義妹へ会いに行こう! その10
「なにぃ、失敗しただとぉ!? それは本当か!?」
「た、大変申し訳ございません! 約束の時間になっても戻らないものですから様子を見に行かせましたところ……二人とも返り討ちにされておりました」
ここはラングロワ侯爵領の領都、ハイデンラントの片隅。
東部貴族家の中でも中堅と言われる、ドナウアー伯爵邸の一室でその会話は交わされていた。
片や背の低い小太りの中年男。片やすらりと背の高い老年の男。それはドナウアー伯爵家当主のカミル・ドナウアーと、かつてはレオジーニ侯爵家当主だったルボシュだ。
カミルとは違い、今のルボシュには家名がない。なぜなら、例の事件により東部貴族が再編された際に、アンペール家と近縁だったレオジーニ家も連座を適用されて潰されていたからだ。
以来、貴族籍を失ったルボシュは、親戚や配下の貴族家に援助されながら生きてきたのだが、近々に幾つかの貴族家を復権させるという話を聞きつけて、急遽ドナウアー伯爵家にやって来ていたのだ。
貴族籍を失っているものの、未だルボシュは旧体制派の貴族たちに顔が利く。そのうえ彼の次女を妻に迎えているカミルは、義父であるルボシュに逆らうことができない。
だからカミルは今や平民でしかない義父を客人として丁重に扱っていたし、ルボシュの復権が叶った暁には娘婿としてそれなりに甘い汁を吸おうと企んでもいた。
そのカミルにルボシュが容赦なく声を荒げる。
「返り討ち……? 待て婿殿よ、話が違うではないか。此度の計画は絶対に失敗が許されぬ。そのためにプロ中のプロを雇ったのではなかったのか!?」
「も、申し訳ございません! なにぶん現場がラングロワの屋敷内ゆえ、詳細は不明です。しかし二人の死体を確認しておりますので、その事実に相違はないかと」
「うぬぅ……なんたるザマだ! 高い金まで払ったというのに! ――それで、なにも証拠は残していないだろうな? もしも出たなら、私もお前も破滅だぞ! 総会を待たずして揃って縛り首など、笑うに笑えぬわ!」
「そ、それは問題ございません! 危険を承知のうえで、敢えてこのタイミングで動いたのです。真っ先に我らが疑われるは事理明白。ゆえに、我々に繋がるものは一切出ないようにと徹底しております」
「ふん、ならばよいが……などと安心している場合ではない! それで、もう一人の方は大丈夫なのだろうな!? そちらまで失敗したとなれば、早急に別の策を講じなければならぬのだぞ!」
まるで小さな子供のように、足を踏み鳴らしながら憤るルボシュ。
その彼に向かって、おずおずとカミルが告げた。
「ご、ご安心ください。もう片方――若奥方の方は無事に連れ帰りましたので」
親の顔色を窺う子供のようにカミルが上目遣いに見る。鷹揚に頷くルボシュの顔には、どこかいやらしい笑みが浮かんでいた。
「ほう、そうか。若奥方――エミリエンヌの方は無事に拐かすことができたのか。ならばよし。むしろその方が都合がよいというもの。――して、其奴はいずこに?」
「今は地下の牢舎に繋いでありますが……お会いになりますか?」
「ふふふ……当然だ。エミリエンヌといえば、あのシャルロッテ殿の娘ではないか。噂に聞く母親譲りの美貌とやらがどれほどのものか、一度見てやろうと思っておったのだ」
「承知いたしました。それではご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
日の光さえ満足に届かぬ、地下深くに設えられた牢舎。
正面の鉄格子以外、全てを強固な石組みにより作られたその場所は、常に湿度が高くてじめじめしている。そのうえ身震いするほどひんやりとした室内は、漂う据えた匂いと相まって余計に不快感を増幅させた。
本来そこは罪人を収容するための場所なのだが、今だけは全く似つかわしくない人物が放り込まれていた。
燭台の明かりを反射して、薄暗い部屋にもかかわらず輝く金色の髪。
神憑り的に整った目鼻立ちと、八頭身かと見紛うほどの小さな顔。
男好きするメリハリのある肢体に、細くて白い華奢な手足。
まるで絵本に描かれる姫君のような女性が、高価なドレスが汚れるのも厭わずに一人床に蹲っていた。
その彼女に初老の男が声を掛ける。
「おやおや、あなたはラングロワ侯爵家の若奥方様ではありませぬか。これはまた異なところでお会いするものですな」
「……」
「おっと、これは失礼。あまりに不躾でしたな。ならば改めまして――お初にお目にかかります。私はもとレオジーニ侯爵家当主であったルボシュと申す者。どうかお見知りおきを。ハサール王国東部辺境候ラングロワ侯爵家、次期当主夫人であらせられるエミリエンヌ様」
「……」
「どうかなさいましたか? 随分とまた元気がないようですが」
「……」
「とは言え、その理由は察するに余りありますな。貴女のようなお方が、汚物に塗れているのを見るのはなんとも忍びない。とは言え、それも仕方のないこと。暫しご辛抱いただきたいと存じます」
慇懃な言葉とは裏腹に、どこかニヤついた表情のルボシュ。
無言で俯き続ける女――エミリエンヌに向かって得意げに話を続けた。
「さて……なぜこのようなことになっているのか。今あなたはそうお思いでしょう。その疑問は私にも痛いほどわかります。ならば初めに申し上げておきますが、あなた自身に罪はない。あるとするなら、あなたの義姉――リタ様でしょうか」
「……」
「あの女のせいで私は全てを失ったのです。女なら女らしくおとなしくしていれば良いものを、あのような小賢しい策謀をはたらいたせいでアンペールは取り潰しとなり、近縁だったレオジーニも連座で断絶となった。百歩譲ってアンペールは仕方がなかったとしても、我が家まで累が及ぶなど到底納得のいくことではない!」
「……」
「女だてらに暴れまわり、生意気にも東部辺境候を陥れたのだ! 許すまじ、リタ・ムルシア!」
「……」
初めは丁寧だったものの、話しているうちに興奮してきたのか、次第にルボシュの口調が厳しくなる。眼光鋭く、眉の吊り上がった顔は威圧感の塊にしか見えなかったが、些かわざとらしく驚いたような素振りを見せると突如猫なで声を出した。
「おっと、これは失礼。私としたことが興奮してしまいました。――それでエミリエンヌ様。現状が理解できましたかな?」
決して友好的には見えないものの、それでもルボシュが安心させるような笑みを浮かべる。
その様子を見た若奥方は、隠し切れない怯えを顔に浮かべつつも気丈に尋ねた。
「ルボシュ殿。それを申されるのなら、わたくしにも思うところはございますわ。彼の者たちは、臆面もなく人の婚約者を奪おうとしたのです。それも公衆の面前で。あまりに破廉恥かつ身勝手すぎる行いは、さすがのわたくしも反吐が出そうになりましたもの」
「ほう……そのような美しいお顔をしていながら、なかなかにエミリエンヌ様も言いますな。とは言え、それはあなたの兄君――フレデリク殿が不甲斐ないがゆえ。普段から強く、毅然としていれば、あのような事態を招くこともなかったのではないかと愚考いたしますが?」
「失礼な! それはあまりに無礼ではありませんの!? 仮にも次期西部辺境候になられるお方ですのよ!」
「しかしそれは事実でしょう? まるで女のように美しい容姿に優しすぎる心根。私から申し上げれば、武家貴族家の当主となるにはあまりに頼りなさすぎると言わざるを得ませぬ。あの勇猛果敢な猪、オスカル殿の息子とは到底思えませんな。――もっとも、母君があのシャルロッテ殿なのですから、あの容姿も不思議ではありませんがね。ふふふ……」
高いところから見下ろして、余裕とともに鼻で笑うルボシュ。その顔にはどこか嘲るようなものが浮かぶ。
それを見た若奥方が咄嗟に言い返した。
「なにを仰いますの!? たかが平民風情がおこがましい! 家を取り潰され、今や名乗る家名すらもないくせに! 口をきくのも汚らわしいですわ!!」
吐き捨てるような若奥方の言葉。
ルボシュの顔色が変わる。再び眉を吊り上げて凶悪な顔で睨みつけた。
「なに……平民だと!? 平民と言ったか!?」
「えぇ、申しましたわ。帰る家もない、もと侯爵だった哀れな男。以前の配下を頼りつつも、厭われながら生きていけばよろしいのです。どこぞの廃嫡された息子のように、一から平民として生きる気概もないくせに、偉そうな態度だけは一人前ですのね。片腹痛いとはまさにこのことかと存じますわ」
「貴様……女だからと優しくしていればつけ上がりおって! 蝶よ花よと育てられ、今や国を代表する侯爵家へ嫁いだエミリエンヌ。お前の足元には、さぞ多くの男たちが跪いていたであろうな。ならばよい機会だ。ここで己の非力さを思い知るがいい」
「な、なにを……?」
「ふふふ……今だから言うが、若い時分に私はお前の母君――シャルロッテ殿に懸想していたのだ。しかし公爵家の娘だからと諦めざるを得なかった。にもかかわらず、忌々しくもお前の父親が射止めおったのだ。それを聞いた時には、憤死するかと思うほど憤ったものだ」
「そ、それがなんですの!? そんなもの、わたくしに関係ありませんでしょう!?」
「ふふふ……そう思うか? 本気でそう思っているのなら、さぞ幸せであろうな。――父親の血が濃いせいか随分と母親には似ていないようだが、それでもその美貌は劣情を抱くには十分過ぎる。お前にはシャルロッテ殿の代わりを務めてもらおう。その顔を苦痛と快楽に歪ませられるかと思うと、年甲斐もなくゾクゾクしてくるわ」
「な……」
舌なめずりをするような、いやらしい笑みを浮かべるルボシュ。
経産婦とは言え、未だ18歳のエミリエンヌは十分に若い女の肢体を保っている。話に聞いていたよりも随分と小柄なのは気になるものの、いずれにしても存在感のある胸と尻はまさに一級品と言うほかない。
鉄格子の向こうで恐怖に顔を歪める若奥方。
それを嗜虐的な表情でルボシュが眺めていると、突如背後から一人の女が駆け寄ってくる。そして叫んだ。
「伯父上! 一体なにをなさっておられるのです!? 人質の前に身を晒すなど、正気の沙汰とも思えません!」
「おぉルースよ、やっと参ったか。ずっと待っておったのだぞ。赤子の連れ去りには失敗したが、若奥方は拐かせた。お前の働きには満足している」
「なにを呑気なことを! いまはそのようなことを申している場合ではございませんでしょう!? 計画によれば、事が済むまで軟禁するだけだったはず! いずれ帰すためには、我らの正体は絶対に明かせなかったのではありませんか!?」
「まぁ、これは成り行きだ。いまさら仕方のないことゆえ、諦めよ」
「諦めるって……我らの名も顔も知られてしまったのですよ!? これでは帰すに帰せない! 果たしてどうするおつもりなのです!?」
実際にはしなかったものの、胸倉を掴み上げる勢いで詰め寄る若い女――ルース。
年の頃は20歳過ぎだろうか。ルボシュを伯父と呼んでいることから、彼女はルボシュの姪なのだろうと思われた。
その彼女がなおも逼る。
「しかも侯爵家の若奥方ともあろうお方を手籠めにしようなどと……正気ですか!?」
「まぁ落ち着け。どのみちこの女は帰せなくなったのだ。さすれば、哀れな伯父の想いを汲んで多少は目を瞑ってはくれぬか? 知っての通り、私はシャルロッテ殿に長年懸想していたのだ。もはや本人に想いを遂げることが叶わぬならば、代わりに娘を相手に果たしてもよかろう?」
「なっ……なにを馬鹿なことを! 信じられませぬ! そもそもこの計画は、我らの家を再興するためのもの。個人の些事など、この際どうでもよいでしょう!?」
「確かにそうだ。お前の言はなにも間違っておらぬ。しかし私にとっては同時に長年の夢を果たすための機会でもあるのだ。――愛しのシャルロッテ殿。どのみち生きて帰せないのならば、この娘は好きにさせてもらう」
意味がわからない。
怒鳴り続けるルースの顔にはそう書いてあった。それでも彼女は叫ぶのをやめなかった。
「だめです、いけません! 幾ら大義を果たすためとは言え、この方を害するなど絶対に許されない!」
「いいから聞け、ルースよ――」
「嫌です、聞きません! こうなっては仕方がない。かくなるうえは、諦めて自首しようかと存じます!」
「ルース! それだけは絶対に許さぬぞ! お家再興が目の前に迫っているのだ。ここまできて引けるわけがなかろう! しかも自首だと!? お前こそ正気か!?」
「その言葉、そっくり伯父上にお返しいたします! よろしいですか? エミリエンヌ様をお連れして、今すぐラングロワ家に詫びを入れに行くのです! 今ならまだ間に合う。私と伯父上の首を差し出せば、配下の者たちまで命を取られることはないでしょう!」
「ルース……貴様ぁ……」
捲し立てるような姪の言葉に、ついにルボシュの表情が変わる。
エミリエンヌを見るのと同じような目つきでルースを睨みつけると、脇に控える守衛へ指示を出した。
「えぇい、この者を捕えよ! こうなれば、もはや伯父でも姪でもないわ! このまま事が済むまで牢へ放り込んでおけ!」
「はっ!」
「伯父上! いけません、今すぐ詫びを入れに行くのです! このままでは手遅れになってしまう、聞いてください!!」
必死に叫び続けるルースを、有無を言わさず守衛たちが押さえつける。
そしてそのまま牢へと放り込んだのだった。
姪とのやり取りに憤懣やるかたないルボシュではあるが、結局なにもせぬまま牢舎から出ていった。それと同時に守衛までもが出入り口の外に下がると、牢舎の中は若い女二人だけになる。
頑強な石積みの壁を隔てて隣り合う若奥方とルース。
そのルースがポツリと漏らした。
「エミリエンヌ様、大変申し訳ございません。此度のことは全て我らの企みなのです……」
「……そんなところだろうと思っておりましたわ。半月後に迫る貴族総会。そこでラングロワ家の票を奪おうと画策したのでしょう?」
「はい。どうしても家を再興したかった私たちは、貴家――ラングロワ家に無言の脅しをかけようと思い立ったのです。家族を返してほしくば、我らに票を入れろと。そして事が済めば、無事にあなた様を帰すつもりでありました」
「にもかかわらず、愚かな伯父が己の欲望に負けて私に顔と名を晒した。結果、私は生きて帰ることができなくなった。つまりはそういうことですのね?」
「仰るとおりかと。ご覧の通り、今や伯父はおかしくなってしまったのです。あれでも昔は正義感に溢れた優しい方だったのですが……いつからこうなったのか……」
「まぁ、あのアンペールの下に長らく仕えていれば、ああなっても仕方ないと言えなくもないですわねぇ。とは言え、許すつもりなど毛頭ございませんけれど」
時折水滴が落ちる音以外になにも聞こえない薄暗い牢舎。その中にぽつりぽつりと二人だけの声が響く。
石壁に背を預けながら、なおも彼女たちは話を続けた。
「本当に……本当に申し訳ありません。あなた様にはお子が生まれたばかりだというのに……こんなところで……こんなところで……あぁ、本当になんと言ってお詫びすればよいのか……」
「ルース……と言ったわね、あなた。はっきり言わせてもらいますけれど、あなたが仕出かしたことは、どれほど謝罪されても到底許せるものではありません。なにせこれは、国王陛下への反逆そのものなのですから。それを承知したうえで問いますけれど、もしもここから出られたなら、全てを詳らかに証言する気概はございまして?」
「はい、もちろん! 自ら蒔いた種なのです。その責任を免れようとは思いません。伯父ともども、この首を差し出す所存にございます」
全く悲壮感のない淡々とした口調。それを聞いていると、間違いようのないルースの覚悟が伝わってくる。若奥方が再び告げた。
「わかりましたわ。あなたの覚悟とやらは聞き遂げました。それでは此度の責任を取っていただくことにしましょう。あなたと伯父上、そしてドナウアー伯爵にね。――言質は取りましたから、いまさら否やはございませんわよ? 覚悟はよろしくて?」
「もちろんです! と、ところであの……エミリエンヌ様? 一体どうやって……?」
まさにおずおずと尋ねるルース。
話を聞く限り、どうやらエミリエンヌはここから出る気満々のようだ。
しかしどうやって? 武器もなく、味方もいない。それどころか、ここに囚われていることさえ誰も知らないはず。
そんな疑問が口に出ていたのだろう。それに若奥方が答えた。
「ルース。いまさらですけれど、あなた一つ大きく勘違いしてらっしゃいますわよ。申し上げておきますが、そもそも私はエミリエンヌではございませんから。あんなおっぱいお化けと一緒になさらないでくださまし。初対面だからといって、勝手に思い込むのもいかがなものかと思いますわよ?」
「えっ? そ、それじゃあ……あなたは……?」
「ふぅ……誰だとお思い? ならばお教えいたしますが、私はリタ。リタ・ムルシアですわ。お初にお目にかかれて光栄ですけれど、最悪の第一印象だとお心得下さいませ」
「えぇ!!」
驚愕のあまり、ルースが美しい青い瞳をこれでもかと見開いた。
無理だとわかっていながらも、そうすれば壁の向こうが透けて見えるかと思えるほど石の壁を凝視する。
その様子を感じ取ったのか、リタが小さく笑い声を上げた。
「うふふふ……そうよ、私はリタ・ムルシアですの。泣く子も黙る『ムルシアの魔女』とは私のこと。そんな私を攫ったのですもの、相応の酬いは受けていただきますわ。――さぁ覚悟なさいませ、糞ったれルボシュとその一味ども! 地の果てまでも追い詰めて、東部貴族家の名簿からその名を未来永劫消し去って差し上げますわよ!」
薄暗闇に轟く、甲高くも愛らしい女性の声音。
ルースからは見えないけれど、壁の向こうの顔にはどこか楽しげな表情が浮かんでいるような気がした。








