プロローグ「再会」
仕事で疲れ果て、明日から始まる会議にさらに心を憂鬱にされる、ある秋の日。
今暮らしている格安マンションに戻る。すると、昨日まで明かりが灯っていなかった隣の部屋の窓から、光と幸せな声が漏れている。
どうやら、隣にとある家族が引っ越して来たらしい。
このマンションは、作りが鉄骨とかでは無いため、部屋の中に入っても隣の幸せが壁を伝ってやって来る。
少し妬みつつも自分の家事を済ませ、面白いとは思わないけれども、何となく見てしまうバラエティー番組を缶ビール片手に見る。
すると、隣からの騒音が一本の張り詰めた糸がプツンと切れたかのように、沈黙へと変わった。
そして、十五秒後。俺の部屋のチャイムが鳴り響く。
どうやら、お隣さんが挨拶をしに来たそうだ。
時計を確認すると、夜の八時。
こんな時間に、挨拶に来るなんて非常識な人間だなと呆れる。
居留守したかったが、こちらが向こうの声が聞こえている以上、向こう側もまたこちらの音が聞こえているはず。
この状況で、居留守をすると今後の人間関係に支障が出る可能性がある。
俺は仕方なく立ち上がり、ドアを開けることにした。
「はーい。今出ますよ」
営業で学んだ、声のトーンを瞬時に変える技術を駆使し、できる限り相手に好印象を抱かせるように努力する。
ドアを開けると、高校を卒業してから十年間、一日たりとも忘れもしなかった彼女の姿がそこにはあった。
「紅葉……久しぶりだなぁ」
「久しぶりだね、陽平。十年ぶりだっけ?」
昔付き合っていた彼女に、十年ぶりの再会。あの頃に比べ、涙腺が緩くなった俺は思わず感動で泣きそうになる。
「あの時は、守ってくれてありがとう。右手は……生えてくるわけないよね……ごめん」
今の俺は、かつて利き手だった右腕がない。十年前の交通事故で、彼女を庇うために失ったのだ。男として後悔なき立派な選択をしたと今も思っている。
だから、彼女がこの件について何か思う必要は何もない。
「このことなら気にするなって! お前がケガしてないなら俺はそれでよかったんだ。な?」
「でも、私のせいで、陽平は……春咲高が生んだ神童 石田 陽平は……」
「俺は今でも、あの件で右手がなくなって、野球が出来なくなったこと、全く後悔してないぜ? だからもしお前が、この腕のこと気に掛けて、何かしたいと思うなら、お前はその分幸せに生きてくれ」
少し嘘を混ぜたことにより少し罪悪感が沸いたが、彼女がこれで、気にしないようになるならと思い、話を変える。
「そういや、ここに引っ越して来たんだよな? 椛おばさんも一緒か?」
「そのことなんだけど、私……結婚したんだよね。だから、隣にいるのは私と、信壱さん」
そうか結婚したんだな……そりゃそうだよな、こんなにも綺麗で、勉強もできて、性格もよくて、何ごとにも全力。
こんないいヤツ。結婚していないほうがおかしいもんな。
それなら、祝福しないとな。
なのに、どうして……俺は今にも泣き出しそうなのだろうか。
「そうなんだ。おめでとう。何か困ったら、何でも言ってくれ。明日も仕事だから、俺もう寝るな、おやすみ」
どうしても、俺は彼女に目を合わせることが出来ず、背中を向けて言ってしまった。
「おやすみ……お仕事、頑張ってね」
ドアが閉じると同時に、必死に声を殺して泣いた。
ただひたすらに、隣の部屋に気を使いながら泣いた。
少しでも、よりを戻せると思ってしまった自分を責めながら。
別れたとしても、彼女の幸せを願おうって決めていたのに、おめでとうすら言えなかった自分を憎みながら。
ただ泣くことすら、許されない自分の境遇を恨みながら。
この気持ちが、収まったらあとできちんと祝わないと。
隣に引っ越して来たんだ。せめて、表だけでも仲良くしないと。俺自身、彼女が嫌いなわけではないのだから。
「あの頃に戻りたい」
このころの俺は、不意に願ってしまったのだ。
祝福をあげようと決めた理性に対し、どうしても彼女とのよりを戻したいと思ってしまった本能が、本音が願ってしまったのだ。
その日、俺は妙にリアルな夢を見た。