1.序章
大人の男が泣いている。なんて、美しく泣くのだろう。
ぼんやりと頭に浮かんだのはそんなことだった。――私はどうかしている。頭を強く打ちすぎたのかもしれない。あるいは、理解の追いつかないことに頭を働かせるのが面倒だったのだろうか。今日はとにかく、いろいろなことがありすぎた。
一生分のドラマをすべて詰め込んだような一日だったと言っていいかもしれない。
「――花嫁だ!」
「本当に黒い髪をしている」
「瞳も黒いわ」
見覚えのないその人と目があった。そのとき、どうしてだか、胸が締めつけられるような息苦しさを覚えた。
私たちは、見つめ合っていた。まるで、世界から二人だけ切り抜かれたように。
男は私の姿を見とめると、硝子玉のように蒼い瞳をはっと見開き、息を止めた。ざ、ざ、と草木が揺れる音がして、一陣の風が抜けていく。それは、彼の蜂蜜色の髪の毛をさらりとなで上げていった。
男が身につけているのはまるで豪奢な喪服だ。スタンドカラーの首元にも、袖口にも、たっぷりとフリルが使われたシャツは、黒いなめらかな布に黒い糸で精緻な刺繍が施されている。首元のフリルを留めるように黒い宝石も飾られている。スラックスも黒で、肩にかかるマントも黒い。
顔の色彩の美しさが、服から浮いていて、異彩を放っていた。でも、見たことがないほど端正な顔立ちをした男だった。
私が浅い呼吸をくり返しているうちに、彼の美しい瞳には見る間に涙が盛り上がった。涙は水晶のような美しさを保ったまま、ほとほとと頬を落ちていく。その様子にただただ目を奪われた。喧騒も髪の毛やワンピースを濡らす不快な感じもすべてが、耳鳴りのようにきぃんと遠くかき消えていく。
時が止まったような世界の中で、ふと我に返る。
顔に張りつく髪の毛をかき上げ、噴水の淵に手をかけて、水の中からなんとか立ち上がる。それに合わせるかのように時間が動き出した。
まず駆け寄ってきたのは、黒いお仕着せに黒いフリルエプロンをまとった栗毛の女性だった。新芽のように瑞々しい緑の目は、垂れ目がちで、優しげに見えた。そばかすのある頬も、小ぶりのくちびるもチャーミングで、温かい手に背中を支えられ、私はつられるように、口の端を少し上げた。
彼女に続くようにして、濡羽色の甲冑を身につけた男性たちが駆け寄ってくる。慌てて手を貸してくれ、引き上げられた。
視線を戻すと、彼はまだ泣いていた。にわかに騒然としたその場所で、彼に目をやっているのは私だけのようだった。彼は動かなかった。その場に氷漬けにされたかのように、微動だにしなかった。
これは、私の死後の話。泣き虫陛下の「黒の城」に招かれた、一年間の物語だ――。
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