第九章「板橋遊郭」
泣き出したひなを明が慰めたり、ハグしたりで、二人が出会った初日はたちまちのうちに過ぎていく。大正と令和、百年もの時を隔てているのに、もう長年の「親友」みたいに互いの心が共振しているのを二人は感じている。
「日が暮れる前に『表』に引き上げましょう」
ひなが提案し、明はひなの後について、バイクを押していく。
仲宿の南寄りに中山道から西に入る路地があった。乾物屋と米屋の間で、自転車が通れるくらいの道幅だ。
「ここが表への通用口です。行きましょう」
と、ひなは路地に入っていく。その姿が、すうっと明の視界から消滅する。
「え? え?」
明は後を追うが、そのまんま路地を歩いているだけだ。バイクを路地の外に置いて、自分だけ行ってみても同じこと。
「どういうこと?」
ひなが戻ってきた。明の目から見ると、空中から突然出現してきたように見える。何度か試してみたが同じこと。ひなは裏から表へと抜けられるが、明にはできない。
ひなは現状分析を試みる。
「自分が本来属している時間なら、図書委員の力で表と裏を行き来できるんでしょうけど、違う時間だと無理なのかも。明さんがここにやってきた時に通ったという『白い霧』を起こせれば、突破できるんだと思います。でも、このままじゃ日が暮れてしまいますね」
「あたしは、ここで何とかしますよ。建物はいくらでもあるから、野宿しなくてすむだろうし」
「そうですか? ほんとに大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、大丈夫。ひなちゃんは、おねえさんを信頼しなさーい」
「明さんが裏にお泊りになるなら、遊郭がお薦めです。遅くまで玄関が開いていますから、自由に出入りできます。上等のお布団がありますし、お食事もできます」
「遊郭…ですか」
「何軒かありますが、平尾宿の『新藤楼』さんが最上等です。わたしはまた明日来ます。明さんのお役に立てそうなものがあったら、何か持ってきますけど」
「予備の『古事記』はまだ九冊あるから、マナは大丈夫。もしも新聞があったら読ませてほしい。ひなちゃんが暮らしてる時代がちょっとでも分かるとうれしいかも」
「分かりました。じゃあ、また明日」
ひなは明とギュッとハグした後、ぺこりと挨拶し、路地を抜けて表へと帰っていく。
明はバイクを走らせ、板橋宿の一番南側の平尾宿を訪れた。中山道に沿って木造の大きな建物が何軒か建っている。それが遊郭だ。遊郭だけが一か所に集まっているのではなく、事務所や商店や一般の民家に混じって建っているのが、明には不思議に思える。
「こどもも出入りするようなお店の隣りが遊郭だなんて、教育的にどうなんでしょうねえ」
ひときわ大きな建物の前で明はバイクを停めた。木造三階建てだ。正面玄関は唐破風造りで、立派な屋根がかかっている。屋根の下には鳳凰の木彫が飾られている。白木に「新藤楼」と彫って黒漆を入れた看板が出ている、楼名の上の「下り藤」の家紋が格調を感じさせる。
ひなが言っていた通り、入り口は開け放たれていた。明は建物の中を覗く。人間は誰もいないが、ついさっきまで誰かがいたような気配がするのは、裏の通例だ。明はブーツを脱いで、玄関から中へと上がってみる。
玄関に続いて、待合室とおぼしき板敷きの洋間があり、壁に遊女の写真が入った額が何枚もかかっていた。ガラスに焼き付けた大判の写真で、人工的に彩色されていて、なかなか華やかだ。額のそれぞれには「都紫」「緋桜」「美歌川」といった、優雅な源氏名が記されている。
「この写真で客がおねえさんがたをチョイスしたんでしょうねえ。『神代太夫さん、五番テーブルご指名入りましたー』とか。…ちょっと違いますか」
二階三階まで上がって、あちこち覗きまわり、三階の一番お金がかかっていそうな座敷に入ってみる。金箔を貼った屏風やら、床の間の大和絵の掛け軸やら、伊万里焼の大きな花器に活けられた大輪の生花やら、ゴージャスとしか言いようがない。奥の襖を開けると、金糸銀糸で彩られた、高価そうな布団が敷かれている。
「花魁さんのお仕事場なんですね。まずはこっちのお座敷でお客さんを接待して、飲ませたり、食べさせたり、三味線弾いて歌ったり、踊ったりしてから、隣りのお部屋に移って、一緒にお布団に入って、あんなことやら、こんなことやら」
自分にできるだろうか? と明は一瞬想像したが、「無理絶対」と確信する。
「お仕事と割り切って、好きでも何でもない殿方とセックスする。それは覚悟一つでできます。処女の分際で知ったような口をききおって、と笑われるかもしれませんが、生きていくためにはそれしかない、と思えばやれます。逆に、そんなことをするくらいなら飢えて死ぬ、とは言えません。現にそうやって生活なさってる遊女さんたちに失礼でしょ。
あたしの場合、問題はその前ですね。いわゆる『接待』というのが、あたしみたいな、やさぐれ図書委員の『赤毛のドーベルマン』に勤まるかどうか、それが大いなる疑問です。やらかす可能性が百パーじゃないか、と」
そこまで独白して、はた、と思い当たり、明は一階に降りて、厨房と思しき場所を探索してみた。仕出し屋から、ついさっき届いたという感じの会席料理の膳が十人前ほどあるのを見つけて、しばし思案する。刺身、炊き合わせ、焼き魚、天ぷら、酢の物、その他盛りだくさんで、令和日本の時価にして一万円は軽く超えるんじゃないか、と明は見積もる。
「ひなちゃんは『食べても大丈夫』って言ってましたけど、こんなもんに手を出したら、『古事記』で言うところのヨモツヘグイ状態で、裏に取り込まれちまうんじゃないでしょうか。でも、美味そうですねえ」
そこでまた、はた、と気がついて戸棚を調べ、日本酒の一升瓶が二十本ほど格納されているのを発見する。
「ソーマまであるとは。これは『ごち』一択か。と、その前にお風呂行こうっと」
明は玄関にあった下駄を裸足につっかけ、カラカラと歩いて行く。「新藤楼」から五十メートルほど行った街道の反対側に「花の湯」という銭湯があるのは確認済みだ。女湯の暖簾をくぐって中に上がる。人一人いないが、湯船には、お湯がなみなみと張られている。
明は脱衣所で革ツナギを脱ぐ。革に締め付けられていた身体が自由になり、全身が開放感で満たされる。Tシャツも下着も脱いで全裸となり、かけ湯をしてから湯船に入って、ゆったりと身体をお湯に浮かべる。夜明け前の「旅立ち」以来の、今日一日の疲労と緊張が、ゆるゆると心身からほぐれていくのを実感する。
「はあ…極楽ですねえ」
湯船から見上げる壁のタイル絵は、何となくヨーロッパ風の、お城とチューリップのお花畑だ。
「『花の湯』だからお花畑なんでしょうか」
ふと思い立って、裸のまま、ぺたぺたと歩いて、番台の下のくぐり戸を開けて、男湯側に行ってみる。こちらも無人で、湯船にお湯がなみなみだ。湯に浸かって全身をリラックスさせる。
「乙女が男湯に堂々と入れるなんて、めったにないチャンスです。こっちはペンキ絵で、でっかい富士山に満開の桜か。いいですねえ。女湯の方が西洋風なのとのコントラストがおもしろい。女と男とじゃロマンを感じるツボが違うんでしょうねえ」
何やら心理学的に分析し、感心している。
さらに女湯に戻ったりして、けっこう長湯して、明が「新藤楼」に戻った頃には、日が暮れかけていた。帰路は何とマッパに下駄だ。
「下着はお風呂で洗っちゃったし、湯上がりに革ツナギ着るなんて冗談じゃないっすよ。どうせ誰もいないし、誰も見てないし。神さまに見られても減りはしないし」
独白し、はっはっはと独り笑いする。
明は寝間にあった肌襦袢を着る。シルクが素肌に心地よい。会席膳と一升瓶を三階の花魁座敷に運び、湯のみ茶碗に手酌で一人宴会を決め込んだ。三階からは夕焼け空の下の板橋宿が見晴らせる。
「何から何まで贅沢ですねえ」
やがて日がとっぷりと暮れた。電灯があっても電気が来ていないので、明は納戸を探して見つけた年代物の行灯を幾つか座敷に持ってきて、並べて蝋燭に火を灯した。ぼんやりとした灯りに照らされた豪奢な花魁座敷。それ以外は遊郭も外の町も漆黒の闇に閉ざされている。
「こういうのもいいもんですねえ。谷崎潤一郎先生の『陰翳礼讃』を地で行ってます」
一升瓶から茶碗に新たに注ぎ、ぐっと呷る。
「裏は表の『写し』で、随時更新されてる、ってひなちゃんは言ってました。でもその『写し』をあたしが飲んだり食ったりしても、表には何の影響もないというのは、不思議の極みです」
さらに一杯。
「これでもしも一郎さんが一緒だったら最高だったんですけどねえ。夫婦水入らずで、花魁ごっこして遊んだり。そうだ。一郎さんにお化粧して花魁装束着せて、それをあたしがえいっと帯をひっぱって、一郎さん花魁が派手にくるくるして、あーれーで…」
不穏な妄想を盛大に開陳している。