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第四章「板橋」

 そして、あたしはバイクで走り出す。夜明け前の闇の中へ。中山道(なかせんどう)に出て、後はひたすら街道沿いに走ってく。高速道路なんて使いません。碓氷峠(うすいとうげ)を越えて軽井沢(かるいざわ)塩尻峠(しおじりとうげ)馬籠峠(まごめとうげ)と越えて琵琶湖(びわこ)の手前から南下。途中休憩を入れても、十二時間程度。日が暮れる頃には三重・松阪(まつざか)にたどり着けるだろう、との、ごくざっくりしたプランです。

 ところが、環七から中山道に抜けるのを、ショートカットしようとして、住宅地内の一方通行を走り、首都高速五号線の下をくぐったあたりから、周囲が急に霧に包まれてきたんです。白い、ミルクのように濃厚な霧で、バイクのヘッドライトを上向きにしても先が全然見通せない。

 あたしはバイクのスピードを十分に落として、慎重に走っていく。アスファルトの路面に印された路側帯のラインが唯一の目印です。それにしても、他にクルマがまったく走っていないのはなぜ? いくら午前四時と言っても、コンビニの配送トラックとか、池袋あたりで酔っ払いリーマンを拾った深夜タクシーとか、いくらでもいそうなのに。

 あたしはバイクを停めました。これはもう、尋常な事態じゃありません。周囲は白い霧に閉ざされて、数メートル先すら見渡せない。そして、地面はいつの間にか、アスファルトではなく単なる「土」になっていて、ちょぼちょぼと貧弱な草が生えています。

 エンジンを切ってバイクから降ります。ヘルメットを外します。そして「図書委員教範(きょうはん)」の項目を思い出します。

「第一に、状況を確認、把握せよ」

 周囲は濃霧。現在地は不明。

「第二に、自らの態勢を整えよ」

 バイクにくくりつけたバッグの中から本を一冊取り出します。古い角川文庫版の「古事記(こじき)」です。合掌した両手の間に「古事記」をはさみ。念を込めつつ、図書委員の言葉であるリンガ・ビブリアを唱えます。

「いん・のうみな・びぶりおてかりあ・まぎか」すなわち「図書委員の名において」。

「古事記」がぼんやりと赤く光り始めます。図書委員の力の源であるマナの光です。そして赤は炎の色。あたしたちイグナの図書委員のシンボルカラー。

「いぐにっしょん」

 イグナの起動ワードを唱えると、両手の間に真紅に輝く光の玉が出現します。ハンドボールぐらいの大きさです。あたしが一郎さんと初めて出会った頃は、せいぜいテニスボール大でしたが、今は直径が三倍。三乗した体積にして三十倍近いマナ量を「古事記」一冊から引き出せるようになりました。あたし、成長したんですよ、一郎さん。身体(からだ)だけじゃなく、図書委員としての実力も。

「かむおん」と声をかけて、両手からマナを体内に吸収します。身体が軽く火照(ほて)って、肌に赤身がさします。現在の体温は摂氏五〇度から六〇度の間。サーモセンサーを使えば、あたしの体全体が赤く光って見えるはず。でも、それ以上は上げない。「変身」はしません。その必要はありません。…今のところは。

 あたしは「古事記」をバッグに仕舞い、代わりに拳銃とショルダーホルスターを取り出し、革ツナギの上から装着します。薄手のジャンパーを羽織(はお)ってホルスターを隠します。

 武装完了。現在のあたしは「第一種出動態勢」のイグナの図書委員です。そして「教範」の続き。

「第三に、待機せよ。軽挙妄動(けいきょもうどう)(げん)(つつし)め」

 あたしは合掌して、マントラを唱えます。

「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」

 これはリンガ・ビブリアではありません。不動明王(ふどうみょうおう)真言(しんごん)。不動明王の「(みょう)」は穂村(ほむら)…じゃなかった天沢明(あまざわみん)の「(みん)」。あたしの第二の守護神です。第一は? 決まってるじゃないですか、い・ち・ろ・う・さ・ん! キャ!


 霧がしだいに薄くなっていきます。雲が晴れるように、空が見えてきました。まだ暗いけど、薄ぼんやりとした赤い光に染まっている。夜明け前の空です。

 そして、あたしが立っているのは、そこそこの広さの土の道。道の両側は畑です。濃い緑の葉に白い花。ジャガイモですか? イモ畑ですか。

 道の左側に木の柱が立っています。何十メートルかの間隔で並んで立っていて、その間に電線が張られています。電柱? いえ、電信柱(でんしんばしら)です。めちゃクラシックな。

 あたしはバイクを押してゆっくりと歩いていきます。前にも後ろにも人影一つありません。あたしは頭脳をフル回転させています。状況を確認、分析します。イモ畑に電信柱、それにけっこうキチンと踏み固められている広い道。「人間の世界」であることは間違いありません。それも文明人の。でもいったいどこ? それにどうして誰もいないの?

 二百メートルも歩いたでしょうか。エンジン音を立てて周囲の注意を引かないようにと、押し歩きしてきたのですが、さすがにちょっと疲れます。誰もいないようだし、走ってみてもいいかな。

 と、そこで道の右側に二メートルほどの高さの木の柱が立っているのに気が付きました。電信柱じゃありません。四角い柱でカンナをかけたような白い木肌を見せています。そこに墨で何か文字が書かれています。

板橋宿(いたばししゅく) 廿壱町」と片側に。

蕨宿(わらびしゅく) 壱里廿町」ともう片側に。

 板橋、蕨って、中山道ですか? とあたしの脳は新たに判明した状況を飲み込もうと必死です。確かに中山道目指して走っていたけど、でも、今あたしが向かっているのは板橋だから反対方向です。いや、それは重要な問題ではなく、中山道すなわち国道17号線にこんな畑道があったっけ? 旧道だとしても商店街や住宅地で、畑なんて見たことがありません。

「壱里」というのは「一()」で昔の距離の単位。確か四キロメートルくらい。「廿町」というのは「二〇(ちょう)」で「町」は「里」の下の単位。何メートルか知りませんけど。そして標識が昔の単位ということは…

 あたしは自分の脳がはじき出した「結論」を受け入れかねていました。だってそれって要するに、

「あたしはバイクごと昔の中山道にタイムスリップしてしまった」

 ということじゃないですか!

 それにしても、どのくらいの「昔」なんでしょう? 中山道ができたのは確か江戸時代ですが、電信柱と電線があるということは、明治の文明開化以降。でも、どのくらい「以降」なの?

 あたしはヘルメットをかぶり、バイクにまたがります。右ハンドルのスイッチでエンジン始動。ドカンドカンと派手な音がしてFT五〇〇のエンジンが回り始めます。ギアをローに入れて、クラッチを繋いで発車! 「教範」の「軽挙妄動は厳に慎め」が脳裏をよぎりますが、もう知らーん。とにかく板橋へ行こう。板橋まで行けば、きっと何とかなります。だってあたしは板橋区図書委員なんですから。

 農家らしき建物があったのでバイクを停めました。屋根は茅葺(かやぶ)きです。戸がぴったりと閉ざされています。「あのー」「すいませーん」と声をかけてみましたが、何の反応も返ってきません。無人のようです。さらに先へ行くと別の農家が。そこも無人。次も、その次も無人。誰もいません。板橋宿に近づくにつれ、だんだんと家が増えてきて、農家以外に雑貨屋や、酒屋や、これだけは現在とあまり変わらないお寺や神社もありましたが、すべて無人。

 バイクの距離計で三キロメートルほど走ったところで、白木の標識柱を見つけました。「板橋宿 上宿(かみじゅく)」とあります。

 これは知っています。現在の地図で言えば、都営地下鉄三田線「板橋本町(いたばしほんちょう)」駅近くで、旧中山道と環七との交差点です。ここからが板橋宿の北端の上宿。先の石神井川(しゃくじいがわ)を渡ったところから仲宿(なかじゅく)。さらに先が平尾宿(ひらおじゅく)です。以上三つの宿場町(しゅくばまち)で板橋宿は構成されています。

 あたしはバイクを降りて、町の様子を観察します。これまで見てきた農家や商店は昔風ではありますが、ちゃんとしていました。この町は何というか、全体にボロボロのオンボロです。建物はすべて平屋で、それも(のき)が低く、地面に張り付いてるように見えます。作りもちゃちで、素人(しろうと)が廃材を集めてこしらえたみたい。屋根は茅でも瓦でもない、板を適当に打ち付けたみたいな感じで、そこに土埃が溜まって草が生えたりしています。窓にはガラスや油障子(あぶらしょうじ)ではなく、新聞紙が適当に貼られ、ところどころ破れています。

 新聞! あたしは駆け寄って、文字を読みます。日付、日付があれば今が「いつ」なのか分かる。

「大正十一年三月一日」と読み取れました。大正時代ですよ。明治と昭和の間の。西暦で言えば一九二〇年くらい? 百年も昔じゃないですか。

 それにしても、どうして人間が一人もいないんでしょうか? 建物だけが残っていて、畑には作物が植えられているのに、誰もいない。住民が全員、町を捨てて避難するような大事件が大正時代の板橋にあったんでしょうか?

 いえ、そんな事件があれば、あたしは本で読んでいるはずです。図書委員なんですから。それも地元板橋区の。そんな事件は絶対に無かった、と断言できます。


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