新婚初夜 その2
前回までのあらすじ
女性たちから生ごみを見るような目で見られるラインハルト。しかし彼にとってはご褒美なのかもしれない。
ゼロ距離において最大威力を発揮する、怒りの無詠唱空気弾往復ビンタ。
それを問答無用に食らったラインハルトが堪らず地面をのたうち回っていると、見かねた母親が走り寄って来る。そしてくどくどと説教を垂れながら息子を引き摺るように退場していくと、呼び出しからちょうど宴の終了が告げられた。
貴族の結婚披露宴などというものは夜通し続けられるのが普通なのだが、王城の大広間を借りている都合もあり、今回に限り日没とともに終了した。
その代わりに、この後はムルシア侯爵家の首都屋敷にて続き――二次会が開かれることになっていた。
王城からムルシア家の屋敷まではそれほど離れていない。それは国防の要ともいうべき西部辺境候が、有事の際には速やかに王城へ馳せ参じなければならないからだ。
その近くも遠くもない微妙な距離を、ある者は馬車で、ある者は徒歩で移動しながら、涼やかな夜風により酔いと火照った身体を醒ましていく。
そして再び皆が集まったところで、ムルシア侯爵邸では続きの酒宴が始まったのだった。
王城とは違って少々緩い雰囲気が漂うそれは、このまま朝まで続くことになる。
それは新郎新婦の「床入りの儀」を両家の親族たちが見届けるという古い慣習がそのまま残っているからなのだが、それは今夜の主役――リタとフレデリクにとっては些か迷惑、いや、恥ずかしいものに他ならなかった。
とは言うものの、貴族の婚姻は「床入りの儀」が終わるまで正式に認められない。
そのため二人は、嫌でも皆の前で宣言せずにはいられなかった。『これから寝所に入ります』と。
顔を真っ赤に染めたまま恥ずかしそうに俯く若い二人に、会場から拍手喝采が浴びせられる。
それには心の底からの祝福とともに、多分に下卑た響きも混ざっていた。
「おぉ、遂にか! 待っておりましたぞ! 貴殿たちの奮闘を肴に我らは酒を楽しんでおりますゆえ、じっくりと事をお成しくだされ! 朝までたっぷりと時間はある。一度と言わずに二度三度、体力が続く限りどうかごゆるりと!」
「フレデリク殿! 練習通りにやれば大丈夫ですからな。決して慌てぬように! あまりに慌てますと、入れる前に出てしまいますぞ! ――そりゃ逆か? ぬははは!」
「慌てて間違った方へ入れてはなりませぬぞ! そちらはそちらでいいものですが、決してお子はできませぬからな! うはははっ!」
「リタ殿! 優しく嫋やかにお願いする! さもなくば、夫君が項垂れてしまいますぞ! ――しかし案ずるなかれ。優しくそっと慰めればすぐに元気になり申す。ははははっ!」
「妻たる者、いついかなる時も夫を立てねばなりませぬ。外でも内でも、もちろん寝所でも! わはははは!!」
普段の様子から一変してニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに下品な言葉を投げつけてくる貴族たち。
誰が始めたのか定かでないが、古より続くこの下世話な風習は、貴族子息の結婚披露宴ではもはや風物詩のようなものだった。
もちろんそれはリタもフレデリクも十分わかっているのだが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。できればそっと見送ってもらいたい。
そんな思いに囚われながら、顔を俯かせたまま二人は粛々と宴の場を後にしたのだった。
「フレデリクよ。父親の役目として、俺はお前に全てを教えたからな。あとは実践するのみだ。――よいか、任せたぞ」
「は、はい、父上」
宴の会場から辞したリタとフレデリクは、準備のためにそれぞれの個室に入った。
そのフレデリクが緊張の面持ちのまま返事をする。それにはまるで力がこもっておらず、視線も宙を彷徨ったままだ。
どうやら過度に緊張しているらしく、聞こえているのかいないのか、父親の激励も半ば上の空。その様子に心配そうな視線を向けながら、母親が声をかけた。
「フレデリク。作法、手順については父上から教えられた通りです。しかしそれだけではいけませんよ。――肝要なのは真心です。そして妻を慈しむ想いさえあれば、必ずや事は成せるでしょう。よろしいですか?」
「はい、母上……」
まるで戦地にでも送り出されるような覚悟を見せながら、ゆっくりとフレデリクが頷く。
その顔には変わらず緊張感が満ちていた。
フレデリク・ムルシア
現在20歳のこの青年は、とある事情により8歳の時に婚約者を決められた。もちろん相手は今回の花嫁であるところのリタなのだが、それは打算と妥協の末の、言わば「成り行き」だったと言っても過言ではない。
そこに彼自身の意思が介在する余地など全くなく、気づけば結婚相手が決まっていたのだ。
そんなフレデリクなので、当初はリタのことを妹のようにしか思っていなかった。実際彼にはリタと同い年の妹――エミリエンヌがいたので、それも無理からぬことと言えよう。
もっともたかが8歳の少年に5歳の女児を異性として意識しろという方が無理な話ではあったのだが。
両親から良いところだけを受け継いだリタの容姿は幼少時から飛び抜けており、白に近い輝く金色の髪も、透き通る灰色の瞳も、神憑り的に整った目鼻立ちも、その全てが妖精のように愛らしかった。
敢えて欠点を探すなら小柄で背が低いところだろうが、それもまた彼女の愛らしさを増しているという意味では、もはや欠点と言えるかも疑問だ。
そんなリタではあるが、所詮は幼い女児。やはりフレデリクは、長らく彼女に対して女性的な魅力を感じることはなかった。
意識が変わったのはフレデリクが15歳、リタが12歳のときだった。
第二次性徴期を迎える頃になると、リタは見違えるように女性らしくなっていく。
それまでは華奢を通り越して棒のような体躯だったにもかかわらず、母親に似て胸は大きく膨らみ、腰回りは丸みを帯び、加えて顔つきにも女性的な美しさを際立たせるようになった。
まさに絶世の美少女へと変貌しつつあるリタ。
その頃からだろうか。フレデリクを見る周囲の目――そのほとんどが男――に嫉妬の色が混じるようになったのは。
それと同時に、フレデリク自身も己の婚約者に夢中になっていったのだった。
もちろんそれは好ましいことだ。
多くの貴族たちにとって、結婚とは世継ぎを作るための手段でしかない。そのため相容れない相手と結婚させられた不幸な者たちにとって、そこに愛など存在しなかった。
だから貴族同士でありながら相思相愛のリタとフレデリクは、余程恵まれていると言ってもいい。少なくとも周囲から羨望の眼差しで見られるほどには。
貴族の子息の習いとして、成人を迎えると同時に女性を知る者も少なくない。
親の紹介により娼館へ向かう者、添い臥しを雇う者、メイドに手を出す者など様々だが、いずれにしても将来の婚姻時に狼狽えぬようにと皆競うように貞潔を捨てていく。
思春期の男子の例にもれず、フレデリクの友人たちもまるで武勇伝を誇るかの如く女性関係を詳らかにする者も多く、いつもその横で彼は顔を赤くするばかりだった。
もちろんフレデリクも経験を勧められた。
父親からは無論のこと、世話役の執事からも、果ては専属の護衛騎士からも事あるごとに女性の魅力を説かれたのだが、彼は頑なに拒み続けたのだ。
理由を問えば「女が結婚まで純潔を求められるのであれば、男もそれに倣うべき。男だけが遊びを許されるのは平等ではない」と告げた。
理屈は通っているものの、男女平等という概念が存在しないこの時代にそれはあまりに極論だったし、同時に意気地のない男の言い訳にしか聞こえなかった。
フレデリクとて若い男なのだから、人並みに異性に興味もあれば性欲だってある。
しかし真面目で実直、さらに絵に描いたように誠実な彼はそれを表に出すのを良しとせず、幾ら興味があろうとも、決して友人たちの猥談に加わろうとはしなかった。
そのため彼の女性に対する知見は学術書、医学書以上のものではなく、それどころか未だに手、顔以外に女性の肌を見たことすらなかった。
そんなわけだから、これから待ち受ける未知の経験に恐れ戦くのも無理はない。しかしそこは夫の務めとして、同様に未経験の花嫁――リタを導いてやらなければならないのだ。
しかし話を聞けば聞くほど緊張のためにその身は固くなるばかりで、肝心な部分が固くなる気配は全くなかったのである。
「よろしいですか、リタ。子細は以前お話ししたとおりです。あなたは特に何もしなくて結構。すべてを夫君にお任せするのです。――いざ終わってみれば大したことではありませんから、そのように大仰に構える必要はありません」
「は、はい……お婆様」
「あの勉強熱心なフレデリク殿のことですから、事前に十分鍛錬を積んできているはず。ですからあなたは何も心配しなくてもいいのよ。ね? リタ」
「はい、お母様……」
こちらはリタが入った個室。
今ここで彼女は、祖母イサベルと母エメラルダから初夜における心構えを説かれているところだ。
と言いながら、いくら御託を並べたところでその実態は「夫にお任せ」以外になく、事ここに及んでそれ以上のアドバイスのしようもなかったのだが。
互いを知り尽くした熟年夫婦ならいざ知らず、そもそも妻が寝所で主導権を握るなど、これほどの不作法はない。それが新婚初夜ならなおのことだ。
それでもリタは事前に祖母と母親から詳しい説明を受けていた。いくら夫にお任せと言ったところで、そこは夫婦の共同作業。妻の協力は欠かせない。
はっきり聞いたことはなかったが、どうやらフレデリクも色々と未経験らしい。だからいざという時のために、リタ自身もある程度の知識を持っていなければならなかったのだ。
輝くような美貌を誇る、見目麗しい17歳の花嫁。
しかし実態が226歳のリタは、その長い人生ゆえに男女の秘め事についても詳しい知識を持っていた。
けれども前世で生涯に渡って純潔を守り通したことからもわかる通り、ただの一度も恋愛経験はない。
確かに魔法に対する知識と経験は、大陸中を見回しても一人として敵う者はいないだろう。しかしこと男女の関係に関しては、異常なほどのポンコツぶりを発揮するリタだった。
その彼女が告げる。
「そ、それでは行ってまいります。これが済めば、やっと私は身も心も彼のものになるのです。そのために誠意努力する所存にございます」
「さぁリタ、肩の力を抜くのです。ゆっくりゆっくり深呼吸をして。――それではいってらっしゃい。成功を祈っておりますからね」
緊張のあまり今や笑みを浮かべる余裕すらなく、青い顔を強張らせたまま部屋を出ていく愛する娘。
その背中を見送ったイサベルとエメラルダは、音もなく閉じた扉をいつまでも見つめ続けるのだった。








