幕間9 アニーと熊 其の一
ハサール王国の首都アルガニルの郊外には、若い冒険者夫婦が住んでいる。
彼らは昨年結婚したばかりなのだが、まるで熟年夫婦のように息の合う姿はとても新婚には見えない。
たとえ言葉を交わさなくても、互いの意思を伝えあうことができる。
彼らの関係はまさにそんな感じだった。
そんな二人ではあるが、普段は互いに言いたいことを言い合っては喧嘩ばかりしている。
そして時々怒鳴り合いに発展することさえあるほどだ。
しかし一見仲が悪く見えて、その実信頼し合う姿には、長年互いの背中を預けて来た者同士にしか持ち得ない絶対的な信頼が滲んでいた。
まるで無遠慮な二人にはすぐにでも夫婦の危機が訪れそうだが、不思議とそうはならなかった。
それは相手を知る尽くしているがゆえに、ギリギリのポイントを心得ているからだ。
しかしここに来て、遂に爆発しそうになっている者がいた。
「おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー!!」
「ぐおおぉぉぉ!! ぐおぉぉぉぉ!! ぐおぉぉぉぉ!!」
「ふぎゃぁ、ほぎゃぁ、おぎゃぁ!!」
「ぐおぉぉぉ!! ふごぉぉぉぉ!! ぐおぉぉぁぁ!!」
「おぎゃー、おぎゃー、ほぎゃぁー!!」
「くっそぉ、このクソ親父……」
真夜中の寝室に、若い母親の歯ぎしりが響く。
少々甲高くハスキーなその声は、他でもない冒険者夫婦の妻、パウラの声だった。
月明かりさえ見えない、未だ真っ暗な午前三時。
不意に赤ん坊の泣き声に起こされたパウラは、むくりと身体を起こすと目の前で平和に鼾をかく夫――クルスに毒づいた。
二人の間に生まれた天使――長女のアニーは、ちょうど生後三ヵ月になったところだ。
初めての育児にもやっと慣れ、授乳間隔も四時間になった。
それでも昼も夜もなく空腹を訴える娘に対して二十四時間体制でスタンバるパウラは、慢性的な寝不足と育児疲れのために、すでに限界が近かった。
確かに娘は可愛い。
世界で一番愛おしく、自分の身を捨ててでも守りたい存在だ。
しかしその想いも寝不足には敵わない。
現に夜中の授乳中に、何度も寝落ちしそうになっていた。
実の親などとうの昔に生き別れているし、かと言って近所の知り合いも多くない。
そんなパウラは、育児の全てを一人でこなしながら夫の世話まで焼いていた。
もっとも、夫の世話と言っても食事の支度をする程度で、掃除や洗濯などは全て夫のクルスがしてくれるのだが。
それでも食事の用意だけは夫には任せられなかった。
何故なら、彼の作る料理は壊滅的だからだ。
育児に疲れていても、食事だけはしっかり摂りたい。
そうしなければ満足に母乳が出なくなるし、何より美味しい物を食べることが今では数少ないパウラのストレスの捌け口になっていたからだ。
もともと少食で痩せぎすだったパウラだが、悪阻の時期を乗り越えるととても良く食べるようになった。
そのおかげで初めての育児にも負けない体力と豊富な母乳を手に入れたが、今でも彼女は妊娠前の体重に戻れずに些かぽっちゃりしたままだ。
とは言え、元が痩せぎすな体形だったパウラは、そのくらいの肉付きがちょうどいいとも言える。
しかし彼女は、どうやら不満があるらしい。
何故なら、事あるごとに夫のクルスがぷよぷよの腹や二の腕の肉をつまんで、ご満悦だからだ。
そして決まって「頼むからこれ以上痩せるな」と言ってくる。
昔は痩せてスレンダーな自分を可愛いと言ってくれたが、今では太った自分が良いと言う。
クルスの好みの変化は、彼が年齢を重ねたからか。それとももともとぽっちゃり系女子が好きだったのだろうか。
些かの疑惑とともにその節操の無さが気に入らないパウラは、同様に肉付きの良くなった自身の胸を見つめながら、小さなため息を吐く。
せっかく大きくなったこの胸も、授乳期間が終わればもとに戻ってしまうだろう。
そうなればきっと、またぞろ貧乳に逆戻りだ。そして絶対この熊親父にバカにされる。
くっそぉ……ぶっ殺す!!
……あぁ、だめだ。
どうやら自分はイライラしているらしい。
アニーがお腹を空かせて泣いているのだから早く起きなければいけないのに、まるで身体が言うことを聞いてくれない。
「おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー!!」
――あぁ、だめだめ!! こんな事じゃいけない!!
「あぁ、ごめんねアニー。今すぐおっぱいあげるからねぇ。ごめんねぇ」
力なくそう告げると、パウラは布団から身体を引き剥がして娘に母乳を飲ませ始める。
そして必死に胸に吸い付く最愛の娘を見つめながら、母親としての大きな愛を感じるのだった。
しかしそんな彼女でも、やはり寝不足には勝てなかった。
胸に吸い付く娘を抱きながら、彼女はすぐに船を漕ぎ始めてしまう。
ゆらゆらと左右に動く小柄な身体。
それが遂に倒れそうになった時、がっしりとその肩を抱き留める者がいた。
もちろんそれは、夫のクルスだった。
それまで大きな鼾をかいて眠っていたはずなのに、いつの間にか起きていたらしい。
そして寝落ちしそうになるパウラの肩を支えると、ゆっくりと自分の胸に寄りかからせた。
「おう。アニーの様子は見ててやるから、お前はそのまま眠っとけ。飲み終わったらげっぷもさせておくからよ」
「あぁクルス……ありがとう……助かるわぁ」
アニーはパウラの乳を吸いながら、最後には自身も寝落ちしそうになる。
母親の乳首を吸いながら気持ち良さそうに目を瞑ると、そのまま何度もカクンと頭を揺らした。
それでもアニーはお腹がいっぱいになると、満足そうに口を離す。
直前まで娘が吸っていた妻の乳首。
本来はAカップ-だが、授乳期間中限定でBカップ-まで成長しているその胸。
そんな奇跡のような膨らみと控えめな先端の突起を見つめているうちに、意図せずクルスは思ってしまう。
「母乳って……美味いのか……?」
一度疑問に思ってしまうと確かめられずにはいられない。居ても立ってもいられなくなったクルスはパウラの胸に顔を近づけた。
そして唇を尖せながらこっそり先端に吸い付こうとしていると、突然強烈な殺気を感じ取る。
慌てて視線を上に向けると、妻と至近距離で目が合った。
「クルス……なにしてんの?」
「あっ……いや……なんでもない……」
「ふぅん……ならいいけど」
何気にじっとりとした妻の視線を浴びたクルスは、誤魔化すように娘の身体を持ち上げる。
「よしよしアニー。いい子だ、こっちへおいで……」
パウラの身体をゆっくり横たえると、我が子を胸に抱く。
そしてそのままうつぶせの状態で肩口に抱きかかえて、トントンと優しくその背を叩き始めた。
「さぁ、げっぷちゃんをするんだよぉ。げっぷ、げっぷ……ほらほら……」
トントントン――
「げぼっ!!」
「うおっ!!」
大きなゲップとともに盛大に吐き出される母乳。
甘いような酸っぱいような、なんとも言えない匂いのする液体をかけられたクルスは、いそいそと着替えを始めるのだった。
数時間後パウラが目を覚ますと、その横には最愛の娘が寝息を立てていた。
互いの顔の距離は約5センチ。
思わず鼻の先がくっ付きそうなほどの近さでその顔を見ていると、なんとも言えない幸せな気持ちになる。
そして実際に娘の鼻の先に自身のそれをこっそり擦り付けてみたりする。
アニーは母親似だ。
父親のクルスがまるで熊のような外見をしていることを考えると、彼に似なかったのは奇跡と言える。
確かに眉間にしわを寄せた顔と鼻筋に父親の面影は見えるが、顔の造りの基本はパウラだ。
燃える様な赤い髪も、黒い瞳も、可愛らしい小さな口も薄い唇も、全てが母親から譲り受けていた。
今はまだ顔立ちもはっきりとしていないが、もう少し大きくなればきっと「小さなパウラ」と言っても間違いないような容姿になるだろう。
朝っぱらからそんな娘の愛らしさを一頻り堪能したパウラは、起き上がろうと反対側を振り向く。
するとそこには――熊がいた。
その距離10センチ。
無精ひげが伸びた、凄みのある強面の親父の顔面がそこにはあった。
至近距離で見ると、さらに凄みが増す熊親父の顔。
しかしすでに見慣れたパウラには、その顔はどうということもなかった。眠る夫に小さく微笑むと「おはよう」と朝のキスをした。
すると熊が目を覚ました。
「あぁ……おはよう。――朝食は俺が作ってやるから、お前はアニーが起きるまで眠ってろ。黒パンと昨日のスープでいいか?」
「うん、ありがと。それじゃあ、もう少しだけ……」
基本的に昨夜の残り物で済ます朝食は、夕食と違って一から作ることはない。
精々竈に火を起こしてスープを温めなおしたり、温かい飲み物を用意する程度だ。
だからそこだけは料理下手なクルスにも任せられるのだ。
のっそりとベッドから立ち上がり竈に火を入れ始める夫の背中を眺めながら、パウラは束の間の微睡に身を任せた。
「それじゃあ、アニーのお世話をお願いね。帰りは昼過ぎになるから。お昼のおっぱいはルチアさんに頼んでおいたし、何か困ったことがあったら彼女に相談して。それじゃ、よろしく」
そう言うとパウラは、足早に家から出て行く。
ルチアとは近所に住む子沢山の農家の嫁で、なにかとクルス夫妻が世話になっている女性だ。
彼女も現在生後六ヶ月の三男に授乳中なので、今日は一度だけ彼女に貰い乳を頼んでいた。
今日のパウラは、半年ぶりに街の市場に出かけて行った。
古今東西、世界中から色々な物が集まる街の市場では、手に入らない物はないと言われている。
しかしその混雑ぶりは有名で、とてもお腹の大きな妊婦がウロウロしたり、小さな赤ん坊を連れていけるような場所ではない。
だからパウラは、妊娠後期からずっと市場には行っていなかった。
とは言え、食材の良し悪しもわからないクルスに任せるわけにもいかない。
しかし複数の調味料が切れてしまった現在、その補充は切実な問題だった。
主にパウラには。
基本的にクルスは「食えればいい」といったバカ舌なので、調味料を使わない素材の味だけでも問題はない。
しかし新生児の世話に疲れ切ったパウラには、美味しいものを食べることが重要なストレス発散だった。
だから彼女は食事だけには妥協したくなかったのだ。
そんなわけで彼女は一人で市場に買い物に出かけた。
そしてパウラが帰ってくるまでの約六時間、クルスはアニーの世話という一大ミッションを課せられたのだった。
心配そうな顔をしながらパウラが家から出て行くと、家の中に残された父子はその背中を見送った。
「おう、アニー。これから少しだけ父ちゃんと二人きりだからな。よろしく頼むぞ」
何気に小声でそう囁きながら、ベッドの上のアニーを見つめる。
すると彼女は、紅葉のような可愛らしい手を振り回し、愛らしい小さな口をモグモグとさせていた。
そんな愛娘と不意に目が合う。
ジーッ。
ジー。
にこっ!!
「うおっ!!」
しばらく睨めっこをしていると、突然アニーがニコリと微笑んだ。
まるで天使のような笑みを顔いっぱいに浮かべると、歯のない口を大きく開ける。
その顔を見た途端、思わずクルスは立ちすくんでしまう。
「あ、あぶねぇ……本物の天使かと思ったぜ。それにしても――めちゃくちゃ可愛いじゃねぇか、うちの娘はよぉ、おい!!」
娘のあまりの愛らしさに、クルスは悶絶しそうになる。
そして一体どうしてやろうかと考えながら近づいていくと、アニーは屈託なく大きな欠伸をした。
そんな世界で一番可愛らしい赤ん坊を見つめながら、クルスは小さく呟いた。
「これまで他人のガキを可愛いなんて思ったことはねぇが、自分のガキってのは違うもんだな……」
身長190センチ、体重130キロを誇る巨漢のクルスは、その大きな体躯のみならず、細く鋭い眼差しと無精ひげの目立つ厳つい顔つきから、人から怖がられることが多い。
そしてその外見のおかげで、これまで無駄な争いを避けてこられた側面もあった。
クルスは剣士として冒険者ギルドに所属している。
しかしその見た目に反して実は剣闘が苦手な彼は、可能な限り剣を抜こうとはしない。
もちろん苦手と言っても、その腕力にものを言わせた強引な闘い方は一般人からすれば相当な脅威なのだが、それでも同じ職種の者からすればそれほど怖い存在ではないらしい。
もっともクルスは滅多なことでは人前で剣を抜かないし、抜いた時でも力任せに相手を薙ぎ倒すのが殆どだ。
だから彼がそれほど強くないという事実は、それほど人には知られていなかった。
そんな見るからに恐怖を感じさせる熊のようなクルスに、アニーは無邪気な笑顔を見せる。
そして穢れのない瞳で見つめながら、小さな声を出した。
「あー、うー、ばぁー」
「おうおう、どうした? 随分と楽しそうだな? 俺と一緒にいるのが、そんなに嬉しいのか? そうかそうか、可愛い奴だ」
パウラが見ていれば間違いなく「気色悪い」と言われるほど相好を崩しながら、クルスは娘の隣に腰を下ろす。
そしていつしか一緒になって居眠りを始めたのだった。








