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女流探偵秋山楓  作者: 松風いずは
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烏森神社

風が木々を不気味に騒つかせている。静寂を切り裂く木々の音は知らぬ間に恐怖を抱かせる。ましてやそこが真夜中の神社であるならば尚更だ。北島武は自分でこの場所を指定しておきながら、とっととこんな所からおさらばしたいと思っていた。しかし、事が済むまではそうはいかない。

北島が今居るのは千葉県習志野市谷津と言う小さな町にある小さな神社だった。正式名は丹生神社という。何の変哲もない神社の一つだったが、昔から何故かカラスが多く棲みついていて、昼間はカラスがよく鳴いてる。なので、地域の人々からは烏森神社と呼ばれていた。むしろ、本当の名である丹生神社という名前よりもこちらの方が地元では有名だった。

そんな真夜中の烏森神社で北島は待ち合わせをしていた。何故ここを選んだのは言うまでもない。これから取引する相手はここ以上に相応しい場所は無いからだ。北島は取引に至るまでの過程を思い越すと、ヤニで黄色くなった歯を見せてニヤリと笑った。まさに、棚からぼた餅とはこの事だと思った。自分の強運を褒めたくなる。

風が吹く度に木々が嘶く。お化けや幽霊を信じていない北島だったが、気のせいか少し寒気を感じてきた。羽織っていた黒いジャンパーからタバコを取り出した。タバコを吸いながら、約束の時間に遅れている相手にイラついた。この取引きが終わった後にデリヘルの予約を入れていた。最近ご執心ののあという女の子と遊ぶのだった。話しがこじれて時間が延び予約時間に間に合わないってことは無いだろうが、約束の時間を10分も過ぎていることにイラついた。神社のすぐ近くを通る京成線の電車が静寂を打ち破った。その瞬間、神社の入り口から一人の人間がふらりと現れた。待っていた人物だと確認すると、北島は吸っていたタバコを地面に捨てて足で火を揉み消し、薄ら笑いを浮かべた。

「遅かったじゃねぇか」

北島はダミ声でいった。相手は詫びることもなく北島の目の前までやってきた。相手も全身黒づくめの格好をしていた。そして、左手には黒いビニール袋を持っていた。

「金は用意したんだろうな」

北島はビニール袋に金が入ってると思い、すぐに取り引きを始めた。世間話しなどする気も無かった。だが、相手はただ黙って北島を見据えていた。

「別に黙ってても良いけどよ、さっさと金を寄越せ」

北島は手を出し早く出せと言わんばかりに指先を動かす。しかし、相手は微動だにしなかった。

「おい。早く寄越せって言ってんだろ」

さすがに、苛立ちを抑えられなかった北島は相手の肩に掴みかかろうとした。その瞬間、相手が素早く北島との距離を詰めた。そして、相手は北島の腹に刃渡り15センチはあろうかナイフをぶっ刺し抉るように抜いた。

「うぐ・・・・・」

鋭い痛みが一気に全身を襲った。北島は声をあげることもままならず膝から崩れ落ちた。

「て、てめぇ」

痛みで意識が朦朧としてきていた。腹からはドバドバと血が溢れ出ている感覚が分かった。相手は北島を蹴り仰向けにさせた。そして、北島の体に馬乗りになり、包丁を上へと振りかざした。

「や、やめろ」

もはや抵抗する力も残っていない北島は力無くいった。しかし、相手は躊躇うことなくナイフを北島の腹に突き立てた。何度も何度も突き立てた。腹から胸へ胸から首へと何十回も刺した。お互い全身が血塗れになり、ようやく刺すのを止めた。相手はゆっくり立ち上がり事前に隠していたのか賽銭箱の裏側からリュックサックを取り、中から新しい服を取り出した。急いで着替えを済ませ、血塗れの服と靴をリュックサックにしまった。それから、相手はのろのろと血みどろの死体に近付き、持ってきた黒いビニール袋を逆さにした。その黒いビニール袋から吐き出た何かが北島の体を瞬く間に覆っていった。相手は無表情で北島の死体を見つめてから、近くの母屋の側に置いてあった竹箒を持ってきて自らの痕跡を消すかのように神社全体の地面を掃いた。その作業を5分程で終え竹箒を元の場所に戻し、死体に目をくれることもなく足早に神社を後にした。

後日、朝の散歩時に気紛れで立ちよった老夫婦が北島の死体を見つけた。警察が駆け付けた時には、カラスが死体に群がり、つついてたそうだった。あまりの凄惨な現場に居合わせた警官は盛大に吐いてしまった。それから千葉県警の捜査一課が事件を担当することになった。当然の如く、烏森神社は当面の間立ち入り禁止となった。警察の現場検証が終わり、立ち入り禁止が解除されても立ち寄る者は皆無だった。真夜中の出来事でもあり目撃者もいなく、犯人の痕跡となる証拠も何も出てこずと事件は迷宮入りの様子を見せていた。近隣住民が恐怖で戦く中、この恐ろしい事件に楓は関わることになる。


新宿歌舞伎町二丁目にあるバー『ユリアンナ』に楓は一人でいた。飲んでいるのはバーボンのロック。酒豪である楓はFBI時代から同僚の男性捜査官と飲み比べをしては負けることはなかったくらいに酒が強い。下手くそなナンパを二件あしらった所で、バーのオーナーであるあんなママがカウンターに入ってきた。

「久し振りね。楓」

あんなママは柔和な笑顔を浮かべていった。年齢は五十歳前。背は平均な身長で細身体型。髪は白髪1本すら見当たらない黒髪のショートヘア。優しい目付きにふっくらした顔立ちの和顔美人だった。若さを保つ秘訣は髪と肌と考えていて、今も月一回の美容院でヘアケアとエステでスキンケアを行っている程だ。会う度に一緒にエステに通わないかと誘ってくれるが、全く持って美容に興味がない楓は毎回断っていた。楓が探偵事務所を開いた時から世話になっている。あんなママは懐が深く情に厚い女性であり、リリーを失った哀しみを打ち明けた数少ない人物の一人だった。そんなあんなママは楓にとって母親のような存在だった。

「久し振り。元気にしてた?」

二十個くらい年は離れているが、当たり前のようにタメ語で話す。

「お陰様でぴんぴんよ。楓は少し疲れているように見えるわね」

「そんなこと無いわ。ただ退屈なだけよ」

楓は小さく溜め息をついた。ジェネシスパークの事件から1ヶ月が経過している。あれほど熱量のある依頼を受けてFBI時代の情熱を思い出した。だから、あんな事件をもっと解決したいと思うようになってしまった。しかし、ここ1ヶ月は失踪した飼い猫の捜索が二件と浮気調査が三件というしょぼい依頼しか来なかった。事件を願うのは良くないが、あまりにも平和すぎるので多少の退屈さを感じているのも事実だった。

「暇ならジェネシスパークでバイトでもすれば良いじゃない」

あんなママがいった。

ジェネシスパークの事件の時に、兼次とあんなママが旧知の間柄であったことを知った楓は早速あんなママに確認した。すると、あんなママはすんなり認めた。何でもあんなママは元々アメリカのジェネシスワールドのアクターズの一員として働いてたそうだった。ジェネシストの間では有名なアクターズだったらしく、あんなママにわざわざ会いに来るファンもいたそうだった。しかし、あんなママはバーを経営すると言う夢があり、資金が貯まるとあっさりとジェネシスワールドを辞めて、貯めた資金と銀行からの融資で歌舞伎町でバーを開き始めた。アクターズ時代に培われた接客と天性の懐に入り込む能力で次々と顧客を取り込み、今では歌舞伎町でも屈指の人気を誇るバーになっている。

「やめてよ。私がバイトしてもすぐに客と喧嘩してすぐにクビよ」

「それもそうね」

あんなママはあっさりと認めた。自分から言い出したのに、あまりにもあっさりと認めたので、楓は唇を噛み睨んだ。そんな楓の視線を軽く受け流したあんなママは他の客の接客をするために楓の前から移動した。

楓はバーボンを一口含みナッツを一口噛った。喉を通る焼けた痛みが心地よかった。退屈と窮屈は楓の一番嫌いな物だった。せめての退屈凌ぎに楓はカバンからスマホを取り出して、将棋を指し始めることにした。大人の女性が一人でバーで将棋なんてと言われるかもしれないが、楓はそんな些細なことは気にしない。これ以上空気の読めないうざいナンパ男を相手にするくらいなコンピューターを相手にする方がマシだった。将棋はふとして最近始めたのが、自分にとても合っていると思った。皆でやる単純なゲームよりも一人で出来る将棋やチェスのような頭を使うゲームの方が楽しくて好きだった。チェスよりも将棋にハマリ、本格的に将棋クラブでも通おうかと密かに思っていた。将棋の盤面が終局に近付いてきた頃、あんなママにちょっといいと声をかけられた。間もなく詰みというを所だったので、少しイラッと来たが楓は将棋アプリを閉じた。

「何?」

不機嫌さを隠すことなくいう。

「あなたにお客さんよ」

あんなママは顎って入り口を示した。楓は示されたた方へ顔を向けた。店内は薄暗いので、入り口のドアの前に立っている人間の顔は見えなかったが、シルエットからは背が高く横に大きい男であることは分かった。楓は誰だろうと相手を待ち構えた。楓の視線に気付いた男はゆっくりと楓の元へ歩いてきた。段々と相手の顔が見えてきた。その顔が確認できると楓は呆けたように口を開いた。

「・・・・・・ブライアン」

楓は驚きのあまり掠れた声でいった。

ブライアンと呼ばれた男は嬉しそうに笑いながら、楓の横に座った。

「ハーイ。ミス楓。久し振りだね」

低く良く通るバリトンボイスのブライアンは英語で挨拶を寄越した。

「何でここに?」

楓は咄嗟に英語で返した。暢気に挨拶を交わせる余裕が無くなっていた。疑問ばかりが次から次へと浮かんだ。

「もちろん、君に会いにさ。相変わらず綺麗だね。ただ、FBIにいた頃より少しやつれたように見える」

ブライアンはにこやかに会話を続けた。

「何がどうなってるのか頭が混乱してきたわ」

楓が混乱するのもそのはずである。ブライアンは楓のFBI時代の先輩だった。年齢は楓の8つ上で、身長は190cmの巨漢だった。深みのあるブラウンの瞳には以前と変わらない優しさが帯びていた。ブライアンは楓とリリーの班のリーダーでよくご飯を奢ってもらっていたのを昨日のことように覚えている。リリーと二人でこれ以上肥られてはいけないと野菜を食べるように忠告していたのが懐かしい。

「そうだろうね。だから、僕の話しをする前に、聞きたいことがあれば全部答えてあげるよ」

ブライアンはウインクをした。ウインクは彼の癖だった。とてもハンサムな顔とは言えないが、彼のウインクには何故か可愛げがあって皆を笑わせていたことを思い出した。

「ありがたいわ。でも、その前に何か頼む?」

頭はまだ混乱していたが、突如現れた旧友に対して懐かしさが込み上げていたのも事実だった。そしてそれは、楓にとってとても気持ちの良いものだった。

「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」

ブライアンは焼酎のロックを頼んだ。あんなママはサッと酒を出すと、二人から離れた。旧友との再会を邪魔するほど無粋ではないということだろう。二人はグラスを合わせて酒をあおった。

「うん。美味い。日本の酒は世界に誇る食文化だよ」

ブライアンは手放しで称賛した。ブライアンが焼酎や日本酒を好きになったのも楓のお陰だった。ある日、楓がブライアンに焼酎を奢った所ブライアンは偉く気に入った。よほど自分の舌のツボに入ったようで、それまでウイスキーしか飲まなかったブライアンは日本の酒を好んで飲むようになった。とりわけ、焼酎はブライアンの好みに合い、今でも日本から特別な焼酎を買って、家で祝杯をあげるのが彼の楽しみの1つになっていた。

「それにしても、本当に驚いたわ。一体何があったというの?」

楓は早速質問した。

「さっきも言ったが、君に会いにきたんだ」

「ブライアン嘘はやめて。FBIのエース格が新宿のバーに来るはずが無いでしょう。もしかして、潜りでもやってるの?」

楓は声を潜めた。潜りとは潜入捜査のことを指す。日本でFBIが潜入捜査することなんてまず無いし、あったとしてもブライアンクラスの人間がたった一人で潜るために東京に来るのは不可思議としか言いようがなかった。潜りという言葉を聞いたブライアンは笑い飛ばした。

「本当に違うんだ。嘘はないよ楓。僕は君に会いに来たんだ。完全にプライベートだよ。丁度、休暇で日本に来ていてね。ふと、君のことを思い出して会いにきたんだよ」

そう言うと、ブライアンはまたウインクをした。楓は怪訝な表情を浮かべるもブライアンの話しを信じることにした。

「会いに来てくれたのは嬉しいわ。でも、どうしてここにいるって分かったの?私は誰にも新宿で暮らしてるなんて言ってないわ」

「楓。僕達はFBIだ。その気になれば、辞めた捜査官の居場所くらい簡単に突き止められるんだよ。そして、今何をしているのかもね」

楓は少し背筋が凍るような思いを抱いた。慣れ親しんだ先輩を目の前にすると忘れてしまいがちだが、自分が所属していたのはアメリカが世界に誇る連邦捜査局である。日本人の小娘の居場所など1日もかからず見つけられることだろう。

「私を探した理由は何かしら?不愉快な理由ならすぐに帰るわ」

楓は少し睨みを利かせながらいった。

「おお、そんな冷たいことを言わないでくれよ。バニーも君のことを気にしていた」

ブライアンは困ったように眉毛を寄せた。

バニーとは現FBI長官である。バニーは通称で名前はトニー・メンデスという。あらゆる世界の情報に通じていてトニーの知らないことはないと言われるくらいに情報を誰よりも持っていた。そんなあらゆる情報を耳に入れることから捜査官は敬意と親しみを込めてバニーと呼んでいた。もっとも、面と向かって呼べるのはブライアンのようなトニーと親しくなれるくらいの上官だけだが。

「あのバニーに今も覚えてもらえるなんて光栄だけど、それが何か関係あるのかしら?」

「いいや全くないよ。ただ、懐かしい名前を聞かせてあげたくなっただけだよ。今だから言えるが、バニーは楓とリリーのコンビを誰よりも期待していたからね」

そんなことは初耳だった。新米捜査官で辞めた楓でもトニーがどんな人物か知っている。滅多に人を褒めないトニーが私達を認めていただなんてあり得ないと思った。

「嘘だと思うだろう。しかし、これは本当のことだ。リリーが殉職し、君が去った後のバニーの落ち込み具合はかなりのものだった。酒を飲んでは、偉大な宝石を二つも無くしたといつも嘆いていたよ」

ブライアンは少し遠くを見るように語った。楓は予想外の話しに少し胸に詰まった。尊敬すべき長官にそう思われていたことは少なからず楓の心に火を灯した。二人は少しの間、黙って酒を飲んだ。

「どうだい?もし楓が望むならFBIに復帰しないか?君なら皆が歓迎するよ」

タイミングを見計らったかのようにブライアンが切り出した。楓はほんの僅かな躊躇いを見せたが、ゆっくり首を横に振った。

「申し出は嬉しいわ。でも、ごめんね。復帰はしないわ。私にとってFBIもリリーとの想い出だから」

「そうか。そうだよね。無理な提案をしてしまって申し訳なかった」

「ごめんなさい」

久々に会えた旧友の提案を断るのには、やはり気が重たいものがあった。

「良いんだ。この話しは忘れてくれ。君が抱えているものはそう簡単に下ろせないことはバニーも知ってる」

「私に会いにきた用件はそれだけ?」

「いや、今のはサブだよ。あくまで、バニーに頼まれたことだから、個人的には気が進んでなかった。ただ分かってほしいのは、君が復帰を望む日がきたら、我々は門戸をいつでも開くということだ」

ブライアンは楓の瞳をじっと覗き込みながらいった。

「ありがとう。その事は心の片隅に常に置いておくわ」

楓は微笑みながらいった。

「さて、この話しはもう終わりだ。本題に移ろう」

ブライアンは話しを一旦区切って焼酎を含んだ。

「さて、僕は君が今この新宿で何をしているかも知っていると言ったね?」

「ええ。あまり知られたくはなかったけどね」

楓か皮肉めいて言うのをブライアンは笑って受け流した。

「僕が楓に会いにきたのは、楓の頭脳を借りたいからだ」

「どうゆうこと?」

「君に日本で起こったある事件のことで依頼したい」

ブライアンの真剣な表情を見て先程までのラフな雰囲気は消え去った。楓は表情を引き締めた。それにしても、アメリカ在住のブライアンが何故日本の事件のことで楓に依頼してる来るのか疑問に思った。楓はその事は話しを聞けば分かると思って先を促すことにした。

「依頼ならば受けるけど、何の事件かしら?」

「二週間ほど前に千葉県で起こった事件だよ。これだ」

そう言うとブライアンはスマホを取り出して楓の元へ滑らせた。スマホを見た楓は驚いた。そこには千葉県習志野市谷津と言う小さな町にある神社で起こった殺人事件のニュースが載っていたからだ。

「この残酷な事件は知っているだろう」

「ええ。確か、中年男性がメッタ刺しにされて殺された事件ね。犯人は未だに捕まっていないのも知ってるわ」

楓はこの事件をテレビのニュースで見ていた。千葉県警が動いてるそうなので、もしかしたらジェネシスパークの事件で助けてもらった二人が関わっているかもしれないとぼんやり思ったのを覚えている。

「この事件がどうかしたの?」

「君に解決してほしいんだ」

ブライアンがあまりにも当然のように言うので、楓は一瞬頷きかけてしまった。慌てた楓はブライアンに問い質す。

「ちょ、ちょっと待って。今何ていった?」

「楓にこの事件を解決してほしいと」

ブライアンは涼しげにいう。

「解決と言うのはこの殺人事件の犯人を見つけろってこと?」

「そうだ」

ブライアンは頷く。

「何馬鹿なことを言ってるのよ。FBI時代ならまだしも、素人探偵が殺人事件を解決出来るわけ無いでしょう」

楓は呆れるようにいった。

「いいや。君なら出来るさ。何故なら、最近殺人事件を解決したそうじゃないか。ジェネシスパークの事件は聞いてるよ。素晴らしい推理だと思ったし、君の力は全く衰えていないことがよく分かった」

あれほど自分が関わったことは内密にと頼んだジェネシスパークの事件ですら知っているFBIの情報網に楓はまたも恐ろしさを感じる。

「あれは偶然よ。ただの消失事件が殺人事件に繋がっただけよ」

「謙虚な所も変わっていないな。とにかく、依頼を受けてほしいんだ」

ブライアンがどうしてこの事件にこだわるのかを楓はますます疑問に思った。

「そもそも、ブライアンに何の関係があるのかしら?日本で起こった殺人事件をそこまで気にかける理由はなに?」

理由を聞かれたブライアンは少し照れ臭そうに鼻をかいた。

「実はこの依頼も僕が言うよりも僕の妻からの依頼なんだよ」

楓の頭には更なる謎が広まった。ブライアンの妻は知っているどころか楓の友人だ。ブライアンの妻の名は碓水由理奈と言い、年齢は楓の二つ上だった。楓が由理奈と出会ったのは楓が大学時代にバイトしていたカフェだった。由理奈は留学でアメリカに来ていた。カフェに入ったばかりの楓の教育係に付いたのが由理奈だった。理由はもちろん楓も由理奈も日本人だったからだ。由理奈は細面の色白美人で思慮深く優しい心を持った女性だった。しかし、芯の強い女性であり、楓が客に理不尽に怒鳴られていると、すぐに間に入って毅然とした態度で対応した。思えば暴れ馬気味な楓を上手くコントロールしていたのも由理奈の思慮深さ故だったのだろう。由理奈は決して楓を縛ることはせずとも、楓の感情をいち早く察して客と喧嘩しそうになった時は素早く対応した。由理奈の穏やかな落ち着いた声を聞くと楓もすぐに冷静になれた。そんな由理奈を楓は慕い、由理奈も可愛がった。程なくして、二人はただの先輩後輩から友人関係となった。レズビアンの楓としては由理奈に淡い恋心を抱いていたが、由理奈には当時付き合っていた彼氏がいたので、気持ちを伝えることはしなかった。ただ自分がレズであることを知ってほしくて由理奈に打ち明けた。すると、由理奈は楓ちゃんみたいなカッコいい女性が彼氏ならとても素敵ねと笑っていってくれた。自分の内面を認めてくれた由理奈に対して楓はますます惚れた。友人に片想いを抱く辛い日々だったが、それもリリーと出会うまでの間だった。リリーと出会った後は由理奈を完全な友人として見ることが出来た楓は、ある時アメリカに遊びにきた由理奈とブライアンを引き合わせた。お互いがお互いに一目惚れだったと言うように、二人は一気に距離を縮めた。傍目から見れば俗に言う美女と野獣カップルな二人だが、楓からすれば実にお似合いなカップルだと思えた。二人が結婚した時は楓は自分のことのように喜んだのを覚えている。

「由理奈が?何でまた?」

ちなみに、リリーを失った後に由理奈から連絡が来ていたが、無視して日本に帰ってきていた。いきなり消えたことでさぞかし怒っているだろうと思って、こちらから連絡を取るのを躊躇っていた。

「この習志野って所は由理奈の実家がある所なんだ」

 ブライアンの言葉で朧げながらそんなことを言っていた記憶を思い出した。

 「でも、それと何の関係があるというの?」

 「妻の実家は今回の事件が起きた神社のすぐ側にあるんだ。それで、妻の母親が事件が起きた日から睡眠障害に悩まされてしまったんだ」

 ブライアンは極めて気の毒そうな顔でいった。

 「それは同情するし、可哀想だとは思うけれど、私に依頼する必要があるの?黙っていてもいずれ警察が捕まえるかもしれないじゃない」

 楓は反論した。本音を言えば、旧友の依頼を快諾したかったただ、依頼が依頼なだけに慎重な姿勢を崩したくなかった。

 「確かにそうだが、一刻も早く解決されて親の安寧を求めたくなるのが、一人娘の心情というものだろう」

 相変わらずブライアンは難しい日本語を知っていると感心を覚えた。

 「言い分は分かったわ。けど、肝心の由理奈はどうして来ないの?彼女の依頼なら本人も同席するのが筋ではなくて?」

 楓に指摘にブライアンは申し訳なさそうに頷いた。

 「楓の言う事は最もだよ。けど、誤解はしないでほしい。妻も本当は来たがっていた。ただ、状況が状況なだけに来させることは出来なかった」

 楓は眉毛を寄せるだけで、ブライアンの言葉の続きを待った。

 「妻は今、妊娠しているんだ」

 楓は目を大きく見開いた。

 「おめでとう」

 楓は自然にいった。ブライアンはまた照れ臭そうに笑った。

 「ありがとう。もう臨月に入っていて、だから今回は日本に来られなかったんだよ」

 「そうゆうことだったのね。てっきり、黙って消えた私に怒っていて会いたく無いのかと思っていたわ」

 楓がそうゆうとブライアンは大きく両手を広げた。

 「そんなわけがあるわけがない。妻は常に君の身を案じていた。今回の依頼のために君の居場所を突き止めて、元気そうにやっていることを知った時は泣いて崩れていたよ。妊娠していなければ間違いなく楓に会いにきてたことは断言する」

 ブライアンの話しを聞いていた楓は目頭が熱くなるのを感じた。黙って消えた自分の身を案じてくれていた由理奈の優しさや、実の姉のように慕う由理奈に大きな心配をかけさせていたことに対する罪悪感が一斉に胸に込み上げてきた。

 「妻から伝言を預かっている。今回の依頼を受けなくても、楓を愛する気持ちには一切変わりはない。私達の子供が産まれたら、是非とも会いに来てほしい。もし余計な感情を持って来なくても私達の方から会いに行くと」

 楓は言葉に詰まった。涙汲んだことがバレないように、ブライアンから顔を背ける形で酒を飲む。

 「君の答えを教えてくれ」

 グラスを置いた楓はブライアンに笑いかけた。

 「答えはイエスよ。由理奈のためなら喜んで引き受けるわ」

 楓の肯定にブライアンは破顔した。

 「ありがとう楓。本当にありがとう」

 ブライアンは胸を撫で下ろすかのように安堵のため息を漏らした。

 「それにしても、殺人事件を解決してだなんて無理難題にも程があるわ」

 「そうゆう割には、さっきまでとは顔付きが違うように見える」

 ブライアンの言う通り楓の心は滾っていた。無理難題なのは承知だが、退屈に溺れそうな日々に暫しの別れがやってくるのが嬉しいのは事実だった。

 「解けなくても責めないでほしいわね」

 「そんなことはしないさ。それよりも、景気付けに酒を飲もう。僕が奢るよ」

 「当然でしょう。一番高いのを頼むわ」

 楓は当然のように言い放つ。二人はあんなママに店の一番高い酒を注文し、グラスを傾けた。

 「楓の依頼の成功を祈って」

 ブライアンがグラスを掲げた。

 「二人の間に宿った美しい命に」

 楓も同じように倣う。

グラスとグラスで鳴った音が静かな店内に溶ける。同時に楓の心にはめらめらと闘志が湧いてきた。楓はグラスを一気に呷り、力強くグラスを握った。


ブライアンと会った翌日に楓は早速行動を開始した。助手の鳥遊守に事情を全て話し、二人は事件のあった習志野市へと向かった。新宿から総武線各駅停車で約50分間揺られ二人は津田沼駅に降り立った。駅の南口を出ると、一際目立つ高層マンションが目に入る。総武沿線では最高の高さを誇るマンションであり、習志野市の都市開発がいかに進んでいるのかを象徴するようなマンションだ。

「先生。ここからどれくらいの場所にあるんですか?」

守が聞いた。

「徒歩で10分少々の場所らしいわ」

楓はスマホのルート案内に従って歩き始めた。

近年、目覚ましく都市開発が進んでいる津田沼はとても綺麗な街並みに変貌を遂げていた。

「中々、住みやすそうな街ですね」

周囲を興味深く見ていた守がそう感想を漏らした。その感想には楓も同意だった。この津田沼に来るにあたって、楓は津田沼の歴史や地理を一夜漬けで頭に叩き込んでいた。事件のあった場所の地理や歴史を知っておくのは捜査のプラスになることはFBI時代から悟っていたことだからだ。

駅から少し歩くと、綺麗に舗装された歩道に出た。右手の歩道には複合型施設があり、人で賑わっていた。この一帯は10年近く前までは畑が広がるのどかな景色だったそうだが、今は見る影もない。以前畑が広がっていたとされる場所には似たような一戸建てやマンションが乱立し、それらに囲われるように大きな公園が一つ出来ていた。

「だからこそ、この街でそんな事件が起きたことが信じられません」

守はいった。

「どんな街でも起こるものは起こるのよ。それよりも少しペースをあげるわよ。約束の時間に遅れてしまうわ」

楓は一気に歩幅を広げた。

最近改築された小学校の前にある交差点を左に渡る。すると、緩やかな長い坂道があった。そして、坂の途中に楓の目的地があった。楓はスマホをしまい坂を下った。周囲は閑静な住宅街だった。最近出来たものではなく、以前から住んでいるであろうことが、家屋の見た目から想像できた。坂を下りきったすぐ側には沿線があった。調べでは、あそこは京成線が通っているとのことだった。目的地である烏森神社に近づいてきた。丹生神社と彫られている大きな石碑の横でスーツ姿の長身の男が一人で立っていた。二人は迷わずその男に近づき楓が声をかけた。

「久しぶりね。皆川刑事」

楓は口元を微かに緩めた。

 「お久しぶりです。相変わらず美しいですね」

 皆川は屈託のない笑顔を浮かべて口説き文句を言う。

 「そうゆうセリフはシチュエーションを選んで言うべきよ。全く誉め言葉として伝わらないわ」

 楓の厳しい言葉に皆川は苦笑いを浮かべた。

 「鳥遊さんも元気そうですね」

 皆川は視線を守に移していった。

 「皆川さんもお元気そうで何よりです」

 守は軽く頭を下げた。

 皆川がここにいるのは他でもない今回の殺人事件の担当だからだ。楓は昨夜の内に皆川に電話をして、今日の協力を打診した。警察が素人の捜査に加担するなど本来はご法度である。そこで皆川は上司である上山に内々に相談をした。上山は渋い顔を見せたが、絶対に誰にもバレてはいけないと言う約束で協力を許可した。今回は内密の協力になるので、外で刑事と呼ぶのは無しになった。

「早速だけど、現場を見ても?」

楓は挨拶もそこそこに切り出した。

3人は神社の中へと足を踏み入れた。

「殺風景な神社ね」

楓がそう感想を漏らした。

烏森神社はどこにでもある神社だった。小さい鳥居があり、木造の本殿があり、同じく木造の離れがあるだけのこぢんまりとした神社だった。

「被害者はこの辺りで仰向けで倒れてました」

皆川は本殿の賽銭箱の前を指差した。今はもう綺麗に血痕は拭き取られているが、事件発覚時はそれはそれはおどろおどろしい現場だったそうだ。

「確か、メッタ刺しにされていたそうね」

メッタ刺しという言葉に守は嫌な顔した。

「はい。合計で20箇所近く刺されていました。致命傷は首の頸動脈を切られたことによる失血死です」

皆川は淡々と説明する。

「メッタ刺しということは顔見知りで相当な恨みを持った犯行と見て間違いないようね」

「私達もその線で調べを進めています」

「被害者はどんな人?」

「名前は北島武。48才。職業はフリーライターです。4年前に離婚していて、今は独身です」

「フリーライターねぇ」

楓は呟くようにいった。

「フリーライターと言っても大した活動はしていませんでした。日雇いのバイトをしたりして食いつないでいたようです。ここらか少しした所にある安いアパートに居住していました」

「それじゃフリーライターじゃなくてただのフリーターね。発見当時の現場はどのような様子だったの?」

「被害者はあるものに覆われていました」

「あるもの?」

「烏の羽です。被害者の体全体が烏の羽で覆われていました」

皆川の発言に守はおろか楓も青ざめた表情になった。

「どうして烏の羽なんか・・・・・・」

「加害者の猟奇的犯行かと思います。ここは烏森神社と呼ばれていますから、それになぞられて烏の羽を撒いたというのが我々の見解です」

「そんな横溝正史みたいなことをするなんて恐ろしいに限るわね。今回も私じゃなくて金田一耕助を呼んだ方が良いんじゃないかしら」

楓はさらりと爆弾発言をする。守は咳払いをして楓に注意を促した。楓はさも気にすること無く続きをといった。皆川は何がなんだが分からなかったが、あまり深追いはしていけないと判断して続きを話し始めた。

「それと、この神社一体が箒で掃かれた後がありました」

「箒で?なぜ?」

「推測の域ですが、自分の足跡を消したかったのでは無いかと思っています。この神社に深夜に来る人間なんて滅多にいませんから、靴跡から自分に辿り着くことを考えたのかもしれません」

「なるほど。それはあり得るわね。しかし、どうして全体を履いたのかしら。自分の足跡だけで良いなら、特定の場所だけ履けば良いのに」

楓は素直な疑問を口にした。

「それは我々も思いました。気が動転していたのか、犯行前か犯行後に神社全体を歩き回っていたからかもしれません」

「どちらが先にここへ来ていたのか分かってる?」

「目撃者も居ないので、分かってないんです。ただ、二人とも入ってきたのは私達とは違うもう一つの入り口からだと思います」

皆川は鳥居の方に視線を向けた。楓と守も同じ方向を向く。小さな鳥居の向こうには階段があった。

「階段を降りた向こう側は?」

「すぐ目の前を線路が通っているだけです。犯行時刻を考えたら、我々が入ってきた入り口よりも更に人通りは少ないと思います」

楓は頷いた。自分達が入ってきた場所は民家からバッチリ見える。夜遅くでも人影くらいは認識出来るくらいには明るい。人目を忍ぶならこちらの方が理に敵っていると思った。

「あのー怨恨が動機ならそれらしき動機を持ってる人は居なかったんですか?」

守が遠慮がちに聞いた。同じことを楓も思っていた。通り魔的犯行より怨恨による殺人の方が検挙率は高い。これだけの恨みを抱くには相当な何かをされたはずである。被害者の身辺を洗えば何かトラブルの種があっても不思議ではないはずだった。

「いなくは無かったのですが、誰一人犯行が可能な人間はいませんでした。アリバイトリックも何もありません」

「つまり、警察や周りの人間に知られずに被害者に恨みを抱いていた人物がいるってことね」

「その通りです。被害者の自宅を調べましたが、これといったものは何一つ出てきませんでした」

皆川は無念そうに顔を歪めた。今回の事件は一見単純な構造に見える。誰かに恨まれた人間が殺された。怨恨による殺人事件は人間関係を辿っていけば割りと簡単に真相がたどり着くと警察は思っていたはずだ。死体が烏の羽に覆われていたり、神社全体が箒で掃かれていたことも犯人を捕まえれば良いだけの話しだった。それがまさかここまで迷宮入りするとは思っていなかったのだろう。

「それにしても、どうしてここで待ち合わせをしたのかしらね」

楓は素朴な疑問をぶつけた。

「単に人が来ないからでしょう。周りに住宅街があるとは言え真夜中に神社に来る物好きはそうはいませんし」

皆川はそう答えた。

「ちなみに、被害者の家からこの神社まではどれくらいかかるの?」

楓の質問に皆川は内ポケットからメモ帳を出してページを捲った。

「被害者は徒歩なので、約15分くらいかかったと思います」

皆川は答えた。

「とりあえず、ここはもう良いわ。私が探した所で何か見つかるはずがないし。被害者の家の方へ行ってみたいわ」

「案内します」

皆川がいった。

三人は徒歩で北島武が住んでいたアパートへ向かった。

アパートへと向かう途中楓がある場所に興味を示した。

「谷津コミュニティセンター?」

「ああ。そこの道を右に折れると小さな公民館があるんです。2階は図書館になってます」

「寄り道しても?」

「事件には関係無い所ですが?」

「少し気になることがあるのよ」

「楓さんがそう言うなら構いませんけど」

皆川は了承した。

谷津コミュニティセンターは周囲が住宅と僅かな畑に囲まれていた。皆川の言う通り猫の額程度の広さの公民館だった。外の広場は四角い砂の小さなグラウンドがあり、傾斜の草地にはそれなりに長いローラー滑り台があるだけだった。そして、傾斜の草地の頂上には雑木林が茂っていた。雑木林と言っても、石畳が敷かれていて歩けようになっていた。

「ここも真夜中になったら、とても静かそうね」

楓は誰に言うわけでもなくいった。

「まぁそうでしょうね。そんな時間にここへ来ても無意味ですからね」

皆川は半笑いしながらいった。

「そろそろ行きますか?」

皆川が促した。

「いいえ、もう良いわ」

楓はそう言って来た道を戻り始めた。呆気に取られる皆川と守はお互いに顔を見合わせた。そして、慌てて楓を追いかける。

「秋山先生。どうして被害者の家に行かないんですか?」

楓に追いついた皆川が聞いた。

「意味が無いからよ。現場と同様に警察が隈無く探したのに、私が新しく何かを見つけられるはずがないわ。警察はそんな愚かじゃないでしょう」

「そうですが、先生が見たいと仰ったんですよ」

「意味が無いと分かったなら、行く必要はないわ。無駄な努力はしない主義なの。それよりも、一旦どこかで休憩しながら、詳しい情報を聞きたいわ」

「意味が無いと判断した理由は何ですか?」

「後で教えてあげるわ。どこか休憩に丁度良い場所はないかしら?」

楓がそう言うと、2人の一歩後ろでやり取りを見ていた守がスマートフォンでカフェを検索した。

「先生。ここからだと、サイゼリヤが一番近いみたいです」

「そこで良いわ。場所は?」

「えーと、目の前の大きな公園を抜けた先に複合型施設があって、そこの一階です」

「さ、急いで行きましょう。喉がカラカラなの」

楓は更に足を速めた。


サイゼリヤに入った三人はそれぞれドリンクバーを頼んだ。楓のような美人がサイゼリヤに来ることは滅多に無いのか、対応した男性店員はチラチラと楓に視線を向けていた。そんな視線には慣れっこである楓は気に留めることもなく淡々としていた。

楓はドリンクバーからドリンクを持ってくるなり、二人を差し置いて目を瞑って沈思黙考し始めた。二人は楓の態度に呆気に取られながらも、黙々とドリンクを飲み始めた。

楓はそもそも烏森神社に来るように指定したのは加害者なのか被害者なのか気になった。加害者があの神社を指定するだろうか。確かに、真夜中に神社に来る物好きはいないが、最初から殺すつもりならあそこを選ぶとは考えにくい。真夜中は人気が無いとはいえ、周囲には民家が沢山ある。もし、相手が大声を出したら、すぐに人が駆けつけてくる。そんなリスクを犯すだろうか。では、被害者が指定したのかと言うとそうとも言い難い。人気の無い所は他にもたくさんある。しかも、被害者に家から烏森神社まではそれなりに離れている。楓はまだ事件の全体図を描くには情報が足りないと判断した。楓は目を開けて皆川に問いかけた。

「皆川君。事件後の捜査をもう少し詳しく聞いても良いかしら?」

「どんなことを聞きたいのですか?」

「皆川君が掴んでる情報なら何でも良いわ」

皆川は少し考えた後、声を潜めて話し始めた。

「実は北島は烏森神社での待ち合わせの後に、ある人物と会う約束をしていたことが分かりました」

「ある人物とは?」

「風俗の女です」

守は目を丸めるも、隣の楓はさもありなんという顔で頷いていた。

「それで?」

楓は特に女の詳しい情報は聞かずに先を促した。

「女の名前は源氏名ですがのあという女でした。北島とは昨年の秋から出会ったそうです。北島はこののあという風俗嬢にご執心で常連客だったようです。殺された夜ものあさんを午前1時に予約をしていたことが分かっています。烏森神社での用が終わった後に会う予定だったのは明白ですが、こののあという女性が興味深い証言をしてくれました」

興味深い証言に楓の眉が反応した。皆川は話し続けた。

「のあさんが言うには、俺はもう一生金に困ることはなくなるから結婚してくれというものでした。のあさんは何故困らないのかと聞いたそうでしたが、肝心の内容は話してくれなかったそうです」

「一生金に困らなくなるって言うのは確かに気になるわね」

「のあさんは宝くじにも当たったのかと思ったそうですが、そうだとしたら言い方が変です。当たったのであれば、なくなるという言い方は不自然です」

「でも、本当は当たっていてのあさんの反応を見るためにかまをかけたのでは?」

守が意見をいった。

「その可能性も考慮しましたが、その可能性は少ないと思われます。北島の部屋のどこにも宝くじはありませんでした」

「殺された時に盗まれた可能性は?」

守は食い下がった。

「それも可能性は少ないんじゃないかしら。高額当選の宝くじをわざわざ持ち歩く人間はそうはいないでしょうし、持ち歩いていたとしても剥き出しでポケットに入れておくことはまずしないわ。万が一でも失くさないように財布や何かにしまっておくはずよ。今回の事件では特に何かが盗まれた形跡はなかったはずよ」

楓の指摘に守は黙る他無かった。

「楓さんの言う通りです。犯人は被害者の衣服を調べた形跡はあったものの、貴重品類は何も盗られていませんでした。だから、我々はこれから何か大金が手に入る仕事か何かあったと結論付けて、捜査を進めましたが、そんな上手い話しは今のところ何も出てきていません」

「派遣先で出会った筋の悪い連中から危ない仕事を引き受ける予定があったとか?」

「それも無かったです。北島が行った派遣を調べましたが、特に犯罪を担いでる人物はいませんでした」

皆川はどうしようもないとばかりに首を振った。

「なるほど。これで分かったわ」

楓は一人納得して何度も頷いていた。

「な、何が分かったんですか?」

皆川は驚いていた。今の話しに何か事件の核心を掴むものがあっただろうかと自問した。

「分かって言っても犯人が分かった訳ではないわ。ただ、事件の構図が少し見えたのよ」

「事件の構図ですか?」

「ええ。私が気になっていたのは、被害者と加害者のどちらがあの神社に呼び出しのかと言うこと。今の話しで呼び出したのは被害者なのが分かったの」

「どうして被害者が呼び出したと?」

皆川の疑問は至極もっともだった。

「ヒントになったのは、被害者の職業が元記者ってことと、金に困らなくなるって話しね。元記者ので無職の人間が金に困らなくなる理由は主に二つよ。一つは何かしらの理由で大金を手に入れた。しかし、この理由は恐らく違うでしょう。では、考えられるもう一つの理由は果たして何なのか」

 楓は一旦言葉を区切って二人と目を合わせた。

 「考えられるのは金に困ることがない情報を手に入れてそれを利用しようとしたか」

 楓の言葉に二人とも何が言いたいのか瞬時に理解した。

「もしかして脅迫ですか?」

皆川の言葉に楓は頷いてみせた。

「推測だけど、烏森神社に呼び出しのは被害者の北島の方で、そこで加害者にとって不都合な情報を取引に金を強請ろうとしたが、殺されてしまった」

「北島が言っていた金に困らなくなるって言うのは、何かしらの情報を見つけて、それをネタに金を強請り続ければ良いと思ったから」

「恐らくね。その情報が何なのかはわからないけど、そう考えるのが一番妥当な所だと思うわ」

「北島は一体何を掴んだって言うんでしょうね。ただ、あんな酷い殺され方をしたから相当な危ないネタを拾ったのは予想がつきますけど」

守はストローをもて余しながらいった。

「そうね。それを見つけないことには犯人も見つけられそうにないわ。逆に言えば、北島が掴んだ情報が分かれば自ずと犯人も分かるはずよ」

「それにしても、北島はその掴んだ情報を何で管理していたのでしょう。家にもスマホにも何も怪しい情報はありませんでした」

皆川は眉に皺を寄せた。

「犯人が犯行前か犯行後に北島の家に行って回収した可能性は無いの?」

「鑑識の話しでは特に家が荒らされた形跡や指紋を拭き取られた形跡は無かったそうです。ただ、さっきも言ったように殺された北島の衣服は多少の乱れがありました」

皆川は言葉を切り楓と目を合わせた。

「財布やスマホを盗まれていなかったから警察は盗みはないと断定したけど、それは間違いかもしれ

ないわね。北島が現場に情報を管理していたメモ帳か何かを持参していて、殺された後に衣服から探し出して持ち逃げした可能性が高いわ」

楓が皆川の言葉を継いで答えた。皆川は同意するように強く頷いた。

「そして最大の疑問は、何故犯人は犯行後にわざわざ神社全体を箒で履き、北島の死体に大量の烏の羽根をぶちまけたのか」

楓は独り言のように呟いた。

守は犯人の猟奇的行動に改めて嫌悪感を覚えた。いくら脅迫を受けたとしても、死体に烏の羽根をぶちまけるなんて元からの人間性を疑いたくなる。そもそも、脅迫されるようなことをしてる奴だから人間性なんて無いようなものかと思った。

「それについてはうちは完全にお手上げ状態です」

皆川は降参するかのように両手を挙げた。警察官としてあまり褒められた姿勢ではないが、本当にどうしようも無いのが伝わってくる。

「何にしても、もう一度あの神社を調べる必要があるわね」

「さっきは警察が調べて出てこないなら、意味がないって言ってませんでした?」

守は矛盾を口にした。

「さっきまでは何の情報を持っていなかったからよ。情報を得てからまた見る分には視点が違うのよ」

守は不満げな顔をした。不満な理由は単純だった。ホラーに滅法弱い守はもう戻りたくなかったのだ。

「嫌なら帰って結構よ。ただし、二度と事務所には来ないでね」

楓は澄まし顔で言い放った。守は唇も噛むだけで、反論はしなかった。

「と、とにかく神社に向かいましょう。まだ明るい内にとっとと調べを済ませておいた方が得です」

 皆川は間を取り繕うようにいった。

 三人は会計を済ませると、再び烏森神社へと向かった。

 「それにしても、あのマンションデカすぎますよね」

 守が地上44階のマンションを見上げながらいった。

 「最上階だと億はくだらないって話しですよ」

皆川がいった。

 守は感嘆の声をあげた。一体どんな人間が住むというのだろう。

 「噂ですけど、その最上階を有名アイドルが買ったって話しもあるみたいですよ」

 皆川は笑いながらいった。

 「そのアイドルって誰ですか?」

 守は興味深々に聞いた。

 「大葉潤也ですよ」

 守は目を見開いた。大葉潤也は日本では知らない人間はいないくらいのトップ中のトップアイドルだからだ。

 「そんな大物がどうして地方のマンションを買うのかしら」

 今まで黙って聞いていた楓が口を挟んだ。

 「さあ、そこまでは。色々噂は飛び交ってるみたいですけど、どれも確かなのか分かりません。どこのマンションを買おうが本人の自由ですし」

 「じゃあ、あのマンションで待ってれば大葉君に会えるかもしれないってことですよね?」

 「一応、そうゆうことになるかな?まあ、出会ったとしても声をかけるのすら不可能だと思うけどね。超有名人だし、そう簡単に一人で歩いてるとは思えないから」

 「その大葉君があのマンションを買ったって言う噂はどこから出てきたのかしら」

 「何度かマンション内で見かけたっていう目撃情報があったみたいですよ。買ったのが事実なのか分かりませんが、何かしらの関わりはあると思います」

楓はタワーマンションに一瞥だけてくれて鼻を鳴らした。駅近の新タワーマンションならば皆川の言うように相場は億近くはあるだろう。雨露が凌げれば住む家にはあまりこだわりが無い楓にはわざわざ高い金を出してまで住む価値が分からなかった。

「買ってようが買ってまいがどうでも良い話しね。早く行きましょ」

楓は歩を速めた。

三人が烏森神社に着くと、一人の男が何やら履き掃除をしていた。楓達に背を向けているのでまだ存在には気付いてない様子だった。

「あのー」

楓が臆することなく声をかけた。

男はビクッと肩を震わせて振り向いた。そして、面食らった顔をした。振り向いたそこには男二人と一般の女性とはかけ離れた美女がいたからだ。

「突然声をかけてごめんなさいね。何をされてるんですか?」

美女に声をかけられて唐突な質問をされた男はしどろもどろになりながら答えた。

「えっと、その、掃除を・・・・・・」

「どうして掃除を?」

「どうしてって私はこの神社の神主ですから」

男の顔には徐々に警戒心が表れていた。

「神主さんでしたか。私達決して怪しい者じゃありません。ただ、この神社で起こった事件を調べに来たんです」

事件と言う言葉を聞いた神主の顔が再度驚いた顔になった。

「事件を調べてると言うこはあなたは警察の方ですか?」

「私は警察ではありません。こうゆう者です」

楓は肩にかけていたカバンから名刺を取り出して渡した。名刺を受け取った神主は物珍しそうな顔で名刺と楓の顔を行ったり来たりした。

「探偵の方がどうしてあの事件のことを?」

「依頼されたからです。この神社の近所に友人の母親が住んでいて、気味が悪いから事件を解いてくれって」

神主は楓の話しを本当に信用して良いのか決めあぐねるような表情になった。楓は仕方なく切り札を出すことにした。

「後ろに背の高い人は警察の方です。警察手帳をお見せしましょうか?」

やはりこの言葉は効果てきめんだった。神主は安堵の表情を浮かべた。

「あなたが探偵であることを信じますが、私に何の用でしょうか?」

「それよりまず最初に神主さんのお名前を教えていただいてもよろしいですか?」

男は三代川辰蔵と名乗った。年齢は46歳で身長170cmくらいの中年だった。丸顔で目が糸のように細かった。丸い眼鏡をかけている。

「三代川さんですね。改めて、お話しを聞いてもよろしいですか?」

三代川は曖昧に頷いた。いきなり探偵がやってきて、自分が質問されてることに未だに困惑しているようだった。

「この神社の神主さんと言ってましたが、神社であのような事件が起こったことを聞いてどう思われましたか?」

「どうって。そりゃあ、驚きましたよ。朝起きてニュースを見てたら、自分の管轄内にある神社で殺人事件なんて起こるなんて夢にも思ってませんでしから」

「管轄内と言うのはどうゆうことですか?」

「ああ。神主ってのは一つの神社に付き一人って訳じゃ無いんですよ。ある程度の距離間にある神社を

まとめて一人の神主に管理させているんです。なので、私はこの谷津付近にある幾つかの神社の神主を掛け持ちしているんです」

楓は興味深そうに頷いた。そんな裏話は初耳である。しかし、よくよく考えてみれば当然の話しでもあった。一つの神社毎に一人の神主だなんてどう考えても現実的に不可能だ。

「事件前にここへ来たのはいつですか?」

「えーと、3日前くらいだったと思います」

「事件前と事件後で変わったことはありますか?」

三代川は首を捻った。

「特に変わったことは無かったと思いますよ」

「以前に不審者を見かけたりとかは?」

「いやぁ全然」

「今日はどうしてまた掃除をしに?」

「単に気紛れを起こしただけです。事件が起きてから初めてきました」

その後も三代川からは貴重な証言は得られなかった。尚、三代川には事件当日にアリバイがあることを皆川が他の刑事に連絡を取って確認した。

「神主だからって期待しましたけど、見事なまでに空振りでしたね」

守がいった。皆川も同じ気持ちだったのだろう心無しか残念そうな顔をしている。

「これからどうしますか?」

守は楓に聞いた。三人は既に烏森神社を後にしていて、近くのコンビニの前でたむろっていた。

「そうね。今日はこれくらいにして一旦解散しましょう」

「もう捜査を止めるんですか?」

皆川は少し驚きながら聞いた。

「ええ。正直、これ以上捜査をした所で何か見つかるとは思えないわ。だから、皆川君は帰って良いわよ。わざわざ捜査に付き合わせて悪かったわね」

楓は一方的に決めてしまう。皆川は不服そうではあったが、楓の言うことは正しかったので押し黙ったまたま頷いた。

「じゃあ、自分はこれで失礼します」

皆川は二人に頭を下げた。

「あ、ちょっと待って。事件当時の現場の写真のコピーだけ貸して。後で何か手掛かりが無いか探すから」

楓に言われた皆川は手に持っていた黒いカバンから封筒を取り出して楓に渡した。

「コピーを一般人に渡したことがバレたらマズイので、用が無くなったら必ず焼却処分してください」

楓は頷き受け取った。

「守ちゃんも帰って良いわよ」

「あれ先生は帰らないんですか?」

「私はまだ近くに用があるの。事件とはあまり関係ないけどね」

「そうですか。じゃあ、先に帰ります。お疲れ様でした」

守はぺこっと頭を下げた。

守と皆川は踵を返して肩を並べて津田沼駅に向かって歩き始めた。

二人の後ろ姿を少しだけ見届けた楓は烏森神社へと向かう道へと戻っていく。楓が一人で向かおうとしているのは今回の依頼人にである由理奈の実家だった。現在妊娠していて、間もなく出産を控える由理奈に事件の解決ともう一つ実家の母の様子を見てきてほしいと頼まれたのだった。他ならぬ由理奈の頼みだったので、楓は引き受けることにした。楓が訪ねることは事前に伝えてあるそうなので、楓は由理奈の実家を探した。由理奈の話しでは烏森神社のすぐ側で通りに面していて、庭に井戸が置いてあるのが見える一軒家だという。目当ての家は難なく見つかった。通りに面していて井戸がある家はそこしか無かった。楓は躊躇わずインターフォンを押した。

「はい」

上品で優しそうな声がインターフォン越しでも分かった。

「初めまして。私、由理奈さんの友人で秋山楓と申し上げます」

「あなたが楓さんなのね。どうぞ中に入ってきてくださいな」

楓は小さな鉄の門扉を空けて敷地内に足を踏み入れた。右手には外から見えた庭がある。玄関の前でもう一度インターフォンを鳴らした。すると、待ち構えていたかのように玄関の扉が開いた。楓の前に現れたのは声の通りの上品な老婦人だった。背は小柄で髪は綺麗に黒染めしてる。つぶらな瞳で唇も薄い。顔には皺が刻まれ始めているが、それでも年相応の老けを感じることはなかった。

「今日は突然の訪問を失礼します」

楓は頭を下げた。気心しれた友人の母親とはいえ初対面なので礼儀を欠かす訳にはいかない。

「そんな畏まらなくて良いわ。会えて嬉しいわ。さ、中へどうぞ」

老婦人は優しく招き入れた。

「お邪魔します」

楓はきちんと靴を揃えて上がった。自分の部屋に帰った時は絶対にこんなことはしない。老婦人を先頭にリビングへと通された。リビングは整然とされていて無駄なものが一つも無かった。木目調の家具で統一されていて、気品と知見が溢れてるようなリビングだった。楓はどうやればこんな風に部屋が片付くのか不思議でならない。楓の部屋の中は常に嵐が去った後だからだ。

「素晴らしく素敵なリビングですね」

楓は心からの感想を漏らした。

「若くて綺麗な女の子にそう言ってもらえるなんて嬉しいわ」

老婦人は心底嬉しそうにニコニコしていた。楓は思わず心が和んだ。一瞬、自分の母親もこんな人だったらと由理奈を羨んだ。そこでそんなことを考えている場合じゃないと自分を叱った。

「適当に座ってくれるかしら?今、お茶出すから」

老婦人はキッチンへと向かった。楓は遠慮なくテーブルの椅子に座った。椅子の座り心地がとても良かった。

「お待たせしました。どうぞ」

老婦人は楓の前に紅茶とクッキーを置いてから、

対面に座った。

「すみません。ありがとうございます」

楓は仄かに湯気が立ち上る紅茶を口に含んだ。ほんの一口だったが、爽やかなフルーティーな香りが口いっぱいに広がった。

「美味しい」

楓は自然と言っていた。

「ほんと?お口に合って良かったわ」

老婦人はますます嬉しそうに笑った。

「今日はわざわざ足を運んでもらってありがとうね。とんだご迷惑だったでしょうに」

老婦人は申し訳なさそうにいった。

「とんでもありません。私の方こそ由理奈の頼みとはいえ図々しくもお家にお邪魔してしまいました」

「あらあら。本当に礼儀正しくて素晴らしいわ。由理奈から聞いて通りね。そう言えば、まだ名乗って無かったわね。私は美幸って言うわ。改めてよろしくしてちょうだいね」

美幸は微笑んだ。

「こちらこそよろしくお願いいたします。美幸さんこそ由理奈さんから聞いていた通りですわ。知的で上品で方でこんな素敵な婦人には会ったのは初めてです」

「あらあら、お上手ねぇ。由理奈から聞いたけど、楓さんは以前はアメリカの警察で働いていたそうね」

「ええ、まぁ」

楓は曖昧に頷いた。間違ってはないが、正確ではない。由理奈には自分かFBI所属だったことは伏せてもらっていた。由理奈の母親を信用していない訳ではないが、誰彼知られるのは楓自身が嫌だったからだ。

「今回も私が由理奈に話したことを楓さんに話して来てくれたそうで。本当に頭が上がらないわ」

「いえいえ。あんなことがあったんですもの。不安になって当然です。私の力が及んで解決に向かうのであれば、喜んでお力になります」

「元警察の方にそう言って貰えるのは心強いですわね。あの事件以来寝付きが悪くなってしまって、体にも少しだけど悪影響が出てきてるのよ」

美幸は重たそうに肩を揉んだ。

「それはお辛いでしょう。何が何でも解決して、美幸さんの悩みも解決させてあげますわ」

「由理奈の言う通り頼もしい限りだね。ご結婚はなされてるの?」

「いいえ。出来が悪いもので貰い手がいません」

「あらあら。世の中の男性はこんな素敵な女性を見逃すなんてどうかしてるわ」

「是非、世の中の男に言ってやってください」

楓は微笑みながら、この会話を受け流した。レズであることを公表しても良かったのだが、それはそれで本題から遠ざかるので、今は黙ってることにした。

「ところで、楓さんは京都のご出身だそうですね」

楓は美幸に気付かれない程度に顔を歪めた。出身地の話しはあまりしたくない。

「ええ、まぁ」

楓は歯切れ悪そうに答えた。しかし、美幸はきにするのことなく続けた。

「羨ましいわ。私も旦那も京都が大好きでね。毎年一回は旅行に行くのよ」

美幸は嬉しそうに話す。楓からしたら苦い思い出が多い京都を好きという人間が理解できないが、わざわざ水を差す発言をする意味は無いので適当に合わせた。

「そうですか。京都は旅行には向いていますからね」

「楓さんは京都のどこ出身なのかしら?」

「嵐山です」

楓は簡潔に答える。

美幸の顔がより輝いた。

「まぁ、嵐山。本当に素敵な所よねぇ。昨年初めてトロッコ列車に乗ったけど、素晴らしい体験だったわ」

トロッコ列車と聞くだけで体が無図痒くなってくる。楓は何とか話題を逸らそうと考えた。

「おば様こそどちらのご出身なのですか?」

「私は生まれてからずっとここなのよ」

楓は少なからず驚いた。由理奈の話しでは50歳を超えているとのことだから、実に半世紀もこの町に住んでいることになる。楓は自分が京都の実家で半世紀を過ごすことを考えてみた。数秒考えただけで絶望的な気持ちになった。あんなところに半世紀もいるくらいなら死を選ぶだろうと思った。

「引っ越しは考えなかったのですか?」

「もちろん、何度も考えたわ。けど、なんだかんだ出来なくて」

「今からでも遅くはないでしょう」

「今更引っ越すことはしないわ。それに、今では愛着が湧いてきてるもの」

楓には何一つ理解できないことだった。楓はある理由で京都の実家が大嫌いである。アメリカに留学した時も、FBIに所属した時も一度も帰ったことはない。FBIを辞めて日本に戻ってきた時でさえも帰るという選択肢は無かった。

「ずっと住まわれているなら、この町の変わり具合には驚いたことでしょう」

「ええ。小さい頃はこの町がこんなに近代的になるなんて夢にも思ってなかったわ。楓さんには信じられないかもしれないけど、綺麗なマンション群は元は畑だったのよ。それがあれよあれよとあんな立派なマンションと広い公園が出来て、ずっと住んでる人間からすると少し寂しい気もしたわ」

美幸はどこか遠い目で語った。

楓は自分の実家が土地開発などで潰れるなら、こんなに痛快な事はないと思った。

「ちなみに、すぐそこの烏森神社はいつからあるのですか?」

話しが烏森神社に及んだことで美幸は一瞬険しい表情になった。

「あの神社は私が生まれた前からあるのみたい。いつからその名で呼ばれたのかは知らないわ」

「何故か烏が集まる神社だそうですね。確かに、あの森には烏がたくさんいますね。ここへ来る前に足を運びましたが、烏の鳴き声があちこちから聞こえました。美幸さんは烏が集まる理由を知っていたりしますか?」

「説は幾つかあるのよ。現実的な説からオカルトチックなものもあるみたい。その中でも一番有力なのは単純に烏にとって巣が作りやすいからだとか」

やや拍子抜けの理由だが現実はそんなものである。

「ただ、、、」

美幸は話しをして良いのか迷っているような表情をしていた。

「どうかされました?」

「あの事件が起こった時、近所の人達と烏森神社の呪いは本物だったんじゃないかって話しになったの」

「烏森神社の呪い?」

「ええ。烏森神社には真夜中に訪れると呪い殺され神社に住まう烏にその体を食い散らかされ、その死体には食い散らかした烏の羽残っているって都市伝説があったのよ。だから、あそこで最初死体が見つかったって烏が食べていたって聞いた時は呪いが本物だったのかしらって皆で話したわ」

美幸はおぞましそうに体を震わせた。

「なるほど。確かに、それは恐ろしいですわね」

「殺人事件と聞いた後でも、呪いで操られて片方が殺したのではって思ったりしたわ。旦那に話したら、殺人事件に呪いも何もないって言われましたけど」

楓は旦那さんの意見に賛成だった。恐らく、今回の事件は今の都市伝説を知っている人間が照らし合わせたのだろう。死体に烏の羽が撒かれていた理由もこれで納得した。ただ、どうしてわざわざそんなことを

したのかは理解出来ていない。

「あの事件が起こる前や後に、周辺で変わったことはありましたか?」

「そうねぇ」

美幸は頬に手を当てて少し考え込んだ。そして、ふと思い出したようにいった。

「そうだわ。確か三ヶ月程前くらいかしら。あ、でも、三ヶ月前くらいの話しだし、事件には関係ないかもしれないわ」

思い出したのも束の間、美幸は話すのを躊躇った。

「おば様。どうぞ話してください。どんな些細な話しでも、知っておきたいですわ」

「いや、あのね、三ヶ月前くらいから、烏森神社の正面入口側の線路に面した道路に黒のレクサスがたまに停めてることがあったのよ」

「いつ頃の時間帯ですか?」

「夜中に近い時間帯。私は日課として、夜散歩してたんだけど、丁度その辺りをコースにしていたのよ。それで何度か見掛けたの」

楓は眉を寄せて難しい顔で考え込んだ。

「どうかしたの?」

美幸が心配そうに聞いてきた。

「ああ、ごめんなさい。その車に乗ってる人達を見たことはありますか?」

「それが無いのよ。ドアは全てスモークガラスだったわ。一度、車を通り越した時に、チラッと振り向いて後部座席を見ようしたけど、敷居がかかっていて見えなかったわ。それ以来は夜中にあんな所に車を停めてる人間と関わりたく無いから、そこだけペースを上げて早足で去ったわ」

「見掛ける頻度はどれくらいでした?

「まちまちよ。二日連続もあれば、一週間くらい見掛けない日もあった」

「ちなみに、烏森神社の中を抜けることは?」

「いいえ。いつも道を真っ直ぐ進むんで坂を登るわ。だから、神社内に人がいたのかは分からないわ」

「散歩コースを変えようとは思いませんでしたか?」

「主人にその話しをしたら、万が一があっては怖いから、コースを変えたらどうだと言われてチラッと考えましたが、特に何かされる事も無さそうだったから、とりあえずは変えなくても良いかなと思っていつも通りのコースを歩いてたわ」

「事件後もその車は見掛けますか?」

美幸は罰悪そうな顔をした。

「事件後は怖くて夜の散歩なんてとても。だから、分からないの。昼間でも一切近付かないようにしてるから。ごめんなさいね」

「いいえ。あんなことがあれば当然です。その車を夜中以外に見掛けたことはありますか?」

美幸は横に首を振った。

「その車が夜中に停まっていることを知っている人は旦那様以外にもいますか?」

「近所の人の何人かに話したわ。けど、誰も特に気にしなかった。暴走族のようにうるさい訳でも無いし」

美幸は少しやるせない顔で語った。自分の話しに特に興味を持たれなかったことが少し残念だったのだろう。

確かに、ただ道に停まっているだけなら誰にも迷惑をかけている訳でもない。単純に路駐出来る場所を探していて、あの場所を見つけて深夜のドライブがてらに停めていただけかもしれない。しかし、楓にはこの話しが妙に引っ掛かった。

 「それは確かに怪しいですね。警察には知らせましたか?」

 「いいえ。正直、この地域の警察はあまり役に立たなくて。市民からの苦情や相談に対してあまり積極的には動かないの。だから、相談するのも無駄だから話してないわ」

 楓は納得するように頷いた。地方都市の警察官はどこも似たようなものだ。彼等は極力面倒を避けたがる。地域で暴走族が深夜に徘徊していても、ニ、三回注意するだけで仕事した気になっている。もちろん、警察が暴走族だけに構っていられないことも理解しているが、深夜に安眠を妨げられる身からすれば警察の対応が雑に思えるのも当然のことである。

 「そうですか。まあ、特に近隣住民に迷惑をかけていた訳でもないので、話しても警察が動いてくれる可能性も低かったでしょう」

 そうは言いつつも、楓は今日の深夜に早速確認してみようと思った。

「あ、そうだわ」

美幸が突然思い出したようにいった。

「何か思い出したんですか?」

「事件の事じゃないわ。今の車の話しを誰かに話したかって聞いたでしょ。そう言えば、由理奈の夫にも同じ話しをしたわ」

「ブライアンに?」

聞き捨てならない話しだった。

「いつ話したんですか?」

「三日前くらいかしら?その時に話したのよ」

楓はみるみる険しい表情になっていた。何故ブライアンは楓にその事を話さなかったのだろうか。何か話せない事情でもあったと言うのか。

「楓ちゃん?」

美幸が気遣うような様子で声をかけてきた。

「あ、ごめんなさい。ブライアンは話しを聞いて何と言ってましたか?」

「特に何も言ってなかったわ。ただ、今後は近寄らない方が賢明でしょうとだけ」

楓は車の話しが重大な手掛かりであると確信した。ブライアンは何も思わなかったら、わざわざ忠告するような人間ではない。ブライアンも今の話しを聞いて思うことがあったのだろうと分かった。しかし、何故それを自分にしなかったのは分からない。今すぐにでもブライアンを問い詰めたかったが、あの百戦錬磨の男を問い詰めるのは簡単な事ではないと楓は重々承知していた。とにかく今はブライアンの思惑を探るよりも真相を解明することが先決だと思い、一旦ブライアンのことは忘れることにした。

その後は他愛もない話しに終始し、一時間も経ったくらいに楓は由理奈の実家を後にした。

「すっかり長居をしてしまって申し訳ありませんでした」

玄関先で楓は頭を下げた。

「良いのよ。大した話しも出来ずにごめんなさいね」

「いいえ。貴重なお話しを聞かせてもらいましたわ

。今度は由理奈とご一緒の時に遊びに来させてもらいます」

「あら、それは嬉しいわね。楽しみに待ってるわ」

美幸は嬉しそうに微笑んだ。

「それと、事件は必ず解決すると約束します」

楓は強い光を宿した目でいった。

「不思議なことね。少しの間しか会っていないのに、楓ちゃんがそう言うならば素直に信じられるわ。でも、無茶はしないでほしいわ」

楓は美幸の最後のセリフに由理奈の面影を見い出した。事件の捜査に出る度に由理奈も全く同じことを言ってきた。もちろん、美幸よりもっと口酸っぱくだが。楓はつい嬉しくて頬が緩んだ。日本に戻ってきてから守以外の他人に心配された覚えがない。純粋に自分を想って言ってくれることが楓にはとても嬉しかった。

「警察時代と違って無茶は出来ませんから、ご安心ください。危なくなったらすぐに逃げます」

「くれぐれもそうしてちょうだい」

「では、失礼します」

最後にお辞儀をして楓は碓氷家を後にした。


時刻は23時半を過ぎた頃だった。楓は烏森神社へと続く坂道の前に立っていた。こんな時間にここへ訪れた理由はただ一つ。昼間に聞いた美幸の話しを確認するためだ。その為に楓は夜中近くになるまで津田沼の漫画喫茶で待機していた。楓はスマホを取り出してカメラを録画モードにする。もし、美幸の言う車があったとして、それを収めたいのだが、写真を取る時に万が一でもバレたらややこしい事になってしまうので、隠し撮りすることにした。

楓は烏森神社の中を突っ切るか迷ったが、ここは美幸の歩いたルートを辿ることにした。楓は烏森神社を通り過ぎて、突き当たりまで下りた。そして、右に曲がってすぐに楓の心臓は跳ね上がった。美幸の話しに出てきた例の黒いレクサスがあったのだ。美幸の話し通りナンバープレートは隠されており、後部座席は敷居で見えないようになっている。運転席にも助手席にも誰もおらず、楓は足を止めて烏森神社へと視線を向けた。果たしてこんな時間に神社で何をしていると言うのか。

楓は烏森神社に入って覗きたい衝動に駆られたが、銃のあったFBI時代ならいざ知らず、相手が何人でどんな人間かも分かっていないのに、丸腰で突っ込むのは無謀にも程があった。人間一人くらいならばFBI時代に習得した格闘術で抑え込むことは出来るが、二人以上は厳しい。身を隠してカメラを撮りたい所だが、構造的にも後から入って都合よく隠れる場所は無かったし、茂みに身を隠そうとしてもこの静けさでは落ち葉を踏む音で容易にバレるはずだ。こんなことなら皆川に協力を要請しておけば良かったと後悔した。まさか今日いるとは思ってなかった。

そんな風に迷っていると神社の方から何やら声が聞こえてきた。複数の男の声だった。楓はどうしたものかと慌てた。楓は周囲を見渡して急いで線路と道路を隔ている柵を乗り越えた。そこに身を隠して息を潜めた。もし、電車が通って見つかったら警察に通報されてもおかしくない程怪しいことをしている状況だった。楓は柵の下にある隙間があることに気づいた。自分では覗けないので、スマホのカメラを穴に当てた。声が大きくなり階段を降りる音が聞こえてきた。楓が耳を澄ませて会話を聞き取ろうとすると、電車がやってくる音が聞こえてきた。楓は内心舌打ちした。車にのドアを開閉する音が聞こえた。楓はスマホの録画を確認した。声も顔も映って無いが、足元が明確に映っていた。どうやら三人組のようだった。靴の感じからして男の三人組のようだ。二人は黒い革靴で一人は白いスニーカーだった。三人が足早に車に乗り込んだ所で上手く録画を止めれたみたいだった。。

電車が通り過ぎると同時に車も発進した。車のエンジンが完全に聞こえなくなるまで待機して、そっと柵から顔を覗かせた。通りには誰もいない。楓はそそくさと柵を乗り越え、何事も無かったかのように澄まし顔で烏森神社へと向かった。神社内は月明かりで照らされていて、真夜中にも関わらず思った以上に明るかった。楓は全体を見て回るが特に変わった様子は見受けられなかった。

楓は腕を組んでその場で考え込んだ。大の大人三人組が夜中の神社でやることとは何だろうか。現時点では取っ掛かりが無さすぎて何も判断できないのが悔しかった。楓は何気なく足元を見た。そう言えば、昼間神主が神社を掃除していたのを思い出した。楓はもっと見えやすいように、足元をスマホの明かりで照らして、もう一度神社内を回ってみた。すると、先程の三人の足跡は賽銭箱を中心に付いてることが分かった。楓は賽銭箱を照らす。ここに何かあるのだろうかと怪訝そうに眉を潜める。上から賽銭箱の中を照してみるが、特に中が見えることは無かった。そこで賽銭箱の下の方を照し、賽銭箱と地面の間を手で触りながらゆっくりと回った。すると、賽銭箱の真後ろに小さな取っ手があることに気付いた。楓はその取っ手を引いてみた。すると、小さな空間がぽっかりと現れた。楓は屈み込んで明かりを照らす。15cm四方の小さな空間がそこにはあった。そして、そこには分厚い封筒が置いてあった。楓は封筒を手に取った。封筒の中身を見て見ると、楓は目を丸めた。封筒の中身は何と現金だった。100万円の束が三つあるので、300万あった。楓は思わず固まって封筒を見つめた。何故こんな所にこんな大金が隠してあるのだろう。一体誰がと、そこまで考えて楓はハッとなった。この金はさっきの三人組がここに隠したのだろうか。それとも、三人組はこの金を探していたが、見つけられずに帰ったのだろうか。いや、そんなはずはない。何も知らない自分もこの場所を簡単に見つけられたのだ。ここに大金があると分かっているなら、この仕掛けくらい見つけられない訳がない。それに足跡は賽銭箱の真後ろにも付いてる。つまり、この金はあの三人組が何かの報酬としてここに置いたことに間違いが無いはずだ。楓はすぐさま皆川に連絡を取ろうとしたが、一旦止めた。もしかしたら、このお金を取りに来る人物が後少しで来るかもしれない。そこで楓は、ひとまず金は元に戻しておいて、どこかに隠れて見張ろうと考えた。楓は金を元の場所に戻し、急いで賽銭箱の近くに身を隠せる場所が無いか探した。結果、多少のリスクはあるものの賽銭箱を設置してある本堂の物陰から見張ることにした。知らないと絶対に見つけられない場所に隠しているとは言え、あれ程の大金を明日の朝まで放置することは考えにくかった。楓は辛抱強く待つことにした。30分も経った頃だろうか、楓の読みはズバリと当たった。正面の階段から誰かが上ってくる気配を感じた。楓は更に慎重に息を潜めた。上ってきたのは一人の男だった。楓は顔を見た瞬間声をあげそうになった。その男は楓の知っている人物だったからだ。男は真っ直ぐ賽銭箱へと近付いた。男は懐中電灯を点け賽銭箱を照らした。案の定、男は賽銭箱の真後ろに回り込んだ。周囲を警戒するかのように見渡してから、しゃがみ込んだ。そして、男は数秒で立ち上がった。手には先程見つけた封筒が握られている。楓が驚きで固まっている間に、男は持っていたカバンに封筒をしまい、足早に去っていった。男の姿が完全に消え去ってから、楓は物陰からそっと出た。

楓は賽銭箱に近付き、改めて先程の隠し扉を開けた。すると、また封筒が一つ置かれていた。楓は慎重に封筒を取り出して、中身を確認した。その中身をが何なのかを確認した楓は脳天を衝かれる程の衝撃を覚えた。そして、霧が晴れたように事件の全貌が見えてきた。しかし、全貌が見えても肝心の犯人が見えない。だが楓はあまり気にしなかった。何故なら、先程金を取り出した男を捕まえれば北島武を殺した犯人が見つかるのも時間の問題だと確信していた。

楓は踵を返して烏森神社を後にした。そして同時に、今夜起こったことを皆川に詳細に話すべくスマホ

を取り出したが、またすぐにしまった。今夜の出来事をしっかり整理してから、直接会って話す方が良いだろうと判断したからだ。終電は無くなっていたので、楓はカラオケ屋に入り、そこで皆川に頼んで貰った事件現場の写真を見つめ直した。数枚目の写真を見た時に違和感を得た。違和感の正体を探るべく写真を舐めるように見つめる。そして、ついに見つけた。それは箒だった。横に並べられた三本の内の一本の箒だけ何故か柄の部分が下向きに置かれていたのだった。他のニ本は柄の部分が上を向いている。楓は何故だと首を捻った。仮にこの下向きに置かれている箒を使用したのであれば、何故他の箒と同じように戻さなかったのだろうか。もちろん、箒を使用した形跡が現場にはあったから、どっち向きに置くかは一見そこまでの問題になることではないように思える。犯人は慌てて使い戻したからと思ったが、そこまで慌てているのであれば何も律儀に置き場に戻す必要はない。使ったことがバレても構わないなら、そこら辺に投げ捨てれば良いだけの話しだ。そもそもとして、何故犯人は現場を清掃したのだろうか。しかも、神社全体を。一刻も早く逃げたいはずのに、そうをしなければならない理由とはなんなのか。その時、楓は閃いた。全体を隠したかったのではなくて、本当はある部分だけの足跡を消したかったのではないだろうか。ある部分とは秘密の空間が存在する賽銭箱周辺。賽銭箱周辺に被害者の足跡が残っていて、犯人はその足跡を消したかった。しかし、そこだけ消せば賽銭箱に何かがあり、警察に例の仕掛けが気付かれてしまう可能性がある。だから犯人は、神社全体を掃いた。そうすれば、賽銭箱周辺が掃かれていても目立つことはない。

しかし、さっきの男が犯人だったとして、そこまでの冷静がありながら、箒を逆に置いて戻すことをするだろうか。それとも、それも罠の何かなのだろうかと疑ったが、その箒には犯行後に使用された形跡として、被害者の血液が付着していたので、罠などあるはすがなかった。楓は唸った。あの男を安易に北島を殺した犯人と決めつけるのは早計かもしれないと思った。しかし、別件であの男を逮捕すれば、北島武殺人事件も解決するだろうと確信している楓は、少し重たくなってきた瞼に逆らうことなく始発まで仮眠を取った。


朝一番のLINEにも関わらず皆川はすぐに反応してくれた。お昼過ぎに事務所に向かうと言う旨と早く聞きたくて仕方ないとのことだった。楓は逸る気持ちを抑えるために、敢えてゆったりと準備に取り掛かった。今日はPaul・Smithのネイビースーツに身を包み、TOD'Sのブラウンのパンプスを履いた。季節が秋を深めているので、服装にも秋色を取り入れたかった。コーヒーを淹れてデスクの椅子に座る。すると、愛猫のシロップが膝に乗ってきた。楓はシロップの頭を掻きながらコーヒーを啜った。

楓はお気に入りのマーガレットハウエルの腕時計を見た。午前10時を過ぎていた。本来であればとっくに守が出勤している時間である。だが、今日は皆川と同時に聞いてもらうため、皆川と同じ時間に来るように言ってあった。これは単純に二回も同じ話しをするのが面倒だったためだ。楓は気晴らしにテレビを付けた。人気お笑い芸人が司会をしている情報番組だった。特に見たい番組があった訳では無いのでそれを見ることにした。本日のゲストに大葉潤也が出ていた。楓は一瞬どこかで聞いた名と思ったが、すぐに思い出した。昨日、烏森神社に向かう途中で出てきたアイドルの名前だったはずだ。楓は何気なしに大葉潤也を上か下まで眺めた。生粋のレズである楓からすれば、物凄くイケメンな大葉潤也も他の男と同様にしか見えず、何が良いのか全く理解できなかった。それよりも新しく司会を任された女子アナが好みでそっちに食らい付いた。番組は滞りなく進行して、ゲストが自宅を紹介すると言うコーナーに移った。もはや、完全に興味を無くし、惰性で見ていた楓の目にその部分は映った。大葉潤也がカメラをある部屋の一部を映した瞬間に楓は弾けるように立ち上がった。楓はテレビに近付きある部分を凝視した。これは・・・・・・その瞬間、全てのピースがハマった。


ドラマの収録を終えて、自分の部屋に帰ってきた大葉潤也は着替えることもなく高級ソファにドサッと座った。LINEの通知音が鳴りスマホを開く。メッセージには簡潔に三とだけ書かれていた。大葉潤也は舌打ちをして、立ち上がって台所に向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し一気に飲んだ。思いっきり台所に叩きつけるようにペットボトルを置いた。次第に息遣いが荒くなってきた。大葉潤也は頭をかきむしった。どうしてこんなことになってしまったのか。大葉潤也は三ヶ月前の自分をぶん殴りたくて堪らなかった。たった一回の好奇心。その一回がまさかこんなことになるなんてその時は思いもよらなかった。いや、思いがよっていればこんなことになっていなかった。そして、あんなことをすることも無かったのに・・・・・・。

不意にインターホンが鳴り響いた。大葉潤也はこんな時間に誰だろうと、怪訝そうに眉を潜めた。もちろん、カメラ付きインターホンなので玄関前に誰がいるのか確認できる。大葉潤也はのたのたとカメラの所まで歩いていく。カメラの前に映っていたのは見知らぬ男二人組だった。一人は端正な顔立ちをしたー背の高い若い男で、もう一人は無愛想な中肉中背の男だった。大葉潤也はますます混乱した。誰だこいつらはそう思ったタイミングで若い男の方がカメラ前にある物をかざした。それを見た大葉潤也は全てを悟り、膝から崩れ落ちた。



どのテレビ局も大葉潤也逮捕のニュースで賑わっていた。それもそのはずでスーパーアイドルの薬物使用及び殺人事件はまさにセンセーショナルな大事件だろう。もしかしたら、令和一の一大事件になり得るかもしれない。自宅マンションから手錠をかけられて出てくる大葉潤也のシーンが流れた。大葉潤也は項垂れるように大人しく両脇の警官に連れられていた。パトカーの中でも様子は変わりなく拘置所に入るまで一度も顔を上げることは無かったそうだ。番組の司会が怒りと悲しみの入り混じった声で喋っていた。皆川はテレビを消して大きく椅子にもたれて息を吐いた。そして、あの日楓から真相を聞いた日を思い出した。

「結論から言うわ。北島武殺害の犯人はアイドルの大葉潤也とみて間違いないわ」

楓はキッパリと断言した。

「本当ですか!?」

守と皆川は声を揃えていった。その顔にはどちらも信じられないと書いてある。

「今から順を追って説明するわ。まず北島武が殺された理由についてよ。北島武が強い恨みを抱かれていたのは間違いないわ。では、どうして北島は恨みを抱かれていたのか」

楓は一旦言葉を切って二人を見た。

「それはある人物の薬物の取引現場を知っていて、それをネタに脅したのよ」

「何ですって!」

皆川は思わず声がでかくなってしまった。隣の守はあんぐりと口を開けたまま呆けている。

「そう。あの烏森神社は薬物の取引現場として使われていたのよ」

「本当ですか?」

皆川は俄に信じられないようだった。

楓は美幸から聞いた情報を含めてあの日の夜に何があったのかを細かく説明した。

「そんなことがあったなんて」

「北島も何らかの理由で烏森神社の秘密を知った。そして同時に、その薬物の取引現場には、脅迫するのに最適な人物がいた。だから、北島は風俗嬢に金に困らなくなると言ったのよ。それをネタに脅し続ければお金に困ることがないから」

「でも、待ってください。どうして大葉潤也が殺人犯だと分かったんですか?」

「薬物に関わっていると分かったのは、大葉潤也が北島武の殺人犯と分かったからよ。私は最初は烏森神社の神主が犯人だと思っていたから」

「神主って僕達が昼間に行った時に居た人ですか?」

守は目を大きく開けながらいった。

「ええ。そうよ。私が見張っていた時に賽銭箱の秘密の扉を開けて金を持っていったのは三代川って言う神主だったわ。恐らく、三代川は薬物の売人なんでしょうね」

次々と明るみになる真実に皆川は口を挟む余裕すら無いようだった。

「でも、大葉潤也が北島を殺したのは何故分かったんですか?」

「彼の癖よ」

「癖?どうして楓さんが大葉潤也の癖を知っているのですか?」

「もちろん、知るわけないわ。でも、事件現場には彼の癖が明確に出ていたのよ」

皆川と守は訳が分からないとでも言いたげな表情をしていた。

「今から説明するわ。でも、その前にこの写真を見て」

楓は昨日自分が見つけた違和感のある事件現場の写真を二人に見せた。

「この写真に何か写ってるんですか?」

守がいった。

「そうよ。じゃあ、今度はこれを見て」

楓はスマホを出してある動画を見せた。

「これって毎朝やってる情報番組ですか?」

皆川が答えた。

「そうよ。これは今朝の放送回よ。今の時代は楽ね。すぐに動画配信で見れるから」

「この放送回に何があるんですか?」

皆川はすかさず質問を挟む。

「今朝の放送のゲストは大葉潤也だったの。そして、この放送のコーナーの一つに大葉潤也が自宅を紹介するコーナーがあるわ。そこにさっき話した彼の癖が明確に映っているシーンがあるわ」

そう言うと楓は動画画面の赤いバーを一気に動かした。半分以上進めてから、そこから細かく微調整して再び流す。

「このシーンよ」

そのシーンは大葉潤也が書斎を紹介しているシーンからだった。

「はい。ここ」

楓は止めた。

「写真と見比べてある共通点があるのが分かる?」

二人はスマホと動画を見比べているが、しきりに首を捻っていた。

「時間切れね。正解はここよ」

楓は動画のある部分を指した。

「ペン入れ?」

楓が指したのは書斎の机の上にある缶のペン入れだった。皆川は訳が分からないと言った調子で首を振った。

「ご覧のようにペン入れに入ってるペン達はペン先が上になってしまわれてるわね?」

楓が二人に問いかけると、二人は頷いた。

「では、さっき渡した写真に写っている箒を見てご覧なさい。これで気付くでしょう」

数秒見た所で守が声を上げた。

「あ、箒の一本が穂先が上にしてしまわれてます」

「その通りよ。そこに彼の癖が出たのよ。大葉潤也は北島を殺し、神社全体を箒で掃いた。そして、その箒をしまう時に、いつもペンをしまっている癖が出てしまったのよ」

「し、しかし、これだけで大葉潤也と決めつけるのは早計ではないですか?」

皆川はいった。

「ええ、そうね。私もこれだけで彼が北島を殺したと言える証拠になるとは思えないわ。だから、もう一つ情報を教えるわ」

「まだあるんですか?」

皆川は楓の収集能力に尊敬を通り越して恐れを抱き始めた。

「ええ。これを見てくれる?」

楓は今度は別の動画を見せた。

「これは昨夜の神社から出てきた三人組の足元を撮った動画よ。真ん中の白いスニーカーを見て」

守と皆川は額を寄せ合うように画面を覗く。

「この白いスニーカーがどうかしたんですか?」

守が聞いた。

「その白いスニーカーはただのスニーカーじゃないわ。JIMMY CHOOとAIR JORDANがコラボした世界に20足だけ発売された限定のスニーカーよ。値段は約55万円」

スニーカーの値段に二人は思わず顔をのけ反らした。

「このスニーカーを手に入れられるのは限られた人間だけ。実家は資産家で日本のトップアイドルなら持つことは可能かもしれないわね」

二人とも言葉にならずに黙ったままいた。それだけに衝撃的な真実だった。

「さて、これだけの証拠があるならば調べる価値はあるのではなくて?」

楓は少し挑発気味にいった。

皆川は腕を組み目を瞑って大きく息を吐いた。

「確かに、これだけの状況証拠が出てきたのであれば調べてみる価値はあると思います」

皆川の目には刑事特有の鋭い眼光が宿っていた。

「それにしても、たった1日でここまでの答えを導き出すなんて本当に名探偵ですね」

皆川は尊敬の眼差しを楓に向けた。

「まだ答え合わせをしてないのだから、褒めてもらうには早いわよ。私が名探偵であることを証明してくれるかしら?」

楓は自信たっぷりに答えた。

「はい。後はお任せください。すぐに署に戻って上山と捜査に当たります」

皆川は一礼してすぐさま事務所を後にした。

「先生。今回もお見事ですね」

皆川が出ていった後に守がいった。

「ありがと。これで由理奈に顔向けが出来るわ」

楓はまだ答え合わせは終わっていないと言ったが、その顔には自分の出した答えが間違いないと確信に満ちている表情だった。

そして、間もなく烏森神社の神主である三代川と大葉潤也を麻薬取締法違反で逮捕したとの一報が皆川から届いた。そして、大葉潤也の自宅押し入れから北島殺しに使用されたナイフが出てきた為、大葉潤也は殺人罪で再逮捕された。

殺害動機は楓が推理した通りだった。ある日、烏森神社で薬物を例の賽銭箱の秘密の空間から取り出す時に北島に見つかったそうだった。どうして北島が烏森神社の秘密の取引を知ったかと言うと、北島は元々スキャンダル専門のライターで大葉潤也みたいなアイドルや俳優のスキャンダルを狙う仕事をしていた。しかし、度々行っていた違法な取材を問題視され会社から首にされた。そんなある日、噂話しで大葉潤也が津田沼のタワーマンションを買ったと言う情報を得た。北島はその噂話しが本当かどうかを確かめる為に、マンションを見張った。見張りから2ヶ月経過する頃についに大葉潤也を見つけた。北島は大葉潤也のスキャンダルを狙って付け始めた。そして、ついにあの現場を撮り押さえたのだった。

大葉潤也の薬物売買を知った北島は当然のように脅した。このままでは一生付きまとわれ、絶対に逃げられない相手だと悟った大葉潤也は北島を殺すしかないと決断をして、金を渡す日に殺しを決行したのだった。

神主の三代川は殺しには直接関与していないものの、一目で誰が大葉潤也がやったと分かったが、それを話せば自分も薬物取引で捕まるため黙っていたとのことだった。

麻薬取締法違反で逮捕された大葉潤也は北島殺しもあっさりと自供した。

現場を掃いたのはこれも楓の推理通りで賽銭箱から警察の目を遠ざける為だった。そして、烏の羽を巻いた理由は烏森神社にまつわる都市伝説を利用したとのことだった。大葉潤也は谷津の出身だったので、当然都市伝説を知っていた。烏の羽を死体にぶちまけることで不気味さを増長させ、烏森神社に更に人を近づけ無いためにやったのことだった。烏の羽は闇サイトで購入したと言う。何から何まで楓の推理通りで烏森神社で起こった凄惨な殺人事件は幕を閉じた。


取り調べ室のドアが開き上山がむっつりした顔で出てきた。

「どうですか?」

皆川は聞いた。

「ありがたいことに素直に吐いてるよ」

「意外ですね。黙秘を貫くと思ってました」

「奴さんも逮捕されたことで何か憑き物が落ちたんだろう。俺達の出番はもうほぼ終わりだ」

大葉潤也は大筋を認めているので、後は調書を作成し検察に身柄を引き渡すだけだった。

 「それにしても、あんな成功者でも薬物に手を染めてしまうってなんだかって思います」

 「成功者だからこそ目を付けられるんだ。基本的に、金の無い奴に薬を買うことは出来ん。別に特に珍しいことはない。自分の得た地位に精神力が付いて来なかっただけの話しだよ」

 上山の言い草に皆川は苦笑いした。

「なんだよ」

「馬鹿がつけられる薬は麻薬だけですもんね」

「偉い手厳しいじゃねぇか」

「秋山先生の受け売りです」

上山は面白くなさそう鼻を鳴らした。

「それにしても、今回も先生様々だったな」

「ええ。見事な推理で事件を解決に導いてくれました。警察官としては複雑ですが」

秋山の能力をまざまざと見せつけられて、少しの嫉妬も無かったとは言えなかった。

「ふん。なら、研鑽を積んでいくしかねぇな。それこそ、あの先生に食らい付いてでもな」

「解決のお礼に何か送った方が良いですかね?」

「要らねぇよ。こっちは無償で協力してやったんだ。それより行くぞ。事件はこれだけじゃない」

上山は厳しい目付きで付いてくるように促す。

「はい。すぐに行きましょう」

皆川は気合いを漲らせて、上山の後を付いていく。そして同時に、遥か先に立っている楓の背中を追いかけ始めた。


事件が解決してから2日後の夜、楓と守は行き付けのバーユリアンナへ行き、カウンターの端っこに座った。

「あら、景気の良い顔」

あんなママは楓の前に来るとそういった。

「そうかしら?いつも通りよ」

「そうゆうことにしておいてあげるわ」

「あんなママお久しぶりです」

守は挨拶した。

「久しぶり。守ちゃんが元気そうで良かったわ。この暴れ馬にこき使われてないかいつも心配してるわ」

あんなママは守の頬に手を当てた。女性になれていない守は少しドキドキした。

「ちょっと」

楓はあんなママを睨んだ。

「辞めたくなったらここへ来なさい。いつでも雇うわよ」

守は苦笑いすることしかできない。

「私を苛めるのはいい加減にしてくれないかしら?」

「はいはい」

あんなママは素っ気なくいって、後ろの棚から黙ってお酒を出してグラスに注いで楓に出した。

「まだ何も頼んでないじゃない」

楓は眉を潜めた。

「お祝い。事件解決させたんでしょ?」

あんなママはウインクをして見せた。

どうして自分が解決させたことを知っているのか一瞬に不思議思ったが、兼次が話したんだろうとすぐに分かった。楓は頬を緩ませて礼をいった。

「ありがたく受け取るわ」

楓は守とグラスを合わせて、注がれたバーボンのロックをぐいっと飲んだ。舌が痺れ、喉が焼ける。その感覚が妙に居心地が良かった。


楓は物思いに耽る表情で昼間の出来事を思い出した。

「やぁ楓。お見事だったね」

新宿のスタバで待ち合わせていたブライアンは開口一番にいった。

「奢ってもらうつもりだから、財布は持ってきてないわ」

楓の言い草に怒る所かブライアンは愉快そうに笑う。

「こんな美人とスタバ一杯分で過ごせるなら安いものさ。それにしても凄いな。たった一日で解決に導くなんて。やっぱり、FBIに戻ってこないかい?」

ブライアンはしれっと復帰話しを持ちかける。

「ご遠慮するわ。今回は運が良かっただけ。由理奈のお母様の話しが無ければ解決は無理だったわ」

「謙遜してる割にはしてやったり顔じゃないか。さぞかしFBI時代の血が騒いだんだろう」

「まぁ、いつものちんけな依頼よりはずっと燃えたわね。それよりブライアン、あなたに聞きたいことがあるんだけど?」

「何でも聞いてくれよ」

ブライアンは肩を竦めた。

「由理奈のお母様が言うには私に話したことをあなたにも話したって言ってたわ」

「そうだっけな」

ブライアンは惚けてみせる。

「ブライアン。あなたまさか全て分かってて私の所に依頼したんじゃないでしょうね?」

「何を言うんだい楓。僕がそんな回りくどいことを出来るわけないないだろう」

ブライアンは両手を広げてみせる。

「てことは、バニーの発案ね。恐ろしい組織だわ。私に解かせてやる気を出させてFBIに復帰をしてくれればって思ったのね?」

楓は睨みを利かせて問い詰めた。しかし、ブライアンは素知らぬ顔でいった。

「どう思おうが君の自由だよ。私はあくまでも由理奈の為に君に頼んだんだ」

由理奈を盾にして来ることに腹立ちを覚えた。そして、これ以上追及してもブライアンは何も吐くことは無いだろうと悟った楓は憤懣やるせない顔でいった。

「長官に言っておいて。私が復帰する条件は一つ。リリーを戻してと」

ブライアンは少し面を食らった表情になったが、すぐに眉を下げて頷いた。

「この話しはもう良いわ。終わったことよ」

それから二人は黙ってコーヒーを口に運んだ。

「すまなかった」

不意にブライアンが呟いた。

「何が?」

「いや、色々とだよ。負担をかけてすまなかった」

ブライアンは珍しく傷心した表情を見せた。

「あなたが謝ることでも気にすることでもないわ」

楓はブライアンの気持ちを慮った。ブライアンとて本音は頼みたくないことだったのだろう。上からの圧力はアメリカも日本も変わらない。

「ありがとう。君は相変わらず優しいままだ」

「あら、助手から毎日鬼だの悪魔だの言われているわ」

楓がそう言うと、ブライアンはまた愉快そうに笑った。

「それでも君の側から離れていないじゃないか。彼も楓の芯の美しさにはほとほと参ってるんだろうね」

「その割にはすぐ愚痴をこぼすけどね」

「でも、今の君にとって救いになっているんだろう?」

ブライアンは眉を上げた。

楓は口を緩めるだけで何も言わなかった。

「さてと、僕はそろそろ行くよ。フライトの時間だ」

ブライアンは立ち上がった。楓も倣う。道端で二人は最後の別れをしていた。

「色々あったけど、楓に会えて本当に嬉しかったよ」

「私もよ。由理奈によろしくね」

二人は軽く抱き合った。

「妻が君に早く会いたがってる」

「ええ。来年そっちに行くわ。リリーにも会いに行くから」

楓がずっと避けていたリリーの墓参りをすると分かったブライアンは嬉しそうな顔をした。

「リリーもきっと喜ぶよ」

「いいえ。リリーに怒られるわ。どうして今まで会いに来てくれなかったのって」

楓は少し寂しそうにいった。

「そうかもしれないな。でも、リリーは君を待ってる。リリーにとっても一番会いたい人は楓だから」

ブライアンはありったけの優しさを込めていった。

「ありがとう。それじゃ由理奈の産後のケアをしっかりね。それと、仕事にかまけて育児と由理奈を放っておいたらタダじゃ済まさないわ」

楓はドスを効かせた声で凄んだ。

「ご安心を。育児休暇を申請しておいたさ」

ブライアンは茶目っ気たっぷりにウインクをした。

「なら、よろしい。bye.Mr.Brian」

最後は綺麗な英語で締めくくった。


「先生?」

不意にかけられた声で楓は現実の世界に引き戻された。

「具合でも悪いんですか?」

「違うわ。旧友との別れを惜しんでいたのよ」

一抹の寂しさを覚えた楓はその想いをかき消すように再びバーボンを煽った。

嵐が去った静けさなのか、またしばらく退屈な日々が続きそうで楓の気持ちは萎えそうになる。でも、良いわ。平和が一番よ。そう自分の言い聞かせた時、店の扉が開き風が囁くように入ってきた。まるで、事件の呼ぶ声が聞こえたみたいだった。

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