第38話 小柄な妻と大柄な熊
前回までのあらすじ
2×30×6=360
ケビンよ……
「おいおい、そんなに重い物を持つなよ。もうお前一人だけの身体じゃないんだからさ」
「大丈夫よ。こんなの重いうちに入らないでしょ。なによ、もう、急に優しくなったりしてさ。気持ち悪いわね」
ハサール王国の首都、アルガニルの郊外にある長閑な田園地帯の一角に、周りを花に囲まれた小さな家がある。
総石造りのその家はかなり古いものだが、とても綺麗に直されたその外観と、ところどころに植えられた色とりどりの美しい花からは、その住人のセンスの良さが伝わってくる。
しかしそんな家の前には、凡そ「センス」という言葉からは程遠い、まるで熊のような大柄な男の姿があった。
彼は植木鉢を持ち上げる妻と思しき女の身を案じているらしく、その手から重そうな鉢を取り上げようとしていた。
妻は肩口まで伸びる燃えるような赤い髪を揺らしながら楽しそうに花の世話をしており、いまは植木鉢を取り上げようとする夫に向かって文句を言っているところだ。
その姿は小柄で可愛らしいが些か気が強そうに見えて、幾分ふっくらとした腹部からは、彼女のお腹に新たな生命が宿っているのがわかるものだった。
「なぁ、頼むから言うことを聞いてくれよ。もしもそのお腹をぶつけたりしたらと思うと、気が気じゃないんだ」
「大丈夫だって言ってるでしょう? 今からそんなに過保護でどうするの? 赤ちゃんが生まれるまで、あと半年もあるのよ。それまであたしを家の中に閉じ込めておくつもり?」
「いや、べつにそんなつもりで言ったわけじゃないけどよ…… とにかく俺はお前が心配なんだ、わかってくれ」
「しょうがないわねぇ……ふふっ、いいわ。そんな顔をさせるのも可哀想だから、言うこと聞いてあげる」
無精ひげの目立つ、決して人相が良いとは言えない厳つい顔を男が顰めている。
そして熊かと見紛うような大柄な身体を丸めながら必死に妻の持つ植木鉢を奪い取ろうとするその姿に、女はクスリと笑いを漏らした。
その二人とは、転生後のアニエスを発見したハサール王国のギルド員、クルスとパウラだった。
五か月前にオルカホ村から戻った彼らは、ギルドの支部で事の顛末を報告した直後に結婚していたのだ。
もっとも戸籍制度のないこの国では、役所に婚姻届けを出したりすることもなく、ただ同じ家に一緒に住んでいるだけで周りからは夫婦と見なされる。しかしもう彼此十年も一緒に行動している彼らであれば、いまさら「結婚」という形式に拘る意味があるのかという気がしないでもない。
それでも夫婦になったという事実は二人の意識を多少変えたようで、以前にも増してお互いに言いたいことを言い合うようになっていた。
そしてそれ以上にお互いに労り合うようにもなったし、なによりも新しい家族が増えることを心置きなく楽しみにできるようになった。
結婚した彼らは、予てからのパウラの希望通り首都の郊外に小さな家を買って一緒に住み始めた。
もちろんその家は以前の住人が手放したのを中古で購入したのだが、アニエスの捜索に成功した彼らは、その高額な報酬のおかげで即金で支払うことができた。
そしてその直後に妊娠が発覚したパウラは、ギルドの仕事は準引退のような状態になっている。
仕事上の長年の相棒だったパウラが引退したので、いまのクルスはソロで活動していた。その仕事の内容は精々薬草や素材収集など、凡そ危険のない仕事ばかりだった。
もちろんそんな依頼の報酬はとても安い。
しかしこれまでの貯えもそれなりにあるし、アニエス捜索の成功報酬も家の購入代金を支払ってもまだまだ余裕があったので、あと数年はこのままでも問題はないだろう。
なにより朝に出掛けて夕方に帰って来る生活を続けることができるので、報酬が安いとは言え、新婚の二人にはこれ以上の労働条件はなかったのだ。
そもそも身重のパウラを置いて長期遠征の仕事などするつもりもなかったし、この先赤ん坊が生まれればパウラ一人では色々と大変だろうと思ったクルスは、数年はこのままの生活を続けるつもりだった。
「なぁ、それが一段落したら少し話があるんだが……」
「うん、わかった。もう少しで準備が終わるから、ちょっと待っててくれる?」
仕事から帰って来たクルスを座らせると、パウラは夕食の準備を始める。
その背中にクルスが声をかけたが、忙しそうに動き回る彼女の姿に彼は一旦口を閉じた。
大柄でがっしりとした熊のような見た目から想像できるとおり、クルスは大食漢だ。
だからいつもパウラの分も含めると軽く四人前の食事の準備をしている。
二人が出会った頃――約十年前に比べると、クルスの食べる量は明らかに少なくなっているが、現在三十歳の彼はまだまだ食べ盛りだった。
それに比べると、パウラはかなり少食だ。
190センチに届く身長のクルスに対し、彼女は150センチしかない。そしてその小柄な体格と相まってパウラは童顔なので、黙っていると未だ十代の少女に見えなくもない。
そしてそんな二人が並んで歩く姿は、まるで父親と娘のような組み合わせとしてペア結成当時からすでに有名だった。中には二人を「美女と野獣」と揶揄するものまでいる始末だ。
そんな「美女」と例えられる通り、パウラはかなりの美人だ。
いや、正確には美人というよりも可愛らしいと表現するべきか、その童顔も相まってなかなかに愛らしい顔だちをしている。
そして燃えるような赤毛と少々釣り気味の瞳は、彼女の気の強さを物語っていた。
スカウト(密偵)の職に就く彼女は、動きやすさを優先した結果その特徴的な赤い髪を短く切り揃えていた。しかし妊娠が発覚してギルドを引退した直後から少しずつ伸ばし始めて、今では軽く肩に触れるほどまでになっている。
そしてその髪型が、余計に彼女を女性らしく見せていた。
パウラと知り合って既に十年。
普通であればとっくに見飽きた相棒の姿なのだろうが、クルスにとっては未だに見惚れるほどに彼女を美しいと思っていた。
そもそも十年前にこのペアを組んだのも実はクルスの一目惚れから始まっていたからだ。
当時十五歳だった新人冒険者のパウラは、すでにペアを組む相手が決まっていた。
しかしそれを強引に変更させて、自分とペアを組むように仕向けたのはクルスだった。それから十年、未だに彼はパウラのことが好きだった。
そして惚れた弱みと言うべきか、彼は決して彼女に逆らうことができなかったのだ。
そんなクルスが、何やら真剣な面持ちでパウラの食事の準備が終わるのを待っている。その姿に微妙に違和感を感じたパウラは、食事の支度が終わる前にクルスに話を促した。
「なに? あんたにしては珍しく真面目な顔をしているけれど……なにかあったの?」
「いや、支度が終わってからでいい」
「なによ、いま言いなさいよ。話を聞きながらでも食事は作れるわよ」
「……そうか、それじゃあ話すよ」
そう言うと、クルスは椅子に座り直す。
彼の体重を支えるには少々華奢な作りのその椅子は、ギシィと派手な音を上げた。
「今日の仕事の帰りなんだが、ギルド長から直々に声をかけられてな」
「へぇ、あのスケベ親父がねぇ…… それで?」
「いいか、真面目な話だ、しっかり聞いてくれ。これはお前にも直接関係のある話なんだ。――どうやら俺たちを探している者がいるらしい」
「……なにそれ?」
夫の話の内容が咄嗟に理解できずに、パウラはキョトンとした顔をしている。
思わず止まった彼女の手には、よく研がれたナイフが握られていた。
「前の仕事でアニエスの居場所を見つけただろう? どうやらその場所を知りたがっているヤツがいるらしいんだ。それを知っているのは、ギルド長とフィオレと俺たちだけだからな。それでギルド長が警告をしてくれたんだよ」
「フィオレ」とは、冒険者ギルド・ハサール王国支部の書記官を務める女性職員だ。彼女はクルス達の口述を報告書にまとめてくれた人物で、ブルゴー王国のケビンが受け取ったのも彼女が作った報告書だ。
「なんだかきな臭いわね…… 大方その『ヤツ』っていうのは、ブルゴー王国の人間なんじゃないの? アニエスが前にこぼしていたじゃない、王室内で色々とあるって」
「だろうな。あの婆の居場所を知りたいだなんて、絶対にまともな理由じゃないだろう。――王室内のゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだな」
面白くなさそうな顔をしながら、クルスが小さく息を吐く。
守秘義務があるのでその名前は伏せられていたが、ギルドにアニエス捜索の依頼を出したのはブルゴー王国の勇者ケビンなのは間違いなかった。
しかしケビンはアニエスの居場所がわかった後も、敢えてその場所を知ろうとはしなかった。
それはその場所を知ることによって、自身に危険を招き寄せることがわかっていたからだ。
そもそも彼はアニエスの居場所ではなく、その生存の確認が目的だった。だから彼女が生きていて、しかも幸せにしているとわかっただけで満足だったのだ。
アニエスの居場所を無理に知ろうとする者は、ロクな目的ではないはずだ。
そして彼女を見つけてどうするのかと言うと、恐らくその命を奪うつもりなのだろう。
現在の情勢でアニエスに生きていられると困る者を探っていくと、それは数名に絞られる。
その中でも一番に名前が挙がるのが、ブルゴー王国第一王子、セブリアンだった。
「あぁ……お察し。あたし、それが誰だかわかっちゃった。――敢えて言わないけど」
「だな。そんなことをしようとするヤツは、そいつしかいないだろうな。だから余計に危険なんだよ。バックに王族が付いているんだ、資金も潤沢だろうし、それを実行するヤツも一筋縄ではいかないだろう。恐らく相当の手練れを送り込んでくるはずだ」
「……ねぇ、どうする? とりあえず逃げとく? そんな熊みたいななりしてるくせに、あんたそれほど強くないでしょ?」
「面目ねぇ。それを言われると切ないが、事実だから反論できん……」
身長190センチ、体重130キロの筋骨隆々の厳つい熊のような外見のクルスだが、実は戦闘があまり得意ではなかった。
見た目通りの馬鹿力ではあるが、重い体重のせいで素早く動くことが苦手なうえに元々剣技の才能にも恵まれていなかった。
だからどうしても力任せの戦い方になってしまうのだ。
素人相手であれば、確かにそれでも通用する。
もとより決して人相が良いとは言えない彼が、無精ひげが目立つ熊のような巨体を揺するだけで大抵の相手は腰が引けてしまうからだ。
しかし盗賊やならず者相手ではそうはいかない。
彼が若い時の話だが、調子に乗って盗賊討伐の依頼を受けたことがあった。
しかし見かけによらぬ戦闘力の低さを見破られると、散々追い回された挙句に危なく殺されてしまうところだったのだ。
それ以来、クルスは討伐系の依頼は一切受けずに、その厳つい外見に似合わない捜索や調査といった地味な依頼ばかり受けるようになった。
もちろんそれは、その直後からペアを組み始めたパウラの勧めがあったからだ。
彼女は人相の悪い巨漢のクルスを目の前にして、彼の戦闘力の低さを速攻で見破った。そして彼女の得意分野の仕事の手伝いをさせるようになったのだ。
「しかしなぁ、相手の出方もわからんし、そもそも本当にここにやってくるのかも定かではないしなぁ……」
徐に腕を組むと、クルスはなにやら考え始める。
買ったばかりのこの家を放置していくのも癪だが、だからと言って身重のパウラを危険な目に合わせるわけにもいかない。
それに一国の王子がバックに付いていることを考えれば、決して甘く見るべき相手ではないだろう。出来ることなら明日にでも逃げ出すべきだ。
台所に立つ妻の横顔を眺めながら、クルスは己の思考に浸り始める。
その姿を見た妻は、再び手を動かして料理を作り始めるのだった。








