第282話 高すぎた代償
前回までのあらすじ
リタの乳は安くない。その代償は高くつくはず
壮絶なビンタから始まったケビンとリタの邂逅は、今や和やかな談笑へと変わっていた。
美しくも愛らしい15歳の少女と、人生の折り返しを迎えた31歳の中年の男。
この二人の語らいに如何わしいところなどまるでなく、それどころか本当の親子のように親しげな姿は、もしも同席者がいたなら皆一様に頬を緩めるようなものですらあった。
とは言うものの、それが密室で繰り広げられる男女の秘め事である事実に変わりはなく、そのうえ厳重に人払いがなされていたが故に、当然周囲の者たちは曲解してしまう。
事実メイドたちはリタの境遇を哀れんでいたし、公妃アビゲイルは自分たちを助けるためにリタが犠牲になったとして、忸怩たる思いに囚われていた。
そしてラインハルトはイラつきを隠そうともせず周囲に当たり散らし、ジルと隊長ルトガーは無言のまま座り込み、さらにショタ魔術師ルイ・デシャルムに至っては有らぬ事を想像して顔を真っ赤に染めていた。
そんな中、突如響き渡った細く甲高い少女の悲鳴と殴打音。
それを聞いたラインハルトは思わず剣を抜いて走り出しそうになったのだが、相手が王配であることを思い出したのと、周囲の必死の制止のために止む無くその剣を放り投げてしまう。
そして全てを諦めたように不貞寝してしまうのだった。
しかしそんな中、まるで躊躇なくテントへ近づく者がいた。
顔に憤怒の表情を浮かべながら、大股で歩く一人の武人。
王配自らが人払いしたことなど全く頓着せず、一切の遠慮なくテントの中へと入っていく。
そして叫んだ。
「ケビン殿下!! このようなところで、いったい何をなさっておられるのです!! 真昼間から若い女性を連れ込んで、そのうえ人払いまでさせて……まったく貴方というお方は!!」
興奮のあまり、顳顬に盛大に血管を浮き出させた60歳手前の大柄な老人。
まさに武人の風格に溢れた、誰もが畏れる偉大な将軍。
誰あろうそれは、ブルゴー王国西部辺境伯にして西部軍最高司令官でもあるコランタン・クールベ伯爵その人だった。
将軍とはまさに武人の頂点であり、武を志す者であれば誰もが憧れる目指すべき目標でもある。
しかし現将軍のコランタンは凡そそうは思えないほど物腰も口調も柔らかい、言わば好々爺然とした人物で有名だった。
しかしそんな彼が、相手が王配であろうとまるで容赦なく怒鳴りつける。
そんな彼に向かって、ケビンとリタが同時に顔を向けた。
「へっ?」
「えっ?」
同じように目を見開き、口を開けたその顔は、ともすればマヌケにすら見えるものだった。
どうやら彼らは談笑していたらしく、距離を置き、対面に置かれた椅子に腰掛けたまま、突如乱入してきたコランタンを見つめていたのだ。
ともにしっかりと衣服を身に纏い、脇に置かれたベッドが全く乱れていない様は、凡そコランタンの想像とは違っていた。
勢いよくテントに突入したものの、実のところコランタンは二人が事の真っ最中だと覚悟していた。
己の立場を利用して、幼気な少女を弄ぶ勇者ケビン。
場合によっては、その身を挺して少女を助け出すのさえ辞さなかった。
自国の王配であり救国の英雄でもあるケビンに対して、将軍コランタンにして尊敬の念を禁じ得ない。
なによりあの偉大な魔女アニエスの弟子にして、女王エルミニア自らが生涯の伴侶に選んだ人物なのだから、その為人は推して知るべしだ。
事実その一本筋の通った性格と正義感の強さはコランタンにとっても好ましかったし、臣下、国民からの受けも良かった。
さらに目の前で見せつけられた凄まじいまでの戦闘力は、その「魔王殺し」の名が伊達ではないことを証明した。
だからこそコランタンは、自身の半分の年齢でしかない言わば若輩のケビンを敬愛していたし、自身の手足とも言うべき西部軍の指揮を譲ってもいたのだ。
人として信頼に値する真面目で穏やかな性格と、余人に並び立つ者がいないほどの強さと圧倒的なカリスマ。
まさに完璧と言っても過言ではない勇者ケビンではあるが、実はコランタンには一つだけ気になることがあったのだ。
それは「英雄色を好む」という故事だった。
ご存知のように、ケビンと女王との間にはすでに8人もの子がいる。
それは未だ結婚10年目の夫婦としては些か多すぎる人数であり、裏を返せばそれだけケビンが絶倫である証拠だった。
もちろん王配であるケビンには一人でも多くの世継ぎを作ることが求められるし、彼の仕事の一つでもあるのでそれ自体に否やはない。
事実コランタンは、次代のブルゴーを担う子どもたちを数多く輩出したケビンに感謝こそすれ物申すつもりなど全くなかった。
さらに妻以外の女性と浮名を流したことなど一度もないうえに、未だに仲睦まじい夫婦は誰もが羨むものでもあり、そこを心配したこともない。
しかしそんな時だった。リタが姿を現したのは。
童顔のせいで少々幼く見えるとは言え、その容姿はまさに美少女と呼ぶに相応しく、男であれば誰もが目を奪われるものだった。
そして彼女を見るケビンの目つきが明らかにおかしく、あれだけ普段は落ち着いているにもかかわらず、そのときだけは何処か動揺しているようにすら見えたのだ。
殿下はもしやこのような幼気な少女が好みなのだろうか。
思えば女王陛下も似たような容姿の女性であるし……
などとその時は軽く思ったのだが、いざ用事を済ませて戻ってみると少々事情が変わっていた。
なんとケビンは突如リタをテントに呼びつけたうえに、厳重に人払いまでさせたと言うではないか。
直前にファルハーレンの一行が保護してほしいと訴えてきた。しかしその時ケビンは検討すると伝えたまま即答を避けていたのだ。
そしてこのタイミングでリタを呼びつけたということは、最早その目的は一つしかなかった。
そんな覚悟とともにテントに突入してみれば、予想に反して談笑中だった二人に些か肩透かしを食らってしまう。
とは言うものの一度振り上げた手をそのままにもしておけず、コランタンは二人をキッと睨みつけた。
「……殿下。いったい何をなさっておいでなのです? ――用事を済ませて戻ってきてみれば……皆が噂をしておりましたぞ!!」
「あぁ、将軍。お勤めご苦労だな……一体どうした? 何故そのように怒っている? それに皆の噂とはなんだ?」
事の重大さに気付くことなく、軽く問いかけるケビン。
するとコランタンはわざと聞こえるように大きく鼻息を吐いた。
「ふぅ……テントに年頃の女性を連れ込んで、剰え人払いまでさせたのですぞ? 私がなぜ憤っているのか、周りにどう思われているかなど少し考えればおわかりでしょう!?」
「あ? あぁ……」
その言葉で初めて事態の重大さに気付いたケビンは、彼には珍しく慌てたように立ち上がる。
そしてコランタンに向かって釈明まがいの言葉を吐いた。
「い、いや、ちょっと待て!! 誓って言うが、俺はお前が思っているような疚しいことは何一つしていない!! ここではリタ嬢と情報交換をしていただけで――」
「なれば問いますが、先ほどの悲鳴とその胸元の乱れ、そして敢えて人払いまでした理由をお聞かせいただけますかな? それも納得のできる筋の通った形で」
そう告げたコランタンの視線の先にはリタの胸があったのだが、確かに指摘する通り、その着衣の胸元には些かの乱れが見えた。
それは間違いなく先ほどケビンが顔を埋めたところであって、その後リタが直していたところだ。
それは注意していなければ見過ごす程度の乱れでしかなかったが、この百戦錬磨の老将軍の目を誤魔化すことはできなかったらしい。
その質問はケビンにして思わず答えあぐねてしまうものだった。そのうえ決して言い逃れできない事態に否が応にも気づいてしまう。
この15歳の少女は実は自分の養母であり、いまここで10年ぶりの再会に涙していたところだ。
人払いをしたのはその事実を聞かれたくなかったからで、彼女が悲鳴を上げたのは、懐かしさのあまり抱きついてしまったからだ。
などと間違っても真実を伝えられるわけもなく、短い時間の末にケビンは途方に暮れてしまう。
そして助けを求めるようにリタを盗み見ると、その視線に気づいた彼女は任せろとばかりに口を開いた。
「クールベ将軍閣下。失礼ながら、それについてはこの私からご説明させていただきますわ。 ――しかしその前に、私とケビン殿下が既知の仲であることを申し上げておきます」
「既知……? なんと、お二方は知り合いだったと? それはいま初めてお聞きしましたな。何故今まで黙っておられた? それならそうと、前もって仰っていただければ――」
「申し訳ありません。べつに敢えて黙っていたわけではありませぬが、かと言ってお伝えする機会もなかったものですから……このような事態となりました」
「しかしお知り合いと仰られても……貴殿はハサール王国の伯爵家令嬢、殿下はブルゴー王国の王配。ご存じのようにこの二国に国交はなく、これまで互いに相まみえる機会などなかったはずでは……」
どうしても納得できずに、思わず胡乱な顔をしてしまう将軍クールベ。
リタに向かって訝しげな視線を投げながら、思案顔を崩せずにいる。
するとやっとここでリタが言わんとしていることを理解したケビンは、その続きを自ら口にした。
「今から10年前、あのセブリアンが引き起こした事件はお前もよく憶えているだろう? ――ハサール王国ムルシア侯爵暗殺事件。その交渉のために、俺が単身ハサールまで出向いたことも」
「……あぁ、そういえばそうでしたな。あの事件では殿下自らが使者としてハサールに赴いたのでした。そしてその後に見せた手腕は、本当に素晴らしいものでした。その時に受けた感銘は今でもよく憶えておりますよ」
「あぁ。それでその時なんだが、ハサールで事件の顛末を聞かせてくれたのは、誰あろう、このリタ嬢だったんだ。 ――当時彼女は僅か5歳だったのだが、不幸にもその事件に巻き込まれてな。唯一の目撃者として、セブリアン訴追の切っ掛けを与えてくれたのは実は彼女なんだよ」
「そうだったのですか……それは大変だったでしょうなぁ……」
「えぇ、本当に大変でしたわ。幼心に今でも憶えておりますが、それはもう恐ろしくて恐ろしくて……その後暫くは夜しか眠れませんでしたもの」
「そうでしたか……」
明らかな同情のコランタンの視線。
これまでの胡乱な目つきを改めて、今や彼はリタの過去を思い遣っていた。
その変化に思わず安堵の表情を浮かべそうになったのだが、ケビンは上手く誤魔化した。
「それでだ、将軍。その時に俺とリタ嬢は二人だけの秘密を共有していてな。それをここで話していたのだ」
「秘密……ですか? それはなんです?」
「あぁ。亡きバルタサール卿との約束があるゆえ全てを詳らかにはできんが、それはセブリアンとも関係のあることだ。そしてカルデイアともな。 ――それは今後の作戦にも影響する故、未だ詳しくは話せん。許せ」
「あぁ……そうだったのですか……」
ここで遂に合点がいったとばかりにコランタンが頷いた。
そして再び表情を改めると、同時に口調も変える。
顔にはもとの好々爺然とした表情が戻り、元通り物腰も柔らかくなっていた。
その様子に最後までだまし切ったとケビンは内心ホッとしていたのだが、次の瞬間、再び怪訝な顔で見つめられてしまう。
「リタ嬢を呼び出した理由、そして人払いをした事情も納得しましたが、未だ腑に落ちぬところもございますな」
「腑に落ちぬところ……?」
「えぇ、そうです。敢えて申し上げますが、何故に貴方様はそのように頬を腫らしておいでなのですか? そしてリタ嬢の悲鳴の理由は? ――彼女の着衣の乱れと相まって、やはりここでなにかが起こったと思わざるを得ませぬ。それ故、全てを詳らかにしていただきたい」
「えっ……」
その言葉で、ようやくケビンは顔の異常に気が付いた。
そして今なおジンジンと痛む頬を触ってみると、そこは燃えるように熱を持って盛大に腫れ上がっていたのだ。
誤魔化すのに必死過ぎてすっかり忘れていたが、ケビンの左頬はリタの渾身の無詠唱ビンタのせいで紅葉のような手形が付いていた。
それにはさすがのケビンも誤魔化しようがなく、再び途方に暮れてしまう。
困った末に再び視線を向けると、やはりそこには悪魔のような笑みのリタがいた。
そしてニンマリとした含み笑いのまま口を開く。
「見ておわかりかと思いますが、それは私がやりましたのよ。なにせこのお方が、身体検査をすると仰られるものですから」
「し、身体検査……ですと?」
「えぇ、そうですの。殿下は私の胸を見た途端、『そのように乳ばかり腫らしおって、まことにけしからん!! 何か武器でも隠し持っていては困る故、検めさせてもらう!!』などと仰って、胸に触れようとなさるものですから……つい大声を出してしまいまして……」
「い、いや、ちょっと待て!! お、俺は決してそのような――」
突然何を言い出すのかと慌てながら、リタの言葉を必死に否定するケビン。
それを尻目にコランタンはリタの訴えに耳を傾けると、再びキッとケビンを睨みつけた。
「殿下……まったく見損ないましたぞ!! 一国の王配ともあろうお方が、このような幼気な少女に悪戯をしようなどと……もしも奥方――女王陛下のお耳に入りでもすれば、どれだけ心を痛められるか……」
「い、いや、だから俺はそんなことはしていないと――」
「殿下!! 言い訳など見苦しいですぞ!! 確かにこのような男所帯で悶々とされるのもわかりますが、だからと言って未だ15の少女に悪戯をするなど言語道断!! しかもそれほど盛大に返り討ちにあうとは、それこそ勇者の名が泣きますぞ!! ――あぁ、なんと嘆かわしい!!」
「将軍!! 俺の話を――」
「とは言え、このまま真実を伝えたところで、兵たちに良い影響があるとも思えませぬ。故にここは一つ、この事実は私の胸にしまっておくことにいたしましょう。 ――よろしいですな、殿下?」
「だ、だから俺は――」
必死に食って掛かるケビンになどまるでかまうことなく、コランタンは淡々と告げる。
そして最後にリタを見ると、心から申し訳なさそうな顔をした。
「ハサール王国レンテリア伯爵家令嬢、リタ・レンテリア殿。ここなブルゴー王国コンテスティ公ケビン王配殿下に成り代わりまして、この私が謝罪いたします。 ――どうかこの通りです。何卒無礼をお許しください」
そう言いながら深々と頭を下げる、コランタン・クールベ将軍。
その彼の様子を眺めながら、リタは小さくケビンに囁いた。
「のう、ケビンや。だから言うたではないか。 ――わしの乳は安くない、とな」
言葉とともにニヤリと笑うリタ。
今やその顔は、ケビンにとってはまるで悪魔のようにしか見えなかった。








