第137話 動き始めた事象
前回までのあらすじ
ティターニア……冷静に考えると、結構都合の良いこと言ってるよね。
「心配せずとも大丈夫です。あなたであれば、必ずや成し遂げることができるはず。何故なら、あなたはあのアニエス・シュタウヘンベルクなのですから」
「ア、アニエス……!?」
妖精族の女王ティターニアが放った何気ない一言に、大きく目を見開く者がいた。
それはその言葉を告げられたリタ本人ではなく、その横に座り込むブリジットだ。
その特徴のない地味な顔に驚きの表情を浮かべたまま、彼女はまさに絶句していた。
アニエス・シュタウヘンベルク。
魔術師を志す者であれば、その名を知らぬ者はいない。
その名はまさに彼らが目指すべき最高到達点であり、たとえ異国の宮廷魔術師を務める者であったとしても、その尊敬すべき目標であるところは全く変わらない。
もちろんそれは、ハサール王国王立魔術研究所の研究員を務めるブリジットでも変わらなかった。
何故なら、彼女が一時期従軍魔術師を目指したのもアニエスの影響だったからだ。
あくまでもアニエスは宮廷魔術師であって従軍魔術師ではなかったが、本職を上回る戦場での活躍と、誰にも真似できない無詠唱魔法はブリジットの憧れだったのだ。
結局上がり症でビビりの性格が戦場では致命的だったのと、彼女自身が人を殺めることに抵抗を感じたために、志半ばにして研究員への道を選んだ。
それでも彼女は攻撃や広域殲滅魔法を己の得意分野として開拓していたし、無詠唱魔法の謎にも独自に研究を重ねていた。
しかしそんな魔術師としての目標でもあったアニエスは、今から約二年半前の魔王討伐の際に行方不明になってしまったのだ。
噂ではブルゴー王国の勇者が独自に探し回っていたらしいのだが、それでも最後まで見つけ出すには至らなかったらしい。
そんな偉大な女魔術師が生きていた。
しかもこんな五歳の幼女に身を窶して。
両目を大きく見開いて、まるで信じられないものを見るようなブリジット。
そんな彼女を尻目に、リタはティターニアとの会話を続けようとする。
その愛らしい顔は盛大に顰められ、口角は下がり、興奮のあまり少しだけ鼻水も出ていた。
その鼻水をティターニアが指摘すべきか思案していると、自らグイっと袖で拭ったリタは再び口を開いた。
「それは敵を全滅させろっちゅうことなんか?」
「それはあなたにお任せいたします。なにぶん私たちは、人間の営みに口を挟むことは憚られますゆえ。ただ見守ることしかできないのです」
「……」
その言葉に、リタの眉間のシワがさらに深くなる。
すると彼女は、まるで自身の心の内を整理するかのようにぽつぽつと話し出した。
「もとよりわちも、そのつもりではあったのじゃ。 ――憎っくきカルデイア大公国はあの馬鹿セブリアンの生みの親であるうえに、実父母の国でもあるのじゃからな」
「そうですね。そしてあなたが敬愛していたバルタサール卿をも殺めたのです」
「そうじゃ……そもそも彼奴がいなければ、このような事態にはなっていなかったかもしれん。それに卿が生きておれば、また違った未来になっていたかも――」
たれ目がちの灰色の瞳に、一体何が映っているのだろうか。
不意に言葉を切ったリタは、何処か遠くを見るような目をした。
そんな五歳児に気遣うような視線を向けると、ティターニアは尚も口を開く。
「このままでは、あなたの愛する婚約者の住む都も攻め込まれてしまいますよ? それでも平気なのですか?」
「あ、愛する……!! かどうかは知らぬが……た、確かにおまぁの言う通りじゃな。もしもこのまま領都カラモルテまで制圧されてしまえば、それこそえらいことじゃ。わちの嫁ぎ先がなくなるのは困る」
女王の言葉に若干焦りながらも、リタは最悪のシナリオを想像してしまう。
もっともそこに到達するまでには、オスカル率いるムルシア侯爵軍の本隊を突破しなければならないので、カルデイア軍にしてもそう簡単な話ではないのだろうが。
それでも速やかに国境を制圧した手腕や、砦奪回の阻止、そして人質を取って時間稼ぎをするなど、常にカルデイア側に先手を取られている感は拭えなかった。
そして常に後手に回っているオスカルの指揮を見る限り、些かの不安も感じてしまう。
それに将来自分が嫁ぐ予定の領地を、既に敵に蹂躙されているのは事実なのだ。
将来のムルシア侯爵夫人になろうとする者が、このまま現状を看過するなどできるはずもなかった。
そんな二人の話を聞きながら、その横ではブリジットが現状を受け入れられずに頭がはち切れそうになっていた。
半ば伝説だと思っていた妖精族の女王に、突然出くわしてしまった。
自分の記憶が確かであれば、人間が彼女を目にしたのは凡そ三百年ぶりなのではないだろうか。
しかも夢だと思っていたあの声は、どうやらこのティターニアだったらしい。
つまり自分は、その生ける伝説本人に助けられたということなのだ。
これは本当に凄いことなのではないだろうか?
こんな幸運など、きっと今後の人生でもそうはないだろう。
さらにこの幼女だ。
こんな山の中に伝説の幻獣ユニコーンと森の妖精ピクシーを連れて歩いている時点で只者ではないと思っていたが、まさかその正体があのアニエス・シュタウヘンベルクだとはまるで想像だにしなかった。
確かに彼女は魔王討伐の際に行方不明になっていた。
しかしそれは市井の者たち向けの公式発表でしかない。
アニエスは死の間際に、秘術である転生の魔法を使用したと実しやかに囁かれていたし、自分もそれは知っていた。
しかしまさか本当に転生を成功させて、しかもこんな幼女として生まれ変わっているなど、終ぞ思いもしなかったのだ。
しかも転生先はリタ・レンテリア――美少女貴族令嬢として一時期首都でも話題になったレンテリア家の孫娘だ。
そしてここムルシア領の次期当主、フレデリクの婚約者でもある。
と言うことは、この地を治める将来の領主の嫁であり、さらにあのロレンツォの師匠でもあって――
「あぁー!! もう一体どうなってんのよ!! 頭が破裂しそうよー!!」
リタとティターニアの話を半ばにして、突然壊れたようにブリジットが叫び声をあげた。
そして頭を抱えたままその場に蹲ってしまう。
どうやら彼女はあまりの驚きと真実を頭で処理し切れずに、パニックを起こしてしまったらしい。
猛烈な勢いで頭を振ると、ブリジットは妖精女王と伝説の魔女の姿を交互に見比べていた。
そんなブリジットの姿がリタに切っ掛けを作ったのだろうか。
彼女はパチンと小さな手を叩くと、真っすぐにティターニアを見据えた。
「わかった。おまぁの頼みは聞き入れた。ロレンツォを救出次第、その足でカルデイア軍に目に物を見せてくれるわ。この森は絶対に蹂躙させぬ。この名にかけて約束しよう!!」
「そうですか。 ――承知いたしました。それでは私は妖精たちの避難を一時見送ることにいたしましょう。いいですね? あなたを信じていますよ」
「うむ。任された!! 必ずや敵を見事追い払って見せよう!! 期待して待て!!」
――――
「ジークムント、あの砦はあのままでいいのか?」
「あぁ。散々時間稼ぎをさせてもらったが、本隊の増員が完了した今では利用価値もなくなった。籠城したいならさせておけばいい。無理に落とす必要もないな」
「そうだな。それではそのまま放置させよう。籠城するならそれも良し、もしも打って出て来た時のために、一個中隊だけ張り付かせる。それでいいな?」
「それでいい。何やら助っ人魔術師の一人が敵の魔術師に執着しているようだから、そこはそいつに任せておこう」
東の空にもうすぐ朝日が昇り始める。
その景色を眺めながら、砦の屋上で二人の武人が話をしていた。
いや、正確に言うと一人は完全武装の武人だったが、もう一人はもっと軽装の男だ。
完全武装の男の名はダーヴィト・ヴァルネファー。
背はあまり高くないが、鍛え抜かれた身体はがっしりとしており、鎧の上からでもその筋肉の盛り上がりがわかるほどだ。
彼はハサール王国ムルシア侯爵領と国境を接するカルデイア大公国ヴァルネファー伯爵家の次男で、今回の作戦の総指揮官を務めている。
そしてもう一人の軽装の男はジークムント・ツァイラー。
彼はカルデイア大公国の貴族、ツァイラー家の次男だ。
180センチを超えるスラリとした容姿と、大きな鷲鼻が些か目立ちすぎるとは言え、十分に女性受けしそうな整った顔立ちをしている。
彼はダーヴィトの幼馴染であり、今回は彼の参謀役としてこの戦に同行していた。
そんな二人が明るくなり始めた森の向こうを見つめていた。
「さて、ここまではお前の計画通りに進んできているな。この先も楽しませてくれよ、頼りにしているからな」
「あぁ、任せろ。俺はお前のように大軍を率いる才には恵まれていないが、策略を練るのだけは得意だからな。あとはお前の統率力と実行力次第だ。期待しているぞ」
「ふんっ、誰に言ってる。 ――これまでもお前の立てた作戦でずっと上手くいっていた。今回もその通りになるだけだ」
何やら気安い関係の二人だが、立場上はダーヴィトが将軍でジークムントが参謀ということになっている。
しかし二人きりになると、彼らは幼馴染に戻っていたし、互いに言いたいことを言っていた。
いまも作戦開始前の一時を、昔ながらの関係に戻った二人が雑談をしていたのだ。
そんな二人の元に、部下がやって来る。
「失礼します。ヴァルネファー将軍、ツァイラー参謀。兵の準備が整いました。いつでも出発できます。ご命令を」
「了解だ。 ――将軍、それではそろそろ出発いたしましょう。このまま領都カラモルテまで攻め上るのです」
「うむ。 ――伝令!! 十分後に出発!! 各部隊に伝えよ!!」
「はっ!!」
――――
カルデイア軍の本隊から東へ十キロ、そこに迎え撃つハサール王国ムルシア侯爵軍の陣がある。
未だ日も昇らない早朝にもかかわらず、全員が完全武装の姿で指揮所に詰めていた。
今は将軍オスカル・ムルシアを中心に、打ち合わせをしているところだ。
「ムルシア将軍、恐らく今朝あたり敵陣に動きがあるはずです。敵の兵が揃った以上、あの砦は打ち捨てられるでしょう。これから我々も迎え撃つ準備に入ります」
「あぁ、わかった。前線の指揮はお前に任せる。 ――しかし、今回はしてやられたな。まさかあの砦が単なる時間稼ぎでしかなかったとは……」
「申し訳ありません。これも全て参謀である私の不手際です。何なりと罰を――」
「今はそのようなことを言っている場合ではないだろう。とにかくこの場は絶対に死守しなければ我々に未来はないぞ。わかっているな? 俺はもとより、お前たちの家族も全員カラモルテにいるのだろう?」
「はい。恐れながら、その件にて一つ提案がございます」
「なんだ?」
「もしもの時のために、領都には避難勧告を出した方がいいのでは――」
「なんだと馬鹿者!! 未だ戦ってもいないうちから負けを考えているのか、貴様は!! そもそも避難指示など出す必要もないだろう!! 何故なら、我々は絶対に負けないからだ!!」
「し、しかし……」
「くどいぞ!! お前は腰抜けか!? 戦う前から後方を避難させるなど、後世に渡って笑い者にされるわ!! 我々は領民の盾なのだ、お前にはそれがわからんのか!?」
朝靄の立ち込める早朝の山間に、野太い大声が響き渡る。
するとそこに、凄まじい勢いで駆け込んでくる者がいた。
それは偵察隊の伝令係だった。
よほど急いでいたのだろう、息も絶え絶えに大きく肩で息をしている。
「申し上げます!! カルデイア大公国軍本隊に動きあり!! 全隊を前進させ、一気に進み始めました!!」
「なにっ!! ――全軍に告ぐ!! 現陣形を維持したまま、敵を迎え撃つ!! いいか、我々の背後には領都があることを忘れるな!! カルデイア兵なぞ、ただの一人として通すな、いいか!!」








