第十六章「別れ」
八月も残すところ、あと数日。二人は別れの日の朝を迎えた。
明とひなは、ぎゅっと抱き合う。顔を寄せて互いの頬にキスする。純粋に「図書委員同士の友情のキス」だ。明は幾分邪念が入っているが(笑) 両手を握り合う。別れの言葉を交わす。
「ひなちゃん、来年九月一日に来る『関東大震災』のことは忘れていないよね?」
「はい。東京府を中心に関東全域の図書委員に周知して、事前に十分に準備して対処します。明さんからいただいた十万円が役に立つと思います」
「ひなちゃんに差し上げた、というか、単に銀行からかっぱらっただけだけどね」
「わたしは本郷区に戻って九月から女学校の寮に入ります。叔父の家から独立します」
「当然でしょ」
「と言っても、叔父がすんなり認めてくれるとは思えません。そこで、山崎さんに助けてもらいます」
「何でまた、あのロリペド爺のヘルプが必要なの? 結婚なんて論外でしょ?」
「結婚の代わりに『お話』をします。こんな感じで。『わたし、山崎さんの書庫、拝見してしまいました。おもしろいご本がいっぱいでした。学校で話題にしてもいいですか?』って」
「ひなちゃん、それって…」
「『親友の宮本桂子さんにはぜひ話したい。桂子さんはご存じですよね。板橋警察署の署長さんの一番下のお嬢さん』 そうお話しすれば、きっと山崎さんはわたしに協力してくださって、叔父を説得していただけるんじゃないか、と」
「脅迫するわけか。ナイスアイディアじゃん」
「脅迫なんてとんでもない。単なる『お話』ですよ」
そう言ってひなはコロコロと笑う。
(ひなちゃんって、実は相当の戦略家なのかも。軽くあたし以上の。もしかして、お母さんに近いレベルの?)
明は、肉弾戦においては無敵の「ピンクのシャチ」にして、知謀戦略においても天才の「孫子ちゃん」と恐れられていた自分の母、穂村桃子を想起する。
明は革ツナギとブーツ、ヘルメットに身を固めて出立の準備を整える。バイクのエンジンをかけて調子を確認する。
明とひなの二人で、上宿を焼き尽くした「炎」はまだ完全には鎮火していなくて、ところどころから薄い煙が上がり、上空にぼんやりと白い霧が漂っている。
「じゃあ、始めますよ」
ひなは合掌して精神を集中する。
「うぃんぶろー」
ウェンタの図書委員の起動ワードを唱える。ひなを中心として、緩やかなつむじ風が巻き起こる。ひなは帯から二本の扇子を抜き取り、開いてゆっくりと風を扇ぐ。その風に導かれるようにして、上空の白い霧がゆるく回転して帯状になって、地上へと降りてくる。ひなの扇の動きに合わせて、霧は渦巻き、こねられていく。次第次第に濃くなっていく。泡立てた生クリームのような濃厚な塊へと変化していく。やがて、二階建て木造建築くらいの大きさの、まっ白な雲塊ができあがった。
「できました。これが時間を超える門です。あまり長くはもたないと思います。明さん、お急ぎください」」
明はバイクにまたがる。
「ひなちゃん。これはホント、最後の最後の最終提案なんだけど、あたしと一緒にあたしたちの時代に来ない? もう何度も話したけど、日本はこれから支那と、そしてアメリカと、とんでもなく大きな戦争をして、ボロボロに大負けするのよ。そんな辛い時代をひなちゃんに体験させたくない。それがあたしの本気の本音」
「明さんのご提案はありがたく思います。でも、最後の最後の最終で遠慮させていただきます」
「どうして?」
「わたしが明さんに出会ったことにより、わたしの未来は変わりました。板橋町の奴苦獣を殲滅できましたし、山崎さんへお嫁に行くこともなくなりました。
地震は天災ですから防ぐことはできません。でも備えることができます。東京にはたくさんの図書委員がいます。彼女たちに明さんのことを話します。わたし一人じゃできなくても、図書委員たち皆の力を合わせれば、きっと大震災を乗り切れます。
そして、戦争は天災ではなく、あくまで人間が起こすもの。ならば人間が止めることもできるはずです。マナによって知性と理性を司る図書委員ならばきっと、いえ、絶対に止めてみせます。西南戦争の時のように。皆が幸せになれるように。わたしたち図書委員には、それだけの力があるはずです」
「そうか。それができるなら…」
「明さんは明さんの時代を守ってください。今まで何十年か平和であったとしても、また戦争が起きて、もっともっと酷いことが起きるかもしれません。わたしの時代が、このままではそうなるのと同じように」
ひなの言葉に明は雷に打たれたように悟る。
あたしは思い上がっていた。未来から来たから、この先のことは全部分かってるって。そんなことはない。未来がどうなるかなんて分からないし、どんな未来を作るのか、それは今現在を生きている人間が決めていくしかないんだ。ひなちゃんの「大正」においても、あたしの「令和」においても。
「世話になったね。ありがとう、ひなちゃん」
「いいえ、何でないことです。それよりもわたし、明さんに聞きたいことがあったんですが…」
ひなは言葉を濁してうつむく。頬が赤く染まっている。
「その、結婚ってどうなんですか? 殿方とその…ご一緒に、あの…」
「それは、その…」
明も言葉を濁してうつむく。今さら言えない。言えやしないよ、あたしと一郎さんの結婚なんて、ほんの名ばかりのおままごとで、あたしは百パー処女だなんて。
いや違う。あたしは人妻にして新妻。その事実は千パー譲れない!
明はキッと顔を上げる。
「愛する殿方と結婚する。それはもう天国に昇るよりもすばらしいこと。今度会った時に話してあげる。全部すべて、隅から隅まで、ミクロン単位のデティールまで!」
明はバイクのセルモーターを始動させる。ドンドンドン、ドドドド!とFT五〇〇の単気筒エンジンが吼える。
「アディオス、アミーガ! ひなちゃん、心の友よ!」
「さようなら! お達者で、明さん!」
明はギアを入れてバイクをスタートさせて、白い霧の中に突っ込んでいく。
外から見たら瞬時に抜けるだろうと思えた白い霧は、その先もずっと続いている。明はバイクの速度を十分に落として、慎重に運転していく。
霧が次第に薄まっていく、それと同時に他のクルマやトラックの走行音が聞こえてくる。
いつの間にか、明は中山道を走っていた。明の「現在」の、令和の中山道=国道17号だ。一番左の車線を走っている。現在地は板橋本町のあたりで、志村方向へ向かっている。右の車線には、タクシーやトラックや乗用車やら。時刻は朝九時すぎぐらいだろうか。都心に向かう反対車線は渋滞している。
「帰ってきたんだ。あたしの時代に」
明は環七へ左折して、常盤台の天沢屋敷へ向かう。
門を開けてバイクを中に入れる。屋敷は無人のようだ。
「あたしが出立したのが、八月八日。今は何日なんだろう?」
スマホは持っているが、とうにバッテリーが切れている。
明は「離れ」に入る。ブーツを脱いで上がり、自室のPCを立ち上げる。
「八月二七日。ということは、『裏』で過ごしたのと変わらない時間が経っているのか。浦島太郎になってなくて良かった」
そう思った途端に、すさまじい疲労感が襲ってきた。猛烈な眠気も。
「お風呂とは言わないまでも、シャワーくらいは浴びたいですよね。その前に、この重い革ツナギを脱がないことには…」
そうつぶやきつつ、明はベッドに倒れ込む。そのまま、泥に沈むように、眠りの中へと沈み込んでいく。




