第58話 取り戻した幸せと絶望のそっ閉じ
前回までのあらすじ
遂に大物登場か。
陰謀の匂いがプンプンするぜぇ!!
モンタマルテの地方執行官事務所を発った馬車は、首都アルガニルへ向けて緩々と進んで行く。
その速度は決して遅くはないが、それでも首都を出た時に比べるとその進みはかなりゆったりとしていた。
それは馬車が走り出してすぐにリタが眠ってしまったからだった。
昨夜彼女は殆ど寝ていなかった。
両親と離れて牢に入れられたリタは、不測の事態に備えるために何度もピピ美に様子を見に行かせていたのだ。
それは父親の怪我の具合が気になってはいたというのもあるが、一番の心配は母親のエメが騎士たちに乱暴を受けていないかだった。
何故なら、捕縛の直接の原因ともなった彼女の美貌は、この男所帯では注目の的だったからだ。
エメが執行官事務所に連行されて来た時から、彼女の美貌を見つめる周りの目にはすでに好奇の色が生まれていた。
森の中を彷徨い、雨に濡れ、野宿をしたせいで髪はクシャクシャだし顔も服もすっかり泥だらけになっていたが、それでも生来のその美貌は微塵も損なわれてはいなかったのだ。
もとよりレンテリア伯爵家の息子がその爵位を捨ててまで選んだ女性なのだから、その美貌は推して知るべしといったところだろう。
だから擦り切れてぼろぼろの農民の服に身を包んでいても、周りの目を引くのは当然だった。
しかし昨夜は、彼女に手を出そうなどという不埒な輩は結局現れなかった。
それは今後到着するはずのゲプハルト庶務調査官のことを慮ったからだ。
ただの農民とは思えない美貌を持つ女性なのだから、恐らく調査官も興味を示すだろう。
そしていざそうなった時にすでに部下の手付きだとわかってしまえば、お咎めを受けてしまうかもしれない。
彼らはそう思ったらしい。
だから彼らはその美貌以上に目を引く大きく張り出したエメの胸の大きさを、服の上から想像する程度で済ませていた。
それらはなんとも下衆な考えと言わざるを得ないが、所詮彼らはその程度の者たちでしかなかったし、自分たちの仕事に誇りなどというものは凡そ持ち合わせてはいなかったのだ。
そんなわけで、ゆったりと進む馬車の中では、一人の幼女と一匹の妖精が無防備な寝姿を披露していた。
特にピピ美に至っては「ぐぅぐぅ」とその小さな身体に見合わない大きな鼾までかいており、すでに定位置となったリタお気に入りのぬいぐるみの上に、またしても涎の跡をつけている。
もっとも昨夜は一晩中飛び回っていた彼女なのだから、多少は大目に見てあげるべきだろう。
そんな一人と一匹を見つめるエッケルハルトの顔には、微笑みと驚きの混じった複雑な表情が浮かんでいた。
そして当然のようにその視線は、寝呆けるピピ美に固定されている。
「こ、これは妖精……でしょうか?」
「あぁ、彼女は森で出会ったピクシーだよ。今はリタの妹分といったところかな」
エッケルハルトの当然の疑問に、フェルが答える。
その間も彼は娘の寝顔を愛おしそうに眺めており、その横ではエメも同じ視線を向けていた。
「い、妹分? なんですかそれは?」
「話せば長くなるけれど――ピクシーの女王からその身柄を託されたんだ。リタを信用してね。なんでも人間の世界を勉強させたいとかなんとか」
「そ、そうですか……」
などと大仰に頷いてみたものの、エッケルハルトにはいまいち要領の得ない答えだった。
しかしそこに拘っても仕方がないと思ったのだろう、ピクシーの話は一旦横に置くこととして彼は話を先に進めることにした。
「色々なことがありましたし、とにかく皆さんお疲れでしょう。いずれにしてもお屋敷に着くまであと二日はかかりますので、今夜は早めに宿に泊まろうかと思っております。そこでごゆるりとお休みください」
「あぁ、悪いね。それじゃあ今夜はゆっくりとさせてもらうよ。私はまだ大丈夫だが、エメもリタも疲れ切っているだろうから」
そう言って優しい視線を妻と娘に向けるフェルだったが、見たところ彼が一番疲れているのは間違いなかった。
数日前に騎士に斬り付けられて以来、未だ体力はもとに戻っていなかったし、捕縛された時には殴る蹴るの暴行を受けたのだ。
女子供ということで手加減をされた二人とは違い、騎士たちのヘイトを集めていた彼の扱いは本当に容赦がなかった。
実際いまも切れた唇と顔は腫れているし、服の上からではわからないが、全身に青あざができている。
よくぞこの状態で騎士たちに対して毅然とした態度を見せられたものだと感心してしまうほどだが、そんなところにこそ彼の貴族としての矜持を守る姿勢が現れていたのだ。
確かに生粋の貴族育ちの彼はお世辞にも生活能力が高くはないし、世間知らずからくるその言動は一般の国民、特に農民などからは相当にズレているのだろう。
その証拠に、オルカホ村では最後まで村の中に溶け込むことはできなかった。
しかしその真っすぐで誇り高い性格こそ、ラローチャ子爵家長女、エメラルダ・ラローチャをして、駆け落ちを許すほどに惚れたところだったようだ。
そして絶体絶命の場面でも最後までその姿勢を崩さなかった夫の姿に、彼女は余計に惚れ直していた。
「それで今夜の宿ですが、マルチェノに泊ろうかと思っております。そこで旅の疲れと……そのぅ、汚れを落としていただければと思います」
敏腕筆頭執事のエッケルハルトにしては、珍しく言い淀んでいた。
しかしその言葉を聞いた二人はすぐにその意味を理解すると、改めて互いの姿に視線を走らせる。
フェルもエメもリタも、本当に酷い姿をしていた。
もとより粗末な農民の服装であるうえに、さらに山の中を彷徨って泥だらけになっている。
そして捕縛されて地下牢に放り込まれた際には、そこに溜まっていた汚物にも塗れたのだから、見た目のみならず、臭いも相当なものだろう。
その状態に改めて気付いた二人は、思わず同時に自分の服の臭いを嗅ぎ始める。
するとフェルは苦笑を、エメは羞恥にその顔を染めていた。
「確かにこれは酷いな……エッケルハルト、すまない。我々はかなり臭うだろう?」
「……まぁ、正直に申し上げれば……」
しかし彼は最後まで言葉を続けることはなかった。
そこにはエッケルハルトの執事としての矜持があったのかもしれない。
それでも彼は話題を変えながら話を続けた。
「そこでマルチェノですよ。あそこは温泉の保養地として有名ですからね。そこで思う存分お身体を清めて下さい。勿論着替えはご用意してありますので、ご心配なく」
その言葉に、二人の顔に笑顔が浮かぶ。
特に妙齢の女性のエメにとって、いまの自分の姿は相当に堪えたのだろう。
一刻も早く身体を清めたくて仕方がないようだった。
その日の夕方、一行はマルチェノの高級旅籠に到着した。
もちろん事前に早馬を飛ばして貸し切りにしたおかげで、一行以外に一般の宿泊客は一人もいなかった。
そして到着次第、待ち切れないと言わんばかりにエメはリタを連れて温泉に身を清めに行ったのだった。
大きな露天浴場には、当然彼女たち以外の客はおらず、そこで二人は人目を気にせず服を脱ぐ。
もっともリタは人目があったとしても嬉々として全裸で走り回っていただろうが。
オルカホ村では家の裏の川で水浴びをしていた。
夏場はそれでも良かったが、川が凍る冬の間は何か月も水浴びはできないので、その間は固く絞った布で全身を拭く程度で済ませていた。
その生活は農民としては普通のことだったが、貴族として育ってきたフェルとエメにとっては相当堪えたはずだ。
しかし彼らは愚痴一つ零さずにその生活を受け入れていた。
川での水浴びの際は、いつもエメとリタは一緒だった。
もちろんリタは当然のように全裸になって走り回っていたが、その横ではエメは毎度頬を染めながら服のまま水を浴びていた。
それは人前で裸になる習慣のない貴族令嬢としては、たとえ誰も見ていなくとも屋外で全裸になるなど恥ずかしくてできなかったからだ。
だからリタはこの温泉で初めて母親の全裸を見た。
長年の農民生活ですっかり顔も手も日に焼けて黒くなってはいたが、かなり痩せているとは言え、服の上からでもわかるほどのその豊満な身体は元の色白なままだった。
確かに彼女は成人女性としては些か小柄な体格をしているが、その胸は服の上からでもわかるほどに大きく張り出している。
その大きさも形も、そしてそのバランスもまさに完璧とも言えるもので、リタはそんな母親の胸が大好きだった。
ちなみにフェルも大好物だったのだが。
この幼い身体に転生した直後であれば、212歳の自分が母親の胸に甘えるなど考えもしなかったが、いまのリタはそんなことにも一切疑問を持たないほどにその精神は低年齢化していた。
だから彼女はなんの迷いもなく母親の裸の胸に顔を埋めると、力いっぱい甘え始める。
「おぉ……かかしゃまのおっぱいは、いちゅ見てもでっかいのぅ…… 柔らかくて、ええ匂いがしゅる……」
「うふふふ……リタったら甘えん坊さんね。まるで赤ちゃんみたいよ」
そう言って娘を抱きしめるエメは満更でもなさそうだ。
誰もいない広い風呂で身を清めつつ、幼い娘と裸でじゃれ合う。
人によっては本当に他愛のないことなのかもしれないが、エメにとっては夢のような一時だった。
生まれてすぐに病気で寝たきりになったリタ。
そう長くは生きられないと言われたリタ。
三歳になっても立ち上がることすらできずに、日に日にやせ細っていくリタ。
そして一度は息を引き取ったリタ。
その全ての光景がまるで走馬灯のように頭の中を駆け抜けていく。
その直後、エメラルダは最愛の娘の身体を抱きしめて涙を流し始めたのだった。
その日の夜、夕食後にエッケルハルトとの打ち合わせを終わらせたフェルが部屋に戻って来ると、エメはすでに寝息を立てていた。
ここ半月ほどまさに怒涛とも言える日々を過ごした彼女は、すっかり疲れ切っていたのだろう。
露天風呂で身を清め、新しく清潔な服に袖を通し、柔らかなベッドに横になる。
これで眠るなと言う方が無理な話なのだろうが、いまのフェルは些か寂しい気持ちを抱えていたのだ。
実は彼女たちが風呂に入っていた時、その隣でフェルも同じように風呂に浸かっていた。
そして衝立一つ挟んだ隣で母親の胸に甘えるリタの声を聞いていた彼は、思わずエメの胸を思い出してしまう。
そして直後に身体の奥から湧き上がってくる衝動に耐えていたのだ。
人は命の危機に瀕すると、本能が己の子孫を残そうとするらしい。
それはつまり、本能が異性との交尾を求めるということだ。
もっと下世話にいうと、フェルは「ムラムラ」していた。
夜も更け、後はもう眠るだけの彼だったが、ここに来てどうにもこうにも辛抱堪らなくなっていた。
そんな時にふと横を見ると、すっかり以前の美しい姿を取り戻した最愛の妻が、あどけない寝顔を晒しているではないか。
ゆっくりと上下するその胸は毛布の上からでもわかるほど大きく膨らみ、その中身を知っているフェルにしても、思わずそこに顔を埋めたくなってしまうほど魅力的だった。
思い返してみると、彼女と最後に仲良くしてから既に一月以上経っている。
確かに最近の状況を鑑みれば妻とそのようなことをする余裕などなかったが、冷静に考えれば若い男性としてはよく我慢したものだと思うのだ。
だから身も心も解放された今夜くらいは、少しだけ自分の我が儘を聞いてほしい。
そう思ったフェルは、逸る気持ちを押さえつつゆっくりとエメの毛布をめくる。
そして少しずつ露わになってくる妻の寝姿に興奮していると、突然彼の瞳が大きく見開かれた。
フェルが毛布をめくると――そこにリタがいた。
彼女は母親の胸に顔を埋めて幸せそうな顔で熟睡していたのだ。
そしてその横にはピピ美の姿もあり、その姿を見る限り彼女たちを起こさずにエメの胸には触れられそうにない。
もちろん娘たちを無理に引き剥がせばエメの胸を好きにできるのだろうが、リタは絶対に目を覚ますだろうし、ピピ美に至ってはやかましく飛び回り始めるのは間違いなかった。
仲良く抱き合いながら幸せそうに眠る二人と一匹を見つめながら、それでも己の性欲に正直になるべきか否か、フェルは熟慮に熟慮を重ねる。
しかし遂に結論に達した彼は、断腸の思いでそっと毛布を元に戻したのだった。
普段は優しげに微笑んでいるフェルの顔には、この時ばかりはゲプハルトに追い詰められた時以上の絶望が浮かんでいた。
小さなお子さんのいる方なら、この気持ちは理解してもらえるでしょう。この絶望感、やるせなさったら、ほんと半端ないっす。








