第六章「風祭ひな」
「おねえさん、どこから来たんですか?」
突然、後ろから声をかけられて、天沢明は総毛立った。振り向くと、着物姿の小柄な少女が立っていた。長い黒髪を三つ編みお下げにしている。色白で雛人形のような端正な顔立ちだ。中学生ぐらいだろうか。
「あ、あなた、人間?」
言ってから、いきなり珍妙な質問をしちまった、と明は思う。
「それとも幽霊? 妖怪?」
さらに珍妙。
少女はくすり、と笑った。
「おばけじゃありませんよ。ほら、ちゃんと足も付いてます」
下駄履きの右足を上げてみせる。「足も付いてる」って、これまたとんでもなくクラシックな表現だよね、と明は思う。
「おねえさんこそ、人間ですか? それとも人間に化けたドクジュウかしら」
「もちろん、れっきとした人間ですよ。何? そのドクジュウって」
「そうですよね。こんなきれいなおねえさんが、ドクジュウなわけありませんものね」
少女はそう言ってコロコロと笑う。鈴を転がすような可愛らしい笑い声だ。
「でも、どうやって『裏』に入ってきたんですか? 普通の人間には入れないはずなのに。ドクジュウか、わたしみたいな図書委員でもなければ」
「図書委員!」
あまりにも意外な言葉を耳にして、明は石のように固まってしまう。この子が、図書委員?
「いん・のうみな・びぶりおてかりあ・まぎか」
明は思わずリンガ・ビブリアを口にする。一般人の耳には聞こえない言葉だ。「図書委員の名において」という、図書委員同士の名乗りと挨拶の言葉。
少女は一瞬、目をぱっちりと見開いたが、すぐに、
「いん・のうみな・びぶりおてかりあ・まぎか」
とリンガ・ビブリアを返して、ぺこりと頭を下げる。間違いない。この子は図書委員だ。わたしと同じ図書委員。
「板橋町図書委員、風祭ひな、と申します。以後お見知りおきを」
そう言って、ひなは明に近づき、ぎゅっと抱きつく。いきなりのスキンシップに明は驚くが、しっかりとハグを返す。
そっか、これって図書委員同士の挨拶だったっけか、と明は気づく。あたしは正直苦手なんで、パスすることが多かったけど。同期のキャシーの奴がやたら抱きついてきたせいだよね。アクアの図書委員の仕事が終わった直後の、びしょ濡れのスクール水着を押し付けてきやがって、「心の友と書いて心友」とか言っちゃってさ。
明はキャシーこと水原多香子とのやりとりを思い出す。胸の奥底から、ちょっぴり甘酸っぱい何かがよみがえる。
「あたしは天沢明。板橋区の図書委員です」と名乗る。
「こんなところで立ち話もなんですから『茶屋』へ行きましょう。ご案内します」
ひなはそう言って、すたすたと歩き始める。明はあわててバイクを押しながら、並んでついていく。
「大きなオートバイですね。アメリカ製ですか? とっても高かったんじゃ」
「いえ、その、国産の不人気車が廃車になってたオンボロで、お値段は五千円…」
「五千円もするんですか? お大尽ですね」
「いえ、そうじゃなくて」
大正時代の貨幣価値ってどのくらい? 確かお米の値段に換算するんだっけ。スマホでググればすぐに分かると思うけど、当然ネットにはつながらないし…。
明が頭を悩ませているうちに、二人は「茶屋」に着いた。
「茶屋」は裏手が石神井川に面している小ぶりな平屋で、時代劇なんかに出てくる、そのまんまの「茶店」だった。石神井川の河岸は低い石垣になっていて、巨大なU字型のコンクリートで囲まれた現在の姿からは想像もつかない。
フロアは板張りで大きめのテーブルが四つ。それぞれに八人分ずつの腰掛けがついている。天井からは電灯が下がっている。厨房には小さな囲炉裏があって炭が赤々と燃えている。
ひなは鉄瓶に水道の水を注ぎ入れて囲炉裏火にかける。
川や囲炉裏や鉄瓶…昔そのままの「古いもの」と、水道や電灯…現代と変わらない「新しいもの」が混在しているのが、明にとっては何とも不思議な感じだ。
「粗茶でございます」
と茶托つきの茶碗で、ほうじ茶が供された。とっても良い香りだ。
「ちょうだいいたします」
明はぺこりと頭を下げて、茶をすする。その熱さにホッとして、逆に今まで、すさまじいまでの緊張感を持続していた自分自身に気が付いた。
「自己紹介が遅れてごめんなさい。あらためて。あたしは天沢明。板橋区図書委員です。属性はイグナで番付は幕下七枚目。都立高浜高校一年で年齢は十六歳」
「ごていねいにありがとうございます。わたしは風祭ひな。板橋町図書委員。属性はウェンタ。風使いです。板橋女学校一年。年は満で十四。明さんの方が二つおねえさんですね」
にっこりと微笑む。すてきな笑顔、と明は思う。
「高等学校にご進学されてるんですか。すばらしいですね。板橋区ということは、東京府の一部なんですか? あと、番付って何ですか? お相撲さんみたいですね」
パンピーにはともかく、同じ図書委員にそこを突っ込まれるのは…と明は思う。辛いなあ。
「あの、ひなさん」
「ひな、でけっこうです。明さんの方が年上ですから」
「いや、じゃあ、ひなちゃん。最初に一つ教えてほしい。今年は何年ですか?」
「大正十一年です」
「やっぱり。ということは西暦だと…」
「西洋紀元一九二二年です。明さんの『今』はいつなんですか?」
タイムスリップに気がついているようだ。この子、メッチャ鋭いのかも、と明は思う。
「二〇二二年です。ちょうど百年後。あたしは、何ていうか、その、時間を越えてきた、的な?」
「そういうこともあったりしますよね」
「驚かないの、ひなちゃん?」
「だってここは『裏』ですから。表の世界は時間の流れが決まっていますけど、裏は違います。夏の二か月ほどは毎日お天気で、世界が安定しています。表の時代…大正十一年とほとんど変わりませんが、それ以外は白い霧に覆われています。白い霧の向こうは、何百年も昔や、ずーっと未来だったりします。そしてドクジュウは裏で生まれます」
「そのドクジュウって?」
「明さんもご存じのはずです。図書委員の力と叡智の源であるマナの真逆。人間に無知と怠惰をもたらす、ドク素が凝って固まった、黒い獣ども。漢字で書くと『奴苦獣』」
ひなは紙に鉛筆で書いてみせる。。
「ああ、分かりました。あたしたちの時代じゃ『DQ獣』って呼んでるの」
明も紙に書いてみせる。
「英語ですか? モダンですね」
ひなは可愛らしく笑う。
(あたしが男なら惚れる絶対)と明は思う。(もう嫁にするしかないかも)とまで。