第170話 恐怖の対象
前回までのあらすじ
こんなん将来夫婦喧嘩したら、旦那殺されてしまうやん。
えっ? それを組み伏せるのがまたいいって……?
フルスイングで右拳を振り抜いたリタと、血を吐きながら盛大に地面を転がるジル。
あまりに予想外のその光景に全員が目を剥いていると、一言リタが吐き捨てた。
「ふんっ!! 口ほどにもないですわね!! 東のアンペールだか何だか知りませぬが、あまりに弱すぎでしてよっ!! いい加減になさいませんと、本気でぶち殺しますわよ!!」
続けて「むふぅー!!」とばかりに荒々しく鼻息を吐くと、乱れた姿勢を元に戻して再び拳を構える。
決して多くはない観戦者ではあるが、全員の耳にその鼻息が聞こえるほどその場は静寂が支配していた。
一体誰が想像できただろうか。
身長153センチ体重44キロの華奢(しかし巨乳)な少女が、180センチ110キロの巨大な猪のような男を右ストレート一発で殴り倒すなど。
そのくらいその光景は、現実味のないものだった。
実を言うと、これでもリタは相当手加減をしていた。
何故なら彼女は、すぐにジルを殺す気がなかったからだ。
その証拠に、吹き飛んで地面を転がったジルではあったが、即座にムクリと起き上がると再び構えをとっていた。
もしも本気を出していたなら、今の一撃で彼の頭は粉砕されていただろう。
しかしそんなことさえ気付かないジルは、未だ衝撃で頭がくらくらさせながらも、顔を真っ赤にして怒り狂ったままだ。
その唇からは、真っ赤な鮮血が流れていた。
試合開始直前に煽られたジルは、怒りのあまり正常な思考ができなくなっていた。
そのせいで開始の合図とともに、迂闊にもリタに襲いかかったのだ。
それはリタにはお見通しだった。
感情的なうえにお世辞にも賢いとは言えないジルのようなタイプは、煽れば煽るだけその後の行動は予想しやすい。
そして愚かにも、彼はその通りに動いていた。
その見た目通りに、まるで猪のようなその姿は「よくもまぁ、これで次代の武家貴族の跡取りだと言えたものだ」と、ライバル家ながらリタにして心配になるほどだった。
しかし今の彼女にはそんなことはどうでも良かった。
見るからに華奢(しかし巨乳)なリタの腕力を見くびったジルは、まるで無警戒に間合いを詰めた。
その結果絵に描いたような見事なやられっぷりを披露したのだが、彼にはリタの拳の威力が些か不自然に思えた。
そのジルの勘は、なかなかに鋭いと言えよう。
実を言うと、リタは咄嗟に魔法――空気弾を発動していたのだ。もちろん無詠唱で。
誰にも見破られることなく発動したそれを、ジルの頬に触れると同時に右拳から撃ち放っていたのだ。
空気弾とは、魔力によって固体化させた空気の塊を相手にぶつける魔法で、やられた方は拳大の硬いボールを思い切りぶつけられたような衝撃を受ける。
バレット自体はすぐに飛散してしまうため、その射程距離はとても短い。
このように少々使いどころが難しい攻撃魔法ではあるが、その特徴として対象と近ければ近いほどその威力は増すというものがある。
特に対象に直接触れられるゼロ距離でこそ、最高の威力を発揮する。
もとが空気であるため多少の弾力があるそれは、人の拳で殴るのと殆ど変わりはなく、空気刃のように対象を切り裂いたり、魔力弾のように無駄に光ったりもしない。
あくまでも空気であるため、人の目には見ることができない。それが空気弾だった。
このように人知れずこっそりと魔法で強化をしていたが、それでもジルの頬にカウンターの拳を叩き込んだのは、純粋にリタ個人の技術だった。
他はどうあれ、その点は褒めて然るべきだろう。
「ぬふぅー!!」
己の拳の手応えに、満足そうな鼻息を吐くリタ。
それに対し、殴られた本人――ジルは何処か違和感を拭えなかった。
しきりに頭を振りながら胡乱な顔を隠さずにリタを睨みつけると、それでも彼は襲いかかって来る。
「ふぬぁー!! 馬鹿にしやがってぇー!! 死ねぇー!!」
いやいやちょっと待て。
そもそもこの決闘は、リタを奪い、自分の嫁にするために始めたのではなかったか。
言い換えれば勝者への賞品とも言える彼女をここで殺してしまえば、この決闘自体の意味もなくなってしまうだろう。
この男は馬鹿なのか。アホなのか?
周りの者たちは皆そう思ったのだが、敢えてそれを口出す者は誰もいなかった。
己の怒りと渾身の力を込めた拳を叩きつけてくるジル。
丸太のようなその腕を、事も無げにリタが払いのけると、今度は左手でジルの頬を張る。
ばっちーんっ!!
何処か乾いたような、それでいて滑稽な音が広場に響く。
ただの平手打ちとは言え、魔法によって強化されたそれはジルを後退らせるには十分だった。
よろよろと支えを探すかのように後ろに下がるジル。
その彼の目には涙が浮かび、左頬には次第に赤く掌の跡が浮かび上がった。
「ぷっ……くすくす」
「ふふふっ……なにあれ」
「なんか情けないな……」
頬に小さな手形をつけて、瞳には涙を浮かべる。
その姿は、まるで恋人に振られた哀れな男にしか見えず、直前まで殺伐としていた王城広場にどこか緩い空気が漂い始めたのだった。
そんな情けない息子に向かって、何をやっているのかと言わんばかりにベネデットが叫ぶ。
指が白くなるほど手を強く握り締め、怒りのあまり身体を小刻みに震えさせていた。
「ジル!! 何を遊んでいる!! そんな生意気な小娘を瞬時に倒せずして、何が次代のアンペール家当主だ!! さっさと倒さんと、家を追い出すぞ!!」
リタの渾身の平手打ちに目に星を浮かべるジルだったが、ドスの効いた父親の言葉にハッと我に返る。
そして連続してリタに張り倒された彼は、ここに来てやっと警戒することを学んだようだ。
今や少々冷静になったジルは、先ほどのように後先見ずに突っ込んでくることはなかった。
リタの前で再び拳を構え直すジル。
その左頬には、小さくて可愛らしい紅葉のような手形が残ったままだ。
互いに素手である以上、否が応でも二人は手の届く距離で見つめ合う。
するとジルは、思わずリタの姿を眺めてしまった。
たれ目がちの瞳を鋭く細め、細い眉を吊り上げた怒りの形相のリタ。
そんな顔をしていても、やはり彼女は愛らしく、そして美しい。
身長こそ平均よりだいぶ低いものの、顔が小さく等身が高いその容姿は、小柄ながらもとてもバランスが取れている。
いや、むしろその小ささこそが余計に彼女の透明感を際立たせ、まるで妖精のように見せるのだ。
あぁ、あの男が羨ましい。
これほどまでに美しい少女の婚約者であるうえに、彼女に愛されている。
この政略結婚全盛の時代に、まるで相思相愛の恋愛結婚のような二人の関係は、思わず嫉妬しそうだ。
果たして自分は、これほどまでに人に愛されたことがあっただろうか。
自分だけを見てくれる存在がいただろうか。
――いや、いない。
頭が悪いからと、幼少時から父親には疎んじられ、猪のような見た目から母親には愛情を注がれずに育ってきた。
それでも嫡男だからと必死に努力をしてきたし、将来のために剣技も磨いてきたのだ。
それなのにこんな場所で、こんな華奢(しかし巨乳)な女にいいように弄ばれている。
今のリタは、殺したいほど自分を憎んでいるだろう。
それは当たり前だ。彼女を奪うために、自分はその婚約者を殺そうとしたのだから。
この闘いに勝ったとしても、彼女と良い関係を結ぶのは今や絶望的だろう。
一体どこで道を誤ったのだろうか。
自分はただ、この少女が欲しかっただけなのに……
怒りに震えるリタを見つめながらそんなことを考えていると、ふとある人物の姿が視界に入ってくる。
それは幼馴染のアーデルハイトだった。
170センチ後半はあるだろう背の高い彼女は、まるで祈るように手を合わせていた。
これ以上ないほどに不安な顔をして、もう見ていられないとばかりに瞳を逸らす。
それでもずっと自分を見守ってくれている彼女の存在に、ジルは今更ながらに気付かされた。
ジルがアーデルハイトに気を取られていると、その隙を突いてリタが懐に飛び込んでくる。
そして渾身の右ストレートを放った。
咄嗟にジルはそれを左腕で受け止めたが、その腕から嫌な音が聞こえてきたのだった。
「ゴキャッ!!」
「ぐあっ!!」
耐え難い激痛が襲った途端、堪らず彼は後ろに下がってしまう。
そしてよろよろと数歩後退った時には、既に彼の左腕は使い物にならなくなっていた。
ゼロ距離から空気弾を叩き込まれたジルの左前腕の骨は、見事に砕け散っていたのだ。
真っ青に腫れて、だらりと垂れ下がった左腕。
それでもジルが構えを解かずにいると、背後からベネデットの声が飛んでくる。
その声は、他の者にも聞こえるほどに大きかった。
「ジル、気をつけろ!! どうやら奴は、魔法を使っているようだぞ!! ――おい、立会人!! それは反則なんじゃないのか!? いくら魔術師とは言え、素手での闘いに魔法なんぞ使っていいのか!?」
「なに?!?」
ベネデットの指摘に、立会人の眉が上がる。
そして様子を見ようと目を凝らしていると、不意にリタが叫んだ。
「失礼ですわね!! 何を人聞きの悪い!! 私は魔法など使ってはおりませんわ!! 一体いつ呪文を唱えたのかと、仰ってみて下さいまし!!」
リタが反論した通り、彼女が魔法を使っている様子はまったくなかった。
確かにリタの本職は類稀に見る強力で優秀な女魔術師――魔女ではあるが、少なくともこの場で呪文を唱えた様子は見られなかった。
常識で言えば、魔術師が魔法を行使するには呪文の詠唱が必要だ。
つまりリタが呪文を唱えていないのであれば、それは魔法を使っていないのと同義だ。
この場の全員を含めて、魔法に対する一般の認識などは所詮その程度でしかなかった。
実際には現王国魔術師協会副会長を務めるロレンツォ・フィオレッティが、無詠唱魔法を行使できるので有名だったが、それだとて普通の者たちがその意味を正確に理解しているかと問われれば怪しいところだろう。
魔法とは呪文を唱えて発動するもの。
それが常識だった。
「リタ・レンテリア!! 一応確認するが、まさか魔法は使っていないだろうな!? もしも使っているのなら、その時点で反則負けだぞ!!」
セコンドに問題点を指摘された以上、立会人としてはそれを確認しなければならない。そのために試合を中断すると、彼はリタに訊いてきた。
すると彼女の細い眉がピクリと動いた。
「あら。それはまた異な事を仰りますわね。 ――魔術師である私にとって、魔法は我が身から出る力。この手の延長にして、この足の延長そのもの。言うなれば、素手で殴り合うのと変わりはないものでしてよ。念のため」
「そ、それはそうかもしれぬが……」
「いい機会ですわ。なれば問いますが、この決闘において魔法を使ってはならぬなどと、何処に書いてありますの? お示しくださいまして?」
「い、いや、それは……書いていないからと言って、使っていいという解釈にはならんだろう」
「そうですの? なれば再び問いますが、先ほどのジル様とフレデリク様の一戦。互いにレイピアでの闘いを選びましたのに、ジル様は素手で殴っておいででしたが? あれは反則ではありませんの?」
「……素手で殴ってはいけないと、はっきり書かれてはいないからな。だから――」
「なれば同じことでは? 魔法を使ってはいけないと書かれていないのであれば、使っても良いという解釈になるかと。私にはそう思えますが、如何?」
「そ、それは、詭弁だ!! 素手と魔法では、そもそも次元が違うだろう!!」
「まぁ、そうですわね……確かに違いますわね。あぁ、いい機会ですから、なぜ魔術師の私が素手での決闘を選んだのか、お教えしましょう。 ――私が本気を出したらどうなるか、せっかくですから皆さまにもお見せして差し上げますわ」
そう言うとリタは、その細く白い指を顎に当てて何か考え始める。
そして徐両手を天に捧げると呪文を唱え始めたのだった。
「熱く迸る紅蓮の炎よ、我、操る術を行使せん。境界を越えたる炎猫は、大地とともに燃え盛る――」
両手とともに天を仰いだリタは、何やらぶつぶつと口を動かした。
その様子を見るに、どうやら彼女はこれから魔法を見せてくれるらしい。
そしてなぜ魔術師の彼女が素手での決闘方法を選んだのか、その理由を皆に見せるそうだ。
その場の殆どは、魔法など見たことのない者たちばかりだ。
特に攻撃魔法などであれば、戦場にでも行かない限り一生見る機会はないだろう。
そんな興味津々の視線が集まる中で呪文を唱えた終わったリタは、最後に甲高い大声を上げた。
「炎龍之息吹!!」
ドゴーッ!!!!!!!
ドッカーン!!!!!!!!
その声とともにリタの両手から巨大な火柱が生まれる。
轟音とともに放たれた巨大な炎の龍は、そのまま王城広場の壁に激突した。
そして耳を劈く轟音とともにその壁を破壊、爆発、炎上したのだった。
「きゃー!!!!」
「わぁー!!!!」
「逃げろー!!!!」
耐え難いほどの熱風が会場内を吹き荒れる。
まるで身を焼き尽くすかのような灼熱に突然晒された観戦者達は、パニックを起こして逃げ惑うばかりだ。
そんな彼らの様子を尻目に、しれっとした顔のリタが口を開く。
「おわかりいただけましたかしら? もしも私が本気を出したなら、ジル様など一瞬で消え去ってしまいますもの。それこそ跡形もなく、ね。 ――あぁ、壁の弁償金はアンペール家へご請求くださいませ。もっとも、彼の家が今後も残っていれば、ですが。あしからず」
最後の言葉が妙に気になった立会人だったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
今や国王たちまで避難しようとしているのを見た彼は、慌てたように懇願する。
「わ、わかった!! わかったから、早くあの炎を消してくれ!! このままだと皆焼け死んでしまうだろ!! 気は確かか!!」
「むふぅ……仕方ありませんわね。少しお下がりくださいませ。 あー、あー、ごほんっ、えぇと――清き乙女の吐息と緑深き湖の結界。約束された解放の地へといざ行かん――」
立会人の懇願に少し困った顔をしたが、それでもリタは大瀑布を唱えて大量の水を降らせると、燃え盛る炎を速やかに鎮火させたのだった。
炎が消えて辺りを覆っていた熱気も冷めてくると、逃げ惑っていた観戦者達がやっと戻ってきた。
皆それぞれに青い顔をしながら、まるで化け物を見るような目でリタを見ている。
その様子を見る限り、リタだけは絶対に怒らせてはいけないと彼らは思っているようだ。
特に国王ベルトランとその側近たちは、リタに対する認識を少々改めたのは間違いなかった。
そんな彼らを横目に見ながら、再びリタが口を開く。
その顔にはまるで悪びれた様子は見えなかった。
「これでおわかり頂けたかしら? そもそも私は魔術師ですので、鉄製の武器は持てませんもの。かと言って魔法を使ってしまえば、ジル様など瞬殺してしまうでしょう? それでは面白くないではありませんか。ですから素手での決闘を望んだまでのこと。 ――これ以上まだなにかありまして?」
巨大な炎のせいで半ば溶けかかった王城の石壁。
それを背景にしれっとリタが答えると、その姿に立会人は思わず恐怖を感じてしまう。
それだけ今の彼女は、畏怖すべき存在だった。
本気を出せば相手を殺してしまうからと、敢えて素手で挑んだのだ。
あんな折れそうな細腕であるにも関わらず。
そんなリタの姿に立会人が喉を鳴らしていると、衝撃のあまり座り込んでしまったジルに向かってリタは言い放つ。
その顔には愉悦に満ちた笑顔が浮かんでいた。
「お待たせいたしました――さてジル様、お聞かせいただけるかしら? ハンデとして魔法を封印した魔術師に、剣士である貴方様が素手で殴り倒されるお気持ちを」
「なんだと!? うぬぅぁ!! くそぉ!!」
「ふふふ……さぞ悔しいでしょうねぇ、無念でしょうねぇ……そのお気持ちは察するに余りありますわ。 ――だがしかし!! だからと言って貴方様を許すつもりなど、毛頭ございませんことよ。私の婚約者を殺そうとしたこと、たっぷりと涙を流して後悔なさいまし。そしてこのリタ・レンテリアに喧嘩を売ったこともね!!」
「ぬぬぬ……!!」
見た目は愛らしい少女でしかないのに、今や恐怖の対象になっている。
それに気が付いたジルは、湧き上がる震えのせいで今や身体を動かす事すらできなくなっていた。
そんなアンペール家の嫡男に、リタは「ビシィッ!!」とばかりに指を突き付ける。
そして薄紅に紅く濡れる唇と小さな舌を艶めかしく動かしながら、リタはゆっくりと告げた。
「そんなに怖がらないでくださいまし。心配せずとも魔法など使いませんことよ。貴方様など素手で十分なのは、もうお判りでしょう? さぁ、ここからが本番ですわ。 ――次は何処をへし折られたいですの? 右腕? 右脚? 左脚? ……そうですわねぇ、首は最後にして差し上げますわ。そうしなければ、苦しみを味わわせる前に死んでしまいますもの。それでは面白くないでしょう? うふふふ……」
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