2.境界線
確かに死んだ。――そう思った。
覚束ない足取りで、港のそばを歩いていたときのことだ。夜ともなると人の行き来がなくなるこのあたりに、街灯はない。引き込まれそうな闇が続き、空と海との境界線も曖昧なくらいだった。
昼間にこのあたりを歩くと、道路脇には錆びついた漁船が打ち捨てられたように置かれており、周りにはくすんだ硝子の浮き玉が積まれている。すでに夜も更けているので、見慣れたその風景ではなく、闇の中に不気味なシルエットが浮かぶばかりだった。
なにげなく目をやって、私はひっと思わず喉を鳴らした。古い漁船の中に、いくつもの眼が光っていたのだ。ところが、可愛らしい鳴き声とともにすり寄ってきたのは、一匹の子猫。そういえばここは野良猫の棲み家になっているらしいと、夫が話していたのを思い出した。
――そして、彼の顔を頭の中から追い払う。
「連れ子だから愛情を持てないんだろう」
冷たい目で言い放った彼の顔が浮かんだからだ。
子猫は人懐っこい性質らしく、ごろごろと喉を鳴らしながら寄ってきた。家庭を持ったら、猫と一緒に暮らしたいと思っていた。ささやかな夢の一つだったけれど、夫が猫アレルギーだったので、これからも叶うことはないだろう。
私は、このまま連れて帰りたい衝動を抑えるのでいっぱいだった。でも、そもそもあの家に帰るのだろうか? いつでも出ていけるように、靴箱の隅に財布を忍ばせていたあの家に。
夫はきっと、ささいな喧嘩で何も持たずに家を出ただけだと思っているだろう。でも、こんな日がいつか来るような気がしていて、いつでも持ち出せるように、お金は置いていた。
決心が鈍らないように、携帯はそのまま置いてきてしまったし、なにかに導かれるように、バス停にも駅にも繋がらない、こんな場所にいるけれど――。
そのときだった。一段強い光が、暗さに慣れた眼を刺したのは。
息が止まりそうな重い衝撃が背中を突いたかと思うと、私の体は宙に飛んでいた。そのままくるりと世界が反転した。頭から落ちたらしく、視界に火花が散る。
トラックが突っ込んできたのだと気がついたときには、真っ黒な水の中にいた。体中が焼けるように痛くて、重たい。手も足も動かすことができず、苦しさを身の内に押し込めて、ただただ沈んでいくのがわかった。
不思議なことに、真っ暗な海中から、真珠のような月が見えた。月の光に覆いかぶさるように、子猫が浮いていた。思わず私は手を伸ばした。――目尻から、つ、つ、と涙がひとしずく、ふたしずくと、落ちていくのを感じた。水の中にいるのだから、そんな筈はないのに。