第79話 四歳児の出した条件
前回までのあらすじ
もげろ、ロレンツォ。
「どうかこの度の婚約のお話、辞退していただけませんこと?」
ムルシア侯爵家次期当主の妻、シャルロッテの口から思いもよらぬ言葉が飛び出る。
そのあまりの唐突さに不意を突かれたフェルディナンドとエメラルダは、対面に座ったままポカンと口を開けていた。
ともすれば間抜けにも見える二人の顔に意味有りげな微笑みを向けながら、シャルロッテは尚も話を続ける。
「あら、ごめんあそばせ。これだけではあまりに言葉が足りませんわね。――それではお二人にもわかるようにご説明いたしますわ」
などと言う彼女の顔には、まるで嘲るような表情が浮かんでいる。
その顔を見る限り、口では「お願い」と言っていながら実際にはそのつもりはないのだろう。
レンテリア家の二人には、彼女が自分の要望を一方的に押し付けようとしているようにしか見えなかった。
それに気付いた二人の顔からは直前までのにこやかな表情は消え去り、ひたすら警戒する姿だけが残る。
そんな彼らを鼻で笑うような仕草をすると、相変わらず口元を弧の形にしながらシャルロッテは話を続けた。
「先日我が義父バルタサールが貴家のリタ嬢を我が家に迎え入れる約束をいたしました。しかしそれは、我ら家族の同意を得ておらぬこと。言わば義父の独断なのです」
「はぁ……」
「とは言え、今回の合意は立会人を設けた正式なもの。それをこちらから一方的に反故にしてしまえば、国王の名のもとに咎めがあるのも事実です。ですから、此度の件は貴家の方から辞退した形にしていただけないかしら?」
「はぁ? それでは逆に当家が咎めを受けてしまいますが……」
相手が侯爵家の嫁であることも忘れて、フェルディナンドの口から思わず間抜けな声が漏れる。
しかしその声を聞いたシャルロッテは、全く悪びれる様子もなく出された茶に口をつけた。
「もちろんそうならぬように、当家から働きかけるつもりですのでご安心ください。 ――それで、お返事はいただけるのかしら?」
「ええっ? い、いますぐにですか? そ、そんな無茶苦茶な……」
フェルディナンドの態度は、相変わらず不敬極まりないものだ。
あまりの想定外の言葉に動揺してしまい、彼は上位貴族に対する態度と言葉遣いをすっかり忘れてしまっているようだった。
ムルシア侯爵家当主とレンテリア伯爵家当主が取り決めた約束を反故にする。
これほど重大な案件であるにもかかわらず、シャルロッテは両家の当主抜きに話を進めようとしている。
そして全く決定権のない次男坊にその返答を迫っているのだ。
もちろん彼らがこんな提案に答えられないのはシャルロッテ自身もわかっているはずなのに、敢えて彼女はそうしようとしている。
その一見無理筋としか言えない提案を聞いていると、そこに彼女の別の目的が透けて見えた。
とは言え、その質問にフェルディナンドは返答のしようがないのも事実だ。
この場で自分が何を言ったとしても、それは伯爵家としての公式な発言にはなり得ない。
しかしいくら自分の発言が非公式とは言え、その言葉が何かに影響を及ぼさないとも言い切れないのだ。
だから彼は、ゆっくりと慎重に、言葉を選ぶように質問に答えた。
「大変申し訳ないのですが、そのお申し出には私からは何も申し上げられません。とにかく我が家の当主が戻り次第、別途お答えさせていただきたいのですが、如何でしょうか?」
「それには及びませぬ。私はセレスティノ殿ではなくあなた方の言葉が聞ければ満足なのです。ぜひリタ嬢の両親としての本音をお聞かせください。――もちろん、辞退していただけるのでしょう?」
そう答えるシャルロッテの瞳には、有無を言わさぬ迫力が感じられた。
少々釣り気味の気の強そうな瞳を細めて、レンテリア家の次男夫婦に無言の圧力をかけてくる。
そんな視線と圧力に気圧されながら、それでも必死にフェルディナンドは言い募る。
「リタの両親として……ですか? それは私どもの個人的な見解という意味でしょうか?」
「そう受け取っていただいて結構です。あくまでもこれはレンテリア家としてではなく、あなた達個人の言葉としてお訊きしているのです。それが聞ければ私は帰ります」
「そうですか……」
その言葉に、フェルディナンドとエメラルダは少しだけ気が楽になった。
自分たちの返答はあくまでも個人的なものでしかなく、決して伯爵家の公式な発言にはあたらない。
そう思った二人は、先日のリタの姿を思い出していた。
婚約の話をした時、リタは泣いた。
真っ白な頬に大粒の涙を零して、しくしくと声もたてずに泣いたのだ。
そしてその理由を聞いてみても、彼女は何一つ答えなかった。
これだけ賢い娘なのだから、きっと彼女は家の事情を慮ったのだろう。
そして表面上はこの婚約を粛々と受け入れたように見えていたが、きっと本音では嫌だったに違いない。
――そうだ、自分たちは娘の婚約を無理強いできる立場ではないのだ。
そもそも自分たちは、親の決めた婚約者を捨てて逃げ出していた。
そして今回のリタの婚約も、元を辿ればその尻ぬぐいに他ならない。
それを考えると、この話を無理に進めるとは、なんて酷い親なのか――
自分たちの結婚の承諾は、娘の婚約が前提条件になっている。
それを辞退するということは、自分たちの結婚も許してもらえなくなるということだ。
しかし、娘の幸せを思えば、そんなものは――
「はい、そうですね。私たち両親としては――」
「お待ちください、フェルディナンド様!!」
不憫な娘の姿を思い出したフェルディナンドが、遂に口を開く。
その直後、まるでその声を遮るように筆頭執事のエッケルハルトが大声を出した。
その様子を見る限り、彼はフェルディナンドの発言を邪魔しているようにしか見えなかった。
しかし、いかに家族に一番近い存在とは言え、彼はレンテリア家の家族ではない。
彼は筆頭執事という名の使用人でしかないのだ。
その彼が主人たちの言葉を遮るなんて、普通であればあり得ない。
しかし今の彼は、そんなことにも構っていられないほどに、とにかくフェルディナンドの言葉を遮らざるを得なかったのだ。
もしもその言葉をシャルロッテに聞かれてしまえば、その時点で言質を取られてしまう。
そして今後の展開次第では、その言葉をもってレンテリア家は不利な立場に立たされるかもしれないのだ。
主人に代わって留守を預かる執事としては、それだけは絶対に許せなかった。
筆頭執事が、主人の息子の言葉を遮る。
そのあまりにあり得ない光景に、部屋の中が静まり返る。
そして部屋中の視線がエッケルハルトに集まると、彼は覚悟を決めたような顔をした。
すると次の瞬間、部屋の中に可愛らしく甲高い声が響き渡ったのだった。
「エッケルハルト、お下がりなしゃい。――シャルロッテしゃま、執事の失礼を私が代わりにお詫びいたしましゅ。申し訳ありませぬ。 ……それから、私の発言をお許しいただけましゅでしょうか?」
それはリタだった。
彼女は顔を青くして押し黙る筆頭執事を庇うように前に出ると、下がるようにと指示を出す。
それから次に、ムルシア家の若奥方に向かって発言の許しを請うたのだ。
滑舌が悪く舌足らずな喋り方は些か聞き取りにくかったが、それでもはっきりと彼女は言葉を口に出している。
その懸命な顔は、見る者をして真剣に耳を傾けざるを得ないものだった。
そして、鋭く瞳を細めるその顔は、凡そ普通の四歳児には見えなかった。
この部屋に入ってからというもの、リタは三人の会話を無言のままずっと聞いていた。
そして、まるで観察するかのように彼らの様子を俯瞰で眺めていたのだ。
リタはその中で、最初からシャルロッテの行動が気になっていた。
これほど重要な要件であるにもかかわらず、アポなしで突然彼女は訪ねて来たのだ。
穿った見方をすれば、彼女は当主夫妻が留守なのを知っていて、敢えてそのタイミングでやって来たようにしか見えなかった。
そしてなんの力も権限もない次男夫婦を捉まえて、まるで個人的な見解であるかのようにその言質を取ろうとしている。
それが一体何を意味するのかをずっと考えていたが、リタはここに一つの推論を立てたのだった。
いくら次期ムルシア家当主の奥方とは言え、現当主の決めた他家との取り決めを勝手に反故になどできるわけがない。
もとより彼女にはそんな権限などなければ、それに言及する権利すらないのだ。
しかし話に聞けば、彼女はバルタサールの決めて来た婚約話に難色を示し続けているらしい。
そしてそんな彼女を説得できないバルタサールも、その息子であり彼女の夫のオスカルも何気に情けなく見えてしまうが、それはある意味仕方がないとも言えた。
なぜなら、彼女の言葉こそ正論そのものだからだ。
シャルロッテ曰く、将来の侯爵家夫人になる人物を格下の伯爵家から連れてくるなど考えられない。
それも駆け落ち騒ぎを引き起こした曰く付きの次男坊の娘など、到底許せるようなものではないのだ。
もしもそんな娘を息子に娶らせるならば、それこそ侯爵家の名に傷がついてしまう。
まさにその言葉は正論だ。
もしそれを他家の者が聞いても「その通りだ」としか言えないだろう。
しかし彼女をしてもその理由だけでバルタサールを言い包めることができず、両者の間には溝ができて久しい。
そこで彼女は、レンテリア家の次男夫婦の言質を取りに来たのだ。
バルタサールがなんと言おうとも、婚約者になる娘本人とその両親が婚約を辞退したいと言っていると伝えれば、彼の考えも変わらざるを得ないだろう。
もしもそうなれば、それはシャルロッテの勝ちを意味するのだ。
「あら、リタ。あなたも何か仰りたいことがあるの?」
突然のリタの声に一瞬驚いたような顔をしたシャルロッテだったが、すぐに元の表情に戻ると鷹揚に頷いた。
すると横にいたエメラルダが、リタの肩を抱きかかえると優しく窘める。
「ごめんね、リタ。いまは大人同士の大切なお話をしているのよ。少しだけ静かにしていてくれる? ――あぁ、そうだ。もうご挨拶も終わったのだし、お部屋に戻っていてもいいのよ」
「イヤでしゅ。わたちはシャルロッテしゃまに、お話があるのでしゅ」
母親の言葉にまるで従う素振りすら見せず、リタはイヤイヤをする。
その姿だけを見ていると、それは単なる四歳児の我が儘にしか見えなかった。
そんな彼女の様子に一瞬嘲るような笑いを浮かべると、シャルロッテが口を開いた。
「まぁ、いいではないですか。言わばリタは今回の主役なのですから、言いたいことがあるのであれば言わせてあげましょう。 ――それで、あなたは何を仰りたいのですか?」
長く美しい漆黒の髪をかき上げながら、シャルロッテがリタの言葉の続きを促す。
明らかな格上の余裕を感じさせる姿は、まさに次期侯爵夫人の貫禄に溢れていた。
その様子を見たリタは一瞬片眉を上げたのだが、その表情が意味するものをその場の誰も考えなかった。
それは、この場のリタの発言を誰も真面目に聞こうとしていない証拠だった。
そんな様子を十分に理解しつつ、続けてリタは口を開いた。
「シャルロッテしゃまの言われる通り、此度の婚約を辞退しゅるのは、私としても吝かではありませぬ」
「あら、リタの口からもそう仰って頂けるの?」
「はい、そうでしゅ。 ――しかししょれには条件がごじゃりましゅる」
「条件? なにかしら?」
「当家から婚約の辞退を引き出したいのでちたら、その前に、バルタサールしゃまに一筆お手紙を認めていただきたいのでしゅ」
「……お手紙? なにかしら? なんのお手紙?」
思いがけないリタの言葉をまるで理解できないかのようにシャルロッテが繰り返す。
その美しい顔に怪訝な表情を張り付けて、彼女はリタの顔を見つめた。
するとリタはその可愛らしい顔に笑みを浮かべると、大きな声ではっきりと言い放った。
「それは『詫び状』でしゅ。仮にも侯爵家と伯爵家の公的な約束を反故にしようというのでしゅ。それもこちらから辞退した形にしてほしいというのであれば、侯爵しゃまから詫び状の一つも貰わなければ納得できましぇぬ。さぁ、如何?」








