第31話 怒りの幼女
前回までのあらすじ
フェルの草刈り鎌が炸裂……しなかった
声が聞こえた方向に全員が顔を向けると、そこには怒りの形相のリタが立っていた。
細い眉とタレ目がちの瞳を思い切り吊り上げるその顔は、彼女の怒りの凄まじさを物語っており、両親をしてそんな娘の顔は初めて見るものだ。
それでも生来の愛らしさは微塵も損なわれておらず、その怒りの大きさにもかかわらず彼女の顔は何処かしら微笑ましくも見えた。
幼女が本気で怒っても、その愛らしさは微塵も損なわれることはない。
それは有史以前から神が決めたもうた絶対的な摂理であり、それに対する反論は誰であろうと許されない。
なぜならそれは、凡そ人知の及ばない神の掟とも言えるものだからだ。
怒れる幼女の顔こそ愛らしい。
それはこの世の正義とも言えるものだった。
それはさておき、そんな四歳児を前にしてこの場の全員が言葉を失っていた。
彼女の言葉を真に受けるのであれば、いま馬車が宙を舞ったのは目の前の幼女の仕業と言うことになる。
実は、彼女は人知れず魔法を放っていた。
騎士とフェルの闘いに全員が気を取られている隙に風刃で馬の手綱を切断し、その後に得意の魔力弾で馬車を吹き飛ばしたのだ。
言うまでもなく、もちろん無詠唱で、だ。
だから誰の目にも馬車が勝手に宙を舞ったようにしか見えなかったし、それ自体が全員の理解の範囲を超えていた。
そしてリタの口から聞いた言葉で、初めてそれが彼女の仕業であることを理解したのだ。
「な、なんだと…… い、いまのはお前がやったのか?」
リタ本人の口から語られたにもかかわらず、尚もゲプハルトは疑問を口にする。
そして、そんな二人の姿にこの場の全員の目が釘付けになっていた。
もちろん騎士もフェルも、完全に闘いを忘れている。
「ふむぅ、そうじゃ、わちがやった。しょれとも信じられぬか? ならば、ちゅぎはおまぁを吹き飛ばそうか?」
「ま、待て、少し待て!! ほ、本当にお前がやったのだな!?」
「……だから、わちがやったと何度――」
再度のゲプハルトの質問に呆れたようにリタが答えていると、突然横から悲鳴があがった。
リタがゲプハルトとの会話に夢中になっている隙に、騎士の一人が突然フェルの肩に斬り付けていたのだ。
いくら上司の命令とは言え、よそ見をしている農夫に向かっていきなり斬り付けるのは些かフェアとは言えない行為だろう。
「ぐあっ!! く、くそっ……!!」
騎士の袈裟懸けを身体に受け、肩から胸にかけて鮮血が飛び散る。
そしてあまりの勢いと衝撃に耐えきれず、フェルは音を立てて地面に倒れ伏してしまった。
「いやぁー!! あなた!! フェルディナンド!!」
半狂乱のエメの声がこだました。
地面に倒れる夫に駆け寄ると、必死に流れ出る血を止めようとして彼女はその手を真っ赤に染めている。
しかしその傷は相当深いらしく、いくらエメが手で押さえてもフェルの傷から流れ出る血が止まることはなかった。
そんな二人の姿が目に入った瞬間、怒りのあまり大きく目を見開いたリタが咄嗟に右手を身体の前に翳す。
次の瞬間、彼女の掌から生まれ出た光の塊のようなものが、一直線に飛んでいった。
「ぐはぁ!!」
今度は騎士が吹き飛ぶ番だった。
それも父親に斬り付けた卑怯者の騎士だ。
リタの手から放たれた光の塊をまともに受けると、騎士は勢いよく後ろに吹き飛んで地面を転がり、そのまま動かなくなった。
彼の胸に着けられた金属製のプレートは、まるで巨大な岩をぶつけられたかのように大きくへこみ、口から血を吐きながら激しく咳き込んでいる。
そして「ひゅーひゅー」と浅い呼吸を繰り返すばかりのその姿から、彼が肺を潰されていることが容易に想像できた。
「な、何をする!! 逆らうつもりか!?」
多分に狼狽しながらゲプハルトが叫ぶ。
目の前の「魔力持ち」が何か光るものを手から発した瞬間、離れた騎士が胸を潰されたのだ。
その姿を目の前で見ていた彼は、思わず腰を抜かしそうになった。
ゲプハルトは長年「魔力持ち」の捜索と保護――という名の連行――を行ってきたが、実際に魔法を見るのは初めてだった。
そして魔法というものは人知を超えた大きな力を発揮するが、発動には呪文の詠唱やら触媒やら面倒な手続きが必要で、その行使には時間がかかる。
だから瞬間的に発動できるものではないと聞いていたのだ。
しかし実際の攻撃魔法を目の当たりにして、そのあまりの素早さと想像を超える威力にゲプハルトは腰が抜ける思いだった。
もしもこれと同じものを食らったならばと想像すると、そのあまりの恐ろしさに身が震え、一歩も動くことができなくなっていた。
よもや貴族の自分がこんな片田舎の幼女に叩きのめされるなど思ってもみなかった彼は、貴族としての気位を木っ端微塵に砕かれていたのだった。
「おにょれぇ……もう許しゃぬぞ――おまぁら全員思いしりゅがええ!!」
斬り付けられ、血を流して倒れる父親。
その身に縋りついて泣きじゃくる母親。
その二人の姿を見たリタの理性のタガはとうに外れ、その愛らしい顔には憤怒の表情が浮かび上がっていた。
そして「ふんぬっ!!」とばかりに小さな身体で仁王立ちをすると、未だ無傷でいる別の騎士に向かって左の掌を翳す。
次の瞬間、彼女の掌から発せられた巨大な火の玉が騎士を襲い、大音量とともに着弾、爆発を起こしたのだった。
「ぐああぁぁ!!」
鎧ごと上半身が爆炎に包まれた騎士は、地面を転がって必死に火を消そうと暴れ回る。すると慌てて駆け寄って来た馬車の御者が、羽織っていたマントで包みこむようにして消火した。
全身に大火傷を負って息も絶え絶えになった騎士は、すでに戦意を喪失して、ただ地面に寝転がるだけになったのだった。
「や、やめろ!! 私に危害を加えると大変なことになるぞ!! 領主様を敵に回すことになる、や、やめた方がいい!!」
肺を潰されて血を吐く騎士と、大火傷を負って倒れる騎士。その両名の姿を視界に収めたゲプハルトは、最早恐怖のあまり卒倒しそうになっている。
いまの彼の頭の中には、どうすれば自分が助かるか、それしかなかった。
しかしそんな卑怯者の思惑など一切構わぬと言わんばかりに、怒りの形相に顔を染めたリタがにじり寄ってくると、その小さな紅葉のような両手を開いて目の前に翳した。
「や、やめろ!! 助けろ!!」
「リタっ!! だめよ、やめて!! どんな理由があったとしても、人を殺めてはいけない!! 人殺しになんかなっちゃいけないの!!」
電撃を発動しようとリタが構えた瞬間、背後から悲鳴のような母親の声が聞こえてくる。
その声に込められた彼女の想いを慮ると決して無視できるものではなかったが、すでに怒りを抑えられなくなっていたリタは、掌から発動しつつある電撃を止めることはなかった。
そして震えあがるゲプハルトを掠めて飛んで行った特大の電撃は、彼の背後の馬車の残骸に当たると、そのまま派手に爆発、炎上したのだった。
護衛の騎士二人を瞬時に潰され、馬車は跡形もなく爆発した。
その光景に恐怖のあまり地面にへたり込んでしまった庶務調査官クンツ・ゲプハルトは、股間に大きな染みを作ったまま何一つ声を出せずにいる。
そんな様子には全く構うことなく、リタは血を流して地面に倒れる父親に駆け寄った。
その両眼からはとめどなく涙が溢れ、彼女は盛大に泣きじゃくっていた。
「うええぇぇん!! ととしゃま、ととしゃま!! しっかりしゅるのじゃ!! わちがいま治しちゃるから、もしゅこし我慢しさらせぇ!!」
「あぁ……リタか…… は、早く逃げろ…… 私はもう助からん。せめてお前とエメラルダだけでも逃げてくれ……頼む……」
息も絶え絶えになりつつも、それでも妻と子供の身を案じる父親の姿にリタは涙を流し続けた。
そして同時に流れだした鼻水と混ざり合うと、糸を引きながらフェルの顔面に滴り落ちる。
父親は少しだけ迷惑そうな顔をした。
「うええぇ……ととしゃま、ととしゃまぁ――いま治しちゃるからのぉ、うえぇぇん」
「あぁ、リタ、ありがとう…… でも、もうこの傷ではお薬も効かないんだよ。わかるだろう? お前は賢い子だから……」
「あぁ、あなた……フェルディナンド、しっかりして、死んじゃいや――お願いだから死なないで。私達を残して逝かないで!!」
大量の出血のために意識が朦朧とし始めたフェルは、すでに焦点の合わない目で最愛の妻の顔を見ようとする。
しかしもう彼女の輝くような金色の髪も、透き通るような青い瞳も、華奢で小さな身体も、何もかもがその目に映ることはなかった。
「あぁ、エメラルダ……お前には苦労ばかりかけたな…… 魔力持ちの家に生まれていながら魔力を持たない私に……お前はよく付いてきてくれた……」
「いやよ、いやっ――そんな、これでお別れみたいなこと言わないで!!」
「父がお前との結婚を許さなかったばかりに……無理に駆け落ちをしたせいで、こんな生活を強いてしまった……辛かったろう? 本当にすまなかった……」
「そんなことない、私は幸せよ!! 愛するあなたとリタと一緒に暮らせたんですもの…… こんな幸せなことはなかったわ――」
流れ出る夫の血で全身を真っ赤に染めながら、エメラルダ――エメは泣きじゃくる。その両手で愛する夫の手を握り、必死に声をかけ続けた。
出血のために最早意識が朦朧とするフェルディナンド――フェルは、そうしていなければ即座に意識を失ってしまいそうだったからだ。
「あぁ……私も幸せだったよ…… 食べる物にも苦労するほど……ごほっごほっ…… 貧しかったけれど、愛するお前とリタに囲まれて、こんなに幸せなことは……なかった……エメラルダ……リタ……ありがとう……こんな私を……許してくれ……愛してる……」
「いやよ、いや……あぁ……フェルディナンド、しっかりして、お願いだから目を覚まして――うあぁぁぁ!! あなたぁ!! あぁぁぁぁ――」
次第に力が抜けてぐったりとし始める夫の身体に縋りつき、エメが大声で叫んでいる。
彼女は必死にフェルの頬を摩っているが、最早反応は返さなかった。
薄れゆく意識をここまで必死に繋ぎとめてきたフェルだったが、その努力は実ることなく、ついに呼吸を止めたのだった。








