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深き者共の王  作者: マルリオ
2/7

嚥下

 事件現場で使い古されたよくある常套句、記者会見が行われた都内某ホテルの周りには多くの報道陣等が群がっていた。しかし夜の外套に虫が群がるかの如く、元ホテルの近くにまとわりつかないで、だいぶ離れた安全だと思われる位置で群がっている。記者会見から27時間後の現時点では自衛隊がボーダーラインを張り、物理的に近づくことができない。


 遠くから見るとホテル全体を川底に沈殿するヘドロのような流動体が覆い、表面は大雨の後、強い風が吹いた日の川面みたく、波のようにうねっている。そのうねりの中に生き物がいるのではないかと思わせるくらいに生々しい印象が心理的に近づこうとする気持ちを阻害している。事件が起きた直後から見た目の変化が大きい。


 当初は管轄の警察署から人員を派遣していた。管轄署は他の署へ応援を要請していたが、署内にいた42名の警官が付近を固めていたので、迅速な対応が取れていると担当することになった警官は感じた。その警官は報道関係者や野次馬たちを近づかせないようにしている仲間たちを片目に、記者会見の数分後には建物全体を飲み込んだ黒いうねりの目の前にいた。


 他の警察官同様茫然と全体を眺め、非現実的な映像にどこか受け入れられないでいる。非現実といえば、自分が燕尾服を着て、ウエストがゆったりとしたウエディングドレスに身を包んだ娘と式場を並んで歩いたあの時も同じだった。ただ明暗の大きな違いがあった。明日は休暇を取っている。病院にいる娘に会いに行くのだが、そのあとにある婿との飯がいまだにぎこちなくて、何とも言えない。仕方が無いことだが、いつか彼ともざっくばらんに話せる日が来るだろうか、非現実的な遠い未来の想像だった。


 男は仕事に意識を戻す。今回の記者会見の件は事前に知っていた。被害者の夫である男性に犯人が判明したことを警察署内で伝わってしまったことが発端だった。そのため男性に警備を兼ねた監視の目を付けていた。対象の行動は逐次報告されていたが、きな臭い記者が現れ、あれよあれよという間に対象を連れて行ってしまった。


 本来なら報道規制等がなされており、そんな勝手は許されるはずがない。しかしよく調べるとその記者は名ばかりで、動画配信を主とした輩でまっとうな記者ではなかった。記者の素性はどうであれ、記者会見をするとなった時には、忠告を無視し多くの記者が参加し、結局は一つの民営放送が取り上げ、他がなだれ込みように参加した。


 茫然と建物を眺めていた警官は報道陣をコントロールしている部下たちに指示をするため、人の流れがある方へ向かった。ハイエナのようにたかってくる記者たちに反吐が出たが、今は職務を全うするため感情を殺していた。目の前の人の波が鬱陶しく、後ろで状況把握のために謎の物体を調査している同僚たちを気にする余裕などなかった。目の前の問題を解決するので精一杯だった。


「おい、飲み込まれたぞ」


 脚立に乗ったカメラマンがつぶやいた。その発言に連鎖するようにざわめきだした。報道陣の前にバリケードとして立っていた4人のうち、先ほど指示をしに来た警官が後ろにいるはずであろう仲間を確認しに行こうと振り向いた。今しがた他の警官と黒い物体を眺め、どこにだれがいるか把握していたので適任だった。


 最初からいる三人に声をかけ、再度後ろを振り向くと、こちらに駆け寄ってくる後輩を見て、一瞬ほっとしたが、警官を否定するように顔を青ざめた後輩が耳打ちをしてきた。


「部長が目の前で包み込まれました。他にも近づいた何名かがいなくなり、今本部に連絡を入れています。」


「包み込まれたって、何に?こっちでは飲み込まれたって、ざわついてたぞ。」


「あの、なんていうか、消えたのは確かです。あの黒いやつは徐々に広がっている様子でしたので、試しに接触を試みました。」


「誰が?」


「最初は自分が、何事もなかったので、部長たちも。その時は何も起きませんでした。それからホテルの内部に入れないか試そうとして進んでいくことに。自分は一度本部の様子を見に行くように指示を受けて、離れようとした瞬間、黒いのが広がって、かぶさり、そのまま消えました。」


「お前、そんなわけのわからない話あるか?」


「自分も理解できていません。ただ実際に起きた事実をご報告しました。残った中に警部補がいましたので、今本部へ連絡をしています。良ければ向こうで対策の検討に参加してください。」


 当事者になれなかった警官の反応は鈍かったが、目の前の後輩のことはよく知っていたし、嘘をつくタイプではない、それだけであの黒いものが危険なものだという認識は持てた。


 危険という認識を持っても対応が遅かった。一瞬にして黒いものが広がった。なぜ最初に包み込まれたという表現をしたのか今ならわかった。長いローブの裾をひろげ、寝床に誘い込むように、何かが包み込んだのだ。異臭もせず、かといって良い香でもない、警戒する要素はなかった。


 周囲にいた人たちが光沢のある黒い物体と化したホテルに注目していた。その目線はそのまま招かれるように横から徐々に角度をつけ、今は真っ青な澄み渡った夏の空を見上げていた。

あぁ今年は孫を抱くのか。その場で後輩と会話をしていた警官の思いは一瞬で深いところに潜り込んでいった。


 連絡を受けていた警部補からの応答がない。急に無音状態となった通信機見つめ、警察署本部にいた一同はすでに自分たちの範疇を超えた事態になっていることを理解した。現場からの連絡がなくなったことだけでの判断ではない。彼らが見ている記者会見が行われていた場所に取り残されたカメラから伝わる情報がそう思わせていた。


 それから数時間後、日本は自衛隊を動かし、一定区域を閉鎖し、問題解決に取り組み始めた。ただ自国内での問題という認識が世界への協力要請を留めていたが、一部の動画配信を見た者たちは当初の期待と不安を頂きつつ、国際協力の必要性を感じていた。


 警官たちが周りを固めているころ、無機質な目は克明に現在までの出来事を捉えていた。体内を走る血潮のように躍動するつややかな深紫の部屋を機材照明が照らし出し、一人の男が辛うじて生きている映像を遠く離れた様々な枠に吐き出していた。十数名は会場にいたはずだが、4人だけの声に出せない声を拾っている。またはっきりとはわからない音も聞こえていた。


「うんっぬ、くっ、つっ」


 男は激痛で体をよじりたかった、飛び跳ね、転げまわり、発散することで体内をめぐる激痛に耐えたかった。ただそれすらも許されない、体を抱えて痛みに耐えることさえも許されない現状を呪っていた。しかし、足元から体の中を枝葉の成長がごとく、ゆっくりと駆けるように体内をいじくりまわされている。


 それはあっという間だった。自分が連れてきた鴨は見事なねぎを背負っていた。こいつが喚き散らし、世界に呪いの言葉を吐き出すのか、それとも冷静に容疑者である者を追求していくのかどちらにしてもドラマになる。大手テレビ局も最初は逃げ腰だったが、今では乗ってきて、動画の要求をしてきている。


 これまで違法まがいのことをやって特ダネといわれる群衆が喜ぶ、罵詈雑言のはけ口を提供し続けていた。一回ある女性タレントをだまし、いかがわしい動画となるギリギリの映像を収録したことがあった。たまたまその女には世間に知られていない彼氏がいて、その男が俺に突っかかってきたが、社会正義という名のもと、そいつを白日の下にさらしてやった。


 俺はその二人を徹底的に調べたから知っていた。二人が田舎から出てきて、協力し合い夢を追っていたこと。女の会社が恐喝まがいに別れさせようとしても、お互いを信頼し、乗り越えたこと。会社の戦略のため、女は会社が用意した性格を演じ続けたこと。それを演じ続ければいつか大女優になれると信じて。


 はっきり言って小説化できそうなくらい魅力ある人生を歩んだ二人を、社会が望む餌に変えて、民衆に与えた。将来ある二人の結果はオペラになるのではないかと思うほど悲劇的喜劇となった。


 世の男どもはその容姿から勝手にその女が清純アイドル的存在であり、誰のものでもないと勘違いしていた。事実を知ると手のひらを返すように非難した。

 世の女どもは会社の思惑通りに女の性格を気に入っていなかった。マイナスのイメージで注目を集めていたが、表立って攻撃できる理由が無かった鬱憤をここぞとばかりにぶちまけた。


 最初は事務所も対応していたが、愚直な男が週刊誌たちと真っ向勝負をしたことで分が悪くなった。彼らがいかに美しく誠実な関係を訴えても、標的となってしまえば、すべては醜い憎悪を増長するだけだった。彼らは耐えきれなくなり、お互いを求めあうように二人は自殺した。


 世間は最初騒ぎ立てたが、自分たちのせいではないと感じたいばかりにすぐに目をそらした。一瞬だけ真実が流れたが、罪悪感を抱きたくない民衆の憶測の中に消えていった。一連の流れは本当に二人を魅力的に潰していった。


 でもそれを民衆ってやつが求めているのだろ?俺は社会のシステムを維持できるように潤滑油を指し続けている働き者だという自負があった。他人はクズというかもしれないが、そんなものは倫理観や道徳観を崇拝する盲目者であって、人間の本質を理解している支持者は俺を称賛してくれている。今回も同じだ、人々は悲劇の夫を画面越しという檻の外から眺めたいだろう。


 思いにふけっていて、会見事態をよく見ていなかったが、周りの雰囲気から異常な状態であることを察した。気づいたときには男は首から黒い物体を垂れ流した。赤い鮮血ならよりセンセーショナルな画像になると思ったが、別のまた面白い画になりそうだと感じた時だった。暗転がかかったかのように一変した景色になった。


 記憶が一瞬途絶えたかに思えたが、時計を確認すると数秒しかたっていない。それなのに周りには俺を含めて4人だけだった。他の会場にいたものはどこに?悲劇の夫はどこに行った。4人がそれぞれきょろきょろと周りを見渡した。全員顔見知りだ。俺と同じ崇高な考え方の持ち主で、何回か酒を交わした。全員が社会のための貴重な労働者だ。


声をかけようとした瞬間、耳元で何かがささやいた。

「オレタチハナンデコウナッタ」

「ワタシガナニヲシタノ」

「ラクハサセナイ」

「セメラレルリユウナンテナカッタ」

「ナゼココカラデラレナイ」

「イツカオワルナンテオモウナ!!!」

その時には体の自由はなく、終わらない地獄が始まっていた。


「た、じ、げ、て」

 何とか出せた声は、あまりの痛みにまともな懇願でさえない。一思いに殺してほしい、遠のく意識をしっかりと保たせる何かが、何度も鈍る痛みを鮮明にさせる。体を動かせないまま、体内を太い幹を伸ばしてくる。こんな拷問があるのか、麻酔もなしに体内をカテーテルが挿入されていく、しかもカテーテルのように滑らかで、やさしいものではない。ささくれた、進むたびに激痛の種をまいていく。


 内臓をバラの茨がかいくぐり、肺を締め付けていく、痛みで気を狂わせたいのに、正常な意識を保たせる何かが体内に巻き散らかされている。なんでこんなつらい思いをしたければならないのか、わからない。


「ツライオモイヲシナケレバナラナカッタノ?」「オレタチヲホットイテクレナカッタ」

 それは俺に対してか?お前たちが開放してくれれば、それで済む話だろ。

「ぐるじぃ、ゅるじでぇ」

 誰に謝罪しているのかわからないが、謝っておけば解放してくれるだろ

「ナゼアヤマル、オマエニソンナオモイハナイ」「ナゼユルセルノ?」

 だったらお前が苦しめる必要ないだろ!なんでお前たちは俺を苦しめる。理不尽だ、横暴だ、俺が何をした。

「エラバセテアゲル」「オワリハナイ。エラベ、ムゲンカ、エイゴウカ」

 無限?永劫?意味が分からない。意味の分からないことに応えられるはずなどない、この体の中を這いずり回る痛みのせいで、答えなど出せるわけがない。もう死なせてくれ。

「ぇ、いごぉう」

 頭とは裏腹に口は一つの答えを選んでいた。その瞬間体内を走り回っていたものは全体にしみわたっていく感覚とともに中を溶かしていくような熱を与えていた。自分の体が沸騰し、ボコッボコッと音を立て、電子レンジにかけたプラスチックがごとく溶けていく。


 自分のかたちが変わったことを感じた。人なのかわからない形状になっている。体の痛みは少し収まっているが、代わりに体がどんよりと重い、霧がかかったような思考とえぐり取られた空洞のような飢餓感を与えられていた。とにかく、今は何かを口に入れたい、何でもいい。確か他に3人いたはず、そいつらでもいい。もうすでに人間の倫理観は失せ、現状の損失を埋めるための行動を優先していた。


 周りを見渡すと3人は居なかった。代わりに3体の別の何かがあった。一つは樹木のような形をしているが痛みによがるようにうねっていて気持ちわるい。別の一つも気持ちが悪いものになっていた。ぎょろっとした大きい目が顔であろう部分の半分を占め、もう半分が大きく裂けた口が特徴だった。そして体が無く、すぐその下に4つ足が蜘蛛のように生えている。


 両方とも口にするような物体ではない。残りの一体に欲望を掻き立てる。もう一つは蛇のような姿に手が生えている。まだ獲物のような姿だ、良かった。あいつを喰おう。ただ気になるのはぎょろっとした目のやつも獲物に定めた蛇もなぜか俺を見て舌なめずりをしている。まぁ、良い、そんなのは関係ない。今はとにかく満たさないといけない。


 蛇にかみついた、いつこんなに俊敏になったのか、いつこんな口になったのか、よくわからないが、今は目の前の蛇の肉を腹に詰め込みたい。その欲求にかられ一心不乱にかみついた個所を放さないでいると、ものすごい激痛が走った。その瞬間にせっかく固い蛇のうろこを貫いた牙を抜いてしてしまった。


 誰だ、俺の邪魔をしたのは。くそ、あと少しで食えたのに。いつの間にか俺のことを無視して、蛇とぎょろ目が争っている。ぎょろ目の口の端にハイエナのような足が引っかかっている。自分の動けない状況が、あれが自分の足で、ぎょろ目に喰われたのを理解した。くそ、俺が食い散らかすはずだったのに。でも、もう良い。やっと終わるのか、これで俺は静かに眠れるという思いは一瞬で砕けた。終われることに喜びを感じていた俺を樹木の根が吸収し、実を着け、また新たに俺を生み出した。そして俺の目の前に傷つきながらも、渇きが収まらない蛇が俺をにらんでいる。


 生み出された俺はまた飢餓に襲われた。ふざけるな、今度こそこの埋まらない渇きを満たしてやると、蛇にとびかかった。そしてさっきとは打って変わってあっさりと食い破った。やっとだ、蛇の肉を貪り始めると、ボトッと音がした。音の方向にはぎょろ目がにたっと笑っている。

「コンドハオレノバンダ」

 ぎょろ目と俺の争いが始まった。その時はまだ知らなかった、先ほど貪ったはずの蛇がまた樹から生み出されていたことを。


 無機質な目は永遠に終わらない化け物たちの争いを映していた。途中化け物たちは自分たちを生み出す樹を恨み、なぎ倒したが、根元から新たな目が生えており、倒れた化け物の栄養を吸い上げ、一瞬に幹を太らせた。その過程で樹木から悲痛の叫び声のような音が発せられたが、それを再度確かめることはできなかった。化け物たちは樹木を倒すことをあきらめ、またお互いを殺しあっている。


 管轄警察所内対策本部では記者会見場の映像にくぎ付けになっていた。そして画面を見続ける者は驚愕していた。今見ている画面に繰り広げられている化け物の争いに対してではない。化け物の一体が現場にいた人間が変態したためだ。つまり今回飲み込まれた警官やその他大勢の人たちも化け物として現れる可能性があるということ。彼らは記者会見場という密閉空間ではなく、外に解き放たれ、人々を襲うのではないかという考えに至っている。


 カメラ機材を持ち込んでいるテレビ局や映像配信先の基地局には規制をかけている。抑えられる機材は全て押さえているので、映像が漏れることはまずない。ただもう警察の範疇を超えている、警察署長は思った。これは国家レベルでの対策が必要だ。すぐさますべての映像を証拠として関係省庁等に判断を仰いだ。


 結果として自衛隊派遣による該当地区半径3㎞の隔離および報道規制を敷かれることになった。この異常な事態にネット民は騒ぎ立て、テレビの報道を見た人々は少しずつ不安を募らせていった。


 禍々しい黒い物体と化したホテルは一瞬大きく広がると、その範囲内になった人々を飲み込んだようだった。黒い波立つ液体はホテルを中心に半径500mに広がった模様で、渦潮みたくぐるぐると回っている様子だ。自衛隊が駆け付けたときには黒い波立つ液体の付近に近づいて周辺確認をしても、誰も応答がなかった。とにかく生存確認ができている人々は遠く離れた場所に移動させたはず、漏れはないように思われる。


 今は黒い液体は広がりを見せないが、代わりに徐々に高くなっていっているようだった。設置された対策本部では様々な議論がなされていた。今回の事件で発生した経済的打撃をどう解決するか議論している行政側の連中をよそに、リモートで招集された現場で指揮を執っている指揮官は問題解決に向けた動きが無いことに危機感を募らせていた。


「さっさと名称を付けてくれ」心の中でつぶやいた。

 今回の事象や対象物に明確な名称を付けてほしかった。現場レベルで勝手に名付けても良かったが、現場と本部で齟齬が起きてはいけなかったため、あえて名付けず、対象Aや化け物といった言い方をしていた。統一した意識を持つためにもそれだけでも今回の会議で決めてほしかったが、お偉い方がいなかったためできない議論だったようだ。


「団長、いかがでしたか?」

 テントの中に入ってきた女性から声をかけられた男はため息で答えた。彼は厳しくもやさしく、誰も見捨てないその姿勢は、多くの隊員に親しまれていた。彼は防衛大学時代応援団に所属していたので、隊長ではなく、団長と呼ばれている。


「下らん議論に白熱していたよ。あんなことは今回の会議で話し合うことではない。いつものことだが現場と司令部本体との熱の差は気が滅入ってくる。」

「仕方ないことですよ。」

「現状は?」

「住民の移動は終了しています。私たちが到着した時と状況は変わっていません」

「そうか、変わってないのか。奴らが来られない理由はやはり黒い液体ということか。」

「おそらく状況判断から言って。黒い液体の波際で化け物と遭遇したとき、獲物を発見したように勢いよく近づいてきましたが、彼らは何かに阻まれるように黒い液体より外には出てきませんでした。」

「若造は大丈夫か?」

「大丈夫です。団長が厳しく指導しなくとも、もともと彼自身驚いた拍子に発砲してしまったことを反省しています。そのおかげで対象物を銃で制圧できることはわかりました。」

「それと同時に樹による再生もな。」

「はい、あれには驚きました。まさか近くにあったどす黒い幹の根っこが化け物の死体を吸収し、実を輩出し、その実から新たに同じ化け物に変化するなんて。SF小説じゃないんだから、勘弁してほしいです。」

「まぁ、そういうな。そうだ、制圧はできても、消滅させることはできない。そのためには樹が邪魔だが、提供された映像では気も再生するようだ。まったく、それにしてもあれらが元人間だとは未だに理解できないな。あと奴らがたまに見つけて喰っていた宝石は何だと思う。」

「わかりません。ただ広がりが停滞している今は、被害の防止と現状の化け物の数の把握を優先すべきかと。制圧するための人員を確保しておくべきです。殲滅の方法は研究職に任せましょう。」

「そうだな、引き続き哨戒活動を継続しつつの様子見だな。これからどうなることやら」


 団長と呼ばれた指揮官は補佐役とともに現場近くのテントを出た。会議では彼らが直接見た現場の状況や出来事を報告した。警察から提出された映像を再度見ていたはずだが、最初は夢でも見ているのではと馬鹿にしていた。ただ現在標準装備とされている隊員につけているレコーダーの映像からしぶしぶ納得したはずだった。


 しかし彼らの見解も黒い円内より外に出られないのであれば問題ない。またそれも現在は拡大していないということで、注視する程度で大丈夫だという安直な考え方でまとめられた。それよりも一部規制区域を設けたことによる経済活動の停滞や民衆を抑えるため対外の情報公開をどこまでするかなどの議論に傾いていった。


 本来なら半径5㎞は危険区域指定にして住民を除外したかった。なぜならホテルから半径500mに広がるのに10分ぐらいかかっていた。10倍の距離があれば、その分時間が稼げて、より遠くに逃げるチャンスが生まれる。今は停滞しているが、いつ拡大するかわからない。とにかく今は最悪の事態に陥らないことを祈るばかりである。


 それにしても500m内にいた人々はどこに消えたのだろうか。報告された化け物の数と消えたであろう人の数が合致していない。どこかに幽閉されているのかそれとも奴らに捕食されているのか。もしまだ生きているなら助けに行かなければ、団長と呼ばれる指揮官は難しい判断に立たされていた。




 何が起きたのだろうか。テレビで近くのホテルの記者会見のライブ映像が流れていたがまるでドッキリ番組のような分けのわからない展開の後、急に映像が途切れた後何事もなかったように別のニュースが流れていた。確かホテルは近くだった気がする。


 東京に来て、長年抱えてきた苦痛を解放するためお願いしたことがこうも簡単に終わるなんて、前回あの喫茶店に入ることができて本当に良かった。喫茶店のマスターに勧められるまま話しけど、こんな風に終わりを迎えられるとは思わなかった。


 重いつきものが落ちたかのように彼女はレストランで食事をとっていた。少し前まではおいしい食事をとりたいなんて思わなかったろう。けど今は心晴れやかに区切りがついた自分の新しい門出を祝い、一人で豪華な食事をとっていた。


 メインのアマダイのポワレが目の前に置かれた時だった、突如黒いベールが自分を包み込みどこかに沈め込もうとしているのを感じた。自分を覆ったものは何かわからないが、その意識は流れ込んできた。


「アンマリダ、ワタシガコンナヒドイメニアウナンテ」

 悲しみに暮れる何かの感情が流れてきた。他の人ならこの異常事態に狼狽してしまうところだが、つい最近まで死んでいたように生きていた彼女にとって、すんなりと受け入れられ、流れ込んでくる感情に寄り添うことができた。


「そうだよね、誰もそんなの思わないよね。」

「リフジンダ、オレハタスケタノニ、ナンデダレモタスケテクレナイ」

「人にやさしくすれば、自分にも帰ってくると思っていたけど、世の中はそんなに優しくないんだ。本当に悔しいよね。」

「ガンバッタンダ、ガンバッタケド、タスケラレナカッタ、ユルシテホシイ」

「確かに手が届かないことがあるよね、助けられないことが苦しい時もあるよ。わかる」

「トモダチダトオモッテタノニ、ドウシテイナクナッタ、シンジタワタシガバカダッタノ」

「裏切られることはつらいよね。でも何をもって友達と思ったの。いなくなったら友達ではないの?もしかしたらいなくなった理由もあるかもよ。でもやっぱりつらいよね。」

「ウラミヲハラシタイ、ヤツラヲノロッテヤル」

「悔しいよね、いなくなった方も生き残った方も悔しい、私も悔しかった。恨んでいいのよ。当然の報いを受けるべきだわ。だから今回この思いを果たせたことを私は運が良かったと思う。私に悔いはないわ。」


 彼女は流れ込むすべての思いを飲み込んでいった。そんな彼女を慕うように様々な思いが次々に寄せられた。悲嘆や憎悪といったくすんだ思いが彼女を包み込み押し込めていく。それらは、彼女も以前経験した思いであり、それに寄り添うことは苦痛ではなかった。


彼女は次々に思いを受け入れていく、その思いは彼女の中で変わっていく。温かいココアに浮かぶマシュマロのように解けて、彼女と一体化していく。徐々に熱を帯びていく体内と外からの冷たい圧力により、彼女の形質を変えていく。


 彼女の容量も限界が近い。すでに人のかたちを維持できていない、受け入れた思いが彼女を美しい石に変えてしまった。そこには彼女は存在していない、彼女の意思はすでに別のところに旅立ってしまった。


 残ったどす黒い思いはまた新たな対象を求めさまよっている。

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