第32話 悲壮な覚悟
前回までのあらすじ
父ちゃん死んだってよ。
「いやぁー!! フェルディナンド!! 死なないで!! いやぁー!!」
ついに呼吸が止まった夫の身体を抱きしめて、エメが絶望の悲鳴をあげた。
すでに動くことも叶わなくなったフェルの顔に頬を寄せると、自身の身体が血塗れになるのにもかまわずに未だ温かい夫の体温をその身に感じようとしている。
しかしその時、妻に抱えられたままのフェルの身体が身動ぎしたかと思うと、次の瞬間にはパチリと目を見開いたのだ。
そして不思議そうな顔で、縋りつく妻の顔を凝視した。
「……あれっ? 生きてる……?」
「えっ……!!」
一時はぐったりと全身の力が抜けて呼吸まで止まったフェルだったが、気付けば再び目を開けて、妻の顔を凝視していた。
そして驚愕の表情で見つめる妻と至近距離で目が合った。
どうやら自分は生きているらしい。
おまけに直前まで感じていた耐え難いほどの痛みがすっかりなくなっている。
いや、待て。
あれだけの酷い痛みが全く感じられないということは、やはり自分は死んでいるのではないだろうか。
しかし妻は驚きの表情で自分を見つめているし、彼女の体温も感じる。
――と言うことは、やはり自分は生きている?
怪訝に思ったフェルが何気に自分の身体を見下ろしてみると、そこには驚くべき光景が広がっていたのだった。
あれだけ深く切り裂かれて溢れるように血を流していた身体が、まるで何事もなかったかのように傷が塞がり、血も止まっていた。
袈裟懸けに斬り付けられた服は未だ裂けたままになっているが、そこから覗く肌には全く傷が見当たらないのだ。
試しに皮膚を触ってみても、あれだけ激しく血を吹き出していた深い創傷が全く見当たらなくなっている。
「こ、これはいったい……」
「あ、あなた……傷が……消えてる――」
「あ、あぁ。もう痛くない。なにも感じない……これは……」
茫然とした顔で傷があった場所を二人が眺めていると、その横に必死な顔をして鎮座する小さなリタの姿に気が付いた。
彼女は父親の足元に座り込むと、何やらぶつぶつと呟きながら両手を身体に翳している。
幼く愛らしいその顔の眉間に深いしわを刻んで、リタは決死の表情で何かをしていた。
「リ、リタ……あなた、なにを――」
「リタ、お前――」
両親が揃って自分の顔を見つめているのに気が付くと、父親の身体に翳していた掌をリタはやっと離した。
その顔には一目でわかるほどの疲労が見て取れて、彼女は疲れ切ったように大きなため息を吐く。
未だぼんやりと薄く光を放つ掌と、疲れ切ったような娘の顔、そして完全に消え去った自分の傷跡。この三つに順番に視線を送ると、フェルの顔には次第に理解の色が広がってくる。
虚ろな瞳でふらふらと身体を揺らす娘に手を添えながら、フェルが声をかけた。
「リタ――もしかしてお前が……治してくれたのか?」
「リタ、あなたがフェルの身体を?」
「――うむぅ、本当にぎりぎりじゃったのぉ…… ほんに、間におうてよかった……」
ぼんやりと焦点の合わない瞳のまま、コクコクと頷きながら両親の問いに答えるリタ。
その身体はフェルが支えていなければいまにも倒れてしまいそうなほどにフラついて、今度は彼女の方が意識を失いそうになっている。
それでも気丈にも父親の具合を気にする素振りを見せていたが、ついにその身体から力が抜けると、こてん、とそのまま横に倒れ込んでしまった。
「リ、リタ!! 大丈夫!? しっかりして!!」
「リタ!?」
恐らく父親の回復した姿に安心したのだろう。
まるで眠るように気を失ったリタは、その顔に薄い微笑みを浮かべて、母親の腕の中で規則正しい寝息を立て始めたのだった。
死ぬ寸前の父親の身体に、リタは治癒魔法を使っていた。
それも、この小さな身体が耐えられるかわからないほどの大量の魔力を、一度に流し込んでいたのだ。
しかしあまりに大きな負荷に彼女の幼い身体は耐えきれず、父親が息を吹き返した直後に彼女は意識を失った。
彼女の持つ魔力総量は前世とそう大きく変わっていなかったが、いまのこの身体では一度に扱える魔力の量には限界がある。
そしてその限界値は、これまで裏庭で散々試してきたことからある程度わかっていた。
しかし目の前で命の灯を消しつつある父親の姿を見てしまったリタは、そんな己の限界などにかまっている余裕などはなかったのだ。
自分の身体を守るために魔力を制限すれば、恐らく父親の治療は間に合わない。
咄嗟にそう思った彼女は、限界を超えた魔力を放出した。
その結果、確かにフェルは一命を取り留められたが、その代わりに限界を超えたリタの身体は悲鳴をあげたのだった。
「き、貴様ら、ただで済むと思うなよ!! 今回の件は領主様に報告させてもらうからな!! 全員捕縛してやるから、か、覚悟しておけ!!」
唯一の恐怖の対象だったリタが倒れた。
その様子に俄然息を吹き返したゲプハルトは、先ほどまでの勢いを取り戻すと突然大きな声で叫び出す。
その顔には未だ怯えの表情が残ってはいるが、倒れてから一度も目を覚まさないリタを見て安心したのか、再び高圧的な口調が戻って来た。
それでも彼の口調は、何とも歯切れの悪いものだった。
護衛の騎士は二人とも重傷で動けない。
馬車の御者は無傷ではあるが、戦闘要員ではない。
とは言え、ゲプハルト本人も闘った経験などない。
そもそも馬車の乗り降りでさえ人の手を借りなければいけないほどの肥満体では、凡そまともに動けるとも思えない。
たとえ戦ったとしても、満足に動けないゲプハルトは剣を持ったエメにすら勝てないだろう。
それは彼自身もわかっているらしく、自分と御者の二人だけではリタの家族を捕縛できないと判断したゲプハルトは、その場からの撤退を決めたのだった。
「こ、今回は見逃してやるが、必ずまたやって来るからな!! 次に会う時は交渉などは一切なしだ。端からお前らを犯罪者として捕縛してやる、覚悟しておけ!!」
そう捨て台詞を吐いたクンツ・ゲプハルトは、唯一無傷で残った部下である馬車の御者に、怪我を負った騎士二名と残った荷物の回収を命じた。
そして御者が帰り支度を済ませると、自身も苦労して馬に乗り込んで、逃げるように去って行ったのだった。
うめき声をあげながら馬の背に無理やり括り付けられた二人の騎士の姿が、エメにはとても気の毒に見えた。
自分たちと同じように、彼らとて家に帰れば妻も子もいる身なのかもしれない。そうであればせめて無事に家まで帰りついてほしい。
それにしても、と、エメは思う。
家族を守るためとは言え、あれは自分の娘が負わせた怪我なのだ。
かと言ってあそこでリタが攻撃しなければ、自分たちはいまごろ殺されていただろう。
それを考えると、リタがしたことは決して責められるようなことではないが、母親としては自分の子供が人を傷つけたことに責任を感じてしまうのも事実だ。
どんな理由があったとしても人様を傷つけてはいけない。
子供の時からそう言われて育てられてきたエメは、今更ながらリタのしたことに抵抗を感じるのだ。
しかしこの世は弱肉強食の世界だ。
弱い者は大切な家族でさえ守ることができない。
弱いという、そのこと自体が罪なのだ。
最愛の夫と娘の姿を見つめながら、これまで自分が教えられてきたことが所詮は理想でしかなかったことを、エメは痛切に思い知らされていた。
リタの捨て身の治癒魔法のおかげで、表面上はフェルの怪我は治った。
だからと言って失われた血液がもとに戻ったわけではないので、すでに相当量の出血を強いられていたフェルの状態は未だ危険であることに変わりはない。
その証拠に今も彼は地面に横になったまま、焦点の合わない目でぼんやりと宙を見つめている。
そしてエメの腕の中には、父親の回復を見届けて満足そうな笑みを浮かべて眠るリタの姿がある。
今回は全て彼女に助けられた形になったが、これからは自分たちが彼女を守るのだ。
改めてそう誓うエメだった。
――――
ゲプハルト一行が去った後、ひとまずエメはフェルとリタを家の中に運び込んでベッドに寝かせた。
領主の元に戻って行ったゲプハルトが再びここに戻ってくるのに、往復で十日はかかるだろう。だからそれまでの間に二人を動ける状態にしなければならないのだ。
次にゲプハルトがやって来る時は、大勢の仲間を引き連れてくるはずだ。
それだけ彼がリタの魔法を警戒している証拠なのだろうが、あの気位の塊のような男なのだから次は圧倒的な戦力を用意するだろう。
今回は騎士が二名だけだったので、我流の付け焼刃のようなリタの魔法が効いたのだろうが、次回はそうはいかない。
そもそも自分たちの運命を四歳の娘に頼ること自体がおかしいのであって、本来彼女は守られる方の立場なのだ。だからそんな圧倒的な戦力差の矢面に娘を立たせるなど、そんなことができるはずもなかった。
だからここは逃げの一手で行くべきだ。
そのためには可能な限りの短い期間でフェルとリタには動けるようになってもらわなければならないし、逃げる先やその経路も考えておかなければならない。
だからまずは夫のフェルに意識をはっきりさせてもらうべきだ。
身体が動かなくても、せめて相談くらいはできるだろう。
家族の中でただ一人無事だったエメは、拳を固く握り締めて悲壮な覚悟を決めたのだった。








