第193話 餞別の硬いパン
前回までのあらすじ
ベネデットはザマァで死亡。
そして……ぬぉー!! エミリエンヌに魔の手が!!!!
ハサール王国東部に広がる、大穀倉地帯。
隣国ファン・ケッセル連邦国と国境を接するこの場所は、これまで約四百年の長きに渡ってアンペール侯爵家が治めて来た土地だ。
しかし、嫡男のジルが起こした(実際には父親が裏で糸を引いていたことがわかっている)決闘事件を引き金とする一連の出来事により、その領地は没収となった。
現在では、王国の直轄領として管理されている。
そのアンペール家もすでに取り潰しとなり、侯爵と妻、そして嫡男は同時に死罪となった。
現在では、直前に廃嫡されていた長男――ジルだけが唯一の生き残りだ。
罪状は「王命を蔑ろにしたこと」だった。
確かに当主ベネデット自身は婦女の誘拐殺害といった犯罪も犯していたのだが、それだけでは妻と子まで殺されることはなかった。
にもかかわらず一家全員が死罪となったのは、その罪状故だ。
国王ベルトランは、決闘の席において「報復は許さない。もしも破った場合は、国王の名において苛烈な制裁を科す」と宣言した。
そしてその警告を見事に無視したアンペール侯爵に対して、国王は約束通り制裁を科したのだ。
もっとも重い「お家断絶」という形で。
もちろん領地は没収、屋敷は差し押さえられて使用人は失業、親戚縁者も肩身の狭い思いをしたり、中には身分を失って路頭に迷う者まで出る始末だ。
あまりに苛烈なその措置は、東部貴族たちを震撼させた。
アンペール侯爵家といえば歴史ある名門貴族家であり、西のムルシア家と対を成す二大辺境侯の一翼でもある。
抱える軍隊の規模はハサール王国軍全体の三割を占めるほどで、その影響力は決して無視できない。
にもかかわらず、あっさり取り潰しになってしまった。
もっともそれは致し方ないと言えよう。
絶対に報復は許さない。あれだけの人数の前で国王がそう宣言したのだ。
だからこそ、それを破った者に対して厳しい制裁を加えなければ、それこそ国王の沽券にかかわってしまう。
王命は絶対である。
国王ベルトランは、身を以てその言葉を証明してみせたのだった。
実家から追い出されたジルは、しばらくキルヒマン子爵の世話になっていた。
子爵の首都屋敷(と言っても、賃貸の小さな一軒家だったが)でリタにやられた怪我の治療を行った後、領地に引き上げる子爵一家に彼もついて行ったのだ。
その後ジルはキルヒマン子爵の本家屋敷で客人として過ごしていたが、家族全員が処刑されたことを、ある日突然知らされた。
しかしそれを知ったのはすでに刑が執行された後であり、驚きつつもジルは決して取り乱したりはしなかった。
それでも弟の死を聞いた時だけ、ほんの僅かに肩を震わせたという。
皮肉なことではあるが、直前に廃嫡されていたおかげでジルは間一髪命を拾うことができた。
しかしそれについては一言も感想を漏らさず、無表情な視線を返すだけだ。
廃嫡されてしまったジルは今や実家とは何の関係もないのだが、周囲の者にとっては、彼が罪人の家族であるのも同然だった。
キルヒマン子爵にとって、そんな自分の存在が迷惑だと思ったのだろう。
怪我が治ったジルは、周囲が止めるのも聞かずに屋敷から出て行ってしまったのだった。
「いらっしゃい――おやおや、これはお嬢様。このような汚いところへ……ジル様でしたら奥にいらっしゃいますよ。どうぞ、こちらへ」
「ごきげんよう、ドロレスさん。失礼しますわね」
ここはキルヒマン子爵領の中でも一番端にある小さな村、ラ・ユンタ村。
その中でもさらに奥まったところに佇む小さなパン屋。
そこにいま、キルヒマン子爵家令嬢――アーデルハイトが訪れていた。
キルヒマン子爵家は領地持ちの貴族家だ。
とは言え、上位貴族だったアンペール侯爵家とは比べにならないほど領地は狭く、場所も首都から遠く離れた田舎だった。
それでも土地を持たない「名ばかり子爵家」や「名誉子爵家」も多い中で、狭いながらも領地を持つキルヒマン家はまだ恵まれていると言えるだろう。
少なくとも一国一城の主であるし、税を納めてくれる領民もいるからだ。
そんな「田舎貴族」のキルヒマン家は、領民たちから慕われていた。
領主であるテオバルトは優しく穏やかな人柄で有名だったし、様々な施策を行っては領民の住みやすい土地にしようと努力していたからだ。
さらにテオバルトは、その頭の良さと洞察力、それに裏打ちされた優れた行政手腕を認められて、上位貴族であるアンペール侯爵家に重用されていた。
もっともアンペール家――特にベネデット個人と懇意にすることにテオバルト自身は色々と思うところはあったようなのだが、それでも自領のためになるならと我慢していたらしい。
現在アーデルハイトが訪れているこの村も、父親の所領だ。
そしてドロレスと呼ばれた老婆も、店の奥で作業をしているその夫も、キルヒマン子爵家の領民――所有物と言える。
しかし子爵家の娘であるアーデルハイトは、昔から領民たちに敬語を使い、敬い、そして大切にしてきた。
何故なら、それは父親の教えだったからだ。
領主がいなくても領民たちは生きて行けるが、領民がいなければ領主は生きて行けない。だから彼らのことは大切にしなければいけない。
幼い頃からずっとそう言われて育ってきたアーデルハイトは、誰に対しても優しく柔らかく接するので、昔から領民たちに慕われていたのだ。
そんなキルヒマン子爵家の長女が、先触れもなくぶらりと姿を現すと、パン屋の老夫婦が相好を崩した。
「さぁ、どうぞどうぞ、こちらですよ。 ――ジル様、お嬢様がお見えですよ」
声を上げるパン屋の老婆――ドロレスの後をついてアーデルハイトが店の奥へと入っていく。
するとそこには、一人の大柄な男がいた。
男と呼ぶには未だ少年の面影を残すその青年は、見紛う事なき元アンペール家嫡男のジルだった。
大きな体に対して些かアンバランスなほど小さなエプロンを着けた姿は、何処か滑稽にも見える。
しかしそんなことにはまるでかまわず、鼻の頭まで白い粉を付けてジルは一心不乱に何かをこねていた。
その彼にアーデルハイトが声をかける。
「ジル様……貴方様がこちらにいらっしゃると風の便りに聞きました。それで居ても立ってもいられずに―― お変わりはありませんか? 慣れない生活で体調を崩したりしていませんか?」
「……アーデルハイト、俺の名前に『様』を付けるのはやめてくれ。俺はもう貴族ではない。今はただの『ジル』だ。家名すらないんだ」
「ジル……様……」
キルヒマン子爵の屋敷を飛び出したジルは、そのまま子爵領の外に出た。
しかし、ただでさえ人目を惹く容姿をしているうえに、アンペール家の嫡男として色々と有名な彼は、何処に行っても目立ってしまう。
廃嫡されているので関係ないとは言え、今や罪人となってしまった家の関係者であるジルは、何処に行っても疎んじられた。
中にはあからさまに「出て行け」と怒鳴りつけられたことさえあったのだ。
隣の領地に入った時には、騎士の集団に取り囲まれて追い返されてしまったうえに、再び訪れれば捕縛するとまで言われてしまった。
結局行く当てのなくなったジルはキルヒマン子爵領に戻ってくると、たまたま手伝いを募集していた小さなパン屋に拾われることになる。
そしてそこの老夫婦にパン作りを学びながら、現在に至るまで住み込みで働いていたのだった。
ジルは自分の居場所をキルヒマン子爵に伝えることはなかった。
自分の存在が子爵家にとって迷惑なのだと思った彼は、居場所を黙っているつもりだったのだろう。
しかし狭い子爵領の中では、彼の居場所は筒抜けだった。
どんなにジルが姿を隠そうとも、すぐにその噂は領内を駆け抜けて子爵家の知るところとなってしまうのだ。
もちろんその話はアーデルハイトの耳にも入っていた。
しかし、立場を考えると表立って会いに行くわけにもいかず、彼女は悶々とした日々を過ごしていたのだ。
そんな彼女に、ある日父親――キルヒマン子爵が命じた。
一度は身柄を預かった手前、最後まで面倒を見る責任があると宣い、子爵はジルの様子を見に行くように娘に命じたのだった。
「アーデルハイト。お前は一人娘なのだから、将来家を継がなければならないだろう。少しでも条件の良い夫を貰う必要があるのだ。こんな俺みたいのにかまわない方がいい。もしも周囲に醜聞が聞こえてしまえば、お前の婿取りに影響が出てしまうぞ」
パン生地をこねる手を休めずに、ジルは口を開く。
その顔にはまるで笑みは見られず、ただひたすらに己の手の下で形を変える白い塊を見つめていた。
そんなジルに向かって、尚もアーデルハイトは言い募る。
「……父が命じたのです、貴方の様子を見て来いと。 ――しかし、たとえその命がなくても、私は貴方様に会いに来たでしょう。何故なら――」
「言うな!! それ以上言ってはいけない。今や俺は平民だ。家名がないどころか、住むところすらないのだ。今もこのパン屋の夫婦の世話になっているだけで、俺自身は何もできない。未だにパンすらも満足に焼けないんだ」
「ジル様……」
「だから……俺の名に敬称を付けるなと言っている。頼むからやめてくれ。 ――そういう俺も、お前のことを呼び捨てにしていたな。そうだな……平民の俺がそれでは良くないから、今からお前を『アーデルハイト様』と呼ぶことにしよう」
「や、やめて下さい!! お願いですから、そのような冗談はおやめください……」
半ば自嘲気味のジルの言葉に、堪らずアーデルハイトは大声を出してしまう。
しかしすぐに顔を俯かせると、涙声になる。
するとジルはそこで手を止めると、肩を震わせるアーデルハイトを見つめた。
「いや、冗談ではない、俺は本気だ。父も母も、そして弟も全員罪人として処刑された。父上のやったことは陛下の怒りを買うことだったので、それについては言い訳もできない。そして運が良かったのか悪かったのか……俺一人だけが生き残ってしまった」
「良かったのです!! 貴方様は運が良かったのですよ!! そう思わなければ、あまりに遣る瀬無いではありませんか」
「遣る瀬無い……か。しかしな、家は取り潰され、屋敷の使用人は全員解雇。親戚縁者に至っては身分を失った者もいると聞く。そんなことを仕出かしておきながら、俺だけがのうのうと生きているだなんて――」
「ジル様。命あっての物種。その言葉が示す通り、生きてさえいればきっと良いことがあります。少なくとも私は、貴方様が生き残ったことを心の底から良かったと思っているのですから」
「アーデルハイト……」
気を利かせたパン屋の老夫婦は、ジルとアーデルハイトを二人きりにしてくれた。
もちろん外には乗って来た馬車が停まっているし、御者もメイドも護衛の騎士たちもいるのだが、誰一人として彼らは建物の中へは入って来ない。
もちろんそれはアーデルハイトが命じたからなのだが、彼らも彼らなりに事情を察しているので、見て見ないふりをしてくれていたのだ。
「アーデルハイト、もう帰った方がいい。如何に父上の命とは言え、こんな俺なんかと関わっているとロクなことがない」
「そ、そんなことありません!! ジル様に会ったからって、何だと言うのです!? 言いたい者には言わせておけばいいのです!!」
「いや、もう来ない方がいい。 ――そうだ、これを持っていけ」
必死の形相で見つめる子爵家令嬢にジルが何かを差し出すと、目尻に涙を溜めたアーデルハイトがそれを見下ろした。
「それは……パン?」
「あぁ、パンだ。俺が焼いた。 ――硬いし形も不揃いだし、大きさもバラバラだ。しかも焼きムラがあって売り物にならない。俺はもう食べ飽きたから、お前にやる。持っていけ。いらなければ捨ててくれてもいい」
ジルが言う通り、それは3本のパンだった。
それは太さ10センチ、長さは40センチ近くもあるような大きなパンで、表面には何本もの大きなヒビが入り、ジルが言う通り焼きムラのために端が焦げていた。
そんな見るからに硬そうなパンをグイっとばかりに押し付けられたアーデルハイトは、思わずそのまま受け取ってしまう。
「餞別――というわけではないが、これでお別れだ。もう俺とは会わない方がいい。さっきも言った通り、俺の存在は子爵家にとっては疫病神のようなものだ。キルヒマン子爵には恩がある。俺はその恩を仇で返したくはないんだよ」
帰りの馬車の中で、アーデルハイトは終始無言だった。
ひたすら会話もないままに、車窓からぼんやりと外を見つめ続ける主人を、お付きのメイドは何も言わずに見守ってくれる。
そんな優しさを噛み締めながら色々と考えていると、ふとアーデルハイトの指先に触れるものがあった。
何気にそれを見てみると、それはジルがくれたパンだった。
無駄に大きく、ひび割れだらけのそのパンを、アーデルハイトは試しにちぎって口に入れてみる。
そして小さく呟いた。
「本当に……硬いし不細工だし大きすぎるし……端は焦げているし……売り物にならないのがよくわかる。でも……美味しい……外見とは全然違う……まるで彼のよう……」
端正な顔を歪ませて硬いパンを噛み締めながら、ポロポロと涙を流し始めるアーデルハイト。
その瞳に何が映っているのか、それは彼女にしかわからない。








