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幕末陰傳 飛頭蛮  作者: 猛士
2/11

饅頭奸


こちらへ――と、通されたのは、い草の匂いが滲む座敷だった。


 畳表を張り替えたばかりなのだろう。西から射す日差しが深くまで入り込み、畳を青く照らし出している。


「暫しお待ちを」と、慇懃に部屋を出て行く女中を見送くると、市は腰を降ろした。


 ふんっ――と、気怠そうに溜息を吐き、市は部屋の中を見渡す。

 部屋には火鉢が置かれ、ちょうど良い具合に温められている。とこには、紅い牡丹が一輪、静かに佇んでいた。壁に掛けられた画にしても、由緒ある作品なのであろうが、市にとってはどうでもよい代物である。

 ただ、金は掛かっているのだろう。そう思うだけである。


 浅草山谷にあるこの料亭は、市のような人間には平素、とんと縁の無い場所だった。

 だが、西日と火鉢の温もりだけは、心地よかった。


 ふっ――と、ほほを緩めると、凛とした顔立ちの中に、意外にも子供のような幼さが滲んだ。それも一瞬のこと。廊下に人の気配を感じると、さっと口元を引き締める。代わりに浮かんだのは能面のような硬さだった。


 先ほど市を案内した女中に連れられ、ひとりの男が部屋に入ってきた。


「お待たせ致して申し訳ございませんな」


 入ってきたのは、柔和な笑みを浮かべた、大柄な中年の男だった。顎の下にたっぷりと肉を付けた男は、市の横を通り過ぎると正面に腰を降ろす。とりわけ急いできた様子もないのに、喘ぐように肩で息をしていた。


「急ぎの用向きとお呼び立て致しておきながら、大変失礼を」


 そう言って慇懃いんぎんに頭を下げる姿は、潰れた大福餅のようであった。その雰囲気は侍のそれではない。一見すると、守銭奴じみた商人のようにも感じるが、それにしては所作に隙が無い。なんにしても胡散臭いことには変わりはなかった。


「お気になさらず」


 牡丹のように紅い唇で答える市に眼を止めて、男は眼を見開き大きく頷いた。


「噂に違わぬ――否。噂以上の美貌でございますな。三代目・田乃助――いやいや、それどころか高尾太夫も真っ青ですな。もし宜しければ――」

仕事(・・)の話と聞き及んでおりましたが」


 脂ぎった好色な視線を断ち斬るように、市は冷たく言い放つ。


「いやいや、これは大変失礼いたしました。ご挨拶も済まぬうちからまことにもって御無礼を――」


 ことさら仰々しく、我に返ったような顔をしながらも、未だ市を見つめるその視線には、ナメクジが這うような粘つくなにかが含まれている。

 確かに、市の肌は絹のように滑らかで、白粉を塗っているわけでもないのに抜けるように白い。切れ長の瞳は楔のように形よく、唇は紅を塗ったように艶やかである。


 だが、傷でもあるのだろうか。左眼から頬を隠すように髪を垂らしている。

 飾り気も無い柿渋の小袖に鼠の袴姿は目立つことを厭う気質を如実に物語っているようだ。だが、綺麗に髪を結い直し唇に紅を引けば、たちまち小町と声が掛かるだろう。艶やかな振袖で笑みの一つも溢せば、心踊らさぬ男などいるまい。


「残念だ」


 ぽつり――と呟く男に向けられたのは、感情を窺わせない冷たい硝子球のような瞳だった。


「相羽の元締めたっての頼みで仕方なく伺ったのだが、下世話な話であるのなら、これにて帰らせていただくが」


 市が傍らの荷物を持ち、立ち上がろうと腰を浮かす。


「お、お待ちください」


 その様子に、男が慌てふためく。


「ご挨拶が遅れまことに御無礼いたしました。私、折重おりかさ重持しげもつと申します。お見知りおきください」


 一息に名乗り上げると、折重はどっと流れる汗を拭った。


採火さいか――いちと申します」


 冷めた声とともに市は目礼で返した。


「先ずはお酒の用意をさせていただきますので、仕事の話は口を湿らせながらでも――」

「無用でございます」


 刃物で切り付けるように、市が言葉を遮った。


「酒は嗜みませぬので、お気づかいは無用に。それよりも仕事の話をお聞かせ願いたい」


 左様でございますか――と、不承不承頷くと、折重は形ばかりに居住まいを正した。


「これは幕府の威信に関わる話にてくれぐれも他言は無用にお願い致します」


 ぽとり――と、顎の肉を埋ずめて折重が頭を下げた。


「その辺りについては、相羽の元締めから言に含められています」


 分かっている。だから嫌だったのだ――市は内心舌を打つ。


「左様でございましたか」


 折重は満足そうに頷く。


「此度。採火殿には、幕府の御為。否。ひいてはこの国の行く末の御為に、ある()()を撃っていただきたいのでございます」


 やれやれ、またこれだ――妙な熱を帯びた折重の言葉に、市は溜息を漏らした。

 藩の為、幕府の為。国の為――偉そうな御題目を冠にすればするほど、その内情は陳腐で醜いものに成り下がる。


 そうしたまつりごとの醜聞には辟易だった。

 相羽の元締めにしてみても、そんな市の気持ちを知らぬはずはない。だが、さる(・・)()からの依頼である以上、市をこの場に来させぬわけにはいかなかったのだろう。


 市もまた、親代わりとして育ててくれた相羽の元締めの頼みであるのならば、二つ返事で応じぬわけにはいかなかった。


 だがしかし「お断り申し上げます」と、市は答えた。


「ま、まだなにも仔細を申してはおりませぬが」


 思いもよらぬ言葉に、折重が団栗のような眼を見開く。


「事細かに聞けば、互いに引けなくなりましょう。そもそも本日こちらに伺いましたのは、自らの口でお断りするため。ならばここまでと致すのが、互いに一番良いと存じます。故に――」


 これにて失礼と、市は立ち上がった。


 そんな取りつく島もない市の背に向かい、


「相羽の五郎左もだいぶ高齢な御様子……」


 ぬちゃり――と、まるで糸を引きそうな、ねっとりとした言葉が、市の足を止めさせた。


「いかな鉄砲野師の元締めと言えど、寄る年波に抗うは難きことでありましょうなぁ」


 折重が薄い唇の端をぬらりと歪める。


「それに、なにがとは申しませぬが。京では天誅だのなんだのと称し、毎日湯水の如く血が流されていると聞き及びます。この江戸とて、いつ何時そのような物騒な物事が起きるとは限りませんからなぁ――」

「なにが言いたい」


 市の背に、怖いものが凝った。


「せめて話くらいは聞いていただけませんでしょうか。そのうえで尚、興が乗らないというのであれば、それは致し方なきこと。私もそれなりに上に伝えることが出来ます」

「その言葉に偽りはないのだな」

「勿論に御座います。話を聞いたうえで『又鬼またきの採火』の血が騒がぬというのであれば、諦めるより仕方ありますまい」

「話を聞くだけで良いのだな」


 立ったまま向き直り、市は深い溜息を吐いた。


「では改めまして、酒の用意など――」

「このままで良い」


 手を叩き人を呼ぼうとする折重の手を止める。不調法者――とでも言いたそうに、折重が舌を打った。


「この度、採火殿にお願い致したき相手は、人ではございません」


 気を取り直したのか、わざとらしく笑みを浮かべ折重は話し始めた。


「鳥か蝙蝠の類い――或いは獣ということか」

「いいえ」

「ならば――」


 旗や壺、天守閣の瓦でも射てとでもいうのか。


「それは夜な夜な城下に出没する魔性のもの――」


 ()()()()にございます――と、折重がぬらりと嗤った。


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