第231話 思いがけない問い
前回までのあらすじ
なんだ、ヘカトンケイルじゃないのか……ちょっと見てみたかったのに
「なんだこの野郎、シケた面してんじゃねぇよ。せっかく人がスカウトしに来てやったってのによ」
言葉は理解できるが、話が理解できない。
まさにその状態のジルがぽかんと口を開けていると、ラインハルトは小さく鼻息を吐いた。
それから少々鷹揚な仕草で腕を組む。
180センチを超えるスラリとした長身に、輝くような金色の髪。
透き通った青い瞳が映える鋭い切れ長の瞳。
日に焼けて少々浅黒くなってはいるが、元来色白であろう鼻筋が通るその顔は、まるで女性歌劇団の男役のように美しい。
背の高さだけならジルと遜色ないものの、骨格も含めた体格の違いは如何ともし難く、並んでいるとラインハルトのほうがふた回りは小さい。
彼とても「脱いだら凄い」を地で行くような筋肉質の体躯なのだが、ジルと比べてしまうとやはり細く頼りなく見えた。
そんな次期ラングロワ家当主が、腕を組んだまま無遠慮にジルを見回す。
「お前……痩せたな。ちゃんと飯は食っているのか? ――なんて、あんな事があったんだからな。痩せないほうがおかしいか」
「兄……い、いや、ラインハルト様……何故ここに……?」
「なんだお前、気持ち悪ぃな。誰もいねぇんだから、俺のことは昔みたいに『兄』と呼んでも構わんぞ? いまさら『様』付けとかやめてくれ。背中が痒くなっちまう」
もぞもぞとラインハルトが背中を動かしていると、その背後から素っ頓狂な声が響いた。
「ラ、ラインハルト様言うたら……も、もしかしてラングロワ侯爵家の御曹司でねぇか!? こ、これは大変失礼いたしました――ほ、ほれ、お前も頭を下げんか!!」
驚きのあまり半ば裏返った声を出したのは、パン屋の主人ナザリオだ。
男の正体に気付いて慌てて妻に声をかけると、二人に向かってラインハルトは落ち着くようにと身振りで合図を送る。
「あ、いや、かまわんぞ。俺の方から勝手に押しかけたんだ。これから店の準備もあるだろうから、俺のことは構わなくていい。 ――ただ、奥で少しだけジルと話がしたいのだが、かまわんか?」
「も、もちろんでごぜぇやす。お好きにしていただいて結構ですんで、どうぞ奥へ上がってくだせぇ。私どもは店の準備がありますんで、終わったら声をかけてくだされば――」
「おぉ悪ぃな。それじゃあ、少しだけジルを借りるぞ」
「えぇ、えぇ、どうぞ。いますぐにお茶をご用意しますので、ごゆるりとお過ごしくださいまし」
有力侯爵家嫡男のラインハルトと、以前はその地位にあったジル。
今では片や次期辺境候と、片や家名を失ったただの平民という対象的な二人だが、実は既知の仲だった。
いや、それどころか、友人すら超越した言わば兄弟のような関係と言っていい。
ご存知のようにジルの父親は、アンペール侯爵家当主にして東部辺境候、そしてハサール王国東部軍の将軍だった人物だ。
そしてその下で副将軍を務めていたのが、他でもないラインハルトの父――ラングロワ侯爵だった。
父親同士が公私ともに親交が深かったこともあり、その息子たち――ラインハルトとジルも幼少時から知る仲だった。
もっとも6歳年上のラインハルトは、友人というよりも幼いジルの兄のような存在だったのだが。
それでも兄のいないジルは、ラインハルトをとても慕っていた。
次期辺境候であり東部軍将軍になるべくして生まれたジルは、幸運にも体格に恵まれていた。
その大きさは難産のために危うく母親が命を落としかけたほどで、同月齢の赤ん坊に比べても軽くふた回りは大きかった。
健康で身体が大きい、跡取りの男子であるジル。
そんな彼には両親のみならず関係者全員が将来を期待していたのだが、その彼に剣術の基礎を叩き込んだのがラインハルトだったのだ。
6歳差ともなると、同じ男児であっても遊び方は異なる。
そのためラインハルトは、一緒に遊ぶと言いながら無理やりジルに模擬剣を持たせて剣術の相手をさせたのだ。
とは言うものの、初めはジルも嫌がった。
当時幼かった彼は、剣を振り回すよりもおもちゃで遊んだり走り回ったりするほうが楽しかったからだ。
しかし6歳年上であるうえに、その頃から「俺様」だったラインハルトに逆らえるわけもなく、いつしかジルは無理矢理にでも剣術訓練の相手をさせられるようになっていく。
そして物心ついた時には、同年代の子どもたちを圧倒するほどの剣技を身に着けていたのだった。
そんな事情もあり、同じ爵位の貴族家とは言え序列であればジルの方が上だったのだが、剣術の基礎を叩き込んでくれたラインハルトに決してジルは頭が上がらなかった。
そして彼を「兄」と呼んで、事あるごとに慕い続けていたのだ。
しかし廃嫡されたジルが野に下った時、ラインハルトは手を差し伸べてこなかった。
それまで兄のように振る舞っていた彼なのに、ぱったりと連絡を絶ったのだ。
もちろんそれはジルが居場所を知らせていなかったこともあるのだろうが、それでも調べる方法は幾らでもあったはずだ。
それなのに何故今さら――
「なんだお前、変な顔して……あぁ、なんで今さらここに来たのかと思っているんだろう? ――違うか?」
決して顔に出していなかったはずなのに、その内心を言い当てられてしまったジル。
その彼が必死に動揺を隠そうとしていると、皮肉そうな笑みを浮かべながらラインハルトは続けた。
「すまねぇな。こっちにもこっちの事情があってな。 ――あんなことがあったんだ。その後釜に収まった俺らには、どうしてもお前に接触できなかったんだよ。それはお前にもわかるだろう?」
「……」
「言い方は悪いが、今でもお前は罪人の一味だと思われている。直前で廃嫡されたから実際には関係ねぇのかも知れねぇが、世間はそうは見てくれん。今でもお前は、陛下に仇なした逆賊の生き残りなんだよ」
「……」
わかっていたこととは言え、その言葉は深くジルの心に突き刺さる。
国王ベルトランを蔑ろにし、剰えその命を無視した父親の所業は、息子から見ても有り得ない。
確かにその原因を作り出したのは自分だし、それは否定しない。
あの美少女――リタ・レンテリアに一目惚れしたのもそうだし、決闘などという唆しに乗ったのもそうだ。
さらに剣技では格下のムルシア家の嫡男――フレデリクに反則ぎりぎりの手段を弄したのもそうだし、リタに返り討ちにされたのももちろん自分の責任だ。
しかしそれとこれとは話は別だ。
あのまま黙っていれば自分が廃嫡されただけで終わっていたはずなのに、何をとち狂ったのか、王命により禁止された報復を父親はしようとしたのだ。
幼い頃から自分は愚かだと言い続けられてきた。
あの父親から悪しざまに罵られ、殴られ、蹴られ、それでも黙って耐えてきたのだ。全てはアンペール家を継ぐために。
しかし蓋を開けてみれば、一番愚かだったのはあの父親だった。
あの男が全てを台無しにした。
死ぬなら自分一人で死ねばよかったのだ。なにも母親と弟まで道連れにしなくても――
目の前の相手を置き去りにして、ひたすら自身の思索に沈み込むジル。
今やその瞳の焦点は合っておらず、真一文字に引き結んだ唇は真っ白になっていた。
そんなジルの様子に怪訝な顔をしながらも、それでもラインハルトは話し続けた。
「お前がここにいることはキルヒマン子爵から聞いていた。悪いがお前の居場所はずっと把握していたんだ。 ――なんだその顔は? 安心しろ、それ以外の伝手は使ってねぇよ。とは言ってもそんだけ目立つなりをしてんだ、敢えて探さなくてもいずれ耳には入っていただろうがな」
ラインハルトは、再び皮肉そうな笑みを浮かべた。
どうやらその顔は癖になっているらしく、言葉の如何にかかわらず常にその表情を浮かべてしまうらしい。
そんな次期辺境候にジルが胡乱な顔をした。
「ラインハルト様。それで……なんのご用事で? まさか心配だったからなんて、そんな殊勝なことは言わんでしょう?」
「まぁな。さすがの俺もそこまで感傷的じゃねぇよ。それで俺が来た理由だが――その前にひとつ訊きたい。これからお前はどうするつもりだ? まさかこのままパン職人になるつもりでもないだろ?」
「……そのまさかですよ。ここの夫婦に子はいない。だから俺が跡を継ごうと――」
「お前本気か? 本気で言ってんのか?」
「本気ですよ。 ――というか、今の俺にはそれしか生きていく道はないですから……」
縦にも横にも、常人よりも遥かに大柄な体を丸めながらジルが答えた。
以前の彼を知っている者なら誰もが驚くほどその声は小さく弱く、まるで覇気が感じられない。
表情も変えずにその様子を眺めていたラインハルトは、再び口を開いた。
「そうか。では、剣の道を極めるという夢はどうした? もう諦めたのか?」
「諦めるもなにも……パン屋に剣は必要ないでしょう? それに今の俺には剣なんてなんの役にも立ちませんよ。日々食っていくのに精一杯なんです。パンだって未だに一人では焼けないし……」
「ふふんっ。もう半年近くも修行をしているのに、未だにパンひとつも焼けねぇのかよ。だらしねぇな。 ――いい加減、向いてなかったってなもんで諦めたらどうだ?」
「な、何を言うんです? 俺にはもう、これしか道は――」
「ふんっ、何を言う、か。その言葉そっくりお前に返してやる。人生で貴族とパン屋しか経験してねぇくせに、俺にはこれしかないなんて良く言えたもんだな。 ――お前はまだ15じゃねぇか。去年成人したばかりのガキがよく言うぜ」
まるで馬鹿にするようなラインハルトの言葉。
しかし言い返す言葉さえ見つからずにジルが黙っていると、それを肯定と受け取ったラインハルトが尚も言い募る。
「それでだ。俺はさっきお前をスカウトしに来たと言ったな? 憶えているか?」
「……はい」
「よし。回りくどいのは苦手だからズバリ言うが、お前、騎士にならねぇか?」
「えっ? 騎士……?」
胡乱な顔で正面を見つめるジル。
まるで意味がわからないとその顔には書いてあった。
不祥事を起こしたために貴族の身分を失った自分なのだから、なにより名誉を重んじる騎士になどなれるわけがない。
そもそも騎士などというものは、家督を継げない貴族の次男、三男などが目指すべき職業なのだから、今や貴族ですらない自分がなれるわけ――
「なんだお前、変な顔してるぞ? まぁ、何考えてるのかはわかるけどな。勘違いしているようだから教えるが、騎士なんてものは平民でもなれる。もちろんそれは全てではないし殆どは貴族家からしか募集していない。しかし中には平民から募っている家もある」
「そ、そうなのか? ――しかし、この俺を受け入れる家なんてあるのか……?」
驚きのあまり敬語すら忘れたジルが小さく訊き返す。
すると即座にその答えが帰ってきた。
「まぁな。さっきも言ったが、確かにお前は罪人一家の生き残りだ。そんなお前を騎士見習いとして雇い入れる家などないだろう。普通ならな。しかし中には普通じゃない家もあるってことだ」
言いつつニヤリとした笑みを浮かべるラインハルト。
女性歌劇団の男役のように些か中性的な面差しで、再び含むように笑った。
それを見つめるジルの瞳は、大きく見開かれたままだった。
「えっ……でも……」
「ふふんっ。誤魔化しても仕方ねぇからはっきり言うが、実は俺がねじ込んだ。相手はコルネート伯爵家だ――お前もよく知ってるだろう? ――おっと先に言っておくが、お前を助けてやろうなんて思っているわけじゃねぇからな。実は少し事情があってだな――」
それからラインハルトは、リタの幼馴染――カンデの騎士見習いの件を説明した。
しかし当のジルの顔は、次第に渋いものへと変わっていく。
「平民が騎士を目指すなんて……それこそ自分から死地へ飛び込むようなものじゃないですか。苦労するのは目に見えている。それなのに――」
「ふふんっ、そこでお前の出番だ。同じ平民として、お前も騎士見習いに応募しろ。そしてそのカンデという男の盾になれ」
「し、しかし……」
「なんだぁその面は? それが嘗ては『猪公』と呼ばれた男の顔か? 腐っても次期辺境候と呼ばれた男だろうが!! ちったぁシャキッとしろよ!!」
バンッ!!
勢いよくジルの肩を叩くと、まるで怒鳴りつけるかの如く大声を上げる。
するとジルはハッとしたのだが、まるで反論を許さぬ勢いでラインハルトが喋り続けた。
「それともなにか? お前をボコボコにした女――リタの手助けなんてできねぇなんて言う気じゃねぇだろうな? もしそうなら、ずいぶん尻の穴の小せぇ野郎だなぁ、おい!!」
「い、いや、そういうわけでは――」
「確かにお前も、お前の実家も酷い目にあった。だがな、それにはまるで同情できん。はっきり言って自業自得ってなもんだ。しかしな、リタはどうなんだ?」
「リタ……」
「あぁ、リタだよ!! 本人に全く落ち度がないにもかかわらず、お前に言いがかりをつけられたせいで婚約者を殺されかけたんだ!! そのうえ自分まで暗殺されそうになった。その彼女の気持ちを考えたことがあるのかって訊いてんだよ!! ――決して贖罪になるとは思わんが、少しくらいは手助けしてやってもいいんじゃねぇのか!? あぁ!?」
その言葉を聞いた瞬間、ジルは呆然としてしまう。
これまで自身の境遇について、父親の所業を責めたり自身のやらかしを責めたりはしていたが、その相手であるリタやフレデリクまで思いを巡らせたことはなかった。
言わば自分勝手で独りよがりの言い訳に、今更ながら気付かされてしまったのだ。
そのあまりの衝撃にプルプルと唇を震わせながら、小さな声でジルが答えた。
「しかし……こんな俺が近くにいると、リタ嬢が嫌がるのでは……」
「そんなことは心配すんな。あいつはそんな細けぇことを気にするようなタマじゃねぇよ。この俺にはよくわかる。なんせ普段から怒鳴り合いをしているからな!! ふははっ!!」
「怒鳴り合い……?」
「な、なんでもねぇよ!! ――それで、どうするんだ?」
「しかし……あまりに俺は酷いことをしてしまった。 ――いまさら合わせる顔なんて……」
大きな身体を小さく丸めながら、自信なさげにジルが答える。
あの事件さえなければ東部貴族家を統括する立場になっていたはずなのに、今やその姿にはまるでその気配は感じられない。
肩を窄めてひたすら自信なさげに呟く姿には、最早全く覇気は感じられなかった。
そんなジルを俯瞰で眺め続けるラインハルト。
長く白い指を顎に当てながら、何かを思案するかの如く首を傾げている。
そして再び口を開いた。
「そうか、わかった。それじゃあ話を変えよう。 ――それでは訊くが、お前アーデルハイトはどうするつもりだ?」
「アーデルハイト……?」
その名前を聞いた途端、ジルの動きが止まる。
落ち着かなげに動かしていた指の先までピタリと止めると、真正面からラインハルトを見つめた。
そんな彼に、真顔でラインハルトは問いかけた。
「あぁ、アーデルハイトだ。わかっていると思うが、ここキルヒマン子爵家の一人娘だよ。 ――話によれば、好いた男のために全ての縁談を断っていると聞くぞ? お前はそれをどうするんだと訊いてんだよ!?」








