第174話 リタの独白
前回までのあらすじ
キルヒマン子爵家の首都屋敷は賃貸。
しかも普通の一軒家で、使用人は数名しかいない。
ムルシア侯爵家の首都屋敷では、未だフレデリクが目を覚まさずにいた。
ここに運ばれてから丸二日、命を繋ぎ止められる限界まであと一日と迫っており、今となっては気ばかり焦ってしまう。
怪我による出血と、意識がないため十分な水分補給ができないせいで、今やその身体は脱水症状を起こしつつある。
しかし医療が発達していないこの時代において、それらを解決できる有効な方法も見当たらず、ただひたすら意識を取り戻すのを待つほかなかった。
眠る婚約者を眺め続けて、すでに二日が経った。
それでもリタは片時も離れずに看病を続けており、その愛らしい顔には疲労の色が濃く出ている。
もっとも看病とは言っても、汗を拭いたり着替えの手伝いをしたり、返事がないのを承知で話しかけることくらいしかできることはなかったのだが。
それでも献身的としか言いようのないその姿は、ムルシア家の者たちにはとても痛ましく見えた。
未だ婚約者でしかないリタにはそこまでする義務はなかったし、専属のメイドに任せて自宅に戻っていても誰も文句は言わないだろう。
しかし彼女は、それを承知で自ら看病を申し出たのだ。
もちろん諸々のことはメイドなどが行うのだが、彼女はその横に居続けることを選んだ。そしてそれもそろそろ三日目に差し掛かるところだ。
そんなリタは、返事がないことをわかっていながら、眠り続けるフレデリクに向かって話し続けていたのだった。
「フレデリク様。さぁ、目をお覚ましになってください。貴方様とはたくさん話したいことがあるのです。そろそろ私も独り言に飽きて来ましたので、お願いですから返事をしてくださいませ……」
この言葉をもう何度繰り返しただろうか。
十回? 五十回? 百回?
初めから回数なんて数えていなかったので、いまさらそんなことはわからない。しかし今のリタにはそんなことはどうでもよかった。
「無事に決闘が終わったら、お弁当を持って遠駆けに行こうと約束したではありませんか。貴方様は約束を守る男なのでしょう?」
身動ぎひとつしないフレデリクの横で、疲れたような声を出す。
その声は生彩を欠き、目は虚ろで、意識も半ば朦朧としているようにしか見えなかった。
実際リタは疲れ切っていた。
特に身体を動かしたり、何かをしていたわけでないのだが、既にもう二日以上眠らずに婚約者に寄り添い続けているのだ。
周りの者たちが途中で何度も休むように声をかけても、彼女は頑として言うことを聞かなかった。
フレデリクが目を覚ます時には、自分は傍にいなければならない。
その言葉を繰り返しては、婚約者に寄り添い続けていたのだった。
夜が明ければ三日目に突入する午前三時。刻々とタイムリミットは近づいていた。
すでに丸二日以上眠ったままのフレデリクにも、次第に変化が現れてくる。
これまでも水で濡らした布で唇を湿らせたりしていたが、その唇も渇いてひび割れて、幾ら水で湿らせても全く潤う気配すら見えなくなっていたのだ。
それは彼の身体が脱水症状を起こし始めた証拠だった。
このままでは、恐らく今日の夜までもたないだろう。
そんなことを考えながら、いくら湿らせてもひび割れていく唇を見つめて涙を流す。
飽きることなく延々と婚約者の口を湿らせるその姿は、夜番のメイドが思わず涙を流すほど居た堪れないものだった。
「ねぇ、フレデリク様。今まで一度も言ったことはないけれど、あなたはとても良い人ね。確かに馴れ初めは爺様の策略のようなものだったし、初めて会った時はナヨナヨとして頼りなくも見えたけれど。 ――でもね、そんな貴方の傍にいるのが、私には心地よかった……」
相変わらずピクリとも動かないフレデリクに向かって、リタはまるで独白のような言葉を吐く。
相手が婚約者とは言え、その口調は凡そ上位貴族に向けるようなものではなかったが、不思議と今の彼女の雰囲気に良く似合っていた。
部屋の隅でその独白を聞いていた夜番のメイドは、初めこそその言葉遣いにギョッとしていたが、爵位の違いを超えるほどに二人の仲が良いのだと思うに至ると、そのまま聞き流すことにした。
そんな背後の様子などお構いなしに、リタの独白は続く。
耳を澄まさなければ聞き取れないほど小さな声は、蝋燭の灯りが届かない深い闇の中に溶け込んでいった。
「フレデリク様。今まで私は貴方に何かを頼んだり、お願いをしたことはなかったわね。 ――それにはね、理由があるの。それは……自分が弱いと思われるが嫌だったから。私はプライドが高くて負けず嫌いで意地っ張りだから、あなたにさえ弱いと思われたくなかった。 ――ふふふ、今思えば、全然可愛げのない女だったわね……まぁ、もとが偏屈婆なのだから仕方ないのだけれど」
「……」
「でもね、約束する。こんなくだらないプライドなんか捨てて、貴方との距離をもっと近づける。あなたが嫌でなければ、口調ももっとくだけたものにするし、もう年寄りみたいな小言なんか言わないように気を付けるわね。……と思ったけれど、ごめん、やっぱり時々言うかもしれない。その時は笑って許してくれる?」
「……」
「だから……だからお願い……お願いだから返事をして……ねぇ、フレデリク、目を覚まして……」
「……」
返事がないのがわかっていても話しかけるのをやめられず、ひたすらリタは話し続ける。
そうしながらも、透き通るような灰色の瞳からは止め処なく涙が溢れていた。
「フレデリク……もしも……眠りから覚めてくれたら……眠り姫のようにキスを……してあげる……だからお願い……目を……覚まして……お願い……うぅぅ……」
湧き上がる嗚咽を必死に我慢しながら最後の言葉を押し出すと、フレデリクの胸に顔を押し付けて泣き始めてしまう。
その姿を見ていた夜番のメイドも、遂に声を出して泣き始めたのだった。
「そうか……それは嬉しいな……どちらかと言えば……君の方がお姫様だと思う……けれど……」
その時不意に、声が聞こえた。
あまりに突然の出来事にリタが動きを止めて耳を澄ますと、それがすぐ近くからだとわかる。
それも手が届くほどの近い距離――
導かれるように顔を上げると、変わらずそこにはフレデリクがいた。
この二日間ずっと見続けてきたその顔は、見飽きるどころかむしろずっと見ていたいと思うものだ。
そして涙も拭かずにその顔をジッと見ていると、リタは何処かに違和感を感じてしまう。
それを探すように改めて見ていると――フレデリクの瞳がうっすら開いていることに気付いた。
未だ夢現の表情ではあるが、間違いなく彼は目を開けてリタを見ていたのだ。
「フレデリク……様?」
「やぁ、リタ……ここは……どこだい?」
突然の出来事に茫然とするリタ。
どこか呑気な声を上げるフレデリク。
二人の間で、一瞬時が止まったような気がした。
「フ、フレデリク様!! も、もしかして……目が覚めた……の?」
「あぁ……どうやら、そうらしい……」
「ほ、本当に? 本当に目が……?」
「そうだな……きっとそうだと思うよ。君の声が聞こえるし、こうして話もできてるしね」
何処か寝ぼけたような婚約者を見つめるリタの瞳に、再びぽろぽろと大粒の涙が溢れる。
しかしそれには一切かまうことなく、リタはフレデリクに抱き着いた。
「フレ……フレデ……フレデリクさまー!! うわあぁぁーん!!」
「わ、若様!! 気付かれたのですね!! すぐにお医者様を呼んでまいりますので少しお待ちを!! リ、リタ様は若様をお願いいたします!!」
二人の様子に気付いたメイドが慌てて部屋から出て行くと、そこにはリタとフレデリクだけが残された。
婚約者同士とは言え、結婚前の若い男女が部屋に二人きりになるのはマナー違反なのだが、今のリタにはそんなことはどうでも良かった。
とにかく今は、フレデリクの意識が戻ったことに正気を失うほど歓喜していたのだから。
目を開けてはいるのだが、どう見てもその瞳の焦点は合っていなかった。その様子を見る限り、どうやらフレデリクはあまり目が見えていないらしい。
もしかすると、出血多量と昏睡の後遺症かもしれない。いずれにしても、すぐに主治医が駆け付けてくるはずなので、後のことは彼に任せるべきだろう。
目は見えなくても、声は聞こえる。
そう思ったリタは、フレデリクに抱き着いたまま歓喜の声を上げ続けた。
「あぁ、フレデリク!! 良かった、本当に良かった!!」
「リ、リタ……」
「正直に言うけれど、貴方はもう目が覚めないんじゃないかと思っていたの……ごめんね、ごめんね……うぅぅぅ……」
「大丈夫だよ。ほら、この通りだから」
「うん、そうだね。フレデリク様はとっても強い方だから……そうだ、具合は? 頭が痛いとか、気持ち悪いとか、何かある?」
「大丈夫。特に痛いところはないと思う。 ――あぁ、喉が渇いたから水が飲みたいかな」
「そうだよね。でもちょっと待ってね。すぐにお医者様が来るから、その指示に従わなくちゃ」
未だフレデリクに抱き着いたままリタが話し続ける。
その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
そんな婚約者の身体の温もりと柔らかさ、そして昏睡から覚めた後遺症にフレデリクが頭をくらくらさせていると、勢いよく部屋のドアが開かれた。
「フレデリク!! 気が付いたか!!」
「あぁ、フレデリク!! よくぞ目を覚ましました!! 母は……母は……」
「兄さま!! よかった、兄さまぁー!!」
「兄さまー!!」
そこにはムルシア家の面々が勢揃いしていた。
父親のオスカルに母親のシャルロッテ、妹のエミリエンヌに弟のライナルトと、皆一様に涙を流しながら部屋に入って来る。
そして最後に、年配の主治医が肩で息をしながら走り込んで来たのだった。








