第148話 あまりに間の悪い男
前回までのあらすじ
うえぇぇぇぇん!! ピピ美ぃー!!
ピピ美が去った翌日も、変わらず馬車は首都アルガニルへ向かって進み続ける。
一定のリズムを刻む馬車馬の蹄の音。
ガタゴトと尻に伝わる細かな振動。
その全てが前日と変わることなく、たかが妖精一匹いなくなったことなどまるで関係がないと言いたげだ。
馬車の中では、リタが静かに寝息を立てていた。
年相応に大きく愛らしい灰色の瞳は赤く充血し、本来なら真っ白いはずの瞼は腫れ上がっている。
森の中にピピ美の姿が見えなくなった後、リタは盛大に泣いた。そして朝まで一睡も出来なかった。
結局リタは、温かい母親の体温と心地よい振動によって、馬車が出発した直後に眠り込んでしまったのだった。
リタにとってピピ美は妹のような存在だった。
実際ピピ美はその関係を受け入れていたし、リタもそのつもりで接した。
とは言いながら、案外ぞんざいな扱いをしているように見えていたが、リタはリタなりにピピ美のことは大切にしていたのだ。
貴族令嬢として習い事に勉強にとそれなりに忙しかったリタは、屋敷の中ではあまりピピ美にかまう暇はなかった。
それでも誰と親しくしてしているのか、何をしているのか、危険なことはしていないかなど常に気にかけていたし、夜は必ず同じベッドで眠った。
それは一日に一度ピピ美に魔力を分けるために必要な儀式のようなものではあったが、実際のところ二人ともその時間を大切にしていた。
今日一日見聞きしたこと、起こった出来事などを楽しそうに話すピピ美と、相槌を打ちながら聞くリタ。
そしていつしか二人は寝落ちしてしまう。
そんな本当の姉妹のような関係であったのに、突然彼女はいなくなってしまった。
今はまだ現実味のない中で茫然としているだけだが、今後時間が経つほどに、ぽっかりと胸に穴が空くような喪失感をリタは味わうことになるのだろう。
泣き腫らした顔のまま、静かに寝息を立てる最愛の娘。
幼児特有の細く滑らかな髪に指を滑らせながら、母親のエメラルダはその寝顔を見つめる。
抜群に触り心地が良く、自身と同じプラチナブロンドの髪色を眺めながら彼女はポツリと呟いた。
「ねぇ、あなた。そろそろ本当にこの子に弟か妹を作ってあげない? 確かにピピ美ちゃんは妹のようなものだったけれど、やっぱりそれは違うと思うのよ。それにもういなくなってしまったしね……」
「そうだな。 ――私達の禊はまだ終わってはいないけれど、もうそろそろ家族が増えることにケチをつける者はいないだろう。そのくらいのことは皆許してくれるさ」
「そうね。お義父様もお義母様も何も仰られないけれど、孫が増えて嬉しくないわけがないし、歓迎してくれるはずよ」
「あぁ、間違いない。レンテリア家の家督はあと数年で兄が継ぐだろうし、そろそろ両親にはのんびりと孫の成長を楽しむ生活をさせてあげるのも悪くないな」
「うん。ピピ美ちゃんのことがあったからではないけれど、やっぱりこの子には弟妹がいた方がいいと思うの。ずっと一人っ子だったけれど、ピピ美ちゃんのおかげで意外と面倒見がいいことがわかったし」
その時リタが小さな声をあげて寝返りを打った。
二人は愛娘の真っ白な横顔を見つめながら小さく微笑む。
「あぁ。リタなら弟や妹の面倒もきちんと見てくれそうだ。その辺は心配してないよ」
「そうね。私もそこは心配してないわ。それじゃあ――」
――――
そんな話をしている馬車から遅れること少し、そこにもう一台の馬車が走っていた。
それは前を行くレンテリア家の馬車とぴったり同じ速度で走り、御者台の横には大きなムルシア家の紋章が掲げられている。
それはハサール王国魔術師協会所属二級魔術師にしてリタの家庭教師でもあるロレンツォ・フィオレッティと、同国の王立魔術研究所の研究員を務めるブリジット・フレモンが乗る馬車だった。
彼らもリタ一家とともに首都へ帰るところだ。
レンテリア家の馬車が四人乗りだったのと、ブリジットが貴族の馬車に同乗するのに躊躇ったため、気を利かせたムルシア家が彼らのために馬車を一台用意してくれた。
ムルシア侯爵領で始まったカルデイア大公国による侵略行為。
それは過去の小競り合いとは全く異なり、その規模と進軍速度からも彼らの本気が窺えた。
その初動で、警戒砦の孤立と人質に取られる事態が発生。
そこから同胞を救出するために緊急召集された彼らだったが、気付けばあっという間に戦も終わり、今ではお役御免となっていたのだ。
そんな二人が乗る馬車の中には重苦しい空気が漂う。
戦場に来た時と帰る時では仲間が一人減っていた。
ロレンツォもブリジットも互いに無言のまま、車窓から見える景色をただ何となく眺めている。
するとブリジットがぽつりと零す。
「ロレンツォさん、ハンネスさんの婚約者さんのお話――聞いてます?」
「いや、詳しくは聞いてないよ。でも協会に聞けばわかるかもしれない。何とかしてこれを届けてあげなくちゃいけないし」
そう言うとロレンツォは、鞄のポケットから小さな鎖の束を取り出して見せる。
それは短いブレスレットだった。
鎖の中央に小さな青銅色の石がはめ込まれたもので、その意匠と石の種類からも決して高価なものではないことがわかる。
しかしその持ち主――戦死したハンネスが一度だけ「婚約者に貰った」と言っていたのを思い出したロレンツォが、彼の死体からそれを抜き取っていたのだ。
「死体は砦の横に埋葬したからね。せめてこれだけでも届けてあげなくちゃ。形見だからね」
「そうですね……」
そこまで言うと、再び二人の間に沈黙が訪れる。
しかしその沈黙は今となっては気まずいものではなくなっていた。それはそれだけ二人の仲が気安いものになっていたからだろう。
「あの、ロレンツォさん。訊いても良いですか?」
それから暫く窓の外を眺めながら幾度か睡魔に襲われかけていると、ブリジットが再び話しかけてくる。
その声にハッと意識を戻されたロレンツォは、優しく微笑んだ。
「なんだい?」
「あの砦の前での戦い……ロレンツォさんは怖くなかったのですか? 恥ずかしい話ですが、私は足が竦んでしまいました……」
「いや、もちろん怖かったさ。実際殺されそうになったし。相手が無詠唱魔術師だってわかった時には絶望したよ。なんせ僕はその大家を良く知っているからね。その相手をするのは本当に大変なんだよ」
「ふふふ……良く知っているって……あなたの師匠ではないですか。アニエス・シュタウヘンベルク」
「あぁ……」
砦から退去したブリジットのその後は、ロレンツォも全て聞かされていた。
途中で彼女が死にかけたこと、妖精族の女王に助けられたこと、リタに出会ったこと、そしてリタの正体とロレンツォがその弟子であることを彼女も知っていること。
だからそんな二人の間には、同じ秘密を共有する者同士が持つ、ある種の連帯感のようなものが存在していた。
もっともそれを感じていたのはブリジットだけで、鈍感なロレンツォはただぼんやりとしているだけだったのだが。
「私はロレンツォさんに感謝しているんです。あの時あなたが背中を叩いてくれなかったら、きっと恐怖で座り込んでいたと思います」
「あぁ、あの時は必死だったからね。なにせ皆の命がかかっていたし、正直僕もいっぱいいっぱいだったんだよ。今だから言うけどね」
冗談めかした顔をしながら優し気に語るロレンツォ。
そんな彼を正面から見つめると、ブリジットは居住まいを正して真面目な顔をする。
「いえ、あなたは素晴らしい方だと思います。 ――あの状況で矢面に立つ勇気、周りを見渡す視野の広さと的確な判断力、そして自己犠牲の精神……」
ちらりとロレンツォの左腕を見る。
そして思いつめたような顔をしながら身を乗り出した。
「だ、だから、私は……そんなあなたが――」
「ちょ、ちょっと待って……」
「えっ?」
「ご、ごめん……吐きそう」
「えぇ!?」
「うぷっ!! おえぇぇぇぇぇ!!」
まさに強行軍としか言えなかった行きと違い、帰りの馬車旅はとてもゆったりとしたものだった。
揺れの少ないムルシア家の馬車は乗り心地も抜群だし、見るからに高級な座席は柔らかく尻に優しい。
それでもロレンツォは馬車酔いを克服できずにいた。
慌てて取り出した汚物入れに、盛大に朝食をもどすロレンツォ。
そんな彼の背中を摩りながら、ブリジットは声をかける。
「だ、大丈夫ですか? 全部吐いたら少しは楽になると思いますけど……」
「ご、ごめん……やっぱり馬車は苦手だ……うぅ、気持ち悪い……そ、それより、なにかな? なにか言いかけていたけれど……」
「えっ……!?」
「話の途中だっただろ? なにか大切な話っぽかったけれど」
自分が何を口走ろうとしていたのかを、咄嗟に思い出すブリジット。
次の瞬間見る見るうちに顔が赤くなり、慌ててプイっと横を向いてしまう。
彼女にしては珍しく、その眉は吊り上がり唇は尖っていた。
戸惑い、悩み、迷った挙句に一世一代の勇気を出したというのに、なんという間の悪さだろう。
まさに思いの丈を口に出そうとした瞬間、思い切りそれを遮られてしまった。
そのやるせなさに、彼女は思わず大声を出してしまう。
「な、なんでもありません!!」
そんなブリジットの姿を、まるで意味がわからないと言いたげにロレンツォは見つめていたのだった。








