第281話 彼女が依頼を受けた理由
前回までのあらすじ
15歳の少女の胸に顔を埋める31歳のオヤジ。 ……これは通報ものでしょ。
「うぬぅおぁぁぉぁ……」
もはや言葉にもならない呻き声を上げながら、地面をのたうち回るケビン。
必死に痛みに耐えながら頬を押さえて悶える姿は、凡そ勇者だとか救国の英雄などと呼ばれる人物には見えなかった。
そしてその横には、着衣の胸元を乱雑に開けさせた一人の少女。
ハァハァと大きく肩で息をしながら、リタは身悶えるケビンをキッと睨みつけた。
「はぁ、はぁ、はぁ……うぬぅ、ケビン!! いきなり何さらすんじゃい、われぇ!! これでもわしは嫁入り前の乙女なんじゃぞ!! なのに、いきなり乳に顔を埋めるなんぞ正気の沙汰とも思えんわ!!!!」
「ぬおぁぅぉぁ……」
「そもそもなんじゃ!! 童ならいざ知らず、いい歳こいたオヤジが断りもなく乙女に抱きつきおってからに!! 破廉恥にもほどがあるわ、このバカチンが!!」
「ぬぉぉ……す、すいません……嬉しさと懐かしさのあまり……つい……」
痛みに顔を顰めながらも、必死に謝るケビン。
まるで母親に説教を食らった子供のような姿には、今や一国の支配者の威厳など欠片も見られなかった。
幼い頃に親に捨てられたケビンは、ずっと地方の孤児院で暮らしてきたのだが、ある日突然魔力を開眼させると強い魔力持ちとして首都に連れてこられた。
そして詳しい鑑定の結果、滅多にいない「勇者」の認定を受けた彼は、そのままアニエスに預けられることになる。
当時すでに100年以上にも渡りブルゴー王国の宮廷魔術師を務め続けていた魔女アニエス。
その実力は他国にさえ並び立つ者がいないほどだったが、同時に弟子を取らないことでも有名だった。
それは忙しくて暇がないというのが表向きの理由だ。しかし実際には少々複雑な事情があったのだ。
魔法により大幅に延命しているアニエスは、その長い人生ゆえにこれまでも多くの友人、知人がいた。
しかし悉く彼らが先に死んでいくのを見ているうちに、いつしか彼女は必要以上に人と関わらなくなってしまったのだ。
そしてそれは弟子についても同じだった。
何故なら、たとえ自分の全てを教えたとしても、弟子が先に死んでしまえば全くの無意味だからだ。
もちろん彼女とて知の継承の大切さは十分に理解しているし、それを実現するための努力はしてきた。
しかしもとよりアニエスの魔法理論が難解すぎて常人には理解不能だったのと、200年以上に及んで蓄積させた研究の成果と膨大な知識を継承できるだけの人材がいなかった。
それにたとえ理解できたとしても、それを実現するためにはアニエスと同程度の魔力が必要となるため、そもそもそれは不可能だったのだ。
だから自分は一生弟子を取らない。
その代わり、この知識は残らず本に書き記そう。
そしていつしかそれを理解し、実行できる者が現れたなら、その者に継承させるのだ。
いつしかアニエスはそう決めたのだった。
しかしそんな彼女が、突然弟子を持った。
それはやっと5歳になったばかりの幼い男の子で、名をケビンという。
いや、正確に言うとケビンはアニエスの弟子ではなく、国からその養育と教育を任されたに過ぎなかったのだが、どうやら周囲はそう思わなかったらしい。
「あの孤高の魔女、アニエスが遂に弟子を取った」
と当時はなにかと話題になったものだった。
とは言うものの、これまで子を産むどころか結婚も恋愛すらも経験のないアニエスは、幼いケビンの扱いに戸惑ってしまう。
そして悩んだ結果、単なる家庭教師として、まずは基本的な礼儀作法やマナー、読み書きなどの一般教養から教えていくことにしたのだった。
当時すでに「ベストオブ老害」などと不本意なあだ名を付けられていた魔女アニエスは、その名に恥じぬ気難しさと理不尽さを併せ持つ人物で有名だった。
故にその教えはとても厳しく、求める水準も非常に高かった。
とは言え、それは自身に対する厳しさの裏返しでもあったので、一概に悪いとも言えなかったのだが。
しかしケビンはその教えに食らいつき、必死に努力した。
どんなに辛く厳しくとも、歯を食いしばり涙を堪えながら耐えるその姿は、周囲の哀れみや同情を誘うものですらあったのだ。
もっとも彼は、無能として捨てられるのを単純に恐れていただけだったのだが、いずれにしてもその姿勢は5歳児として称賛に値するものだった。
そんなケビンに、次第にアニエスも絆されていく。
そして気づけば、まるで我が子のように可愛がっていたのだった。
とは言え、そんな事情になど全くお構いなしに、今なおお冠のリタ。
出会って早々うら若き乙女の乳を揉んだ(いや、揉んでないけど)ことに激怒した彼女は、未だ呻き声を上げ続けるケビンを情け容赦なく追撃する。
「確かにわしはお前の母親代わりだったのは認めよう!! お前が寝小便を垂れていた頃は、よくこの胸に抱いて寝かしつけてやったものじゃしな!! ――しかし今やお前は31、わしは15の乙女なんじゃぞ!? しかも結婚前の淑女じゃ!! 少しは考えて行動せぇ、このハゲがっ!!」
「す、すいません……つい……」
「『つい』で触れるほど、この乳は安くないわ!! 将来の夫のためにと、これまで大切に守ってきたというのに……まったくお前というヤツは……」
まさに「プンプン!!」といった体で怒りまくるリタ。
気の強そうな細い眉を吊り上げて、形の良い小さな口を尖らせて罵る様は、しかし何故か可愛らしくも見えた。
そんなすっかり変わってしまった養母を眺めているうちに、何か思うところがあったのだろうか、未だ痛む頬を押さえながらケビンが口を開いた。
「と、とにかく不用意に抱き着いたのは謝ります。このとおりです、本当にすいませんでした。 ――しかし、それにしてもばば様……」
「……なんじゃい?」
「随分と美しくなられて……本当にびっくりしました。僕が言うのも何ですが、まさに美少女ですねぇ」
そう言いながら上から下までしげしげと眺め回すケビン。
その無遠慮なまでの視線に、思わずリタはたじろいでしまう。
「な、なんじゃ、お前、気持ち悪いのぉ……そ、そんなに褒めても何も出んぞ」
「いえ、これは僕の正直な気持ちですよ。これほどまでに美しい女性は、妻のエルミニア以外に見たことがありません。 ――国ではさぞ評判なのでは?」
「ひょ、評判もなにも、わしにはすでに婚約者がおるしの。ま、まぁ、おかげで色目を使ってくる助平が多いのは確かじゃが、全員返り討ちにしてやったわい、ふんっ」
相手が育ての親であるにもかかわらず、臆面もなく美しいと言い放つケビン。
そして何故か慌てたように噛んでしまうリタ。
その絵面だけを見ていると、男に容姿を褒められて、思わず焦る少女にしか見えなかった。
そんなリタを、改めてケビンが眺めてみる。
現在15歳のリタは、前回――10年前からまさに正常進化を遂げていた。
八頭身と見紛うほどに小さく整った顔も、小柄で華奢な体躯も、当時からすでに妖精のように愛らしかったが、今の彼女はそれに加えて不思議な透明感をも併せ持つ。
それは少女から女性へと変わりつつある一時しか醸し出せない、言うなればフェロモンに近いもので、それは世の殆どの男が思わず二度見、三度見してしまうほど魅力的だった。
それはケビンとて例外ではなかったのだが、彼女が自身の養母なのだと思うと些か複雑な心境になってしまう。
例えるなら、父親の後添えに自分よりも年下の美少女がやってきたようなもので、彼女を母親と呼ぶには少々背徳的な感じがしたのだ。
決して異性として見てはいけないのをわかっていながら、どうしても意識してしまう。
そんなある種の遣る瀬無さのようなものをケビンは感じていたのだった。
それから暫くの間、無言のまま互いに万感の想いに浸っていた二人だが、それを振り払うかのように再びリタが口を開いた。
その顔には従前どおりの微笑みが浮かんでいた。
「そういえば、お前。未だわしは祝辞も述べておらんかったの」
「祝辞……ですか? なんでしょう?」
「うむ、祝辞じゃ。このような場所で言うのは些かアレじゃが、まぁ、仕方あるまい。それでは改めて申そうかの。 ――ケビンや、此度の王配への就任、ほんにおめでとう。田舎の孤児だったお前が一国の支配者にまで上り詰めるなど、よもやこのわしにさえ想像できんかったわ」
「そ、それはありがとうございます。 ――しかし、お気持ちはわかりますが……」
「まぁの。経緯が経緯ゆえに、これは手放しで喜べることでもなかろう。それはわしにもよぅわかっておる。 ――しかしな、今後のブルゴーとハサールとの関係を慮れば、わしには良かったと言わざるをえんのじゃよ。何故なら、お前を通せば多少の無理は聞いてもらえそうじゃからな。ふふふ……」
流し目をしながら、何処か悪そうな笑みを零すリタ。
その彼女に向かってケビンが怪訝な顔をした。
「無理……ですか?」
「そう、無理じゃ。今やブルゴーの支配者にまで上り詰めたお前だからこそ、その無理も通るというもの。そしてそれを言えるのも、このわししかおらんのじゃからな。それを思えば笑みも零れるというものじゃ。 ――そこで早速お前に相談なのじゃが、精鋭を一個中隊ほど貸してくれんか? そしてわしらをハサールまで送り届けてほしい」
「いやそれは……先ほども申し上げたとおり、我々にはそこまでの余裕はないのです。本国からの補給は絶え、援軍もなく、今後の増援すら望むべくもない。にもかかわらず、カルデイアには未だ首都防衛隊を主力とした軍が残っている」
「ふむふむ……」
「その戦力は、数で言えば我々の凡そ3倍は下らないでしょう。だからこそ今は一人として兵が惜しいのです。 ――それに兵たちの疲弊を鑑みれば、できるだけ速やかに首都を落として凱旋しなければなりません。そのためには――」
「ふむぅ……」
眉間にしわを寄せ、腕を組み、顎を撫でながら思案するリタ。
年齢も外見も全く異なるが、その姿は間違いなく懐かしい養母――魔女アニエスのものに違いなかった。
その姿にケビンが居た堪れなさそうにしていると、再びリタが口を開いた。
「どのみちお前たちはこのまま北上するのであろう? なればわしらもそこまで付いていくとしよう。周囲を軍に囲まれておれば、単独で移動するよりかは遥かに安全じゃからな。 ――それで首都に到着する直前にわしらはハサール方面へ向かわせてもらうが、その時に一個中隊を借り受けたい。 ――それでええか?」
「いや、ですからそれは――」
「なにもただで貸せとは言わん。さすがのわしも、そこまで厚かましくないわ。その代わりに、兵が足りないのであれば貸してやろうと言うておるんじゃよ、わしはな」
「兵を貸すって……いったいどこにそんなものが……」
胡乱げな顔とともに、訝しむような言葉を漏らしてしまうケビン。
するとリタは自慢の胸をドンと叩いて自信満々に言い放った。
「ふふふ……そんなもの、ここにおるじゃろ、ここに。わし一人で10個大隊を超える戦力を約束すると言うておるんじゃよ。 ――なんなら、マンさんを100匹解き放ってやってもええぞ? それとも隕石の雨を降らしてほしいか? 好きなものを選べ」
「えぇっ……? も、もしかして力を貸していただけるのですか? ばば様が? 本当に? 確かにそれは願ってもないことですが……しかしばば様なら、わざわざ兵など貸りずとも自力で国に帰れるのでは……?」
その申し出にケビンはパッと顔に喜色を浮かべたのだが、直後に再び胡乱な顔をしてしまう。
するとリタは、片眉を上げながら大きく鼻息を吐いた。
「馬鹿じゃのぉ、お前は。まだわからんのか? ここはわしらが自力で国に帰っては意味がなかろう? ――今後のブルゴーとハサール、そしてファルハーレンの関係を慮れば、ここはお前が一肌脱ぐことに意味があるんじゃろうが。 ――なぜわからん!? 相変わらずボーっとしちょるのぉ!!」
「えっ……?」
「ええか、思い出せ。ファルハーレンの公妃と公子はハサール国王の娘と孫ではないか。その彼らを保護して送り届けたとなれば、両国から盛大に感謝されるのは間違いなかろう? そして今後はこの二国に対して物申せる立場になるのじゃぞ?」
「あぁ……」
「さらに言えば、これをきっかけにして両国と国交を結ぶことだって可能かもしれん。今後のアストゥリアの動向を鑑みれば、この二国との連携は不可欠じゃからな。よぉ考えてみぃ」
「た、確かにそうですね。それに戦後のカルデイアにおける覇権も考慮すれば、ここでハサールとファルハーレンに恩を売っておくのも悪くない。 ……いや、それどころか、この地域の安定のためにはその二国の協力は欠かせない。 ――であるならば、ここで主導権を握っておくべきか……」
「じゃろぉ? それにな、ハサールと国交を結びさえすれば、いつでもわしらは会えるようになるんじゃぞ? ――近くて遠い国。それが今までのハサールとブルゴーじゃったが、それも過去のものとなるじゃろうのぉ」
その言葉にパッと顔を輝かせるケビン。
そして満面の笑みで大きく頷いた。
「はい、本当にそのとおりですね!! ファルハーレンを経由すれば、5日もあればハサールに着きますよ!! それなら国内を移動するのとそう変わらない」
「うむ。わしはな、お前を結婚式に呼びたいんじゃ。そのためにはブルゴーとの国交は欠かせないからの。じゃからわしはこの依頼を引き受けたんじゃ。 ――それで結婚式なんじゃが……来てくれるかのぉ?」
「はい、もちろんです!! 行きます、喜んで行きますとも!! エルミーと子供たちを引き連れて、一家全員でばば様のウェディングドレス姿を見に行きますよ!! えぇ、絶対に!! 約束します!!」
喜色を満面に湛えて興奮気味に語る勇者ケビンと、彼を前にして嬉しそうにするリタ。
今やそこには、ケビンの保護者であった頃の往年のアニエスの姿が透けて見えていたのだった。








