第88話 戦いの行方、それと猫
前回までのあらすじ
ぬこの魔獣……アレしかいないだろ。
「じゃかましいわ!! 見りゅがええ!! こりが、わちの猫じゃ!! どうじゃ!!」
「グオォォ!! グルルゥ……」
リタが勇ましい掛け声とともに指を差すと、そこにそれはいた。
その「猫」は、低い唸り声とともに鋭い瞳で周囲を見廻していたのだ。
その仕草はまるで獲物を探す獰猛な肉食動物のそれであり、それは無理をすれば「猫」のように見えなくもないが、明らかに「猫」ではないものだった。
それは猫のような顔をしているが、むしろ獅子に近いものだった。
その証拠に、大人の胴体ほどもある太い首の周りにはフサフサとした鬣が生えており、全身を覆う体毛は細く短い。
おまけに背中にはまるでコウモリのような大きな翼が生えており、それを開くと全幅は4メートルはあるだろうか。
そしてさらに鋭く尖った尻尾は、サソリのそれのようだった。
その鋭いトゲのような尻尾の先からは、凡そ毒にしか見えないような紫色の液体が糸を引いている。
太い四肢でのしのしと歩く体長約三メートルの身体のフォルムは、確かに見ようによっては猫に見えなくもないが、正確に言うと獅子に近いものだった。
それらの特徴を併せ持つ動物――いや、この場合は魔獣と呼ぶべきだろう――それは「マンティコア」だった。
それは上記の通りの外観を持つ中型の魔獣で、リタの持つ召喚魔術で呼び出せる。
彼――性別がないのでそう言えるのかは不明だが――の外観以外の特徴として、好物が「人肉」というものがある。
そのためマンティコアは、小規模の村や町の掃討作戦に用いられることが多い。
なぜなら彼らを複数匹放しておけば、建物などには一切被害を出すことなく勝手に人間を食い尽くしてくれるからだ。
彼らは常に腹を空かせているので、鋭い牙の生える口の端から絶えず涎を垂らし、まるで獲物を品定めするような仕草で周りの人間を見廻していた。
そう、目の前に居並ぶ人間たちは、彼にとっては餌以外の何物でもないのだ。
もちろんそれはライネリオをして例外ではなかった。
そんな世にも恐ろしい魔獣を、リタは「猫」だと言い張っている。
それに対しては、さすがのロレンツォも彼女を諫める声を上げざるを得なかった。
「リ、リタ様!! それはあまりにも酷すぎます!! それを『猫』などと呼ぶにはあまりにも――」
「じゃかましいわ、ボケが!! わちが『猫』だと言ったらこれは『猫』なのじゃ!! 異論は認めにゅ!! のぅ、マンさんや」
「グオォォ!!」
「ほれ、マンさんもそう言うておろう?」
「マ、マンさん……? いや、それはただ、腹が減ったと言っているだけでは…… と、とにかくそんな魔獣をこの場に連れて来て、もしものことがあったらどうするのですか!? い、今すぐに帰して下さい!!」
「なんじゃとぉ!? こりは『猫』なのじゃ!! 誰が何と言おうと『猫』なのじゃ!! おまぁは、師匠のわちに逆らうんかー!?」
弟子の諫める言葉に顔を真っ赤にしながら地団駄を踏むその姿には、すでに老成した213歳の「ブルゴーの英知」と呼ばれていた片鱗は欠片も見られなかった。
そこにいるのは、ただひたすらに己の要求を聞き届けられないことに癇癪を起こす一人の幼児だけだったのだ。
そんな師匠の変わり果てた姿に、弟子のロレンツォは大きなため息を吐いた。
「はぁ……わかりました…… いいですか? 絶対にこのマンティコアから目を離さないで下さいよ? 人食い魔獣に人間が食い殺される光景なんて、僕は見たくありませんからね」
「大丈夫じゃ。マンさんは、わちの友達じゃからのぉ。アラゴン掃討作戦の時は本当によく働いてくれたものじゃ。なにせあにょ時は、百人からなる敵を全員――」
「だから、それが心配なんですって……」
ロレンツォはこの時点で半ば諦めていた。
未だそれほど長い付き合いとは言えなかったが、それでもリタ――アニエスが相当な頑固者であることを身に染みてわかっていたからだ。
そして彼女が転生前に「ブルゴーの英知」の他に「ベストオブ老害」という異名を持っていたことも同時に思い出していた。
――あぁ、だめだこの人……
たかが七歳相手に、なにをガチギレしているんだよ……あまりにも大人げない。
しかもよりによってこんな凶暴な人食い魔獣を「猫」だと言い張るだなんて……
もう知らない。
僕は知らないぞ……
「お待たしぇいたしました。ペットの猫を連れて参りました。名前は『マンさん』でしゅ。どうじょ、よろちく」
「グオォォォ!!」
「きゃー!!」
レンテリア邸の裏庭に甲高い女性の悲鳴が轟いた。
目の前に突然現れた三メートルを超える明らかに「猫」ではないものの出現に、複数のメイドから悲鳴が上がる。
そして護衛の騎士はその腰の剣に手をかけていた。
そんな混乱する現場に、再びライネリオの声が上がる。
「イ、インチキだ!! そ、そんなのは『猫』なんかじゃないだろ!! 絶対に違う、『猫』なんかじゃない!!」
「な、何を言う!? こりぇをよく見よ!! どこからどう見ても『猫』じゃろ!?」
「う、うるさい!! なんで『猫』に翼が生えてるんだよ!? なんで尻尾の先から毒が出てるんだよ!? いい加減にしろよ、リタ!!」
「うるしゃい、うるしゃい、うるしゃーい!! こりは猫だと言ったら猫なんじゃー!!」
「違うったら違うだろ!! どこにこんな化け物みたいな猫がいるんだよ、聞いたことないだろ!! 一体何処から連れて来たんだよ、こんな怪物!!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏む四歳児に対して、顳顬に青筋を立てて真正面から否定する七歳児。
一見するとどっちもどっちという気がしないでもないが、どう考えてもリタの主張の方が無理筋だ。
なぜなら、ライネリオの言う通り、この場の誰もが三メートル超えの身体に翼を生やし、尻尾から毒を出す猫など見たことはなかったからだ。
するとそんなアウェーな雰囲気を次第に感じ始めたリタは、遂にその愛らしい灰色の瞳から大粒の涙をぽろぽろと零し始めたのだった。
「しょんな……しょんなに言わなくても、よかろうもん…… うぅぅぅ…… ふえぇぇぇ――」
自信満々にせっかく呼び出したマンティコアを頭ごなしに否定されたリタは、あまりのショックに思わず泣き出してしまう。
確かに無茶としか言いようのないことを言い張ったのはリタだったが、さすがに真正面から否定されると悲しくなって涙が止まらなってしまった。
「ふえぇぇぇ――しょんなに言わなくても良かろうがぁー!! もうライネリオなんぞ、嫌いじゃぁぁぁー!! あっちいけぇー、うあぁぁーん!!」
「な、なんだよお前…… なにもそんなに泣かなくてもいいだろ……? ガキかよっ!?」
いや、ガキだろ。
お前も、リタも。
その場の全員がそう思ったのだが、誰もそれを口にする者はいなかった。
そんな中、再びライネリオが口を開く。
その顔には何処か渋い表情が浮かんでおり、それを見る限り彼は年下のリタをガチ泣きさせてしまったことに些か罪悪感を感じているようにも見えた。
どうやら彼は、その見た目の我が儘さによらず、意外と優しい一面を持っているのかもしれない。
「わ、わかったよ……もう泣きやめよ…… お、お前の猫が凄いのはわかったけど、怖いからもう連れて帰ってくれないか? ――お、俺は怖くなんかないけどな!! ほらっ、メイドたちが怖がっているだろ!?」
「うぇっ、うぅっ……ぐしゅぐしゅ……」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、リタは周りを見廻す。
するとライネリオの言う通り、周りの者たちが恐怖のあまり身動きできなくなっているのに気が付いた。
特にリタ専属メイドのジョゼットなどは恐怖のあまり尻もちをついて、その周りの地面に水たまりのようなものを作っている。
そんな気の毒なメイドを、ロレンツォが何とも居た堪れない表情で見つめていた。
そんな光景が目に入ったからというわけでもないのだろうが、突然ハッと正気に戻ったリタは、やっと嗚咽が収まった口からおずおずと言葉を漏らした。
「ひっく、ひっく…… わ、わかった……もうマンさんは連れて帰りゅ…… ほれ、行くじょ、マンさん……」
「グルルゥ……」
背中を丸めてトボトボと歩くリタに引き連れられて、その場を後にするマンティコアのマンさん。
その何処か不満そうな様子からは、きっとこの中から一人くらいは食べさせてもらえると思っていたのだろう。
だからこのタイミングで強制退場させられたのは、ある意味正しい判断だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、哀れなジョゼットとリタの姿を交互にロレンツォが見つめていると、どこか寂しそうな顔をしながらリタはマンさんを連れて建物の陰に消えて行ったのだった。
結局リタとライネリオのマウント取り勝負に決着がつくことはなかった。
もっとも内容だけで言えばリタの圧勝だったのだが、それはある意味反則ぎりぎり――いや、完全に反則だった。
だから今日のところは勝敗無しの引き分けに終わった――ように見えた、その時は。
「リタ様。せっかくこちらへいらっしゃったのですから、ライネリオ様に魔法の練習の成果をお見せしたらどうですか?」
「おぉ……実はととしゃまにも、しょう言われておってなぁ。もともとは、しょれが目的じゃったのをすっかり忘れておったわ」
「そ、そうですか……」
リタの言葉に半ば呆れたロレンツォは、まさか最初からあんな不毛なマウント合戦をしに来たのでもあるまい、彼らは一体こんなところまで何をしに来たのか、などと思っていた。
そして魔法を見せるのであれば最初からそうすれば良かったのに、などとロレンツォは思ったが、先ほどのリタの癇癪を見てしまった後では決して口に出すことはできなかったようだ。
「えぇ、そりでは、私の魔法の練習の成果を、特別にお見せいたしましゅ。危ないのれ、少し下がってくらはい」
そう言うとリタは、事前にロレンツォが用意してくれた人型のターゲットに向かって、その小さな紅葉のような手を広げる。
右手にはあの曰く付きのピンク色の魔法の杖(通称:魔女っ子ステッキ)が握られていた。
実はあれから色々と試したのだが、やはりその壊滅的なデザインを除けばステッキ自体はとても優秀だということがわかったのだ。
特にその小さな身体のせいで魔力放出量に制限を受けている現在の状況では、たとえ不本意だったとしても、そのステッキを使った方が格段に効率が良かった。
そんなわけであの日以来魔法を行使する際は、リタは嫌々ながらもそのピンクのステッキを握り締めるようになっていたのだ。
本来は必要のない魔法の詠唱の真似事をリタが始めると、その場の皆(下着を取り換えるために中座したジョゼットは除く)は、興味深々にその様子に見入っていた。
もちろんその中には、リタの屋敷に勤めるメイドと護衛騎士も含まれている。
彼らはリタと一緒に行動してはいるが、実際に彼女が魔法の練習をしている光景を見たことがなかった。
だから彼らとて滅多に見られない幼女の魔法とやらに、興味深々だったのだ。
そんな期待と好奇心に溢れる視線を集めながら、徐にリタはピンクのフリルの付いたドレスの裾を翻す。
そして腰をくねくねと振りながら、右手に持ったピンクの魔法のステッキを振り回し始めた。
すると次第に魔力に反応したステッキの宝石が輝き始めると、その姿はまさに市井の児童演劇で流行っている「魔法少女プリプリ」さながらだった。
まるで「魔法少女ショー」のように踊り回るリタの姿を、その場の全員が楽しそうに眺めている。
そしてライネリオは、そんなリタの姿をまるで小馬鹿にするような顔をしていた。
くだらん、何が魔法だ。
これではただの魔法少女ショーではないか。
百歩譲って、確かにキラキラと光り輝いて美しいし、リタが可愛らしいのは認めるが、一体これは何の茶番だ。
もしかして、これで終わりではあるまいな。
などとライネリオが思っていると、直後にリタの叫び声が響き渡った。
「魔力弾!!」
ドバババンッ!!
「火球弾!!」
ドカボカドゴンッ!!
「水刃!!」
ズバズバズバッ!!
リタが魔法の名前を叫ぶ度に掌から魔法が飛び出していき、離れたところに配置した人型のターゲットを次々に粉砕していく。
その威力は制限されているとは言え、もしも本物の人間に向けて放たれていれば確実に死んでいるのは間違いないほどの威力に見えた。
そんな魔法に全員が目を釘付けにしていると、その後もリタの魔法は続いていく。
「雷撃!!」
ズバズバズババーンッ!!
「氷槍!!」
カキーンッ!!
「ちょ、ちょっと、リタ様、もうその辺で……」
皆の目の前ということもあり、いつにも増して攻撃魔法を連発するリタをロレンツォが必死に止めようとしている。
しかし彼女はそんな事にはお構いなしに、尚も魔法を発動し続けた。
その様子を見る限り、間違いなく彼女は調子に乗っていた。
「超風圧!!」
ギュルンギュルン!!
「火炎爆発!!」
ズボボボボッ!!
「隕石流星雨!!」
「ちょっと待てぃ!!」
スパァン!!
あまりにも調子に乗り過ぎたリタは、最後に広域殲滅魔法の「隕石流星雨」を唱えようとして、その直前にロレンツォに思い切り後頭部を引っ叩かれていた。
もっともこの魔力放出を制限された今の状況では、恐らくそれ自体は失敗していただろう。
しかしもしも成功していれば、さすがにこの近距離でメテオストライクなど使われた日には、このレンテリア家の屋敷を中心に直径100メートル以上のクレーターになりかねなかった。
調子に乗ったリタは、危なくそんな事態を引き起こすところだったのだ。
「いったいのぅ…… いきなり叩くことないやろ!? なんじゃ、おまぁは!?」
「リタ様!! なにをやっているのです!! こんなところでそんな魔法を使ったら、皆死んでしまうでしょうが!!」
「……おぉ、そうじゃったのぉ……そりはすまぬの……」
それまで得意絶頂のリタだったが、冷静な弟子に思い切り突っ込まれた彼女は、その小さな身体をさらに小さくしてしょんぼりとしてしまう。
その二人の掛け合いを見ていた見物人たちは、まさかそんな危険の一歩手前だったとも知らずに、ただただリタの攻撃魔法の威力に度肝を抜かれていたのだ。
如何に訓練途中の四歳児の放った魔法とは言え、あんなものを本当に直撃された日にはただでは済まないだろう。
いや、それどころか確実に即死していそうだ。
その事実に気付いた彼らは、背中に流れる冷たいものを感じながら、この幼女だけは絶対に怒らせてはいけないと心に誓うのだった。
それは従兄のライネリオも同じだった。
知らなかったとは言え、こんなに恐ろしい相手に向かって直前までマウント取りをしていた事実を思い出すと、彼はその背中のみならず全身に冷たいものが駆け抜ける感覚を味わっていたのだ。
その日を境にして、ハサール王国レンテリア伯爵家ライネリオ・レンテリアは、その生涯に渡って従妹のリタに対して決して喧嘩や勝負を持ちかけることはなかったという。
それは些細な口喧嘩でさえ徹底していたそうだ。
そしてその理由を尋ねられても、決して彼はそれを語ることはなかった。








