第265話 救援部隊と少女の啖呵
前回までのあらすじ
おぉ……ここにもおしどり夫婦が一組……不幸な結果にならなければいいけれど……
公王エンゲルベルトを始めとするファルハーレン公国の上層部たちは、結局アストゥリアの進軍を阻むのを断念し、静観することを決めた。
もちろんエンゲルベルト自身は最後の最後まで反対して敵の迎撃を強硬に主張したのだが、重鎮たちの9割以上が反対するに至り、断腸の思いでそれを受け入れたのだ。
ではなぜそのような結論に達したのかといえば、先だってアストゥリアから送られてきていた交渉決裂通知に『我が軍が国内を通過するのを看過するのであれば、こちらから積極的に攻撃はしない』と記されていたからだ。
――いや、正確にはその表現は正しくない。
実際にはそう明記されていたのではなく、文面からそう読み取れたにすぎない。
要するに彼らは、もとよりどうとでも取れる文面であるものを、敢えて自分たちに都合の良いように解釈をしたのだ。
それはそれだけ彼らが追い詰められていた証拠であり、焦燥した心理状態によって無意識のうちに自分たちの判断にバイアスをかけてしまっていたのだろう。
そんなわけでファルハーレンは、こちらから手を出さない限りアストゥリアは攻撃してこないと自分を信じ込ませた挙句に、一度展開した軍を公城周辺に再集結させると、他人が自宅の庭をズカズカと横切るのを静観することにしたのだった。
日増しに暖かくなり、雪解けもすっかり進んだある日の午前2時。
酒を片手にエンゲルベルトが寝室の窓から外を眺めていると、その背後から腰に手を回してくる者がいた。
白く、細く、少しでも強く握れば折れてしまいそうな華奢な腕。
それを見たエンゲルベルトは、振り向くことなく口を開いた。
「どうした、アビゲイルよ。お前も寝付けないのか?」
「はい……どうにも目が冴えてしまいまして……」
「うむ……もしや心配なのか?」
「いいえ。私は何一つ心配などしておりません。 ――何より此度の判断は、あなたが下したものなのです。私はそれを信じておりますから」
「そうか……すまない」
妻の返答に、思わず謝罪の言葉を返してしまうエンゲルベルト。
どこか力ないその姿は、普段の彼からは想像すらできないものだった。
常に強気で厳格な態度を崩さないエンゲルベルトは、そのような姿を臣下に見せることはまずない。
しかし愛する妻の前では別らしく、案外気軽に謝ったり、顔色を伺ったりもする。
もちろんそれは、お付きのメイドや護衛騎士すらいない本当に二人きりの時に限るのだが、むしろそれこそがエンゲルベルトの素顔と言えるものだった。
そんな夫に向かって、アビゲイルが問いかける。
その顔には胡乱な表情が浮かんでいた。
「なぜ謝られるのです? あなたが謝ることなど、何一つございませんわ」
「いや、俺はお前に謝らなければならんのだ。何故なら、俺は誤った道を選んでしまったのだからな」
「誤った……道……ですか?」
「そうだ。俺は臣下を説得しきれず、止む無くこの道を選んでしまった。 ――そもそもアストゥリアがこちらに手出しをしない確証など何一つないにもかかわらずにだ」
「……」
「彼奴らの言う通り、そのままアストゥリアが通り過ぎるのであればそれでもいいのかもしれぬ。しかし、もしもこちらに牙を剥いてきたなら、それこそ目も当てられん。 ――もとより籠城とは、味方の救援を見越してのものだ。それが期待できない状況で、そもそもする意味があるのか?」
「それは……」
「知っての通り我が国は、周辺国と不可侵条約を結んでいる。しかし肝心の軍事同盟までは結んでいない。それが意味するところは、我らが如何に窮地に陥ろうと、決して手を差し伸べてくる国はないということだ。 ――つまり我らは、自ら破滅への道を歩んでいるのやもしれぬ」
妻が聞いていようがいまいが関係なく、まるで独白のようなエンゲルベルトの言葉。
しかしそれに、妻が反応を返した。
「しかし……父ならば……ハサールであれば、あるいは……」
夫の背に顔を付けたまま、おずおずと口を開くアビゲイル。
しかしエンゲルベルトは、まるで振り払うかの勢いで身を翻してしまう。そして妻の顔をジッと見つめた。
あまりの勢いによろよろと後退ったアビゲイルには、月の逆光で夫の顔はよく見えなかった。
「お前もそれを言うのか!? ハサールが助けてくれると!!」
「あ、あなた……」
「それは奴らにも散々言われたのだ!! きっとハサールは助けに来てくれる――とな。しかし……しかしだ、彼の国の立場を鑑みた場合、あまりにそれは考えにくい。 ――よいか、我らを助けるということは、アストゥリアと敵対するに他ならぬ。相手はあのアストゥリアなのだぞ? その強大さ、厄介さは、誰もが皆知っているはずではないか!!」
「そ、それは……」
「確かにお前の父――ベルトラン国王は大人物だ。まさに国王と呼ぶに相応しい人柄と懐の深さ、そして思考力と決断力。その全てが一流だ。他国の王とは言え、初めて会った時には思わず俺も感嘆したものだ。だからこそ、あの大国ハサールを導いてこられたのだと思う。 ――なればこそ、こんな弱小国を敢えて救おうとは思わぬはず。何故なら、それはあまりにリスクが高すぎるからだ」
「リスク……」
「そうだ、リスクだ。 ――いいか? お前はもうハサール人ではない。結婚してこの国に嫁いできた瞬間からファルハーレン人になった。 ――しかしベルトラン国王にしてみれば、お前はいつまでも自分の娘。血を分けた子供なのだ」
「……」
「俺も子の親だ。だからこそわかる。あのベルトラン国王であれば、たとえ国外に嫁いだ娘であろうと、危機には必死に手を差し伸べるだろう。 ――しかし実際にはそれは無理なのだ。なぜなら、そうすることによって120万からの自国の民を危機に陥れてしまうからだ。あのアストゥリアと敵対することによってな」
まるで心の内をぶちまけるかの如く、感情の赴くままに吠えてしまったエンゲルベルト。
しかし次の瞬間、彼は盛大に顔を歪めてしまう。
何故なら、最愛の妻が突然泣き出してしまったからだ。
確かにエンゲルベルトの言葉は正しいのかもしれない。しかしそれが意味するところは、アビゲイルの父親――ハサール国王ベルトランは決して娘を救いに来ることはない――つまりは見捨てられたと告げるに等しかった。
如何に娘の危機であろうと、自国の利益を鑑みればそれすらも看過せざるを得ない。
一国の王である以上、まず第一に国益を優先させるべきで、そこに私情を挟むのは支配者として失格だ。
それがわかっているからこそ、余計に涙が止まらなくなってしまう。
顔を俯かせ、肩を震わせて涙を流し続けるアビゲイル。
そんな妻を、咄嗟にエンゲルベルトは抱きしめた。
「あぁ、アビゲイル……すまぬ……本当にすまなかった。 ……俺はお前に八つ当たりをしてしまったのだ。あぁ、なんということをしてしまったのだ……すまぬ、アビゲイルよ……許してくれ……」
「あなた……」
怒りや興奮などではなく、今やその顔に悔恨の表情を浮かべたエンゲルベルトは、強く、強く妻の身体を抱きしめた。そしてふと空を見上げる。
するとそこには、今夜だけは妙に大きく見える真円の月が浮かんでいた。
――――
それからさらに数日後のある日、白昼のファルハーレン公城を全速力で駆け抜ける者がいた。
それが誰かと思って見てみれば、ファルハーレン公国宰相のアントン・ネースケンスだ。
エンゲルベルトの父親――前公王バルトルトの時代からその役を担う彼は、今や50代も半ばに差し掛かかっていた。
そのため加齢による健康不安とすっかり衰えた体力に限界を感じてしまい、もとより今年いっぱいで引退する予定だったのだ。
しかしその後を継ぐはずだった彼の息子――マウリッツが、先の籠城騒ぎでエンゲルベルトの逆鱗に触れてしまったため、老骨に鞭打ってアントンは現役を続行せざるを得なくなってしまう。
それでもやはり衰えた体力だけは如何ともし難く、たった少しの距離を走っただけで大きく肩で息をしていた。
そんな些かくたびれた宰相が、公王エンゲルベルトの私室に走り込んでくる。
額から汗を吹き出し、両肩を大きく上下させながら、それでも息を整える間すら惜しいと言わんばかりにその口を開いた。
「ろ、朗報でございます、殿下!! ハ、ハサールから……ハサールから救援部隊が駆けつけました!!」
その言葉に、エンゲルベルトの眉が跳ね上がる。
顔にはまるで信じられないものを見るような表情が浮かんでいた。
「なにぃ!? そ、それは実か!?」
「は、はい!! 主戦力と思しき騎士の恰好を見る限り、間違いございません!!」
「そ、そうか。 ……しかし救援だと? ……そんな馬鹿な、いったいどうなっている……? それに救援部隊というには、随分と到着が早すぎるのではないか? そもそもハサールからここまで、一体どれだけの距離があると――」
一度はその報に驚きと喜色を浮かべたエンゲルベルトではあったが、次の瞬間胡乱な顔をしてしまう。
どうやら彼は何か思うところがあるらしい。
するとアントンが、慌てながら答える。
「そ、それが……彼らが言うには、自分たちは『先遣隊』だと」
「先遣隊? なんだそれは? 全く意味がわからぬが……まぁよい。とにかく出迎えにいくぞ。 ――アントン、付いて参れ!!」
「はっ!!」
逸る思いに蓋をしながら、大柄な身体で足早に歩く公王エンゲルベルト。
そしてその後ろから転がるようについてくる宰相アントン。
そんな彼らが複数の重鎮たちを伴いながら正面広場へ出ていくと、そこには見知らぬ集団が待っていた。
見たところ人数は、20名ほどだろうか。
今や見慣れたハサール王国の紋章を付けた、見るからに精鋭と思しき近衛騎士が10名と、軽装の密偵らしき者が2名。
その他にはひと目で魔術師とわかるローブ姿の者が3名と、その護衛らしき男たちが3名だった。
その全員が頭を垂れず、地に膝を突くことなく公王の到着を待ち侘びていた。
ご存知のように、彼らはハサール王国民であってファルハーレンの民ではない。
そのため如何に相手が公王と言えど、その臣下でもない彼らは頭を垂れたり跪く必要はなかった。
そんな彼らが軽い会釈で済ませていると、その中でも代表と思しき一際大柄な騎士の一人が徐に口を開く。
「ファルハーレン公国公王エンゲルベルト・バルナバス・ファルハーレン殿下。お初にお目にかかります。私はハサール王国近衛騎士団副団長を務めております、ルトガー・ハッシャーと申します。この度は我が国王、ベルトラン・ハサールの命により、先遣隊としてこの地へと罷り越しました。 ――なにぶん状況が状況なだけに、このような突然の来訪をお許しください」
そう言いながらルトガーの部下たちが揃って騎士の礼を交わすと、周囲の重鎮たちが皆一斉に歓喜の声を上げ始める。
そして口々に「やはりハサールだった」やら「これで助かった」やら「やはり打って出ずに正解だった」などと、まるで能天気にさえ見える様子で漏らしていた。
とは言うものの、少しでも冷静に考えれば、この切迫した状況下にたかだか20人足らずの応援が現れたところで最早どうにかなるとも思えない。
むしろこの先の籠城を考えると、彼らの存在は食料の浪費に繋がると言っても過言ではなかった。
しかし彼らの中でそれを指摘するものは一人もおらず、ただただお気楽に歓声を上げるだけだったのだ。
そんな彼らの姿を、些か冷めた目で眺める者がいた。
他の魔術師たちと同じローブ姿とは言え、一見してわかるほど高級な素材で作られたそれを纏う小柄な人物。
深々とフードを被っているのでその顔は見えないが、美しい縦ロールのプラチナブロンドがはみ出ているところを見る限り、それは若い女性のように見えた。
するとその女性にチラリと視線を投げながら、公王エンゲルベルトが言葉を返す。
「これは丁寧な挨拶を痛み入る。知っての通り、私はファルハーレン公国公王エンゲルベルト・バルナバス・ファルハーレンだ。 ――よくぞ此度は遠路遥々お越しになった。そして我が国に救いの手を差し伸べてくれたことにファルハーレンの民を代表して感謝の意を表したい――と言いたいところだが、お前たちは本当に救援部隊なのか? それにしては随分と少なすぎると思うのだが……」
その言葉とともに、胡乱な表情を浮かべるエンゲルベルト。
先遣隊――援軍と言うにはあまりに少なすぎる人数に、彼なりに何か思うところがあるらしい。
するとそれにルトガーが返答した。
「間違いなきよう、まず初めに申し上げておきますが、決して我々は救援部隊ではありません。あくまでもその前段であるところの、先遣隊にすぎないのです。そしてその任務は、貴殿たちを助けることですらありません」
「なにぃ!?」
「はぁ!?」
「何を言っているのだ!? まったく意味がわからんぞ!?」
目の前に自国の王がいることなどすっかり忘れて、今や口々に勝手なことを囁き始める重鎮たち。
するとその中の一人が突如大きな声を上げた。
「貴殿たちは自らを救援部隊ではないと宣うが、私の目が確かであるなら、そのローブの二人は王国魔術師協会副会長のロレンツォ・フィオレッティ殿と、その弟子のリタ・レンテリア嬢ではないのか? ならば何故その二人がそこにいる?」
「おぉ!! あれが彼の有名なロレンツォとリタの魔術師子弟コンビか」
「もとより救援する気がないのであれば、そこまで強力な魔術師を派遣する意味がわからんぞ」
「そうだそうだ」
またしても好き勝手にがなり立て始める重鎮たち。
さすがのエンゲルベルトも見過ごせず諫めようとしていると、それを遮るように甲高い声が響き渡った。
「仰るとおり、この私とこちらの師匠――ロレンツォ・フィオレッティ副会長の二人が揃えば、迫りくるアストゥリアを撃退することは可能でしょう。 ――なにせ彼はあの『隻腕の無詠唱魔術師』であり、私はその弟子なのですから」
「おぉ!! それならば、さっさとやって来てくれ!! そして我々を助けるのだ!!」
「勿体ぶるな!! そもそも何しにここまで来たのだ!?」
「早くいけ!!」
リタの言葉に、尚もヤジを飛ばす重鎮たち。
最早そこには、自分たちが助けられる側の立場であることなどすっかり忘れて、ただただ傲慢な権益者の意識だけが透けていた。
そんな彼らに向かって、小柄なローブの少女――リタが言い放つ。
「ですが、お断りですわ!! 自ら必死に足掻こうとすらせぬ者を、いったい誰が助けてなんてやりますの!? この私はそこまでお人よしではなくってよ!! ――死にたければ勝手に死ねばよろしいのです、このクソッタレ!!」
勢いよく啖呵を切ったその瞬間、目深に被ったフードからその顔が現れる。
するとそこには、美しくも愛らしい、まるで妖精のような少女が現れたのだった。








