第62話 妻のような他人
前回までのあらすじ
母ちゃん、手強そうじゃのぉ……
宴が始まるまでの間、リタ一家は一度客間へ通された。
その扱いはまるで来賓をもてなすかの如く丁寧だったが、逆にその対応はフェルをして不安にさせるものだった。
もともとフェルは出奔する直前までここに住んでいたので、当然この屋敷に自室を持っている。
しかし両親は彼を自室ではなく客間へ通したのだ。
それが意味することは、彼ら――主に母親だが――はフェルを「家族」ではなく「客人」として扱っているということなのだろう。
もちろんそれは、フェルの考えすぎや余計な勘繰りの可能性もある。
たまたま彼の部屋に人を入れられない事情があるのかもしれないし、エメとリタが一緒だからと気を遣っただけなのかもしれない。
それでもやはり、あの母親のことだからこの扱いの裏になにか真意を潜ませているはずだと思わざるを得なかったのだ。
もちろん勝手に家を飛び出したのも、一方的に迷惑をかけたのも自分たちなのだから、その対応に否やはない。
しかし紛れもない自分たちの実の息子を客人扱いするのは如何なものかと思うのだ。
これではまるで他人のようではないか。
などとフェルは思ったのだが、あれだけのことを仕出かした自分に偉そうに言う資格がないのも事実だ。
だから敢えて口には出さなかった。
フェルたちを出迎えた母親の態度は、凡そ息子の帰還を喜んでいるようには見えなかった。
その対応は淡々としており、あくまでも事務的な態度に感じられたのだ。
もっともイサベルは、昔から喜怒哀楽をあまり表に出さないうえに本心を包み隠す癖があるので、その言動はどうであれ、実際には息子の帰還を喜んでいるのかもしれない。
とは言え、実際に彼女がどう思っているのかは、実の息子のフェルにもよくわからないのも事実だ。
しかし、母親をよく知るフェルだからこそ、その程度の懸念で済んだとも言える。
何故なら、彼の隣で茶を飲むエメの顔は蒼白になっていたからだ。
「あなた……やっぱり奥様はお怒りなのじゃないかしら?」
ここに来てからもう何度目かわからないほど、エメはその言葉を口にしている。
そして緊張に震えるその身では、口にしている高級な茶の味もよくわからないようだった。
そんな妻の手をそっと握り締めると、フェルは優しく微笑みかける。
「……そうかな? 私にはいつもの母上にしか見えなかったが。もっともいまの我々の扱いに関しては、なにか思うところがありそうだけどね」
「やっぱりそうよね……奥様はあの場では私に一言も声をかけてくださらなかった。まるで私なんていないかのようだった……」
「エメラルダ、それは考えすぎだよ。私はあの人の性格をよく知っている。べつに君が心配するようなことじゃないさ。この後の食事会ではきっと声をかけてくれるよ」
「でも……」
とにかくこの場の二人は、伯爵夫人の話題しか口にしていなかった。
伯爵に関しては既にリタの軍門に下ったものと思っているらしく、二人とも彼の話題を口にすることは殆どなかったのだ。
そしてエメが更に不安を言い募ろうとしていると、宴の支度が整ったことを伝えに侍女が部屋に入ってきたのだった。
「フェルディナンド、エメラルダさん、そしてリタ。三人ともよく帰って来てくれた。旅の疲れも残っているだろうから今夜はすぐにお開きにするが、それまで少しの間歓迎させてほしい」
セレスティノが館の主としての挨拶を済ませると、それを合図に会食が始まった。
もっとも会食だとか宴だとか言う割には、その会場は些かこじんまりとしていたし、出席者もレンテリア伯爵夫妻とリタ一家の計五名(加えて、こっそりとピクシーが一匹)だけだったのだが。
それは近親者のみの家族的な食事会といった趣だった。
その様子を見る限りでは、先ほどエメが心配していたような扱いとは思えなかった。
先ほどは母親のことを妙に他人行儀だと思ってしまったが、どうやら彼女はそんなつもりはないのかもしれない。
思わずそう思ってしまうほど、それは気取らない形の会食だったからだ。
会食はまず、伯爵夫妻への謝罪から始まった。
神妙な顔つきで五年前の駆け落ち事件への反省と謝罪を口にする二人を前に、セレスティノは優しそうな微笑を湛え、そしてイサベルは無表情のまま聞き入っている。
そしてその斜め前には、目の前の料理に齧り付きたいのを必死に我慢するリタの姿があった。
努力して引き締めているその口の端からは、思わず涎が垂れそうになっている。
そんな必死に食欲を我慢する幼女の姿は、思わず笑いを誘うものだった。
どうやら彼女の存在がこの場の空気を必要以上に重苦しくさせない助けとなっているらしく、その姿を見たイサベルの顔に何処か優しげな表情が一瞬生まれる。
するとそれを合図にしたように、とにかく食事を始めるようにとイサベルが促した。
この食事会のホストはセレスティノ伯爵のはずだが、気づけばイサベル主導のもとに話が進んでいた。
彼は妻と息子たちの会話を時々頷きながら聞いているか、リタの食事風景を楽しそうに眺めているかのどちらかで、あまり積極的に会話に加わろうとはしてこない。
その姿を見る限り、彼は既にリタ一家を受け入れているように見えた。
その後もフェルたちの苦労話を聞きながら会食は進み、メインの料理が出てくる頃にはすっかり和んだ雰囲気になっていた。
これまでずっと緊張にその身を震わせていたエメは、その雰囲気にやっと少し落ち着きを取り戻しているようだった。
しかしその時、遂にイサベルが核心に触れる言葉を吐いたのだった。
「それで、どうして急に帰ってこようと思ったのかしら? ――大方、田舎の貧しい暮らしに嫌気が差したのでしょうけれど」
その言い方には些か棘を感じたが、小さな時からその物言いに慣れてしまっているフェルは、至って平然としていた。
しかしエメはその言葉に過剰に反応すると、不安そうな顔で夫の横顔を見つめる。
実は今回リタ一家が実家を頼った理由は、両親には言っていなかった。
エッケルハルトが飛ばした先触れにも詳しい話は伝えていなかったし、先ほどの玄関先での挨拶の際にもそんな暇などなかったからだ。
それにゲプハルトが撒いた手配書にも詳しい手配理由は書いていなかったので、彼らはフェルたちが精々貧しい生活に疲れ果てたのだろうと思っていたようだ。
するとそんな思惑を否定するかの如く、物々しい口調でフェルが口を開いた。
「はい。実はリタが『魔力持ち』であることが判明したのです。このままこの子を手放すのも忍びなく、かと言って自分たちだけでは十分な教育も施せません。それでその身の保護と、然るべき教育を受けさせるべく恥を忍んでお願いに参った次第です」
フェルの眉間には深い皺が刻まれ、その口調も平坦だった。
その様子を見る限り、彼が実家に戻って来たのは熟慮に熟慮を重ねた末の苦渋の選択だったことを物語っていた。
レンテリア家の次男に生まれていながら、全く魔法的才能に恵まれなかったフェルにしてみれば、せっかく開花させた自分の娘の可能性をこのまま潰してしまうのはあまりにも忍びなかったのだ。
たとえそれが一度は捨てた実家を頼ることになろうともだ。
その言葉に、レンテリア夫妻の眉が上がる。
彼らとて代々優秀な「魔力持ち」を輩出して来た名門貴族なのだ。
だからフェルの言葉の持つ重要な意味を即座に理解した。
「なに!? この子が『魔力もち』なのか!? それは本当か!?」
「……どおりでレンテリアの瞳の色が濃いと思いました――それでこの子はもう覚醒しているのですか?」
案の定、彼らはリタの能力に興味を示して詳しく話を聞きたがった。
そこでフェルはゲプハルトとの一幕の説明を始めたのだった。
「――話はわかりました。ゲプハルト男爵の措置については、私たちからオットー子爵を通して沙汰を出しておきます。知らなかったとは言え、仮にもレンテリア家に手を上げたのです。その責任は償ってもらいましょう」
「母上、ありがとうございます。それでリタの保護についてなのですが……」
「もちろんこの子は、我が家で責任をもって保護します。他の誰でもない、私達の孫なのですから当たり前です。それから、フェルディナンド。リタがこの家で暮らすのであれば、あなたも一緒でなければなりません。あなたはこの子の父親なのですから」
母親のその物言いに引っ掛かりを覚えたフェルは、エメの顔に視線を走らせる。
そしてイサベルの言葉に自分の名前が出てこなかったことに、エメも即座に気付いていた。
もとよりこの食事会に出席してからというもの、初めの謝罪の言葉を発して以来ずっとエメは無言だった。
それはイサベルがまるで彼女を無視するかのように言葉をかけようとしなかったからだ。
それでも何度か気を遣ったセレスティノが話しかけようとしたのだが、その度に夫人が横から口を挟んでくる。
それはまるで、エメが口を開くのを邪魔しているようにしか見えなかった。
そんなことを何度もされているうちに、エメは自分の置かれた状況を思い知るようになった。
そもそも彼女は法的にフェルの妻ですらないのに、家族だけのこの宴に同席させてもらっているのだ。
場合によってはこの場から追い出されてもおかしくはないのに、それでも彼女がここにいられるのは、まさに特別待遇と言っても過言ではなかった。
『この場にいられるだけでも有難いと思って、お前は黙って食事だけをしていろ』
伯爵夫人の態度からは、そんな意思がひしひしと感じられたのだった。
あぁ、自分は所詮この場では他人でしかないのだ――
彼と一緒に逃げて、彼と一緒に苦労をし、そして彼の子を産んだ。
これで自分は彼の妻になったつもりでいたけれど、実際には誰にも許してなど貰っていなかったのだ。
そんな想いにエメが押しつぶされそうになっていると、彼女の想いを代弁するようにフェルが口を開く。
「母上、父上、エメラルダはどうなりますか? 彼女とてリタの母親なのですから、当然一緒にいられるのですよね?」
「あぁ、それはもちろん――」
セレスティノが当然だと言わんばかりに答えようとしていると、イサベルがあからさまにそれを遮った。
伯爵夫人が伯爵の言葉を正面から遮るなど、まさに不敬の極みだろう。
しかし当の伯爵本人は、少し困ったような顔をしただけで、そのまま言葉を飲み込んでしまう。
そんな夫の顔にチラリと視線を流すと、有無を言わさぬ勢いでイサベルが言い切った。
「何を言うのです? 実態はどうであれ、エメラルダさんは端からあなたの妻ではありませんでしょう? 私たちはそんな許可を出した覚えはありませんよ」
その言葉を聞いたエメラルダは、背中に冷水をかけられたような思いをしたのだった。








