妊婦と腰痛とお散歩
前回までのあらすじ
ギャグっぽくしてるけど、悪阻って本当に辛いからね……
妊娠6ヶ月。
安定期に入ったリタは、すっかり悪阻も治まって普通に食事ができるようになった。これまでまともに食べられなかった鬱憤を晴らすかのように、今では三度の食事で必ずお代わりまでする始末。
そのせいだろうか。ここ最近のリタは全体的にふっくらしていた。
一時はマイナスだった体重がもとに戻っただけでなく大きくプラスに転じていたのだが、それは本人が言う「お腹が大きくなったから」という理由だけで決して片付けられるものではないだろう。
それは主治医にも指摘されていた。
胎児が大きくなるとともに妊婦の体重が増えるのはおかしなことではない。しかしそれにも限度というものがある。
正常なペースを上回る体重の増加は、高血圧などの中毒症に罹患するリスクが高まる。そのため、体重管理も妊婦の立派な仕事の一つと言えた。
もとより細く華奢なリタなので、少々体重が増えたところでさほど問題はない。事実、悪阻に苦しんで痩せこけていた頃よりもむしろ健康的に見えるくらいだ。
すっかり丸みを帯びたリタの容姿は以前にも増して愛らしく、表情も柔らかく見える。その変化に夫のフレデリクはむしろ喜んでいる節さえあった。
それでわかったことがある。
決して口には出さないが、どうやらフレデリクは多少肉付きが良い――下世話に言えばムチムチとした女性が好みらしい。もっともリタの手前、絶対に本人が認めないので全く憶測の域を出ないのだが。
それはさておき、最近のリタは腰痛に悩まされていた。
それもまた妊婦には珍しくない症状なのだが、それでも彼女にとっては切実らしい。今日も朝から痛む腰をさすりながら、運動不足の解消などと宣いながら屋敷の中を散歩していた。
「ふぅ……しんど……」
ここ最近すっかり口癖となった言葉を呟きながら、リタが廊下のベンチに座り込む。最近とみに目立ち始めたぽっこりとした下腹をさすって小さなため息を吐いた。
その背に向けて、専属メイドのミュリエルが声をかけてくる。
「リタ様、大丈夫ですか? あまり無理をなさいますと、余計に痛みが増しますよ?」
「大丈夫よ。ほら、お医者様も仰っていたでしょう? 体重増加のペースが早すぎるから、少し運動をしたほうがいいって」
「確かに。けれど、こうも仰っていましたよ。『少し食べ過ぎのようですな。運動が大切なのはもちろんですが、食事の量も減らしなさい』って」
眉を顰め、可愛らしい小さな唇を尖らせながらミュリエルが主治医の口真似をする。本人は似ているつもりなのだろうが、全く似ていないものまねに思わずリタが小さく笑う。
けれど直後に、聞き捨てならぬとばかりに言い返した。
「なによミュリエル、私に餓死しろっていうの? 食べても食べてもお腹が空くのは、赤ちゃんが栄養を欲しているからに違いないのよ。だから食事を減らすだなんてまったくの論外。考えられないわ」
「でも……これ以上太ったら中毒症のリスクが高まると、お医者様が……それに、顎だって二重になって――」
「ふ、太ってなんかいないわよ! それに、二重顎にだってなってないし! ――あ、あなた随分と遠慮がないわね……ま、まぁ確かに以前に比べればふっくらしているのは認めるけれど、だいたい妊婦なんてそんなものでしょう? むしろぷにぷにして気持ちいいって、フレデリクだって喜んでいるくらいなんだし」
などと言うリタの二の腕を無言でミュリエルが見つめる。気付いたリタがどこかバツが悪そうに視線を外した。
それきりミュリエルは口を閉ざしたのだが、その後も暴言を謝ろうとしないところみると、彼女も彼女なりに思うところがあるらしい。
そもそもの話、主人の体調を管理するのは専属メイドとして当然の責務である。それも主治医の言い付けを守らせようとしているのだから、そこに非など全くない。むしろ責められるべきはリタだろう。
それをわかっていながら、前世を通して御年226歳にもなるリタは頑固すぎて素直になれない。どうやらリタ自身も、ここ最近の体型の変化については思うところがあるらしく、なんだかんだと言いながらミュリエルを否定しようとしなかった。
そのリタが言う。
「わ、わかったわよ。食事の量はすぐに減らせないけれど、その代わりに運動する。そうねぇ……まずはウォーキングかしら。――あら、ちょうどいいわ。実は奥様から市井の視察をお願いされていたのよ。それじゃあ、これから街へ出て小一時間ほど歩きましょうか。ミュリエル、外出の用意と馬車の手配をお願いね」
「はい! かしこまりました!」
命令一下、勢いよくミュリエルが駆けて出していく。
その背中を見送りながら、リタは「ふぅ……どっこらしょ」などと言って立ち上がった。
――――
ハサール王国の西部地域において一番の栄華を誇るムルシア侯爵領の領都カラモルテ。久しぶりの街中は相も変わらず賑やかだった。
未だ日が高い昼間だというのに、居並ぶ屋台からは食欲を誘う香りが漂い出し、通り掛かる者たちが思い思いに腹を満たしていく。
もちろんそれ以外にも雑貨屋から衣料品店、果ては鍛冶屋に至るまで多種多様な店が軒を並べているのだが、その中でもリタが注目していたのは最近オープンしたばかりのスイーツ店だった。
まさに指を咥える勢いで店を見つめるリタと、背後からじっとりとした半眼で主人を見つめるミュリエル。
口に出してはいないものの、直後にリタがなんと言うかはミュリエルには手に取るようにわかった。
そもそもここに来たのは、散歩――運動のためである。にもかかわらず、馬車を降りた途端に甘いものを食べるなど言語道断としか言いようがない。
それでなくとも普段から甘味に目がない若奥方様なのだから、ここは厳しくすべきだろう。
などとミュリエルが断固たる決意をもって主人を諫めようとしていると、一瞬早くリタが口を開いた。
「ねぇミュリエル。提案があるのだけれど、せっかくだからここで――」
「ダメです」
「あ、いや、まだなにも言って――」
「ダメったらダメです」
「ちょ、ちょっとミュリエル――」
「よろしいですか若奥方様、今朝を思い出してください。今日はすでにケーキを二つも召し上がっておられるのですよ。これ以上の甘味はお身体に障りますので、どうかご遠慮くださいませ。ご自愛いただけますと幸いです」
取り付く島がないとはこのことか。皆まで言わせる間もなくミュリエルが却下すると、リタが泣きそうな顔をした。
「えぇぇぇぇー! じゃ、じゃあ、これは明日の分! 明日はケーキを一個しか食べないから、その代わりにいま一個だけ食べていい?」
お前は子供か。
そう言いたげなミュリエルの半眼。普段は優しく気の弱そうな彼女であるが、こういった場面では意外な頑固さを垣間見せる。
とは言え、それもこれも全ては敬愛する主人を想うあまりの行動だった。だからこそリタも彼女を信頼しているのだろう。
さすがは次期西部辺境候夫人と言うべきか。普段のリタは侯爵夫人然とした威厳に満ちた佇まいを崩さない。けれどこのような場面では年相応の素顔を見せることがある。
もちろんミュリエル以外にも護衛の騎士や執事なども同行しているので滅多なことは言わないものの、主人の人柄を熟知している彼らの前では飾らない素顔を見せることが多い。
ただただ苦笑いを浮かべる執事と護衛騎士たち。
せめてお前くらいは止めろよ。そう思いながらミュリエルが執事を睨みつけてみたところで全く意味はなかった。
なので、仕方なくミュリエルが汚れ役になる決意を固める。
「ダメです! そもそもリタ様は、ここになにをしにいらっしゃったのですか? 運動不足の解消と気分転換をしにきたのではありませんか? よくよくお考え下さい。今やその身体はあなた様お一人のものではないのですよ。そのお腹には、将来のムルシア家当主が宿っておられるのですから」
まさに「むふぅー!」とばかりに鼻息も荒くミュリエルが言う。しかし途中であることに気付いた。
「ん? いえ、少しお待ちください。……その、まさかとは思いますが、そもそもここへ来た目的って……」
「ぎくり……!」
「そういえばこのスイーツ店は、最近できたばかりの話題のお店でしたね。以前からリタ様も行ってみたいとおっしゃっていたような……」
「さ、さぁ? ちょっとなに言ってるのかわからないわね」
「リタ様」
「な、なにかしら?」
「よろしいですか? こんなお店に寄っている暇などございません。さぁ、とっととお散歩に参りましょう。――ご準備をお願いします」
「えぇぇぇぇ! そ、そんなぁ……」
もはや未練たらたらの顔を隠そうともせず、絶望とともにリタが肩を落とす。
それを横目に見ながら、主人を先導するようにさっさとミュリエルが歩き出したのだった。








