念和尚はもう一度土俵の周りを見回した。手が上がっている。皆がその手の主を見て驚いた。
「和尚様女は駄目かい。私にも一番相撲を取らせてくださいよ」
手を上げていたのは剛助の母稲だった。わあわあと土俵周囲がどよめいて「やらせよ。やらせてみろ・・」多くの声が上がった。
「皆がやらせよと言っている。良かろう。稲殿回しを締めなされ」楽念和尚に土俵に上がる事を許され、稲は着物の上から晒の褌を締めて土俵に上がった。
「皆様方本日の大一番五人目を倒すか権助関、はたまた権助関の五人抜きを阻むか稲姫関・・」
寺小僧の朴念が土俵の周りに集まった群衆に大声で告げると更に大きなどよめきが起こった。
剛助は見ては居られないと群衆の後ろに隠れ、母稲のでっぷりがっしりの大きな体を見やった。「見合って見合って・・」楽念和尚の軍配がかえった。
稲の白くてて太い太ももが、白く太い足がどっしりと土俵の土を踏まえて権助と四つに組み合った。「はっけよい・・」楽念和尚は二人の動きを見つめている。
稲が権助の腰の晒を引き寄せ様とした。権助は稲の顎に頭を付けた。それに構わず稲は強引に権助の腰に巻いた晒しの褌を引き寄せた。権助の頭が起きて顔が晒しを巻いた稲の乳房に埋まった。群衆に笑い声が湧いた。剛助は見てはおられぬと目を背けた。
稲が片足半歩前に出た。権助の踏ん張った足がズルりと後ろに下がった。必死に踏ん張る権助の額の汗が稲の胸の谷間に吸い込まれた。肩幅の広い権助を抱き込む様に稲は寄って行く。
ずるずると権助は押されて土俵に足を掛けて踏みとどまった。稲が権助の腰の晒から手を離し体を左に開き、権助の背中をドンとはたいた。前の支えを失った権助は無様に土俵に這った。それはガマガエルが地面に伸びている様にも見えた。またまた群衆が湧いた。
「稲の姫―」楽念和尚が稲に軍配を上げた。権助が悔しそうに土俵の外に出た。土俵の外で待っていた背の高い細身の少年が権助を慰める様に群衆の外に出た。
土俵の上では稲に挑戦する男達が次々と土俵の外へと放り出されてゆく。稲が五人抜きで優勝をさらってしまった。稲は賞品の米俵を担いで土俵の外へ出た。
「お母があんなに強いとは思はなかった」息子に褒められ得意顔の稲は賞品の米俵の上にどっかと腰を下ろした。
「剛助次はお前だ。賞品の餅五十個を取ってこい。今年こそ亀衛門様の息子に勝ってみろ」
母に背中を叩かれ剛助は裸になって晒しの褌を締めた。
子供相撲が始まった。十歳以下の子供達が土俵で相撲を取った。子供達には勝っても負けても干し柿一つが与えられた。十歳以上十五歳以下の五人抜きが始まった。最初に五人抜きをした者に餅五十個が入った小さな俵が与えられる。昨年は亀衛門の息子勇馬がその餅俵を持ち帰った。剛助は勇馬に負けていた。この年代の子供達の中には農民郷士の子供も混じっていた。
この日の為に相撲稽古を積んできた郷士の子供達は小作農民の子供達とは一味違っていた。郷士の息子三村雅勝がまず三人に勝った。三村雅勝に勝ったのはこれも郷士の息子石田留造で二人に勝ったが代官所の捕り手の息子山田六助に敗れた。この山田六助に剛助が挑戦した。
六助は捕り手の技を習っているらしく容易に剛助の腰に食らいついた。剛助は慌てず六助の背後に手を伸ばし褌を掴むと一気に腰を吊り上げて土俵の外へ吊りだした。二人三人四人と勝ち進み最後の五人目の挑戦を受ける事となった。此処で対戦相手として昨年の五人抜き達成者勇馬が名乗りを上げた。
楽念和尚が剛助の五人目の対戦相手が勇馬だと告げると子供達から歓声と落胆の声が上がった。剛助の取り巻き少年達は剛助が勇馬に勝ったことがない事を知っている。
―また負けるのかー皆そう思った。土俵に上がった勇馬は腰を落として剛助と見合った。
勇馬は剛助と目を合わせるとニヤリと見下げた笑い顔を見せた。
楽念和尚の軍配がかえった。立ち合いは同時だったが、剛助は牛の突進をしなかった。
剛助は勇馬の動きを見て立った。勇馬も踏み出してこなかった。剛助と勇馬は土俵の真ん中で立ったままで動きを止めた。「はっけよい・・」楽念和尚が声を掛けた。
勇馬が半歩踏み出す動きを見せた。その時剛助も動いた。剛助の左の手の平が勇馬の眼前に差し出され。勇馬は無意識に顔をそむけた。その勇馬の一瞬の隙に剛助は俊敏に動き右手で勇馬の褌左回しをつかみ、差し出した左手は勇馬の右腕を掴んでいた。「ヤアー」剛助の左足が後ろに半回転し左手を引いた。回しを掴んだ右手に力が集中し腰と共に左半身なった。勇馬の腰が浮き体が宙に舞った。どたりと勇馬の背中が土俵の土の上に落ちた。
あまりに早い勝敗の決着に誰もが声を発しなかった。土俵の上に立ち上がった勇馬は剛助に問いかけた。
「剛助。さっきのあの手の平は何だ。仁王様の手の平の様に大きかった」
「そう見えたか。そう見えたなら俺はお前より強くなったと言う事だ」
剛助の脳裏に楽念和尚の棒の先が丸太に見えた時の記憶が蘇っていた。
「剛助―五人抜きなり」楽念和尚が剛助の勝ちを注げると小僧の朴念が小さな俵を抱えて和尚に手渡した。剛助はその俵を受け取った。
「餅―餅―餅―」剛助の取り巻き達が喜びはしゃいでいる。
餅俵を持っつて土俵を出ると剛助は取り巻き達に囲まれた。群衆の中を見回しても母稲の姿は見当たらなかった。剛助は取り巻きの市助守助捨吉その兄弟達に餅を分け与え家に帰った。
母の稲はすでに帰っていた。「よくやった。影衛門様も褒めていたぞ」「影衛門様も見ていたのか。負けなくてよかったよ。負けていれば又重い棒の素振りを続けさせられたかもしれないよ」
「お花お嬢さんも喜んでいたよ」「お花ちゃんも見ていたのか・・そうか」
剛助の心に明るい日が差した。身分の差を感じながらもお花は剛助にとって一番身近な妹の様な存在だった。―明日から又胸を張って影衛門様の屋敷に通う事ができるー剛助は気楽な明日を夢見た。
影衛門の太刀
徳川吉宗は武道を奨励し、この年大名の参勤交代を一年から一年半に伸ばした。この制度により藩主直孝が秋に帰国した。
剛助の赤樫の木刀を素振りする日が続いた。影衛門様の屋敷の庭先に舞い落ちる白い雪を赤樫の木刀が砕いた。
春小鳥の囀りと共に田圃の人影が増えてゆく。牛や馬で耕された田に水が張られ賑やかな田植え歌が流れた。一月もすると田圃は緑の原に変わってその上をツバメが忙しく飛び交っている。剛助は十六歳になった。また熱い夏がやって来る。
剛助は日差しを避ける菅傘を被り田の草取りをしていた。田のあぜ道をお花が歩いて来た。
「剛助兄ちゃん、お父さんが日が暮れぬうちに来るようにと言ってるよ」
剛助に声を掛けるとお花はすぐに戻って行った。剛助はお花の短い着物の下の白い足を見ていた。―どうせ又素振りの話だろうーいつまで経っても新しい剣技を影衛門は教えてくれない。
剛助は日暮れ前に影衛門の屋敷に赴いた。影衛門はすぐに姿を現した。腰に刀を帯びている。
「ついてこい・・」影衛門歩いて光福寺に向かった。光福寺に着くと境内で楽念和尚が待っていた。境内に青竹三本が等間隔で立っている。
「和尚手数をかけた」「いやいや今日は久しぶりに影衛門殿の手並みを拝見できるのだからな」
「いや私も久しぶりに刀を腰に差した。腕が落ちていなければ良いが・・」
影衛門が腰の刀を抜いた。
「剛助今から刀法を教える。良く見て覚えろ」
影衛門が右足を半歩踏み出し刀を中段に構えた。「これを中段の構え又は正眼の構えとも言う」影衛門はその刀の切っ先を地面におろした。「これを下段の構えと言う」影衛門は右の足を一歩引いて刀を右腰脇に引いて切っ先を後ろに構えた。「これを脇構えと言う」さらに影衛門は腰に構えた刀をみぎかたの高さに上げた。「これを八双の構えと言う」その肩の構えを頭上に上げた。「これを上段の構えという」影衛門は刀を中段の構えに戻し鞘に戻した。
「覚えたか・・」一声掛けられて剛助は一度首を縦に振った。
影衛門が竹の前に立った。腰を落とした刹那刀が鞘走り切り上げ切り下げられ鞘に収まった。
切り落とされた二つの竹がカランカランと地面に転がった。目にも止まらぬ早業だった。
剛助はあんぐりと口を開けて地表の竹を見た。
「まだだ・・」楽念和尚が呟いた。影衛門が次の竹の前に立ち刀を抜いて中段に構え、静かに剣線を落とし下段に構えた。人呼吸。「ヤッ・・」小さく重い気合と共に刀は突きだされた。刀の切っ先が青竹を突き抜け、引き抜かれた刀は横に払われ鞘に収まった。。竹は二つになって地面に倒れた。「流石。見事な手並みだった」和尚の言葉に「お恥ずかしい・・」と自重気味に答えた影衛門は腰の刀を抜き取ると剛助に手渡した。「えっ・・」驚く剛助に影衛門は残りの竹を切ってみろ命じた。
初めて刀を手にした剛助は緊張し竹の前に立った。刀を抜いた剛助は振り被り竹に打ち下ろした。カッ刀は竹に僅かに食い込み弾かれた。剛助は竹を呆然と見つめた。
「剣線が躍った。これで何故空を切れぬか分かったであろう。明日からは刀での素振りをしろ」
「はい・・」小さく頷いた剛助に「案ずることは無い。剛助お前には必ず切れる日がくる。
お前にはその素質がある。一つ言える事は、お前には切ると言う事に戸惑いがある。無念夢想の気がまだ備わっていないのじゃ」
楽念和尚が励ましの言葉を送ってくれたが、自分の未熟さに落ち込んだ剛助の耳にその言葉の意味も指摘の意味も上の空馬耳東風と消えていった。
棒槍と木太刀
剛助の真剣での素振りが始まった。だが何時まで経っても進歩が見られない。
影衛門は考える。剛助の体は六尺近くに成長し大人を凌いでいる。身体の成長に対し気の成長が遅れている。気は体から生まれるが、その気が剣に伝わらず素振りも形だけのものになっている。楽念和尚が言った無念夢想の境地にいかにして導く事が出来るのか。十六歳になったとはいえまだ子供の域をでていない。
影衛門はもう一度剛助の素振りを見た。形だけは申し分ない。しかし刀に気は感じられない。
子供から大人への成長期に心の在り様が迷走する。影衛門は剛助に光福寺に行くように命じ手紙を持たせた。
手紙を見た楽念和尚は一人頷いて剛助を本堂に上げた。
「剛助そこに座り座禅をくめ」楽念和尚は本堂の床に剛助を座らせ目を綴じさせた。
「そのまま動くな」楽念和尚も座禅を組んだ。
広い本堂にセミの声が忍び込む。剛助の体が揺れた。半眼の楽念和尚は「眠るでないぞ」と
一言。座禅は終わる事無く続いている。剛助の額から汗が流れ首筋から腹へとつたい落ちた。
日が落ち薄暗くなった本堂に「止めい・・」と楽念和尚の声が響いた。剛助が目を開いた。
「剛助良く眠れたか。どの様な夢を見た」
「和尚さん寝てなんかいません。ですから夢も見ていませんよ」
「そうか。それは済まなかった。では何を思った。頭に浮かんだのは何か」
「それは・・」「言えぬか・・明日も寺にこい。今日は是を持って帰れ」
楽念和尚が一通の書状を影衛門に渡すようにと託した。
剛助がその書状を影衛門に手渡すと影衛門は屋敷の奥から普通の木刀を持って現れ「明日からこの木刀を持って寺に行け」と木刀を手渡し「真剣での素振りは当分の間止めとする」と剛助に告げた。
翌日剛助が木刀を持って寺を訪れると楽念和尚が槍稽古に使った棒を持って出て来た。棒の先に白い布玉が付いている。
「さあ始めるとするか。境内で立ち合おう」楽念和尚が裸足で境内に降りた。
「和尚さん立ち合うって,どう言う事で・・」「つべこべ言わず木刀を握って打ちかかってこい」
楽念和尚がビユッーと棒を振り「こい・・」と棒を構えた。
剛助は仕方なく木刀を構えた。木刀での太刀打ちなど初めての事だ。
「そりゃ・・」和尚の棒の先の白い布饅頭が剛助の胸に迫った。カンと剛助の木刀が和尚の棒を弾いた。棒の一突きは次々と剛助を襲ってきた。剛助は下がりながら必死でぼうを捌いた。
気ずくと剛助は一本杉の根本まで追い詰められていた。「ほれ・・」和尚のぼうが剛助の木刀を巻き上げ腹を突いた。「グウ・・」息が止まるほどの鈍痛が腹の底に届いた。
「この棒が本物の槍だったらお前は既に冥土行きだ。棒を本物の槍と思え。次行くぞ」
和尚の棒が襲ってきた。今までに経験したことのない恐ろしい程の槍の突きだった。
剛助は境内を逃げ回り棒を避けた。
「剛助何時まで逃げ回るつもりだ。反撃はできないのか」言いつつも和尚の棒は襲ってきた。
気が付くと剛助は又一本杉の根本に追い詰められていた。「ほれ・・」槍の穂先が剛助の胸に迫った。―危ないー剛助は槍の穂先を木刀で払った。払ったつもりだった。空いたわき腹に槍の穂先白い布玉が突きこまれた。「うっ・・」剛助は痛みをこらえた。
「これで二度お前は死んだ。人間一度死ねば目覚める事はない。今回は生かしてやる。次・・」
和尚の棒が容赦なく襲ってきた。「殺される・・」剛助は本当にそう思った。足が震え体から力が抜けた。槍の穂先が目の前に迫るのを見た。「俺は死ぬ・・」そう思った時体は右に半身となって槍の穂先を交わし、木刀で和尚の棒の手元を打ちおろしていた。カッ和尚の左手が棒から離れ、和尚が後ろに飛び下がった。
「危なかった。もう少しで左腕を失う処であった。どうやら本気が出た様だ。次・・」
和尚はとどまる事もなく必要に槍を繰り出してきた。「今度こそ冥土に送ってやる」
うそぶいた和尚の目に赤い炎が見えた。―和尚さんは本気で俺を殺す気かー木刀を構え直して剛助は和尚に対峙した。―殺すなら殺せー剛助は槍の、白い布玉の穂先に飛び込んだ。身体が無意識に反転して穂先を交わし木刀は和尚の肩目掛けて打ち下ろされた。和尚は是を半歩引き紙一重で避けた。「ほう・・こちらが冥土に送られるところだったわい。大分立ち合いの意味するところが分かってきたようだ。もう少し痛め着けてやらねば真の剣術は判るまい。参る・・」
和尚が棒を上段に構えて剛助に向かってきた。
―あの槍はどう動く・・どう落ちて来る・・落ちた槍はどう攻めて来る・・―
剛助の脳裏に瞬時にこの思いが駆け巡った。剛助は是を防ぐべく木刀を上段に構えた。
和尚の上段の槍がビューと振り下ろされ剛助の鬢を狙ってきた。剛助は木刀を立ててこれを受けた。ガッー木刀を握る手に衝撃が走った。剛助は次の攻撃を予測して後ろに飛びす去った。
「逃げるか・・」和尚の槍の白い布玉の穂先が追ってきた。剛助は木刀を中段に戻し後ずさった。
和尚の槍は首に腹に足に連続して繰り出されてきた。剛助は必死に受けた。
和尚が槍を、棒を引いて立てた。「今日は是迄じゃ。木刀を納めよ」そう言い残すと和尚は本堂へと上がって行った。剛助はガックリと膝をついた。剛助の背中には冷や汗が流れていた。
激しい疲れが全身を覆っている。剛助はふら付きながら家路についた。家に帰った剛助は倒れこんで死んだ様に眠った。目が覚めたのは夜中だった。見開いた目に母稲の顔があった。
「目が覚めたか。飯を食え。汁を温めて来る」母の稲が炊事場に立った。
起き上がろうとして身体の痛みに顔をしかめた。腕肩腰膝全ての関節が悲鳴を上げていた。
―何故こうなったー思い出そうとしても何も思い出せなかった。頭が混濁するほど全身が疲れ果てていた。ぼんやりと意識のない状態で剛助は飯を食って又眠った。
翌日は座禅を組まされた。目を閉じると体から力が抜け背筋が曲がった。
「剛助背筋を伸ばせ・・寝るなよ・・」和尚がお経をあげ始めた。高く低く和尚の声が眠気を誘った。コツンと棒が頭を叩いた。不思議と痛みは感じられなかった。
剛助は背筋を伸ばし姿勢を正したが和尚のお経が続くと意識が混濁し脳裏に過去が映し出された。影衛門様の庭先で真剣を振る自分がいる。それを縁側に座り見つめる影衛門様とその横にお花が笑って見ている。場面が変わり田草を取る自分が見つめる先にお花の着物の下に覗く白い足がある。
剛助の黙想する顔の頬が緩んだ。コツンと又和尚の棒が飛んできた。
「馬鹿め何を考えている。不浄な思いが蘇ったか。今お前の五感は眠っている。その脳に現れるのはお前の一番欲する思いじゃ。邪念は捨てよ・・」
和尚の読経は終わりがないかの様に続いてゆく。木魚を叩く音に剛助はふと我に返った。
「目を開けよ・・」剛助は閉じた目を開いた。セミの声が大きく聞こえた。和尚の読経がようやく終わった。
「木刀を持って表に出よ・・」和尚が席を立ち上がった。
それは昨日にも増して激しい和尚の攻撃だった。腹を胸を腕を突かれ打たれた。
剛助はそれを木刀で受け、受け流し横に後ろにと逃げて和尚の棒槍を凌ぎ打たれ突かれた。
「止めだ。今日は帰れ・・」和尚の姿が消えると剛助は境内の土の上に大の字に倒れた。
何とか家に帰ると倒れこみ泥のように眠った。母の稲の大きな体が剛助の枕元に座っていた。
和尚の打突を受け続け、その打突を体に受けなくなったのはヒグラシの鳴く頃だった。
「やっと五感が目覚め次なる感が目覚めようとしている。打たれてこその進歩。打たれてこその新たな目覚めがある。分かるか剛助」
「それは打たれたくない。突かれたくないと思うことでしょうか」
「そう言う事だ。人間は危険を予測しそれを避けるために五感が作用する」
「和尚さん五感とは何のことですか。俺には分かりません」
「五感とは人に備わった視覚聴覚臭覚味覚触覚のこの五つの事じゃよ」
「はあ何だか分かった様な分からなかった様な・・」
「それで良い。剛助お前には生まれつき持っている、もう一つの感がある。それは剣を取る者にとって見えない力となるものだ」
「見えない感ですか・・それが俺にあると・・」剛助は首を捻った。
「分からなくてもよいわ。明日からは影衛門様の元に帰れ。これを影衛門様に・・」
和尚が剛助に一通の書状を託した。日暮れが早くなっている。
藩主の巻き狩り
剛助は和尚の書状を影衛門に手渡した翌日、影衛門の屋敷を訪れた。
「間もなく稲刈りの忙しい時期になる。米秋が終わるまで家で木刀での素振り千回、竹林での竹を相手の突きの稽古をせよ。それまでは屋敷には来なくてよい」
影衛門はこう剛助に言い渡した。
剛助は少し落胆し影衛門の屋敷を後にした。―花の顔が見られなくなるー寂しかった。
稲刈りの農繁期、剛助は農作業を終えた夜間に素振りを、手の空いた時を見計らい竹林に向かい竹を相手に突きの練習に励んだ。竹への突きは生易しいものではなかった。丸く滑る竹を突けば木刀の切っ先は左右に流れ、竹の中心を突くことは安くはなかった。
どうにか竹の中心に切っ先を当てる事が出来るまでにひと月を要した。
秋の収穫が終わり、笛太鼓で賑わった秋祭りが終わっても影衛門からの呼び出しはなかった。
剛助は一人竹に挑んだ。何時も脳裏に浮かぶのは影衛門様の刀の切っ先が竹を貫く突きの場面だった。「ヤッ・・」短く気合を発し竹を突く。竹はわずかに撓るが割れる事もない。それでも剛助は飽きることなく竹を突いた。
北風が吹き年を越えても影衛門からの呼び出しはない。剛助は一人素振りと竹への突きを続けるしかなかった。そんな時突然影衛門からの呼び出しがあった。影衛門の屋敷に出向くと剛助の父米助他小作人全員と近郊の農民達が集まっていた。
「皆に集まって貰ったのは他でもない。代官所のお達しで明後日、隣村の狩場で殿お出ましの狩りが行われる。その勢子をわが村からも出すようにとのお達しであった。明後日早朝、皆それぞれ勢子の持ち物を用意して集まってくれ」
影衛門の屋敷から皆去って行った。後に残った剛助に影衛門は竹槍を持ってくるように命じた。勢子の棟梁は影衛門が勤めることも告げた。
狩りの当日、影衛門の率いる岩川郷の一行は隣村の狩場に向かった。
狩場の里山は木々が伐採され、山裾の田に陣膜が張られ鉄砲弓槍の兵が持ち場についている。
影衛門率いる一行は隣村郷士小竹亀衛門の率いる隣村の百姓達と共に総勢約二百人が山をぐるりと囲み追い込みに掛かった。銅鑼や太鼓、竹を叩いて皆山を登って行く。
影衛門は長い竹竿に白い旗を掲げ存在場所を示している。亀衛門は赤い旗を掲げていた。勢子の一団が山を越えた。山の頂上から勢子の打つ銅鑼や太鼓の音が待ち受ける山裾の陣迄聞こえて来る。「いよいよだな・・」陣幕に腰を据える藩主直孝が身を乗り出した。
横一線の勢子が山の中腹まで降りて来た。里山に配された鉄砲隊が発泡した。銃声が次々と鳴り響いた。「抜けたぞ・・」大声が聞こえた。猪の一団数匹が里山から駆け下りて来た。
弓隊が矢を放った。矢を受けた小さな猪が倒れた。先頭を突進する大猪が突然陣幕に向かってきた。槍隊が槍を構えた。藩主直孝が立ち上がった。「殿を守れ」藩主の前に槍衾が敷かれた。
陣幕手前で大猪は突然方向を変えて山に向かった。「逃げるぞ」誰かが叫んだ。勢子が山裾に迫り鉄砲の音は途絶えた。シカやムジナ、野兎が里山に転がった。
「あの大猪はどうした。逃げたか」藩主直孝が側近に尋ねた。
「それは確かめて見なければ分かり兼ねます。取ったとの報告はまだありません」
勢子達が山を下りて来た。「殿あれは・・」側近の者が指さした。その指の先に大猪を担いだ勢子の一団があった。先頭に竹竿に白旗を掲げた影衛門がいる。猪を担いでいるのは剛助と取り巻きの三人だった。次々と得物が藩主の元に運ばれた来た。
影衛門が旗を降ろし藩主の前で膝を折った。大猪を運んできた剛助達も影衛門の後ろに跪いた。大猪の周りを側近の若侍や重役達が取り囲み見聞した。大猪は前足の付け根心臓を一突きされて死んでいた。「これは見事。心臓一突きじゃ」検分した重役の一人が声を発した。
それを聞いた藩主直孝が覗き込んで影衛門に尋ねた。
「この大猪を仕留めたのは誰じゃ」影衛門が答えた。
「この猪を仕留めたのは我が家の郎党、ここに控えます若者剛助にございます」
藩主直孝は驚き剛助に尋ねた。
「剛助とやらお主歳は幾つじゃ・・」剛助は頭を下げたままで答えた。「十六歳にございます」
「何十六歳じゃと・・。お主槍は誰かに教わったのか。して猪を仕留めた得物は何じゃ」
「はい得物は竹槍にございます。私に槍の手ほどきをしてくれた師匠は光福寺の楽念和尚様と旅の僧の白雲斎様でございます」
「何白雲斎とな・・白雲斎と楽念和尚に手ほどきを受けた竹槍で大猪を仕留めたか・・」
藩主直孝は聞いている重役達を見回した。「おお・・」と驚きの声があちらこちらで上がった。
「そうであったか。奇遇である。剛助に言い渡す。名を猪野谷剛衛門に改めよ。今日より郷士の扱いとし帯刀を許す。知行は追って沙汰する」剛助は声も出せず平伏していた。
後に藩から五反の田を受け取り剛助は実質的な郷士となった。
この吉報を聞いた母の稲は涙を流して喜んだ。父の米助は現地で既に吉報を聞いており皆から祝福を受けていた。この息子剛助の仕業に腰を抜かした米助を皆が知っている。
「剛助いや剛衛門殿・・呼びにくいのう」影衛門が剛助と顔を合わせ苦笑いを浮かべた。
「影衛門様。俺は剛助と呼ばれた方が気楽でいいです。剛衛門は年寄り臭くていけない剛助と呼んでください」
「そうよの。当分は剛助と呼ぼう。改まった席では剛衛門と呼ぶがな。それで良いか」
「影衛門様の前では生涯剛助のままで御座いますれば何処の場所でも剛助と呼んで下され」
「そうかお前はわしの息子の様な者じゃからな」
影衛門に息子の様な者と言われ剛助は嬉しかった。剛助は光福寺に向かった。
郷士猪野谷剛衛門
楽念和尚は剛助を本堂に上げ大刀を持って出て来た。この大刀を剛助の前に置き「この太刀はこの和尚が若い頃腰に差していた刀じゃ剛助お前に進呈する」と言った。
「この刀を俺にくれるのか。和尚さんは元は武士だった・・」
剛助は和尚の武術の腕前から想像は出来た。
「そうだ。跡継ぎの和尚が家禄を捨て仏門に入った為家は耐えた。だが家宝であったこの関の孫六の太刀、和尚の弟子であり郷士となった剛助お前にやるのじゃ。抜いて見ろ」
和尚に勧められ剛助は太刀を抜いた。細身だが波紋の美しい刀だった。
「和尚さん。綺麗な刀だ。見とれてしまうよ。それによく切れそうだ」
「そうか。では何か切ってみるか。今までこの太刀で物を切った試しがない」
「和尚さん俺に何を切れと言うのか・・」「境内に出よ。さすれば分かる」
剛助は太刀を持って境内に出た。影衛門が居合切りで切り、剛助が切れなかった竹のあった場所に新たな竹が一本立ててある。
「あの竹を試し切りしてみよ」和尚が指示した竹に剛助は向かい太刀を抜いた。
中段に構えていた太刀を振り被ると剛助は呼吸を整え袈裟崖に一気に振り下ろした。何の手応えもなく竹はスパリと切り落とされ地表に転がった、
「切れた・・」剛助は太刀を下段に構え竹に突き上げた。太刀の切っ先が竹を突き抜けていた。剛助は太刀を引き抜くと横に払った。竹は切り分けられた。
「剛助。影衛門様の言い付けを守っていた様だな。見事だ。これでこの和尚が教える事はなくなったようだ」楽念和尚が満足気に笑顔になった、
影衛門の屋敷に戻って来た剛助は太刀をもらった経緯とその太刀で竹を切った事まで詳細に影衛門に話した。
影衛門は御坊に先を越されたかと笑い、楽念和尚が元当藩の武士で前藩主の御側に使え当藩主直孝に槍の手解きをした逸材であったと教えてくれたが武士を辞めた経緯は教えてくれなかった。最後に「あの突き技はいざという時以外使ってはならぬ」と念を押した。
剛助が帰ろうとすると「しばし待て」と剛助を足止めすると屋敷の奥に消え、すぐに姿を現した。影衛門の手に脇差の刀があった。「これは当家に伝わる備前長船祐定の脇差じゃ。苗字帯刀を許された祝いにこれをお前にやる。和尚の太刀だけでは二本差しにはならんからな。何も言わず黙って持って行け」差し出された脇差を膝を折って受け取った剛助は深々と頭を下げた。
竹槍一本で大猪を仕留めた剛助の噂は城下にまで広がり一膳飯屋丸吉の主善平,姪御の菊にも聞こえて来た。小さい頃から店に野菜を売りに来る幼馴染の剛助の噂にお菊はもろ手を挙げて喜んだ。しかし相手は苗字帯刀を許された郷士となり慣れ合いの応対は出来なくなった。それを知ったお菊は落胆した。もう会えないのだろうかと思っていると、野菜を大八車に積んで剛助がやってきた。何時もと変わらず笑顔で店に顔を出した。
残バラ髪を束ねて皮ひもで結び野良着姿の剛助は何時もどおりの変わらぬ若者だった。
「これは剛助様この度は・・」対応に出た善平が堅苦しい挨拶をしょうとしたところに店奥からお菊が飛び出してきて剛助を店に引き込み手を取って飛び跳ねた。
「剛助さんやったね。おめでとう」見かねた善平がお菊をたしなめた。
「これお菊。剛助様は以前の剛助様ではないぞ。今の剛助様は・・」
「善平さん。その様な他人行儀は止めてくれよ。俺は今もこれからも岩谷の百姓剛助だから堅苦しいもの言いは止めてくれよ。お菊ちゃんありがとうよ。これからも仲良くしょうな」
これを聞いた善平は頭を振り振り軽く頭を下げ「世間知らずのお菊を許してくだされ」と謝った。剛助の野菜は瞬く間に売りつくした。大猪を仕留めた剛助の噂の効き目はてき面だった。
我も我もと皆野菜を買い求めてくれた。空になった大八車を引いて剛助は家路についた。
剛助と与一郎
一人稽古を続ける剛助は長い棒を持って光福寺の境内に赴いた。長い棒を自由自在に振り回せるのは寺の境内だけだった。境内には土俵の向こうに丸太が以前のままに立っている。
剛助はその丸太を相手に棒を突き入れた。棒をしごいて棒を突き出す事を繰り返す。
楽念和尚が本堂から顔を出し剛助を見つめていたが、やがて境内に出て来た。和尚の後ろに代官の息子与一郎の丸い坊主頭が従っている。与一郎の手にも長い棒が握られていた。
丸太の中心を的確に突く剛助の棒が後ろに引かれ振り向いた剛助が楽念和尚に頭を下げた。
「剛助一人稽古は味気なかろう。この与一郎にもその丸太を突かせてやってくれ」
「分かりました」と剛助は棒を持って後ろに下がった。与一郎が棒を小脇に構え丸太を突いた。
与一郎の棒は丸太を外れた。十回二十回与一郎の棒は丸太の中心を突く事は出来なかった。
「どうだ与一郎。見ているほど安くはなかろう。剛助はお前には信じられない程の厳しい修業に耐えてきた。竹槍で一突き大猪を仕留めるなど常人には出来ぬ仕業だ。これからは剛助いや剛衛門殿に教えを乞え」与一郎は和尚の言葉をどうとらえたのか無言で頭を下げた。
其日以来剛助は与一郎の指導に当たった。与一郎にとって年下の百姓に指導されることは屈辱でしかなかった。痩せても枯れても我は代官の息子だと言う優越感がある。その事を楽念和尚に悟られる事のないように従順に剛助の指導に従った。
其日は楽念和尚も立ち会っての稽古で日暮れて稽古を止めた。月のない闇夜で冬空には満天の星が輝いていた。剛助は棒を担いで家路についた。寺の石段を降りて暫く歩くうちに、剛助は
背中に寒気の様な違和感を感じた。五感が危険を知らせてくれる。無意識に顔を背け半身になって棒を後方に突き出した。顔の横を何かが吹き抜けた感じがある。棒の先が何かに当たった手ごたえがあった。剛助が振り向くと道に
何かが転がっている。目を凝らしてその物体を見つめた。「与一郎・・殿」腹を押さえて与一郎がエビになって転がっている。。その横に長い棒が転がっていた。与一郎に後方から襲われた事を剛助は思い知らされた。
剛助は倒れている与一郎の僧衣をはぎ取り裸にして僧衣で後ろ手に縛りあげた。棒を拾い上げ、与一郎を担いで明かりの灯る影衛門の屋敷に向かった。影衛門の屋敷の門を潜り庭先で大声で来訪を告げた。何事かと飛び出してきた影衛門は剛助が担ぎ下ろした者を見て驚いた。
剛助から子細を聞き取ると屋敷の番小屋で寝起きしている作男の茂平を光福寺に走らせた。暫くすると下駄を鳴らして楽念和尚がやって来た。影衛門が剛助から聞いた子細を話すと楽念和尚は庭先に転がる気絶している与一郎の裸の背中を下駄で蹴り上げた。呻いた与一郎が目を覚まして己の滲めな姿に絶望した。
「与一郎お前は何という卑劣な手段で剛助を襲った。此の事が世間に知れ渡り、殿の御耳に達すれば覚えめでたい剛助を闇討ちに襲ったお前は愚かお前の父はどうなる。面目は潰れお役御免はおろか悪くすれば切腹・・」「和尚様私が悪う御座いました。何卒お許しください」
足元で裸の与一郎が泣いている。
「愚か者め。今更遅いわ。その恰好で寺の石段に転がっているがいい。明日になれば村の者が見に来て笑ってくれるわ」「和尚様お助けを二度と卑怯な真似はいたしません」
「お前の言葉など信じられるか。白雲斎様の事を忘れたのか。あの時でさえお前と代官の命はなかったのじゃ」「和尚様影衛門様剛助殿どうぞお許しを二度と過ちは犯しません」
与一郎の惨めな姿に剛助は同情した。―年若い俺が指導すべきでは無かったー
剛助は与一郎の手を縛っている僧衣を解き、その僧衣を与一郎の肩にかけてやった。
「和尚さん。与一郎さんも反省している様子許してやってください。この件は和尚さんにも責任があります。そもそも年若の身分違いの俺に指導を任せたのは和尚さんの間違いだった。
与一郎さんが恨んでも仕方がないやり方でした。だから俺は与一郎さんを恨みません」
「剛助に言われてみれば一理ある。わしも与一郎の気持ちを察してやれなかった。影衛門殿
わしは許そうと思うがどうだろう」和尚に決着を求められた影衛門は答えた。
「和尚この件は私には関係ない事。和尚に仕置きを譲りますよ。何卒良しなに」と。
手を合わせ剛助に謝る与一郎を連れて楽念和尚は帰って行った。
後に残った剛助は与一郎に襲われる前に感じた異様で不吉な感じと、後ろから襲ってきた与一郎の棒を無意識に避けて見えない相手に棒を突き出していた行動を影衛門に話した。
「剛助以前五感について話した時もう一つの感があると話したと思うが、それがもう一つの感第六感と言うものだ。直感霊感とも言う。古来より人間誰もが持っている感だがその感を実感する者は少ない。お前の第六感は修業の内に目覚めたのじゃよ」
「第六巻ですか・・危険を予知できる感と言うことですか・・それが俺の内に目覚めたと」
「そうじゃ。お前は曲がりなりにも今は武士じゃ。これから先如何なる危険に会おうともその六感が危険回避に役立つはずだ」「はあ・・俺には良く分かりませんが・・」
剛助は半信半疑で影衛門の屋敷を出た。
参勤交代
代官所から影衛門へ、影衛門から剛助こと猪野谷剛衛門に参勤交代槍持ちの命が伝えられたのは風緩む三月末の事だった。
四月剛助は大小の刀を腰に手挟み槍持ち御徒士として藩主直孝の参勤交代に参列し江戸へと向かった。十五日後行列は無事に江戸に着いた。藩主直孝を上屋敷に送り届けた一行は暫く下屋敷に滞在した。田植えの時期が迫る郷士達は十五日後帰国が許された。
剛助は許しを得て脇差のみを腰に江戸見物に出かけた。見る者聞く者珍しいものばかりだった。庶民の住居が立ち並ぶ裏通りに足を踏み入れた剛助は木剣を打ち合う音を聞いた。
将軍吉宗の武道奨励により江戸には無数の剣術道場が出来ている。道場の看板には金剛無双流道場と厳めしい名が達筆の墨で記されている。剛助は物珍しさに引かれてあまり大きくない町道場の敷地に入り道場の武者窓から中を覗き見た。剛助の他に商人風の男や職人風の男が窓から覗き見をしている。一人の男に尋ねて見ると道場の門弟は下級武士や仲間、剣術好きの商人も混じっていると言う。道場主は元僧だという。
道場内では木太刀の他六尺棒を持つ者もいた。皆真剣に相手と打ち合っている。「おや・・」
剛助は六尺棒を使う一人に目を止めた。何処かで似たような技を見た事がある。その男の動きに視線を送っていると後ろから肩を叩かれた。
「外から覗き見するより中で見るとよい。入門希望なのか」剛助が否定して帰ろうとすると二人の若侍に両脇を抱えられ強引に道場に連れ込まれた。
剛助が道場に連れ込まれると皆が木刀や六尺棒を納め剛助を見た。年長の下級武士と思われる男が剛助を連れ込んだ若侍二人に尋ねた。
「この若造は何だ。一応脇差を帯びていることから見ると、どこぞの田舎武士であろう。この道場の技を盗みに来たか。それとも入門希望者か・・」若侍が答えた。
「この若造がいやに熱心に窓から覗いているので連れて来た。少し稽古をつけてやろうと思って・・」
「そうか。若造お前は何処の藩の者だ。この金剛無双流の道場と知って覗いていたのか」
尋ねられて剛助は「私は高峰藩の者で決して怪しい者ではありません。先日参勤交代のお供で江戸に来たばかりです。この強そうな道場名に引かれて覗いただけで御座います」
「そうか。高峰藩の田舎武士であったか。ならその強そうな道場名の実力がどの程度のものか教えてやろう。お前の得意は何だ。剣か棒か・・」
剛助は窮した。他人との立ち合い稽古などやった事がない。「何分私は不器用で得手はありません。しいて言えば槍を少々たしなみます」剛助は小声でぼそぼそと答えた。
「何槍だと。お前は馬鹿か。この狭い道場で槍を使えると思っているのか。なら棒を使え」
年配の武士に促された一人の武士が持っていた棒を、正座している剛助の前にカランと投げた。年配の武士が剛助に棒を拾えと命じた。その棒を剛助は拾おうとしなかった。
「何故棒を拾わない。拾わねば此方から参るぞ。少々痛いぞ・・」
年配の武士が木刀を上段に構えた。剛助は転がっている棒を引き寄せ横に置いた。
「まだ棒を取らぬか。ならば・・」年配の武士が木刀を振り下ろそうとした刹那剛助の横の棒がその武士の喉元に伸びた。棒は喉を突いた。「グウ・・」喉元を押さえ年配の武士は道場の隅に転がった。剛助は正座を崩さず座っている。剛助を取りまき見ていた門弟達は色めき立った。
木刀を棒を握って剛助を取り囲んだが誰一人剛助に打ち掛かろうとする者はいない。先程の目にも止まらぬ棒の突きを警戒しての事だった。
「騒がしいぞ。何事だ。高峰藩の若者は何処にいる」道場の入口から坊主頭の僧が入って来た。
剛助は頭を下げたままでその僧を仰ぎ見た。そして「あっ・・」と驚いた。道場に入って来たのは白雲斎だった。門弟の一人に実情を聞き取ると転がっている年配の武士に視線を送り向き直って剛助の前に来た。
「高峰藩から来たと言うのはお前か。表を上げて見よ」白雲斎に言われて剛助は顔を上げた。
剛助の顔を見た白雲斎は驚きを隠さず「お前・・お前は剛助か・・」白雲斎が破顔一笑した。
「はい。剛助で御座います。お懐かしゅう御座いますお師匠様・・」
白雲斎をお師匠様と呼んだ剛助と白雲斎の顔を門弟一同が見やった。
「そうじゃ。此の者はわしの弟子じゃ。これ以上の無礼はわしが許さんぞ。剛助立て。奥で話そう。積もる話を聞かせてくれい」
剛助は白雲斎に導かれ奥の座敷に腰を下ろした。
道場では剛助を道場に連れ込んだ若侍二人が門弟達に責められていた。
「お前達あの技を見たか。寄りによって客人先生の弟子を引き込むとは。お前たちが相手をしなくて幸いだったな」
皆に言われて小さくなって反省している二人だった。
座敷に通された剛助は白雲斎と対座して白雲斎の問いに答えた。
白雲斎が光福寺を去った後の出来事を剛助は逐一語った。影衛門から剣技の手解きを受けた事。藩主の狩りで大猪を竹槍で仕留め苗字帯刀を許された事。楽念和尚から太刀を授けられた事。影衛門から脇差を賜った事。ただ与一郎の一件は語らなかった。「そうか。良く分かった。では今日の一件は剣技の一手か・・」白雲斎に聞かれて剛助は有りのままを話した。打たれると思った瞬間手が動き棒を突き出していたと。それを聞いた白雲斎の頬が緩んだ。
「剛助知らぬ間に腕を上げたな。無意識の技を会得している様だな。明日から帰国までこの道場に通って来るがよい。上司に白雲斎が言ったと言えば許してくれるはずだ。この道場の門弟はお前の剣技の練習相手には丁度いいはずだ。技の一つも教えてやろうぞ」
積もる話も尽きて剛助は白雲斎の元を去った。翌日から剛助の道場通いが始まった。
道場に入ると剛助は木刀を握った。だが誰も相手をしてくれなかった。仕方なく剛助は素振りを始めた。剛助の木刀が空を切る音がした。門弟達の動きが止まった。皆の目が剛助に向けられている。ピュッピュッと木刀を振るたびに空が切られる。百回二百回五百回千回剛助は木刀を納めた。皆が見とれて稽古は中断したままだ。
「お前達何をしている。稽古はどうした」いつの間にか道場に出て来ていた白雲斎が怒鳴った。
動きを止めていた門弟達が慌てて稽古を始めた。
「おいお前・・」白雲斎に呼ばれた青年武士が立ち合い稽古を止めて白雲斎の前に行くと
「お前が猪野谷の相手をしろ」と命じられた。また門弟達の目がその青年武士に向けられた。剛助との立ち合い稽古を命じられた青年武士が剛助の前にやってきた。
「猪野谷殿どうかお手柔らかにお願いします」と頭を下げた。「此方こそお手柔らかに・・」と剛助は応じて木刀を中段に構えた。青年武士も中段に構え気合を発して打ち込んできた。
剛助は軽く交わして相手の木刀を軽く弾いた。相手の木刀が道場の羽目板に飛んだ。
「危ない・・」誰かが叫んだ。門弟達が剛助とその相手との距離を取って道場隅に下がった。青年武士が木刀を拾い構え直した。「油断した。もう・・」木刀は落とさないとでも言ったのだろう。連続した打ち込みを仕掛けて来た。それを剛助は木刀で受けずことごとく体で交わした。
青年武士の打ち込みの力が鈍った。気の宿らぬ木刀を剛助はまた軽く木刀で受けて弾いた。
相手の木刀は武者窓を飛び出した。「おおっ・・」門弟達から声が漏れた。
「止めい・・腕が違いすぎる。後でわしが相手をしてやる。見学でもしていろ」
門弟達は又道場の中央に戻り稽古を始めた。白雲斎が時々門弟達を口頭で指導する。剛助はその様子をただ見つめていた。時が過ぎ「今日は是迄」白雲斎が声を掛けると門弟達は帰っていった。残ったのは内弟子の二名だけだった。
「剛助待たせたな。始めるとするか」白雲斎が木刀を握った。「お願いします」剛助も木刀を握って道場中央に進み出た。「では参ろう・・」白雲斎は構えとは言えないだらりと木刀を下げた下段にして剛助に向かって一歩踏み出した。剛助は中段に構え半歩下がった。隙だらけに見える白雲斎の構えに剛助は動けなかった。白雲斎の見えない気迫が剛助を襲った。
―槍を教えてくれた白雲斎様ではないー剛助はじりじりと下がった。白雲斎の気迫が追ってくる。耐えられず剛助はその気迫を断ち切る様に白雲斎の前に上段から打ち込んだ。「ヤッ・・」
打ち込んだ剛助の首筋に冷やりと白雲斎の木刀が触れた。
「剛助遠慮はいらぬ。思い切って打ち込んでまいれ」木刀を中段に構え直して、構えとは言えないだらりと木刀を下げた白雲斎に剛助はぐいと一歩押して出た。白雲斎は静かに立った動かない。目は閉じられているのか、まるで座禅を組んでいる時の目だ。―何処を見ているー
剛助は構えを八双に変え「オリャ・・」袈裟崖に白雲斎に打ち掛かった。カッ。木刀が当たる音がして又しても首筋に冷やりと木刀が当たった。
この日剛助は何度も構えを変え打ち込みを続けたが一度も剛助の木刀が白雲斎に届く事はなかった。「剛助また明日じゃ・・」木刀を納めた白雲斎は何を思うのか笑っていた。
次の日剛助が打ち込めば右の利き腕に白雲斎の木刀が乗った。何処打ち込んでも白雲斎の木刀は剛助の利き腕の上で止まっている。刀であれば腕は切り落とされたであろう。
次の日は頭に又次の日は肩に又次の日には足に胴にと白雲斎の木刀は剛助の打ち込みを外し剛助の身体の至る所で止まった。
五日目道場に道場主の石川無風斎が帰って来た。無風斎は十年前旅先で白雲斎に出会い棒を交えた。何度も打ち据えられて挙句白雲斎の弟子になった。三年前無風斎は江戸に出てこの道場開いた。白雲斎は江戸に来るたびに、この道場を宿とし門弟を指導した。この道場の門弟達は白雲斎を客人先生と呼んだ。無風斎は白雲斎の弟子である剛助に興味を持った。
「一度手合わせをさせてくれ」と白雲斎に頼んだが「まだ修業中の身だ。相手にするには早い」とこの要求を退け「稽古を見るのは構わない」とそれとなく剛助の技量を確かめさせた。
白雲斎と剛助。二人だけの稽古を覗き見た無風斎は剛助がただ者ではないと直ぐに感じとった。「我が弟弟子は稀にみる一財である」と剛助の腕前を認めた。
十日が過ぎた。この日白雲斎は剛助に受け太刀の技を伝授した。相手の剣を受けて捌いた後の切り替えしの剣。白雲斎が剛助に対し行っていた全ての技は後の剣だった。受けて切る。捌いて切る。受ける箇所、捌いた体制によりおのずと相手の打つ場所が変わって来る。白雲斎が打ちこみ剛助が受け捌いて寸止めで打つ。
四日後、明日剛助が帰国すると言う日に白雲斎が言った。
「わしは剛助に後の件を伝えたが先の剣は伝えなかった。先の剣とは相手が打ち込む前に隙を見出し打ち込み勝ちを得る剣だ。何故先の剣を教えなかったか。それは剛助が与一郎から闇討ちを受けた時会得しているからじゃよ。」
「えっ・・何故白雲斎様が御存じで・・」「剛助故郷を離れてもわしは高峰の人間じゃ。高峰の何処で何があったのか全てお見通しじゃよ。此れからは先の技を修業せよ。さすればもっと上の境地に達する事が出来よう。これが白雲斎最後の餞じゃ。達者で暮らせ」
剛助は白雲斎の前で手を突き涙ながらに礼を述べ別れを惜しんだ。
帰国半眼の目付棒対棒
剛助は高峰藩岩川郷の故郷に帰ってきた。まだ終わっていない田に数人が並んで田植えをしている。母稲の大きな背中が見える。剛助は声を掛けず家に帰ると旅装束を解き野良着に着替えて田圃に向かった。
「親父お母帰ったぞ」田に声を掛けると皆が顔を上げた。皆が笑顔になった。
「剛助無事に帰ったか。猫の手も借りたいところだ。早く手伝え・・」母の稲が腰を伸ばして大声で言った。剛助は田に飛び込んだ。
その夜剛助の家には小作人の面々が集まり影衛門も姿を見せた。剛助は江戸で見聞きした出来事を土産話に話した。江戸を知らない小作人達は目を輝かして聞いた。取り分け金剛無双流道場と白雲斎の話には影衛門が興味を示した。「白雲斎様が江戸へのう・・。楽念和尚にも教えてやらねば・・」と目を細めた。
田植えが終わり一息つくと剛助は光福寺の楽念和尚と会った。
楽念和尚には旅の無事と江戸での白雲斎との出会いを語った。その後で光福寺での座禅修業を願い出た。「江戸で何を得たのか知らぬが気の済む迄座禅を組むが良い。朴念も与一郎も共に座禅を組まそうゆえに」楽念和尚は心良く応じてくれた。
翌日から夕刻剛助は光福寺本堂で座禅を組んだ。朴念と与一郎も一緒にだ。剛助は目を閉じず半眼で座禅を組んでいる。脳裏に糸を引いた様な半眼で木刀を構えもせず立つ白雲斎の姿がある。―何が見えるのか。何を見ていたのかー剛助はそれが知りたかった。
朴念がコクリと首を垂れた。眠気が襲って来た様だ。楽念和尚の木魚のバチが朴念の肩を叩いた。朴念は目を開けて口の涎をぬぐった。与一郎は目を閉じて何を思うのか動かない。
十日ひと月光福寺の本堂で剛助の座禅は続いている。伽藍の屋根に振る雨の音だけが聞こえて来る。与一郎が膝を動かした。楽念和尚のバチが与一郎の頭を叩いた。与一郎が手を合わせて頭を下げた。与一郎の性格は変わりつつある様だ。朴念は雨音に誘われてゴロンと横たわった。
小さな寝息が聞こえてきた。楽念和尚は苦笑いを浮かべるも何もしなかった。朴念はまだまだ子供なのだ。
剛助の半眼が何かを見ている。広い空間だ。焦点の合わない目が何かを悟った。
梅雨が明けた。稲は青々と順調に成長している。田の草を取る剛助の野良着の襟が汗を吸い額からも汗が流れた。農作業を終えると谷川で水を被り剛助は光福寺に向かう。座禅は続けられている。座禅を始めてから木刀は握っていなかった。
夏の日暮れは遅い。座禅を組んで時は過ぎるが日が山に沈んでも暮れる様子はない。
本堂だけは少しずつ闇が忍びよっていた。
剛助、与一郎、朴念の三人が静かに座禅を組んでいる。
「和尚、和尚さん剛助が居るはずだ。居るなら表に出る様に行ってくれ」
甲高い若者の声が聞こえた。楽念和尚が立ち上がり本堂から境内を見た。若者が六尺棒を持って立っていた。
「小竹勇馬ではないか。こんな時刻に何用だ。剛助はいるが今座禅を組んでいる。表に出る事はできぬ」和尚に断られた勇馬はその場に座り込んだ。
「座禅が終わるまでここで待つ。それで文句はあるまい。くそ坊主」
「勇馬よ。くそ坊主は余計じゃ。もう一度聞く。要件は何じゃ」
「和尚に言う事はない。槍名人の剛助に会いたいだけじゃ」
「剛助に会って何とする。見るところその六尺棒で剛助と立ち会う気か。何かの遺恨かそれとも郷士になった剛助に対する僻みか。ならばお前の負けじゃ。止めておけ」
「遺恨はある。俺は相撲で初めて剛助に負けた。それも大勢の見ている前でじゃ。この屈辱は返さねばならん。僻みはない。俺の家は元々の郷士じゃ。なにを僻む事がある」
「いやまだあるぞ。剛助が参勤交代で江戸に行った事じゃろう。お前も行きたかったのであろう。その剛助に勝ったと言えば、お前と言う存在が認められると思ったのであろうが。小さいのう。それでは大人にはなれないぞ。それに親父どの亀衛門に許可をもらって来たのか」
「これは親父殿には関係ない事だ。許しなど必要ない」
「困った奴よのう・・今の剛助・・」
「和尚さん座禅は終わりにしました。勇馬の話は聞きました。立ち合いとは試合の事。それを受ける事はできません。一本だけの稽古ならどちらが勝っても負けても遺恨は残らぬはず。和尚さん見届けてくれますか。勇馬それで良いか」
「何が稽古だ。我が父より伝授された棒術に手心を加える稽古はない。当たれば痛いぞ。それでもいいか」「招致した。和尚さん白雲斎様の棒を拝借できますか」
和尚が本堂奥より六尺棒を持って出てきた。剛助はその棒を受け取ると境内に降りた。勇馬も境内中程に位置を定め棒を構えた。剛助は勇馬と相対して棒を立てトンと地面に突いて立った。「剛助こい」勇馬が棒を突き出し剛助を誘った。
剛助は動かず棒を立てたままで動かなかった。ただ剛助の目が糸を引いた様に半眼になっている事を勇馬が気ずいたかどうか。
「剛助臆したか。何故棒を構えない」「勇馬うるさいぞ。何処からでもこい」
「俺をなめているのか。ならば後悔するな・・」勇馬は棒を振り被ると飛び込みざまに剛助の頭目掛けて振り下ろした。―打った・・―勇馬は一瞬そう思った。その刹那腹のみぞおちにズンと衝撃を受けた。息が止まった。膝を折って勇馬は土に上に転がった。
遠くから見ていた与一郎が自分の腹を押さえた。闇討ちで受けた腹への強烈な一撃を思い出したのだ。
勇馬が腹を押さえて転がったままだ。剛助の棒はどう動いたのか。剛助は勇馬の棒が頭上に打ち下ろされる瞬間、右の足で地面に突いた棒の先を蹴った。棒は生き物の様に勇馬の腹に吸い込まれた。構えのない捌いて打つの実践だった。和尚が勇馬の背に活を入れた。
楽念和尚に活を入れられ気が付いた勇馬は辺りを見回した。己の位置や立場さえ覚えていなかった。「気が付いたか勇馬。まだ己の身に起きた現実が理解できていないのだろう」
「あっ・・和尚・・俺は負けたのか。剛助に・・」
「やっと真ともな意識に戻った様だな。まだ勝ち負けを口にするか。お前は剛助に一手の稽古を望んで教えて貰ったのじゃよ。よい勉強になったであろう」
「剛助は・・何処にいる」勇馬はまた境内を見回した。
「剛助はとうに帰ったよ。お前にはもう会いたくないと言っていた」
「和尚、俺は本当に剛助に負けたのか。教えてくれ」「馬鹿者まだ言うか。最初からお前の負けじゃと言ったはずじゃ。剛助はお前が思うよりずっと先に進んでいる。お前は修業を最初からやり直す事じゃ。心の修業をな」
楽念和尚の言葉に打ちひしがれて勇馬は光福寺を去って行った。
本堂の裏手から剛助が出て来た。「和尚さん。俺のした事はこれでよかったのか・・」
「まあ褒められる事ではないかも知れぬが。勇馬が望んだことだ。それに和尚も剛助の腕が見たくて片棒を担いだ。南無阿弥陀仏じゃ」
笑った楽念和尚の御蔭で罪悪感を胸に収めて剛助は家路についた。
二度目の参勤交代江戸へ
三年後剛助は参勤交代のお供で江戸の下屋敷に着いた。江戸に着くと剛助はすぐに金剛無双流の道場に向かった。来意を告げるも白雲斎は旅立っており道場主の石川無風斎が道場に通してくれた。道場主の座る上座の段上の下に青年武士が座っていた。目元の涼しい好青年武士である。無風斎が段上に座ると下座に座った剛助をその青年武士に白雲斎の弟子だと紹介した。
またその青年武士を道場の師範代だと紹介した。その青年武士は剛助に頭を下げて名乗りを上げた。「私は当道場の師範代を務めます戸塚源四郎と申します。以後お見知りおきを・・」剛助は慌てて頭を下げて名乗った。
「私は高峰藩領内に住んでおります剛助と申す百姓で御座います。ここに滞在されていた白雲斎様より棒と剣の手解きを受けた未熟者で御座います。江戸逗留の僅かな期間中ご迷惑とは存じますがご指導の程よろしくお願い申し上げます」
剛助がまた頭を下げると無風斎がもうよいと手で制して口を開いた。
「源四郎よ。剛助殿は自分を貶めて名乗っているが、猪野谷剛衛門と言う名を持つ郷士じゃ。
また三年前江戸に来られた際も御逗留中の白雲斎先生より技を伝授されておる。見くびって対するでないぞ」
「見くびるなど飛んでもない。剛助殿いや剛衛門殿共に学び合いましょうぞ」
爽やかな青年武士戸塚源四郎に剛助はすぐに好感を持った。
「戸塚先生。白雲斎様に指南されて早三年、田舎百姓で相手をしてくれる者もおらず進歩など到底望めず汗顔の至りです。何卒ご指導のほどお願い申します」
剛助のへりくだった言葉に源四郎も好感を持ったのか剛助に話かけた。
「「剛衛門殿歳は幾つになられた。私は二十七歳だが・・」
「戸塚先生私はまだ十九歳の未熟者で御座います。短い期間では御座いますが何卒厳しくお教え願いたいと存じます」
「剛衛門殿剣の修業に年齢は関係ござらぬ。何を隠そう私も田舎の小藩の出で剛衛門殿と同じ位の弟が家の後を継いでおります。剛衛門殿を拝見しふと弟を思い出した次第です。歳等聞いて失礼仕った」
「そうで御座いましたか。ならば私を弟とお思い下されてご指導くだされ」
黙って二人の話を聞いていた無風斎が「源四郎よい機会じゃ。剛衛門殿と旅で得た手並みを試してみよ」と二人に命じた。
道場の門弟達が道場の隅へと下がった。
剛助と源四郎が道場の中央で距離を取って向かい合った。剛助が両手で持った木刀を無構えに下げた。すると源四郎も同じ様に木刀を下げた。
―これは白雲斎様と同じ・・源四郎殿も白雲斎様の弟子かー
剛助は目を細めた。すると源四郎も目を細めた。相対した二人は動かない。源四郎がジワリと前に出た。剛助は動かない。源四郎が無構えのままするすると前にでて剛助に迫った。
剛助が半歩踏み出し源四郎と剛助の木刀がガシリとお互いの胸の前で交差した。その刹那源四郎の木刀が袈裟崖に剛助の肩を襲った。剛助はその木刀を難なく木刀で受けて三歩下がり無構えに戻した。
「剛衛門殿お見事。あの技を難なく見抜くとは感服いたした」
源四郎が木刀を納めて無風斎の前に進み「剛衛門殿はあの若さで受けの全てを会得しておられます。私がいかに打ち込もうとことごとく受け止められてしまうでしょう」
「では聞いて見るとしょう。剛衛門殿この道場で白雲斎様の伝授を受け、その後帰国されいかなる修業をなされたか教えてくれまいか」無風斎が尋ねた。
剛助は木刀を納め末席の戻った。
「無風斎様私は山がの百姓で御座います。私の剣の相手と言えば山の木々で御座います」
「ほう・・山の木々とな。動かぬ木々では相手にはなるまい。どうすれば相手になるのか」
「はい。動かぬ木々なら此方が動けば良いと考えました。全速力で林を駆け抜ける。さすれば木々の枝葉が勝手に攻めてくれるのです。それを受けて捌く。これが私のやってきた修業で御座います。受けて捌いても此方からの攻撃は考えた事がありません」
「それでは勝負はつかないのではないか。白雲斎様に伝授された返しの技は使わないのか」
「私はただ相手を、人を傷つけたくないのです。身を守る剣それが私の剣術です」
「それでは自分を守れても他人は守れないと思うが・・」
「他人を守る事になれば当然返しの技を使います。そのための修業はなおざりにはできません。
白雲斎様直伝の型稽古をお許し願いたい。出来ますればその相手を師範代にお願いしたい」
「それは許そう。後は源四郎の考えしだいじゃ」
「先生私には依存は御座いません。喜んで剛衛門殿の相手を務めます」
こうして剛助は師範代源四郎を相手に白雲斎伝授の技に磨きをかけていった。
帰国の日はすぐに訪れた。剛助は道場で無風斎と師範代源四郎に礼を述べ別れを告げた。
二つの道場
剛助が帰国後三年が過ぎた。剛助は二十三歳になっている。六尺の筋骨たくましい青年に成長している。高峰藩では将軍吉宗の武道奨励により二つの剣術道場が優劣を争っていた。一つは馬回り役や勘定方等の上司の通う一刀流道場ともう一つが下級武士が通う陰流の町道場だった。
其日剛助は地主の影衛門に呼ばれた。影衛門の妻志乃と娘の花が城下の呉服屋に着物の反物を買いに行くその護衛を頼まれたのだ。
剛助は脇差だけを腰に差し志乃奥方とお花の護衛をし無事城下の呉服屋での買い物を済ませて城下を後にした。事が起こったのは帰り路の事だった。城下を抜けると直ぐに後ろから駆けて来る若侍数人に追い抜かれた。その時若侍の一人がすれ違いざまに志乃奥方の肩に接触し走り去ろうとした。志乃奥方はよろめいて道に転んだ。「待て・・」剛助が叫んだ。若侍が足を止め振り返った。剛助は志乃奥方を助け起こしながら、その若侍を睨み返した。その若侍は手に木刀を持っている。引き返してきた若侍は「待てとは何だ。この下郎が・・」と剛助に木刀を突き付けた。
「婦女子を転がしておいて、済まぬの一言もないのか。武士として恥ずかしくはないのか」
木刀を突き付けられても動じず意見する剛助に、いらだった若侍は木刀を振り下ろした。
だがその木刀は瞬時に剛助の手に渡っていた。いつ若侍の手から木刀を奪い去ったのかもわからぬ早業だった。その木刀を目の前に突き付けられて若侍は慌てた。
「早く謝れ・・」木刀が首に降りた。若侍が憎しみの目で剛助を睨み口を開かなかった。若侍の連れが引き返して来るのが見えた。「もうよい。急いでいるのだろう。行け」剛助が木刀を投げた。若侍は素早く木刀を拾うと仲間の元へ駆けて行った。志乃奥方は足を捻挫したらしく立ち上がれない。剛助は背負っていた反物を下ろしてお花に渡し、代わりに志乃奥方を軽々と背負った。背負われた志乃奥方が見上げる娘に嬉しそうにほほ笑んだ。お花は羨ましさを隠して悔し気にそっぽを向いた。城下境の川に架かる橋に来た時、河原で打ち合い争う若侍達を見た。その中に先ほどの若侍の姿もあった。
「見ぬ振りをいたしましょう。急いで橋を渡ってください」
剛助はお花をせかせて橋をわたった。御城下でこの様な争い事が何故起こるのか。剛助には理解できなかった。
この二つの道場の争い事は藩主直孝の耳に入った。城代家老は家臣同士のこの争いを見過ごす事が出来ず御上への報告となったのである。だが事の起こりは武道奨励によるお達しから起こったもの。関係者の処分には重役達も頭を悩ませた。
高峰藩の剣術指南役一刀流の川崎平左衛門と城下の陰流道場主小川神三郎が呼び出された。事の仕置きはこの二人に任された。両道場共にこの争いに関係した若侍数名が道場出入り禁止の処罰を受けて一件は落着した。しかし若侍達はこの処罰に納得していなかった。道場の名誉が掛かった争いがそう簡単に決着できるはずもなく尾を引いた。
影衛門襲わる剛助とお花
剛助は志乃奥方を背負い影衛門の屋敷の門を潜った。お花が屋敷の奥に駆けこんだ。
剛助は屋敷の土間奥の板間に志乃奥方を下ろした。お花が影衛門を連れて出て来た。
剛助は事の経緯を影衛門に伝え護衛の役が果たせなかった事を謝った。
「何も剛助の責任ではない。遠い道を志乃を背負いご苦労であった。ひとまず休め」
影衛門は妻のわらじと足袋を脱がせ手洗の水に足を漬けさせた。奥の台所からお花がお茶を持ってきた。「これは済まぬ・・」剛助が茶碗を受け取るとお花は嬉しそうに言った。
「何が済まないのよ。それはお母さんが言う言葉よ。そうでしょう。お母さん」
「そうそうお礼を言うのを忘れていましたよ。剛助殿の背中があまりにも気持ちが良かったので足の痛みも忘れていました。剛助殿お世話を掛けました。礼を言います」
志乃奥方が剛助に頭を下げた。「いえいえ私が気を付けていさえいれば奥様がこんな目に合わずに済んだものをと悔やんでおります」剛助がへりくだって言うのをお花が口を添えた。
「剛助さん何を言っているの。お母さんにぶつかった相手を懲らしめてくれたじゃあないの。
あの目にも止まらぬ早業に私は興奮したわよ。ねえお母さん」
「はいはい私もどうなる事かと案じておりましたが、剛助殿の見事な手並み。驚きました」
母と娘の話に割り込む事はせず影衛門は笑顔で聞いていた。
剛助が帰って行くと志乃は影衛門に話しかけた。
「貴方どうでしょう。剛助を我が家の婿に迎えたら・・家と土地を守るには腕と技量が必要でしょう。あの剛助なら・・それにお花も剛助を好いている様ですし・・」
「その事は随分前から考えていた。当人の思いを聞いて見てくれ。わしの口からはどうも言いにくいでな。お前に任せる」
「お花は私が尋ねてみますが剛助殿と米助稲は貴方様が話してくだされ」
そんなこんなで数日過ぎた日、真新しい衣服に身を包んだ小竹勇馬が影衛門の屋敷を尋ねて来た。応対した影衛門に勇馬は隣村の小竹亀衛門の息子と名乗りお花を嫁に欲しいと申し出た。「お花を嫁にとな。亀衛門殿は良く存じているが、この事は父上は御存じか。お花は一人娘、嫁に出すわけにはいかぬ。その事も亀衛門殿は良くご存じのはずだが・・」
「この件は父には関係ない事。私自身の事ですから。私はお花殿を幼い頃から嫁にするならお花殿と決めておりました。嫁が無理なら私が婿に来てもようござる」
「馬鹿な事を、お父上が聞かれたら何と思われる。勇馬殿お花の相手は既に決まっておる。
諦めてお帰りなさい。この事はお父上には黙っておくゆえにな」
「駄目ですか。そのお花殿の相手とは是非お聞かせ願いたい」
「それはそなたに言うことではない。大人しくお帰りなさい」
影衛門にあしらわれ怒りを顔に表勇馬は影衛門の屋敷を飛び出して行った。
数日後、影衛門は光福寺に楽念和尚を尋ねた。剛助とお花の養子縁組について相談に出かけたのだ。話は長くなり日が暮れてしまった。寺で提灯を借りての帰り道、影衛門を刀風が襲った。相手は男三人、一人の攻撃を交わして提灯を捨て抜き打ちにその男を切り振り向きざまにもう一人を切って捨てた。相対したもう一人の男は少しは出来ると見えて直ぐには切ってはこなかった。「遺恨を受ける謂れはないが物取りでもなかろう。止めて置け」闇に慣れた目に浪人者の姿が見えた。正面からその浪人者の攻撃を受けた時後ろに異変を感じた影衛門は返す刀で後ろを払った。飛んできた短槍を切り落としたが槍の穂先が足に刺さった。「うっ・・」
影衛門は片膝をついた。浪人者がここぞとばかりに上段から切り掛かってきた。影衛門の刀が地面から突き上げられた。切っ先が浪人者の首を貫いた。素早く刀を鞘に納めた影衛門は足に刺さった槍の穂先を抜き取ると林に向かって投げた。槍の穂先は当たらなかったらしく潜んでいた賊は藪の奥へと逃げて行った。影衛門にはその賊の後ろ影に見覚えがあった。
影衛門は着物の袖を切り取り足に巻き付け、切り落とした短槍の柄を杖に屋敷に帰った。
屋敷に帰った影衛門は直ぐに長屋門に住み込む作男の茂平に小作人達を呼びに行かせた。
小作人達が集まると一人を代官所へ一人を光福寺に走らせた。駆け着けた剛助は腰に太刀を帯びていた。「影衛門様が襲われ怪我を負った」と聞いた剛助は直ぐに太刀を手に取った。
「影衛門様お怪我は・・。賊は何処に・・」早口で尋ねる剛助に影衛門は晒しを巻いた足を見せた。「賊の三人は切って捨てたが一人は逃げた。大事ない。もう襲ってはこないだろう」それを聞いた剛助は安堵の表情になった。
「皆夜分にすまぬが楽念和尚が来たら死体のかたずけをを頼みたい。それまでは休んでいてくれ。お志乃お花」影衛門が奥に声を掛けた。志乃とお花がお茶を持って来た。お花が剛助の側にやって来た。「剛助さん。暫くここに居てくれる。父上は怪我をしているし心細いのよ」
お花に頼られた剛助は直ぐに頷いた。「俺がいるから大丈夫だ。安心していいよ」
剛助の笑顔にお花は潤んだ目で微笑んだ。
楽念和尚が居っとり刀でやってきた。「影衛門殿大丈夫か。えらい災難だったな。浪人者の死体が三体転がっていたが賊は何人だった」「和尚御足労を掛ける。賊は四人で一人は逃げた。
浪人者の素性は分からないであろう。無縁墓地への埋葬をお願い申す。やがてお代官も来るであろう。お茶でも飲んで一休みして待って下され」
代官大道幸左衛門が馬に乗り代官所の武士と宿場役人を連れて駆けつけて来たのは深夜であった。三人の浪人者の刀傷を見た代官はその見事な切り口に驚いた。皆一刀のもとに切り捨てられていた。剛助の引く大八車に乗った影衛門にその時の状況を聞き取ると藪の中から槍の穂先を探し出してこさせた。
宿場役人が浪人者三人の死骸を見て「この三人の流れ者浪人は十日程前に宿場に現れて、たかり脅しで宿場住人を困らせ恐ろしがらせていた者達に間違いありません。一膳飯屋の丸吉ではただ飯やただ酒を飲んでいた様で御座います。いずれにせよ。当方といたしましては手間が省けたと言うもので助かり申した」
「そうであったか。しかしながら何故影衛門殿を襲ったか解せぬ。影衛門殿はこの浪人者に心当たりは御座らんか」
代官の疑問に影衛門は「この者等と面識は御座らぬ。日暮れに闇討ちとは私にも解せぬのです。誰にも恨みを買う様な事はしていないつもりですが・・」と首を横に振って見せた。
「さもあらん。村人からも慕われる影衛門殿の事。追いはぎに出会ったかも知れぬな」
代官も影衛門にはそれ以上の詮索はせず死体のかたずけを命じた。
光福寺の無縁墓地に三人の浪人者は小作人達の手で運ばれ楽念和尚の念仏で埋葬された。
その翌日夕方までに影衛門が浪人者に襲われ、三人を切り捨てたものの一人が逃げ影衛門自身も怪我を負ったと隣村はおろか宿場にまで知れ渡った。
噂が流れた隣村の小竹亀衛門の屋敷では息子の勇馬が父親の亀衛門の折檻を受けていた。
「お前が影衛門殿を襲った黒幕と知れたらこの小竹家はどうなる。世間に顔向けが出来ずこの土地では生きていけぬ。この親不孝者」
ビシリと六尺棒が勇馬の背中を打った。
「床の間の短槍は何処へやった。影衛門殿の傷は短槍による槍傷と言うではないか。白状しろ」
またビシリと棒が勇馬を打ち据えた。もう体中傷だらけだ。それでも勇馬は口をきかない。
「貴方もう許してやってください。勇馬は影衛門殿の娘子に懸想し嫁に欲しいと言いにいったの。それで断られ・・」勇馬の母お信が止めに入った。
「馬鹿者お前はそれを知っていたのか。では何故止めなかった。事ここに至ってはどうする事もできぬ。皆覚悟を決めることだ」
亀衛門は大きく溜息をついた。だが何時まで経っても代官所からの呼び出しはない。
―影衛門殿には黒幕が勇馬だと気ずいているはずだ。黙っていてくれるのかー
亀衛門は影で手を合わせた。
剛衛門殿の婚儀
影衛門殿が晒しを巻いた左足を投げ出して座っている。その後ろ部屋の隅に志乃とお花が神妙な顔で並んで座っている。影衛門の前には剛助の父米助と稲が、その横に剛助が並んで座っている。
「今話した通りだ。猪野谷剛衛門は殿から頂いた大事な名前だ。その名を変える訳にはいかぬ。
藤谷の姓は私が死んだ後に次いでくれればよい。どうであろう。藤谷の家と猪野谷の家を一つと考え剛助とお花の婚儀を許してはくれないか」
米助は下を向いたままで押し黙っている。その背中を稲がドンと叩いた。
「あんた何とか言いなよ。影衛門様が頼んでおいでなのにはっきりしなよ。影衛門様私共にとっては天にも昇る有難いお話で御座います。この稲に依存は御座いません。剛助は差し上げます・・あんたはどうなのよ」稲がまた米助の、今度は尻を叩いた。米助は飛び上がり「異存はありません。へい」と頭を下げた。志乃とお花が噴出して笑った。
「お花さんが俺でいいと言うのなら、俺も異存はありません。お花ちゃん本当に俺でいいのか」
剛助は影衛門とお花に念を押した。お花はコクリと顎を引いた。
「よしこれで安堵した。志乃酒を出せ。家族の固めの杯を交わそうぞ」影衛門が笑顔いっぱいで志乃に命じた。最初から用意してあったのか、お花も手伝って料理と酒を運んできた。笑いの尽きない酒宴が続いた。それから間もなく剛助とお花の婚儀がとり行われた。
楽念和尚、代官の大道幸左衛門、周辺の郷士達、村の百姓衆大勢が集まり婚儀は賑やかに執り行われた。
二人が結ばれて幸せな時が過ぎてゆく。そんな日の昼、宿場に野菜を売りに出た米助と稲が戻ってきた。大八車に積まれた野菜は半分が残っている。稲は剛助を呼んだ。剛助は影衛門の屋敷の座敷で影衛門から帳簿付けを教わっていた。屋敷から出て来た剛助に稲は宿場で起こっている出来事を早口で伝えた。
「丸吉のお菊ちゃんが墓参りから帰って来ないと・・代官所も総出で探しているが見つからないと・・」
今日は宿場で商売は出来なかったと騒然とする宿場の様子を語った。
「剛助お菊は幼馴染の友達だろう。探しに行ってやれ」座敷から出て来た影衛門が剛助に言った。「私用意をしてくる」新妻となったお花が台所から出て来て直ぐに奥へと下がった。
手幸に脚絆、菅笠わらじを用意しお花は剛助を送り出した。剛助は一里の道を急ぎ宿場に着いた。
宿場に着くと剛助は一膳飯屋の丸吉を尋ねた。応対に出た善平は力ない声で帰って来ないお菊を案じていた。剛助はお菊が墓参りに行った墓地の場所を尋ねた。善平は、その墓地は宿場外れの山の斜面にありその墓地の脇に住職のいない荒れ寺があると言い既に代官所の役人が探しに行っていると話した。剛助は丸吉を出ると聞いた墓地へと向かった。
与一郎は代官所に投げ込まれた与一郎宛の封書を読んだ。―お菊は荒れ寺にいる。利三郎―
与一郎は刀を手に代官所を飛び出した。―利三郎の馬鹿め。何という事をー利三郎は墓地へ続く山裾の近道を駆け上がった。其ころ代官所の武士と捕り手の三人が墓地から降りていた。
荒れ寺の床が押し上げられ若侍が顔を覗かした。
「利三郎殿どうやら代官所の役人は諦めて去った様だ。もう出てもよかろう」
床板を取り除き若侍が一人出て来ると赤い着物のお菊が手足を縛られ押し上げられた。その後に利三郎が続いてもう一人若侍が出て来た。
「利三郎これは何の真似だ。お菊を離せ」荒れ寺に飛び込んできた与一郎は怒りの視線を利三郎に放った。「与一郎来たか。お前の好きなお菊を連れて来てやったぞ。お前の好きにすれば良い。俺たちはその後でゆっくりと味わう事にする」
「何を馬鹿な事を言う。俺はそんな事は望んではいない。早く縄をほどいてやれ」
「与一郎お前変わったな。坊主修業で生き方を変えたか。ならば帰れ。この娘は俺たちが貰っておく」「利三郎。ならば仕方がない腕ずくでもお菊は貰って行く」
与一郎が刀の柄に手を掛けた。「与一郎お前は馬鹿だな。この俺は以前の俺ではないぞ。今では一刀流道場の門弟で五本の指に入る男だ、ここに居る二人も一刀流道場の門弟だ。お前に勝てるか」利三郎が刀を抜いた。「表に出ろ・・」四人は荒れ寺の庭に出た。
与一郎を三本の白刃が取り囲んだ。「卑怯な人達ですね。与一郎殿助太刀いたそう」
崩れた土塀をまたいで剛助が現れた。―お菊ちゃんは墓地の近くに居るー剛助の直感は見事に的中した。荒れ寺の近くまで来ると声が聞こえた。その一人の声が与一郎だと直ぐに分かった。忍び寄ると与一郎が三本の刀に囲まれていた。
「己邪魔建てするか。百姓風情が・・」「確かに私は百姓です。でも私には殿様から頂いた名前がござる。これこの通り刀も帯びて御座れば」
「何・・さてはお主竹槍剛衛門か・・」「世間で何と呼ばれているか存じませんが、その剛衛門でござる。さらに言えば白雲斎様の弟子の剛衛門でございます」
「何白雲斎だと・・」「お主の髷を切った白雲斎様でござる」
利三郎の顔が真っ赤に染まった。「竹槍剛衛門を切ったとなれば俺の名は世間に広まるだろう。問答無用切れ」
剛助が抜く手も見せず刀を抜いた。だらりと太刀を下げ「与一郎殿はお菊ちゃんを。後はお任せを・・」剛助は目を半眼に白羽の中に踏み込んだ。左右の若侍が踏み込み打ち込んできた。
二つの白刃を体で交わし剛助の地を這う太刀が舞い上がった。左の若侍が手首を打たれ太刀を落とした。右の若侍は足を打たれて転がった。二人共峰打ちだった。正面にいた利三郎は飛び下がって太刀を構えている。「気の毒ではあるが、今度は私が髷を切らせてもらおうか」太刀を下げた剛助は恐れげもなく利三郎に詰め寄った。
突然利三郎は踵を返し逃げだした。土塀を飛び越え逃げる利三郎を追いかけ、よろめきながら二人の若侍も逃げて行った。
荒れ寺の中から与一郎がお菊を助けて出て来た。剛助は太刀を鞘に納めてクルリと背を向けた。「剛助殿・・」与一郎の呼び声に「後はお任せします」と荒れ寺を出てそのまま墓地を下った。
その後お菊はあれほど嫌っていた与一郎が店を訪れると喜んで酌をしたと言う。
お菊は自分を拉致した男達については知らない侍とだけ答えて利三郎の事は口に出さなかった。その名を口にすれば二百石上士の侍から如何なる仕返しを受けるかも知れず、助けてくれた与一郎にも類が及ぶと口を閉ざしたのだった。
若侍達の対立と対策
高峰藩城内では上士と下士の若侍達の対立が二つの道場の対立により,より目に見えて先鋭化していた。武道奨励は藩を揺るがす事態へと発展してゆく。城の重役達はその対策に頭を痛めていた。「何かこの事態を穏便に納める方法はないものか」城代家老が重役達に尋ねた。
「この案はいかがでござろう」重役の一人が口を開いた。武道とは縁もゆかりも無いこの勘定方重臣の声に皆が聞き耳を立てた。
「そもそも事の発端は御上の武道奨励にあった。血気盛んな若者を駆り立てたのは誰あろう皆我々重役方では御座らんか。若者どもの頭を冷やすには一度立ち会わす他なかろう」
「立ち会わすとは試合をさせると言うことか。それでは火に油を注ぐことになりはしまいか」
城代家老が首を捻った。
「いや拙者が言いたいのは、最初に事を起こした今道場出入り禁止の若者を道場とは無縁の者と立ち会わせると言うことじゃよ。そうすれば争いは起こるまい」
「道場とは無縁の者とは誰の事じゃ。申せ・・」
「家中にも道場に通わぬ者もおり申すが、拙者が考えているのは藩内の郷士でござる」
「郷士とな・・その訳は・・」城代家老がさらに聞いた。
「戦火が途絶え平穏な世が続き当家の侍達も昔と違い柔な男が増え申した。それに引き換え郷士達は田畑を耕し木を伐り日々鍛えております。中には剣術を得意とする者もいると聞いております。この郷士の中から腕利きを呼び寄せて試合をさせれば良いかと・・」
「成程な。郷士なれば城下城内での争い事は起こらぬであろう。もし郷士に後れを取ったとしたらますます武芸に励むであろう。これは一石二鳥の策じゃ。皆の者どうじゃ」
城代家老が重役重臣達を見回すと皆が首を振り賛同を現した。
家老はこの案を持っつて藩主直孝の元へ赴いた。
「それは面白そうじゃ。即刻郷士達の元へ振れををだせ」藩主直孝は上機嫌で裁可した。
郷士の武芸者達
影衛門の屋敷を同じ郷士仲間の三村正勝、山崎平造、千田保助の三人が尋ねて来た。既に影衛門にも城からの書状が届いている。三人の来訪の訳は判っていた。
「影衛門殿お主はこの件を受けるつもりか。我らはどうするか案じておる。若侍達と立ち会えなどと訳が分からん」
鬢に白いものが目立つ初老の三村正勝が影衛門に意向を尋ねた。
「私は少々足を痛め不自由をしておる。城代様の直々のお達しではあるが出るのは憚られる。
しかしそれでは申し訳がたたぬ。よって代理を立てようと考えておる」
「影衛門殿その代理とは誰ぞい」「それは我が家の婿でござる」
「婿とは・・あの竹槍・・」「その竹槍でござるよ。剛衛門は槍だけでは御座らぬ。棒も太刀も私より上で御座るよ」「なんと影衛門殿より上とな・・」
信じられないと三人が顔を見合わせた。それほど影衛門の剣術が認められていたと言うことだろう。
「小竹亀衛門はどうするかのう。自信家の亀衛門の事だ。きっと出るに決まっておる」
「いや最近は影が薄いらしい。病気なのか元気がないらしい。奴も代理を立てるかも知れぬ」
「ほう・・奴の所にそれ程の者がいたか・・いないだろうな」「息子がいる・・」
影衛門がぼそりと言った。
「我らの他は皆辞退したと聞いている。亀衛門の息子は執念深い腹黒い男と聞いておるが、その者が出れば我ら郷士組は五人じゃ。五人対十人か。まあそれもよかろう。城の奴らに郷士の強さを思い知らせてやろうぞ」
山崎平蔵が言うと千田保助が頷いた。三村正勝は一刀流、山崎平蔵は脇差二本を使う二刀流
千田保助は短槍の使い手だ。こうして郷士達の試合出場が決まった。
二道場対郷士組
試合の当日城内に呼び寄せられた二道場出入り禁止組の十人が顔を合わせた。二つの道場の門弟達はお互いに顔を合わせようとしなかった。一刀流道場の指南役川崎平左衛門と陰流道場主小川神三郎が顔を合わせた。二人の道場主には交互に審判を任されている。
城内の馬場に天幕が張られ中央に藩主直孝が陣取り周りを重役藩士達が取り巻いている。
藩士対郷士の試合が開始された。
剛助は義父影衛門とお花に見送られ屋敷を出た。手には影衛門愛用の赤樫の木刀があった
剛助が宿場の丸吉の前を通り抜けようとすると「待っていたぞ剛助・・」店から髭もじゃの僧が顔を出した。「あっ・・。白雲斎様。御無沙汰で御座いました。御戻りでございましたか」
「剛助これから城に参るか。では拙僧も行くとしようか」「師匠もでございますか。今日は何事かご存じで・・」「ああ知っている。知っているからこうして剛助の来るのを待っていた」
「はあでも・・」「心配は無用じゃ。拙僧は弟子の付き添いじゃ」
白雲斎は声高に笑って先に立って歩き出した。
高峰藩城下に入り城の城門に着いた。門番が六尺棒を突き出し剛助と白雲斎を止めた。
剛助が本日の試合に来たと告げると門番は白雲斎を睨んだ。
「これわしだ。白雲斎じゃ」その声と同時に門番は慌てて膝を屈し頭を下げた。驚く剛助に
「さあ行くぞ。着いてまいれ。城は初めてであろう」白雲斎は迷う事無く城内に入り石段を登って行く。剛助は物珍しさに高い石垣を見上げた。やがて天幕に囲われた広場に着くと白雲斎は天幕の一部をめくり「さあ入れ。油断はするなよ」と声を掛け天幕の中に剛助を送り込んだ。
目の前に床几が五つその内三つが空いている。その前では試合が続いている。剛助は軽く会釈し端の床几に腰を下ろした。「オリャー」腹に響く気合に目を向けると初老の武士が若侍に
木刀を突き付けていた。「勝負あった。三村正勝殿」勝ち名乗りを聞いて初老の武士は上座の席に会釈し戻って来た。「三人抜いた。交代じゃ。平蔵頼む」座っているこれも初老の武士に声を掛けて床几に腰を下ろした。
平蔵と呼ばれた初老の武士は脇差位の木刀二本を下げて広場の中央に進み出た。正面に見える若侍達の席に空いた床几が五つ見えた。今一人の若侍が進み出ている。
―もう五人目なのか・・―剛助はいささか驚いた。気合が発せられ木刀二刀を握った初老の武士が打ちこんでくる若侍の木刀を二度三度と打ち払い四度目の打ち込みを左の木刀で払うと同時に右手の木刀が若侍の肩に落ちた。「勝負あり。山崎平蔵殿」勝ち名乗りを来ても山崎平蔵はその場に立ったままで次の相手を待っている。
剛助は郷士の一番右端に座っている若者が勇馬だと気が付いた。
―勇馬はすでに勝ったのかー平然と座っている勇馬に負けの気配がない。
山崎平蔵は二人目三人目と難なく倒し戻って来た。端に座っている剛助に気ずき「遅かったな」と声を掛けた。その時勇馬も振り返って剛助を見た。勇馬の目が笑っていた。
残すところ若侍三人。初老の千田保助が短槍代わりの棒を持って前に出た。「始め」の合図と共に千田保助の槍棒はビュービューと音を立てて振り回された。木刀を構えた若侍が後ろへ後ろへと下がってゆく。「逃げるな・・」千田保助の棒槍が若侍の木刀の上に落ちた。叩き落された木刀の上を槍は走った。胸を突かれた若侍は後ろに転げた。「勝負あった」千田保助は何事もなかった様に立っている。「保助あと二人だ。楽しめ」と声を掛けた。だが後の二人は少し違っていた。若侍の中で一番うでの立つ二人だったのだ。千田保助の攻めを何とか受け止め
た九番めの若侍が反撃した。千田保助が押されている。―危ないー剛助がそう思った時、若侍の木刀が千田保助の肩へ、千田保助の棒槍が若侍の腹に「相打ちにて引き分け」引き分けを宣言され戻って来た千田保助は「ぬかったわ・・」と床几に腰を落とした。
上座の床几に腰を掛けて試合を見ている藩主直孝が、郷士の席をみて城代家老に聞いた
「次の郷士は誰じゃ。若いではないか」「はい次は猪野谷剛衛門に御座います」
「何猪野谷・・」「さようでございます。あの竹槍の・・」「「おお竹槍剛衛門か。見違えたぞ。成長したな。はて今日は槍を使うのではないのか」「さて私にも分かり兼ねます」
藩主直孝が城代家老と話しているうちに、赤樫の木刀を手に剛助が広場の真ん中に出て来た。若侍最後の一人が剛助の前に立って正眼に構えた。剛助は両手で持った赤樫の木刀をだらりと下げ、やや右足を前に立った。その構えに天幕内が静まった。
「構えられよ」審判役の指南役川崎平左衛門が剛助に声を掛けた。
「お構いなく。これがそれがしの構えで御座れば・・」川崎平左衛門が「始め」と告げた。
若侍が気合を発した。剛助は半眼で微動だにしない。若侍は見えない熱風が壁となって打ち込む事ができないでいる。剛助の地面に近い木刀の切っ先がピクリと動いた。若侍はたまらず
上段から打ち込んだ。そこには相手の姿はなく首筋に赤樫の木刀がぴたりと当てられていた。
「勝負あり。猪野谷剛衛門殿」あっけない勝負であった。
「もう終わったのか。よく見えなかったが・・城代見たか・・」「いえ私もどうも・・」
「誰ぞもう一人相手をさせなされ・・」天幕の裏から声が聞こえた。藩主直孝が振り返った。天幕が持ち上がり白雲斎が顔を出した。「政孝帰ったのか。よく帰った」
「兄上早く誰ぞ相手を指名なされよ」「おおそうであった。城代誰ぞ剛衛門の相手をする者は名乗りを挙げさせよ」城代家老が幕内の皆に告げた。郷猪野谷剛衛門と立ち会う者はいないかと。すると道場側と郷士側の両側から声が上がった。
道場側から声を上げてのは千田保助と相打ちで引き分けた若侍で、片や郷士組から声を上げてのは小竹勇馬だった。
「兄上小竹は猪野谷と同じ郷士で御座れば、まずは道場側の若者と小竹を戦わせ勝った方を猪野谷剛衛門に当たらせればよいのでは。いかに」
「それが良い。郷士小竹勇馬と陰流道場の若者の試合から始めよ」
剛助の仕置き
勇馬の恋敵剛助に対する嫉妬と恨みは留まる事を知らず燃え上がったままだ。勇馬の最初の相手は一刀流道場の門弟利三郎だった。自ら道場の門弟の中で五本の指に入ると与一郎に豪語した男だ。勇馬はその利三郎との試合で受け止めた木刀を握る利三郎の手首を取り古武道柔術の技で足払いを掛けて倒し棒を顔面の上で止めた。止めたのは良いが起き上がろうとした利三郎は自らその棒に額を打ち突け気絶した。それを見ていた藩士達は勇馬が棒を止めず故意に利三郎の顔を打ったと判断し非難の声を上げた。戸惑う勇馬に山崎平造が戻る様に声を掛け勇馬への非難の声を断ち切った。利三郎は藩士達に運ばれて天幕の外へと運ばれて行った。
その勇馬への道場側門弟の闘争心は激しく接戦となった。幾度となく棒と木刀が絡み打ち合い、なかなか決着は付きそうになかっつた。そんな流れの中で勇馬は打ち込んできた疲れの見える相手に足払いを掛けた。相手はもんどりうって前に倒れた。その相手の顔に勇馬の棒が落ちて止まった。―またかー皆がそう思った。だがそうはならなかった。勇馬は棒を引いた。
「勝負あり小竹勇馬殿」審判の声が上がった。一瞬場内がどよめいた。
勇馬は席に戻らず藩主直孝の前に進み跪いて言った。
「お殿様猪野谷剛衛門との試合は棒ではなく本当の短槍を使わして頂きたい」
それを聞いた藩主直孝と城代家老、重役達は一斉に跪く勇馬を見た。
「お主真剣勝負を望むのか・・」城代家老が語気を強めた。
「殿許してやりなされ。これは私闘で御座れば心配は御座らぬ」
天幕の外から弟政孝白雲斎の声が聞こえた。一瞬ためらった藩主直孝であったが、側の藩士に短槍を持って来るように命じ剛助を呼んだ。藩主直孝の前に勇馬と並んで跪いた剛助は短槍との試合を了承し自らは木刀での試合を望んだ。
「よかろう。双方が納得するならこの試合を許す」藩主直孝の声に静まっていた場内がざわつき又静まった。藩士一人が短槍を持って現れ勇馬に手渡した。
剛助は赤樫の木刀、勇馬は真の短槍を持って進み出た。審判は藩剣術指南役がこれに当たった。二人は向かい合い審判の「始め」の合図で距離を取り構えた。
剛助は木刀をだらりと下げた無構え半眼で立った。勇馬は我が意を得たりと短槍をしごいた。
剛助は半眼の視界に勇馬を入れて動かない。勇馬は向き合う剛助からの見えない気迫に押された。―これは何だ・・―一突きで恨みを晴らそうと焦るが足が前に出ない。
勇馬の額に汗が滲んだ。―奴に仇を返さなければー思いを込めて勇馬はじりじりと前に出た。
剛助との距離が狭まった。―今なら突けるー短槍を剛助の胸に気合を発して飛び込んだ。
「ヤッー」―突いたーと思った。ガキッ足元で音がし激痛が走った。勇馬は踏み出せぬ足を残しうつ伏せに転倒した。後ろ首筋にヒヤリと木刀が当てられた。
「勝負あり」勇馬は立ち上がれずうつ伏せたままでその声を聴いた。
「勇馬よ。影衛門様の痛みを思い知ったか・・」続いて剛助の声が落ちて来た。
立ち上がれず寝返りを打った勇馬の目に立ち去る剛助の背中が見えた。
「兄上我が弟子の腕前はいかがで御座った」藩主直孝の横に白雲斎が立っていた。
「政孝猪野谷剛衛門がそなたの弟子だと・・」「如何にもそれがしの弟子にそういありませぬ。我が藩に隠れた剣士が居ることを覚えておいてくだされよ。もう一言あ奴は出世は望まぬ。百姓のままだ居させてやってくだされ」
「そうかお前がそう言うなら、そうであろう。これで当藩の対立は治まるであろう。郷士の年寄り達に大儀であったと伝えてくれい」
藩主直孝が城代家老に言った。
「はい。これで若者の腕の未熟さが分かったで御座ろう。これからは奮起して修業に励む事で御座ろう程に」
「そう言うことじゃ。二つの道場の若者にもご苦労と伝えてくれい」
藩主と城代が顔を見合わせて笑った。
後日影衛門の屋敷では三村正勝、山崎平造、千田保助の郷士三人と影衛門、剛助それに楽念和尚を交えての賑やかな酒宴が開かれた。お志乃にお花、稲までが台所で忙しく立ち働いていた。
完