拝謁
なぜ。
目の前にある光景を認識できないでいた。いや認識したくはなかった。目に入っている映像を拒絶している。目に映っているのだからすでに現実に起きたことであるのに、認めると現実になってしまうという矛盾した感覚をいただいていた。
ちがう。
何も違うことはない。床に落ちているのは人のちいさい頭だ。しかもこちらを向いて、俺を見ている。目の周りには泣きじゃくった後が見受けられるが、何かを訴えかけるような視線ではなく、道路に置き去りにされた人形のような瞳しか浮かべていない。
うそだ。
何が嘘だろうか、豪華な夕食が机の上に並べられている。机の向こう側に椅子に座っている人物を見た。本人がいつも気にいっている薄い浴衣生地のワンピースは実家の母が彼女に合わせて作ったものだった。上部に青白い生地に大きな花柄が描かれているのだが、そこに血がにじんでいる、真っ赤な牡丹の花のように。
どうして。
ぽちゃぽちゃとした頬っぺたの下にいつもならお気に入りのイチゴのスタイがまかれているはずが、今はお気に入りだったおもちゃのレジセットのバーコードリーダーのコードが首にまかれている。おもらしたときのにおいがした、ついこの間おむつを外れたばかりだった。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
いつものように玄関を開け、廊下の先の中扉が閉じていた。エアコンがリビングダイニングにしかないから、閉めておかないとなかなか部屋が冷えないのだ。本来なら玄関を開けると「パパ来た!!」と子供たちがドタバタするのに今日は何もなかった。不思議だったけど、もしかしたら今日が俺の誕生日だから脅かそうと静かにしているのかなと思った。
扉を開けた。そこまでは日常だった。「ただいま~」の声を上げようとするところまでもいつもと変りなかった。ただ空いた扉から漏れ出たにおいが少しの非日常を運んだ。臭い。しかもおもらしだけではない、何か違う臭さがある。しかもいやに静かだ。おもらししているなら娘が泣いているはず。息子が娘をあやそうとしているはず。妻がそんな息子に指示を出して、対応しているはず。なんの喧噪もない。
その扉を開け広げなければよかったのだろうか。自ら地獄の底をのぞき込んでしまったのだろうか。誰が想像できるだろう。いつもあった扉の向こうの幸福が、唐突として絶望に換わっているだなんて。
左手が震えている。自分の誕生日のケーキを自分で買っていることに苦笑しつつ、息子がリクエストしたケーキ屋のチーズケーキ。本当はチョコレートケーキを要求していたが、そこは俺の好きなケーキにした。ただ息子の誕生日はチョコレートケーキにするつもりだった。
まだ左手にはケーキの箱の取っ手がある。少し厚めの段ボール紙で作られた包装用の箱はかなり丈夫でしっかりと左手に食い込んでくる。形も変形しないまま左の手のひらに食い込んできて、痛みを自分の体に伝えている。目に、頭に、心臓に、いまは現実で痛みがあることを必死で訴えかけてくる。
よく自分でもそのあとの行動は覚えていない。息子の小さな頭だけを抱きかかえたのか、娘の糞尿にまみれた体を抱きかかえたのか、妻の深紅の花が浮き出た服を着た体を抱きかかえたのか。それともパラシュートでそらから落ちるときの錐揉み状態のようにぐるぐると目まぐるしく行っていたのか。
ただ視界に残っているのは、まるでそこにずっと置かれていたかのようにアーチ形の取っ手がついた四角い箱。中にはみんなで食べようと思っていたホールのチーズケーキが入っている崩れていない箱だった。それ以外は自分の記憶から消し去っておきたかった。
抱いた感触、血のぬめり具合、鼻の奥を刺激する様々な匂い。すべてを。
いつからここに座っているのだろう。誰かが用意した鉄パイプの椅子に座っている。周りの雑音がひどい。
「なんでこんなことに」
「ずっーとあの感じらしい」
「大声が聞こえて警察が駆け付けたときには放心状態だったって」
「でも呼びかけると返事するよ」
「おじちゃんはどうしちゃったの?」
目が赤くちかちかする。周りの人がいるのはわかった。少し前までは警察官がいたみたいだった。声をかけられていた。「大丈夫ですか?声聞こえていますか?」俺に対しての質問だったのだろうが、他人事のように聞こえていた。いつ外に出たのだろうか。
周りが回っている。息子が小さいときに欲しがっていた回転木馬のランプのようだ。真ん中電球をつけると、シェードが回り、壁に回転木馬がキラキラと映し出される。親子3人で寝そべって眺めたときに感嘆の声を発していた。娘が大きくなってランプを倒すようないたずらをしなくなったら、4人で見ようと約束していた。
あの時間の流れを切り取った幻想的な光景と違うのは、今は濁流のような灰色の映像がぐるぐるとまわり、物事を全て推し進めていっている。ついて行けてない。俺だけが取り残されている。3人で見た部屋の中心にとどまり、周りが美しい風景を押しつぶすように回っている。
事情は分からないが警察署に連れていかれた。促されるように黒いセダンに乗った。サイレンはならなかった。ありきたりな心配だよアピールの浮いた言葉を投げかけられているが、なにも響かない。これが自分のいるべき場所ではないという感覚があった、ただあの場にいたら永遠に回る濁流の景色を見続けることになるのが嫌で連れ出してくれるなら何でもよかった。
長椅子にもたれかかり、何も情報を入れたくない気持ちがあった。この先はわからないが俺自身は落ち着かなければならない、抑え込まなくてはならない。今までずっと抑え込んでいたのだ。受け継いだものとしての責務がある。すべてを乗り越えて、ありきたりといわれてしまうかもしれない小さな幸せを手に入れられたのは、本当に幸運だった。今までの継承者がこんなに恵まれたことはなかったはずである。そうとても恵まれていたのだ。
「犯人が見つかった!!!」
壁越しに聞こえた声に今まで稼働していなかった体の芯が熱を帯びて動き出した。俺に投げかけられた言葉ではないのはわかっている。ただその言葉は深淵の底で活動を停止していたものを浮かび上がらせるに十分な言葉だった。本来は俺には聞かせる言葉ではなかったのだろう、周りの警察官たちが軽率な発言をしたものを咎めている。
そんなことは関係ない。それが知りたい。今ならまだ取り返せる。それで終わらせよう。そのあとは申し訳ないが次の継承者に託すしかない。俺はこのまま終わりを迎えるけど致し方が無いことなのだ。今の俺が抑え込んどくには難しいのだ。
「はんにんはどこにいるのですか?」
うまくのどから声が腹の中の別の何かが代弁してくれているかのようだ。
「お伝えすべきことではなかったことを聞かせてしまい申し訳ありませんが、詳しいことはお話しできません。」
近くにいた年配の警察官が不穏な気配を感じつつも穏やかに答えてくれた。質問に答えられないことに理解を示してほしい。そんな願いを込めて。
「はんにんは?だれ?」
腹の中の代弁者が引き下がらず、追及してくれる。
「どこにいる?」
声や雰囲気は少し不安定だが、惨状を目撃したショックからだろう。乱心しているわけでもないし、理性的ではある様子のため、警察官は簡単に事情を説明してくれた。
「申し訳ないが、相手が大使館関係者らしく、今は手が出せないようで。ただ必ず引き渡し請求をするから心配しないでください。」
「なにをしんぱいするのですか?いまどこにいるのかさえおしえてくれれば、それでいい」
代弁者は的確に指摘してくれた。
「お伝えすることはできないです。」
やはり面倒になったかという表情を浮かべて警察官は答えてくる。その顔を見て、先ほど帯びたどろっとした熱を抑え込めなくなりそうになり、目を閉じ、気を静めようとし、そのまま記憶を飛ばしてしまった。
目を開けると朝だった。目を閉じて、そのまま意識を失っていたらしい。危ないところだったが、暴れた形跡もないし、この世界は順調に流れている。俺が目を覚ましたことに気づいた警察官が別の警察官を呼んだ。
「すみません、体は大丈夫ですか?もう少し気を配っていれば。ご負担をかけて申し訳ありません。もしよろしければこちらでホテルを手配いたしましょうか。お送りしますよ。その前に洋服とか着替えたほうが良いですね。」
有難かった。このままここにいたら腹の中の代弁者が問い詰めそうだった。そんなことになりだしたらもう自分でも抑えきれないところだった。警察署内で用意されたもので身支度を整え、外においてある車に連れていかれる途中、ものすごい光を浴びせられた。穏やかな日の光ではない、まるでこれから魔女狩りの公開裁判に上がるものを刺し貫くような光だった。
「古川さん、犯人に対して一言お願いいたします。」
「記者会見を開きませんか?」
「犯人は大使館の息子らしいですけど知っていますか?」
「すでに国外に出ている可能性があるみたいでけど、説明はありましたか?」
彼らは自分たちの仕事を全うするため様々な質問を投げつけてくる。まだ俺の知らないことをよく知っている。彼らに聞こうそして終わらせようそう思った時
「早く車に乗ってください。お前たちでたらめを言うな、道を開けろ」
そうだ、まずは車に乗って、用意されたホテルで落ち着こう。今回のことで解き放ってしまってはいけない。
ホテルの部屋についた、途中途中記憶が消える。いつの間に受付して、エレベーターに乗ったのか。思い出せない。ただ思い出す必要もなかった。
もしかしたら、これまでは何かの勘違いかもしれない。スマートフォンを確認したら、心配した妻と子供から連絡が入っているかもしれない。わけのわからない現実逃避は、両親や親戚、友人からのメッセージや電話が多数入っていたことですぐに否定された。
あぁ、あぁ、やっぱりだめだ。そんな時にヘアのドアがたたかれた。もうドアを開けるという行為をしたくない。いやだ。そう思った時に
「すみません、警察の深水です。今回の件でご説明したく、扉を開けてもらえませんか。」
待っていた。詳しいことを聞こう。復讐の相手を、すべてをぶつける相手を知って、これを終わりにしよう。心の中が再度熱を帯び始める。しかし扉を開けることが怖い。
「もしカギを開けていただけたら、こちらから扉を開けますので」
向こうも何かを察してくれたのだろうか。開錠すると深水という警察官と警察署で親身に接してくれていた警察官、あと見知らぬ二人が入ってきた。いくつか定型文のような会話のやり取りが行われた。そんなことは良い。今は俺の心のよりどころとなる対象を与えてくれ。そこに向かって、俺は自分自身の胸からねじり出てきた憎悪の槍を対象者の方向へ向かわせるだけなのだから。
「ここからは大変申し上げにくいことなのですが、犯人の特定はできたのですが、犯人今すぐ検挙することができない状況にあります。」
「今回、ある大使館の関係者が卑劣な行為を行い、大使館の中に逃げ込んだ状況です。」
「もちろん、今回の件は諸外国でも犯罪ですので、捜査協力を要請できるのですが、その、すぐには、向こうでも調査をするようで、すぐに引き渡し対応とはならないようで。」
「ただ相手方にも権利というものがあり、すぐに我々の意見が反映されるわけではないので、もう少々お待ちいただく形になります。大丈夫です。ご家族の無念は必ず晴らします。」
矢継ぎ早に彼らは現状報告をしている。言っていることはわかった。要するに犯人はわかっているが、捕まえられない。なぜだろうか顔の知っている警察官以外は警察官という感じを受けなかった。とにかく彼らは引き続き、自分たちの立場の釈明と逮捕するという姿勢だけを伝えてくる。
もう良い。俺の気持ちは決まっていた。
「どこの国の大使館ですか?」
落ち着いて聞いてみたのだが、その場にいた4人とも異常な雰囲気を察したのだろうか。「それはお伝えすることはできないんです」「早まった考えを持ってはいけませんよ。」といった俺を制止する言葉を並べていた。
「そうですか」
彼らの言葉に何の感情も乗せず答えた。その様子に彼らはさらに不安を覚えたのか、再度俺の心に説得を試みるようにいろいろな言葉を投げかけてきた。ただもう俺には何を言っているのかわからない。
「少し外の空気を吸いたいです。」
彼らに制止する権利はないため、阻みはしないが、一人同行するといっていた。そんなことを気にせず、ホテルの部屋を出た、もう扉を開けることをためらわない。ホテルの自動扉を出て、外の景色を見た。夏の強い日差し、セミの声がうるさく、来週の休みに蝉取りに意向と息子と約束していたことを思い出した。
「あのー、江東区の事件の旦那さんですよね」
ホテルから歩きだしてすぐに一人の男に呼び止められた。その質問に答えようとした瞬間に
「すみません、ちょっとやめてもらっていいですか。」
後ろからついていた警察官と名乗ってホテルの部屋に入ってきた一人が質問してきた男に訝しむように遮ってきた。
「なぜとめるんですか。どうぞおはなしください。」
「ありがとうございます。」質問してきた男は邪魔者に対して勝ち誇ったかのような笑みを向け、俺に話を投げかけてきた。
「今回の件で犯人に対して言いたいことなどコメントを頂ければと思いまして。」
後ろで舌打ちと「ハイエナが」と吐き出すように出たコメントを無視するように男は俺に足して同情しています、あなたの気持ちに寄り添っていますといった優しい悲しい笑みを浮かべていた。ただ次の瞬間、うわべだけの表情の奥底に隠れていた幸喜の目と策士が持ち上げるような口角を顔に表していた。
「いますぐきしゃかいけんをひらきたいです。」
隣にいた同行者は目を見開き見つめてくる。この男は正気なのかという目だ。
「そうですね、それは重要です。是非記者会見を開きましょう。こちらも準備しますので、準備が整いましたら連絡いたします。これが私の名刺でして・・・」
「いますぐはなしたいです。どこにいけばてれびにうつりますか。」
質問してきた記者はこの男が正気ではないと一瞬考えたが、他のところに横取りされるよりは自分のところで抱えこみたい気持ちが勝った。それにテレビの前で狂ったように訴える父親の画像はさぞや高視聴率になるだろう。動画配信サービスでも何度もリプレイされるかもしれない。メリットの方が大きかった。
「わかりました。すぐに準備します。タクシーの中で詳しい説明をしますので、少々お待ちください。」
走っているタクシーを捕まえ、俺をタクシーに誘導した。同行者は乗る権利はないため、ホテルいるメンバーに連絡をしながら、記者に詳細を聞いている様子だった。
数分しただろうかやっとタクシーが走り出した。その間隣にいる記者は事情を会社の上司に説明したり、部下にてきぱきと会見について指示を出したり、いそがしそうにしていた。
横で目をつむる俺にも何かしら言っているのだが、もう声が届かない。内側から湧き出る声が大きすぎるのだ。
数十分タクシーが走って、ある建物に止まった。ここが最終着地点だ俺の中で決意した。その決意を別の決意と取ったのか。隣の男が勘違いするように声をかけてきた。
「これから、全世界に向けて訴えましょう。無念を晴らしましょう。」
好機に飛びつくような勢いで発せられる彼の呼びかけは、あながち間違いでもなかった。
確かに全世界に、すべてをぶちまけてしまおう、もう終わりだ。
「大国だからって、好き勝手出来るのはおかしいですよ。ましてそんな国の要職に就く息子が起こしたことに何の責任も取らないなんて、ありえない。」
少しだけ彼の心の中にあるジャーナリストとしての精神が発する言葉は、良い方向へ導こうとしているのかもしれないが、そんなものはもう関係ない。彼のすべては歯車を加速していってくれている潤滑油と化していた。
用意された会場には報道陣が詰めかけていた、これだけの短時間で良く集まったものだが、今回の事件がワイドショーネタになると考えてのことだったのかよくわからない。ただここにいる人たちはすぐに巻き込まれていく可能性がある。申し訳ない気持ちも湧いたが、一瞬で気にしなくなった。これまでつくしたのだ。もういいじゃないか。もう始まったのだから。
「今回このような痛ましい事件のすぐ後に記者会見を開くのは大変つらく困難なことですが、被害者家族からの強い要望があり、開けることになりました。ただ過度な質問は心の負担となります。記者の皆様には配慮あるご質問をお願い申し上げます。」
司会者として呼ばれた男が全体へ呼びかけ、俺を見て「まずはお話になられますか?」と聞いてきた。こういう場面が慣れているのだろうとてもスムーズに好印象をあたる笑顔だ。
あぁ、ゆっくり話そう、場は与えられたのだ。
「私は今まで耐えてきました。幼いころに渡されて、最初のころはつらかった。本当に。理解を求めても、突飛な話過ぎるし、理解などしてもらえるわけがなかった。だけど、耐えた。耐えて、慣れた。いわれたとおりに過ごしてなれることができた。それからはゆっくりと小さな幸せを見つける余裕ができた。」
所々不可思議な話が混ざってはいるものの、まだ記者はだれも突っ込まない。情緒不安定になっている程度という認識だったのだろう。ここで感情を掻き立てるより、促して話を進めさせたほうが良いという考えだったのかもしれない。
「本当に幸福だった。受け継いだ時に想像していた悲惨な人生ではなく、穏やかで優しい時間が流れていることに、本当に感謝していた。また受け継がせる相手を選ばなくちゃいけない、でもその相手に寄り添ってあげようと思えるくらい心にゆとりが持てた。人であることを保てていた。」
少し雲行きが怪しくなっていった話に記者たちは困惑の顔を見せるが、まだ我慢できる程度だという認識だった。
「でも、崩れた。すべてが崩れた。誰が想像できますか、そこらへんに住んでいる富裕層でも貧困層でもない本当にありきたりな人生を歩んでいるものが抱え込んでいるものがあると。頭ではわかっていたことで、災難はいきなり誰しもに降ってくるもの、ただ今そんなことは関係ない。当事者になって初めて分かった。そんな理不尽を受け入れられない。すでにわけのわからない理不尽を受け入れ、納得したのに。それでもまだ飲み込めというのか。それがこの世なのか。そんなもののために耐え続けてきたのか。」
司会者は「あの、ちょっと・・・」と制止しようと試みるが止まらない
「心がえぐれたんだ。アイスクリーム屋に並べられた色とりどりのアイスアイスクリームを掬い取るように、滑らかに様々な色が削られたんだ。きれいに抉り取って、しかもすべてを空にせず、えぐった個所が分かるように、それを見ればまた痛みがぶり返すかのように。そしたらもうどうしようもないじゃないか。誰のせいでもない。そこら辺の道端に転がっているような石が世界を救うだけの力を帯びているなんて誰も思わないし、その逆も同じでしょ。誰だって、こんな人間が大それたことをするなんて思えないでしょ。だから後は受け入れていっていくしかないんだよ。」
「だいぶ精神的に参ってしまっているのでしょうか。大丈夫ですか?」
意味の分からない形容に苦笑しながら気遣った司会者の顔が一瞬でこわばる。
俺は自分の右手に先が鍵爪状になったつややかに黒光りするものを取り出した。事前に身体検査を行われたが、かなりずさんで、口頭で何も持ってないか聞かれただけだった。一見したらナイフのような刃先を首に押し込むと首の中を探るように動かし、探し当てたものを引っ張り出した。痛みはあるが、そのままの勢いで掻っ切ると光沢のある黒とも藍色とも言えない液体が流れだしていた。
記者たちは気が狂った被害者家族がテレビ上で自殺を図ったと思った。彼らは一瞬にしてセンセーショナル映像に変わったことを歓喜した。最初は気狂いになった男が意味不明なことをつらつらと話した映像など誰も興味が無く、価値がなかった、これはネタになる。放送事故だし、倫理的にも問題はあるが注目を集めるのは間違いなかった。
緊急事態に対応しているかのように壇上の向こう側では一応に騒ぎ立てているが全員内心舌なめずりをしていて、注目すべき点を見落としていた。テレビの向こう側の人間は逆に違和感を覚えていた。首に刃物を指して、抜いたのであれば鮮血が飛び出す。閉鎖空間で突然開かれた扉に人が群がり、新鮮な空気を求め、一斉に飛び出すかのような勢いがあるはずだ。ただそこには首からゆっくりと伝うように地面を目指しているヘドロのようなものが画面を通して映し出していた。しかもヘドロが首から下にこびりついている男は微動だにせず、何かを待っている。
司会者はすぐに駆け付けた、倒れこむと想定していた被害者の夫である男が身動きせず、待ち遠しい目つきでたたずんでいるのに違和感を覚え、よく観察していると黒光りする液体が波打つように地面を目指している。そして到達するとすぐに広がり、目の前の男の足元をきれいに円で囲み、影を包み込むように広がっている。異質な光景を唖然として眺めていた。
「ナンゾヤ」
「ワレハナンゾヤ」
「アナタハワレラガオウゾ」
「バニイルノハダレゾ」
「ドノバニイルノモフカキモノドモゾ」
「アコトテフカキモノドモカ」
「ビビタルチガイナドナクワレラモフカキモノ」
「スデニナニモセズトモナンジラノオウハワレナノカ」
悲劇の中心いる男はつぶやき、黒い波が答えた。しかしその会話は聞き取れるわけではなく、頭で直接認識していた。その場にいる者は皆理解できないことに恐怖したのか身動きできずにいた。
「ナニモナシテオラヌワレニナニヲノゾム」
「ワレラノカイホウヲ」
「カイホウトハ」
「ウツツノジュニクヲモトメル」
この会話は不穏の元凶であり、すぐさま逃げるべきであった。ただ誰か一人でも悲鳴を上げ、会場から飛び出せば、徒競走の号令よろしく一斉に駆け出していただろう。今か今かと待ちわびた号令はなく、気が付けばすでに辺り一面の床は黒い水面と化していた。頭ではわかっている、危険だと察しているがただ誰も動こうとしない。その瞬間、目の前で黒い汚物を垂れ流していた男の胸に黒光りする突起物が現れた。何かが男の胸に突き刺さり、そのまま男を黒い水面に引き釣りこんでいた。
全員が安堵していいのかわからずにいた、ただ足元のモルタルのような黒い物体が消えないことに、まだこれから何かが起こることは予測できた。足元の床は変質しているが足に絡みついてこない。逃げるならまだ間に合う。競馬の出走ゲートのように一瞬だったはず、後ろを振り向き、会場の重い扉を開け、この場から逃げ出す。しかしその場にいた人の認識はその一連の動作がスローモーションのように感じられた。
彼らは気づいていなかった。扉の先はないことに。外からスライド式に稼働する天井のようにドーム型に液体は会場を包み込んでいた。壁や天井は浸食されていった。俯瞰的に見ることができれば、地面からいきなり口が現れそのまま飲み込むかのような映像だった。
まだテレビの機材は動いている。記者会見の場にいる人たちの不安や恐怖を映像で伝えている。彼らが今波打つ黒い流動体に捕獲され、取り込まれている。その反対に黒い液体から這い出てくるものがいる。這い出てくるものに流動体がこびりつき、形あるものに変化しようとしていた。
この映像は動画配信サービスにも投稿され、多くの人は何かのプロモーションだろうと思った。後付けで実際に殺人事件が起きていたこと、その被害者が記者会見を開いていたことが真実だと知ると今までスーパーヒーローが現れるような特別が無い世界、何も起こらないとつまらない世界が変わったと期待する人と悲観する人、そして所詮はどこで何が起きようと関係ないやと興味すら抱かない人、事象に対しての捉え方は人それぞれ違うのだ。また生きるのに必死でそんなことすら考える余裕が無い、知る機会が無い人もいる。だが出来事を知っていようがいまいが関係なく、度合いは違えどすべての人に対し平等に特別が訪れることになる。