下卑面
市はもう一度、深い溜息を吐いた。
くだらぬ政の争いに巻き込まれるのは、もう御免である。
そもそも鉄砲撃ちの腕《技術》を維持するために、裏の仕事を引き受けているだけのこと。
二〇〇年以上も受け継いできた鉄砲の撃ちの技――それを絶やさぬ為に自分は生きてきたのだ。
だが、最早そのような時代ではない。西洋では新しき技術を取り入れた鉄砲が、次々と生み出されている。聞く話によれば、休むことなく何十発もの弾を撃つ銃砲が作られたともいう。
そのようなものを前にすれば、自分が培ってきた鉄砲の技など、どれほどの役に立とうか。せいぜいが、鳥や獣を狩るしか使い道などない。
戦国の世に産まれた鉄砲術なぞ、無用の長物と成り果てるしかないのだ。まして、子の成せぬ我が身なれば古き技と共に、徒花と朽ちていけばよいのである。己の下腹をそっと撫で、市の紅い唇が自嘲気に嗤った。
その時である。うなじの辺りに、むず痒い奇妙な感触を覚えた。
例えるならそれは、風に流れてきた綿毛が微かに触れたような感触。或いはそれは、蜘蛛の糸が触れた時のそれに似ているかもしれない。
突如それが、凍てついた針が射すように変化した。その瞬間、市は躊躇うことなく身を捌いた。
市の艶やかな髪を掠め、煌めく何かが走り抜けると、前を歩いていた行商の背にした行李に突き刺さった。
それは糸のように細い針であった。だが市にそれをしかと確認する余裕はなかった。
曖昧であった気配が、明確な殺気となって市を取り囲んでいく。人混みに紛れ、殺気の主は見分けがつかない。かなりの手練れである。
このまま人混みを盾にするという手段も有るが、相手が判らぬ以上、不利になるのは市のほうである。それに、無関係の人間を巻き込むのは好きではない。
市は、半纏姿の職人たちの中を掻き分けるように、足を速めた。仕事を終え、すでにどこかで一杯ひっかけてきたのだろう。むっとした酒の匂いと男たちの怒声が背を叩く。
「すまん」
押し殺した声を残し、市は男たちの間を縫うようにして塀の隙間に身を滑り込ませた。じめじめと湿った路地を足早に駆け抜け、喧騒が聞こえなくなる辺りで、市は足を止めた。
ふと、空を見上げれば東の空は藍色に染まっていた。
葉の落ちた銀杏の古木に背を預け、気配を探る。撒いたか――と、市はそこでようやく息を吐いた。改めて周囲を見渡せばどうやら古い神社のようであった。燈籠に灯りもない。
やれやれ――と、市はもう一度、大きく息を吐いた。
折重の手の者か――他に心当たりは無い。これだから政絡みの仕事は嫌なのだ。嫌な予感はしていたのだ。それ故に、充分に注意ははらっていたつもりであった。
だが、それでも気づかない己の迂闊さを、市は悔やんだ。
暫く江戸を離れるか。だがその前に五郎左のところに行かねばなるまい。市が狙われたとあれば、五郎左のもとにまで類が及ぶだろう。
老いたといえど、五郎左とて裏稼業を生業としてきた剛の者である。心配はいらぬだろうが、後手に回り後れをとれば老いた身では痛手を負いかねない。
「急ごう」と意を決し、市が顔を上げたその時であった。
どこへいこうというのだ――声がした。
逃げられると思うたか。
かさかさ――と、枝のなる音に紛れひどく無機的な声が響いた。
声の方向を確認するよりも先に、市は動いた。その途端、今まで背を預けていた銀杏の幹に、鋭い刃物が突き刺さった。
まるで風車のような刃を持つそれ――十字手裏剣を横目で見、市は這うような低い姿勢で走った。
市の走り抜けた地に、再び十字手裏剣が突き刺さる。銃は宿に置いてきた。身に帯びているのは脇差し一本である。
姿の見えない相手から、このように距離をとられては戦いようがない。
無駄だと言うておる――
声と共に十字状の凶器が空気を裂き、市の髪を掠める。左に向かえば再び市中に戻ることになる。或いは身を隠すにはその方が都合がよいのかもしれない。
だが市はあえて境内の奥へと向かった。市中で人の波に紛れても、この連中は他の人間がいようと、お構いなしに仕掛けてくる。無関係なものを巻き込むわけにはいかない。
ほう――と、別の方から意外そうな声がした。
最初の声と、質が違う。
良い心がけじゃ――この声も別の響きがある。
三人――たかが自分一人の命を奪うのに大袈裟なことだと、市は苦笑する。
隠す気もなくなったのか、三つの気配が動くのを感じた。
間違いない。連中は遊んでいる。もちろん市の命を奪うつもりなのは間違いないだろう。
だが恐らく、市がここに逃げ込んだ時から、一息に殺さずに嬲るつもりなのだ。だとすれば勝ち目もある。
がさり――と、枝のなる音が響いた直後、市の前方に黒い影が降り立った。
樹上にいた敵が幹を蹴り、頭上を飛び越し、市の進路を塞いだのだ。
「くっ……」
夜露に濡れる落ち葉に足を滑らせながらも、横に跳ぼうとする市を別の人影が阻む。
くすんだ柿渋色の野良着のようなものを身に付け、顔は鬼のような面――べしみ面で隠されている。身体が異様に細く、手足が長い。奇妙なその風体は市にナナフシを思わせた。
面の奥から微かに覗く眼が、なんとも好色な笑みを浮かべていた。虫が獲物を喰らう前に眼に宿す光であろう。嫌悪も露わに後退ると、背後にも人の気配を感じた。
ナナフシから視線を外さぬように後ろを見れば、同じようなべしみ面が二人。
市の退路を断つように立っていた。いずれも面の奥に覗く眼に、なんともいえぬ下卑た光を帯びている。
「何奴」
問うも応えはない。
「なんの用だ」
ゆっくり――と、わずかに腰を沈め、三人を視界に収めようと、薄氷を踏むかのように市は足を運ぶ。その動きと合わせるように、三人が同じ歩調で動く。
市とべしみ面らの距離は詰まらず離れず。位置関係は寸分も変わることなく、場所だけが徐々に動いていく。ピンと張りつめた蜘蛛の糸が、四人を繋いでいるかのようだった。
「折重の差し金か」
市がその名を出した瞬間、四人を繋ぐ見えない糸が震えた。ナナフシが動いたのだ。来る――と、市は、咄嗟に脇差しに手を伸ばす。
だがナナフシは、市から距離をとるように後ろに向かって跳んだのだ。
「なにっ」
思いもよらぬ動きに、市の意識がナナフシに集中した。それを待っていたかのように、背後の二人が動いていた。
それに市が反応した。
ほんの一瞬。市の気の乱れを見越したかのように、ナナフシが前にでる。絶妙の間を読んだ三人の動きに、市に焦りが浮かんだ。敵の術中に嵌められたのだ。脇差しを抜き放ちながら、市は真横へ大きく跳んだ。
ナナフシが放った車手裏剣が、市の脇差しに弾かれ樹に突き刺さる。
背後の男が放った手裏剣が肩口を掠めるだけで済んだのは、運が味方しただけだ。
だが、枯草の上を転がりながら、すぐに立ち上がり走り出した市の足元を鋼鉄の蛇が絡め取った。
もう一人の男の投げた鎖分銅が、市の足に巻き付いたのだ。
「――くっ」
枯草の上に転がった市を、べしみ面たちが見下ろす。
「悪くない動きだったが、所詮は女子よ」
「まぁ我らとて、殺さぬように加減して遊ぶのは、難儀であったがのう」
侮蔑と好色をまぶした視線が、市を舐めるように嬲る。
「先ほどの件の口封じか。ならば何故、一息に殺さぬ」
市の柳眉が嫌悪に皺をよせる。
「そのようなこと、決まっておろうよ」
「のう」
「のう」
げらげらと、男らが肩を揺らして笑った。
「っ、下衆が」
この後、己の身に降りかかる悍ましさを思い、市が顔を歪める。
「なんにしても、その美しい顔に傷がつかんで、なによりなにより。ここからは――」
役得じゃ――と、面の下でナナフシが舌なめずりをしたのがわかった。
「どれ。まずはワシから」
ナナフシが、市に手を伸ばす。
「待て待て。足を絡めたのは俺じゃわい」
鎖を放った男が、ナナフシを止める。
「バカを言うな。この仕事はワシの仕切り。一番槍はワシのものぞ」
鼻息も荒く、ナナフシは男の肩を突き飛ばす。
「此度の仕事。ぬしが仕切りなのは、偶々じゃ。それとこれとは関係ない。獲物を最初に喰らうは、仕留めたものと決まっておろうが」
「それは猪や狸の場合じゃ。そもそも、ぬしの無駄に太い魔羅を最初に刺されては、せっかくの上物が壊れてしまうわい」
「ぬしはいつもそうじゃ。己の粗末な槍を憐れみ、俺のイチモツを妬むでないぞ」
男は揶揄するようにナナフシを覗きこみ、肩を揺らした。
「妬むのはどっちじゃ」
ナナフシが語気を強める。
「ぬしの面では女子など寄ってもこぬではないか」
「女子を悦ばすのは面ではない」
互いの胸倉を掴み合い、角を突き合わせる二人をよそに、気配を殺していたもう一人の男が、市に圧し掛かった。
「権っ!」
ナナフシと男が同時に叫んだ。
「早いもん勝ちじゃ」
権と呼ばれた男が、市の胸元に手を伸ばす。
「ちっ。主はいつもそうじゃ」
ナナフシが舌を鳴らす。
「致し方ない。次の順番を決めようかの」
男が吐き捨てるように言った。
その時だった。突如、瓦を砕いたような音が、短く鳴り響いた。それと同時に、権の首が仰け反ると、その身体が重く崩れた。
「なんじゃ」
鼻の奥を突くような臭いが漂う。その時には、権の身体を跳ね除け市が走り出していた。
「火縄――」
「まさか西洋短筒か」
だが市の手に銃らしきものは無く、印籠のようなものが握られているだけである。
「おい!」
その声にナナフシは我に返った。すでに男は走り出している。ナナフシも市を追う。銀杏の古木の前で、先に追いかけていた男が市を捕らえた。
「逃がさぬ」
市と男は縺れるようにして枯草の上を転がる。男が市を上から押さえつけた。
「観念せ――」
言い終らぬうちに男は事切れた。
市の握り締めた簪が、男のこめかみに潜りこんでいた。市は、圧し掛かる男の亡骸を退けようとしたが、それは適わなかった。
死んだ男の背の上からナナフシが踏みつけていたのだ。死体の重さにナナフシの力が加わり、市の肋骨が悲鳴を上げた。
市は手にした印籠の底をナナフシに向けた。
その瞬間、印籠の底が火を噴いた。だが一瞬早く、ナナフシはその長い腕で印籠を持つ市の腕を捩じるようにして掴んだ。
印籠から放たれた弾は、ナナフシの面を掠めて轟音を響かせただけだった。べしみ面が砕け、その下から骨ばった顔が市を見下ろす。
そのまま仲間の背に膝を落とすと、肺が潰され市は息を全て吐き出してしまった。
「仕込み短筒とは恐れ入った。じゃが、二度も通用すると思うたか」
「――っ」
腕を捩じられ、市の手から印籠が落ちた。
「そう簡単に楽にしてもらえると思うなや」
感情のうかがい知れない蟷螂のような眼がで市を嬲る。
「先ずは躾の悪いこの腕――」
捩じられた腕に力が加わり、激痛が走る。
「そいつは困る。大事な商売道具だからな」
あとひと捻りで骨が折れる――寸前、どこかおどけた調子の声がした。気配など一切感じなかった。
突然、暗がりから現れた強烈な殺気に、ナナフシが市の腕を離した。次の瞬間には地を這うように跳んだ。
一瞬でも躊躇すれば死に捕まるとでもいうかのように、振り向きもせず全速力で走る。
「賢明な判断だが、ちょいと遅かったな」
市は、暗闇から突き出た腕がナナフシの襟首を掴んだのを見た。
次の瞬間、ナナフシの身体が真っ逆さまになった。低い姿勢意のまま宙を一回転し、地面に突きだした石に頭を叩きつけられた。
今が好機と、男の身体をどかし市は身を起こす。捩じられた腕に微かに痛みがあるが問題ない。あと少しでも遅ければ、二度と銃の握れない腕になっていただろう。だが安堵するにはまだ早い。藪の向こうに身を隠そうと走りかけたその時だった。
「無事だったみたいだな。なによりなにより――」
と、背後で場違いなほど呑気な声がした。咄嗟に、印籠を拾い上げると構え、同時にもう一方の手で乱れた襟元を押さえた。
「おいおい。そんな物騒なものを向けんでくれ。俺ぁこれでも命の恩人だぜ」
「何者だ?」
油断のならぬ剣呑な空気に、市は油断せず身構える。
「採火の市。あんたに仕事を頼みたい」
「なんだと」
「あんたに撃ってもらいたいのさ。とびっきりの珍品、そう飛頭蛮――ろくろ首ってヤツを撃ってもらいたいのさ」
そう言って眼の横に走る刃傷を掻き、仁王像のような男が嗤った。