第104話 暗い目の男と失言癖の治らない熊
前回までのあらすじ
撫で回すのはお腹だけにしろ。
「ふざけるな!! 一体なんだ、あの文は!!」
「殿下、落ち着いて下さい。声が漏れます」
ケビンが妻と夕食を共にしている頃、王城の片隅にある王族の私室に突然怒声が響いた。
暗く陰湿なその声には多分な怒りが含まれて、その苛立ちを表すように何かを蹴飛ばす音も聞こえてくる。
暗く湿ったこもるような声――それはブルゴー王国第一王子、セブリアンだった。
他国から突然送り付けられた抗議文の中で、彼はいきなり容疑者として名指しをされたのだ。
もちろん即座に関与を否定したが、再三にわたり国王から真偽を問い質された彼は、遂に激高して会議場から出て行ったのだった。
一見するとその態度は自分を信用しない父親に怒ったように見えていたが、実のところはその場を逃げ出したに過ぎなかった。
何故なら彼は、その件でそれ以上追及されるのを嫌ったからだ。
ハサール王国からの抗議文は、まさに寝耳に水だった。
彼の国に放った暗殺者から「標的らしき人物を発見したので、アルガニルに移動する」と最後に連絡が来たのが二週間前。
それから彼らがどうなったのかを、依頼主のセブリアンは知らなかったからだ。
結局その後に連絡が来ることはなかった。
仕事をしくじった暗殺者たちは、気付けば全員殺されていたからだ。
そして回収された武器から足がついて、彼らが裏の世界で有名な暗殺者集団「漆黒の腕」であることがバレてしまった。
彼らの飼い主――スポンサーがブルゴー王国のセブリアン第一王子であるという噂は、以前から一部で囁かれていた。
だから彼を黒幕だと確信したハサール王国は、その真偽を確かめる必要も認めず、早速抗議文を送りつけてきたのだった。
「しかし、何だあれは!? どうしてこんなことになっている? なぜムルシア侯爵が殺された? おいお前、何か聞いていないのか!!」
「はっ!! そ、それが、観察員からの連絡も未だ届いていない状態でございますれば……」
長年に渡って仲介役を務めてきた男は、セブリアンの怒りを買って最近粛清された。
だからいま目の前にいる男は二代目なのだが、その彼がまるで怯えるようにその身を小さくしている。
彼ら同様に仲介役の男の元にも暗殺者からの連絡は届いておらず、セブリアンの質問には何とも答えようがなかった。
だからその男は、ひたすら平伏するしかなかったのだ。
そんな男に蔑むような視線を投げると、セブリアンはその横に立つ初老の男にも声をかけた。
「おい、カリスト。お前は何か聞いていないのか?」
「はっ、大変申し訳ありません。私にもいったい何が何だか…… 今回の標的はアニエスただ一人だったはず。それが何故こうなったのか…… 思うにムルシア侯爵は巻き添えを食らっただけなのではないかと愚考いたしますが……」
「巻き添え……? 田舎のガキ一人を殺すのに、何故に侯爵が巻き添えになる? まったく意味がわからぬ!! 『オルカホ村のリタ』とムルシア侯爵がどう関係あるのだ!? ふざけるなっ!!」
そう言うとセブリアンは、またしても椅子を蹴飛ばす。
蹴飛ばされた椅子は盛大な音を立てて転がり、壁にぶつかると二つに砕けた。
「ひっ!!」
黒づくめの男が思わず首をすくめると、第一王子は勢いよく鼻息を吐いたのだった。
「ふんっ。理由はわからんが、つまりはあのクソ魔女を狙っていたはずが、なぜかムルシア侯爵を殺してしまったということなのだな? 違うのか!?」
「……まぁ、状況から言えば、そういうことなのでしょう。どうしてそんなことになったのかは、わかりかねますが」
「くそっ!! それでこれからどうなるのだ? おい、カリスト!!」
「はい。先方は殿下の身柄の引き渡しを要求しております。軍事行動を仄めかせながら、要求を飲ませようとしていますな」
「なんだと!? 俺は侯爵の殺害など指示していない!! それなのに何故俺が責任を追及されねばならんのだ!! おかしいだろう!!」
カリストにそう言われたセブリアンは、またしても足で椅子を蹴ろうとする。
しかしすでにそこには何もなく、彼は面白くなさそうに勢いよく床を踏みしめた。
そんな第一王子を安心させるように、カリストは若干声を落とすとこう告げた。
「確かに殿下の仰る通りです。今回の件は現場の暴走が原因であって、殿下には責任はないかと。――しかしご安心下さい。陛下は殿下を差し出すつもりなど一欠片もございませぬゆえ」
「当たり前だ!! もしそうであれば、父上の正気を疑うところだ。たかが言いがかりに王子の身柄を差し出すなどありえん。では父上はどうするつもりなんだ? 相手の要求を無視するのか?」
ギロリとその暗い瞳で宰相を睨みつける様は、まるで異常者のように見えなくもない。
そんな姿を隠そうともしないから、妻に毛嫌いされるのだ。
などとカリストは内心思ったが、そのままその言葉を飲み込むと平然とした顔で答えた。
「いえ、その代わり陛下の名代として使者を派遣することにいたしました。そこで今回の事件の詳細および先方の要求を詳しく聞いて来る次第です」
「……ほう。では誰が行くのだ? まさかイサンドロか? あの青二才め」
「いいえ、ケビンです。陛下はあの勇者に白羽の矢を立てました。彼であればその知名度も、地位も、そして交渉力も十分にあり、今回の使者に適任だと」
「……ほう、エルの亭主か。確かにあいつなら戦わせても強いからな。――まぁ、精々頑張ってもらうことにしようか。 ……そう言えばそろそろ子どもが生まれるのではなかったか?」
「はい、そろそろかと。このままではケビンが出産に立ち会えないのが不憫に思えますが」
「エルの奴め……妾の子のくせに、生意気な…… 俺よりも早く男児など授かってみろ、思い知らせてやるからな」
ブルゴー王国第一王子にして、王位継承権第一位のセブリアンは、ひたすら他人を妬み、羨み、呪うことしかできない。
背は低く小太りで、決して整っているとは言えないその顔には、常に暗い表情が浮かんでいる。
思えば彼は、幼少時からそんな子供だった。
王城の中庭で弟や妹が楽しげに遊んでいるのを尻目に、一人で虫を集めてはいびり殺すような子供だったのだ。
それでも小さい頃はまだ大人の言うことは聞いていたし、その性格もそのうち変わるだろうと思ったものだった。
特に宰相のカリストは王位継承一位の彼に特別に目をかけ、将来に向けての投資も怠らなかったのだ。
それが気付けばこんな調子だ。
絶対に口外できない秘密を共有してしまった以上、何が何でも彼を王にしなければならない。
そうしなければ自分の身も地位も、そして家さえも失いかねないのだ。
一体どうしてこうなってしまったのだろう。
一体いつ、道を見誤ったのだろう。
暗い顔のままブツブツと何かを呟き続ける、第一王子セブリアン。
その横顔を見つめる宰相カリスト・コンラート侯爵の心の内からは、暗澹たる思いがいつまでも消えることはなかった。
――――
場所は変わって、ここはハサール王国の首都、アルガニルの郊外。
市街地から少し離れた長閑な田園地帯の片隅に、色とりどりな花に周囲を囲まれた小さな家がある。
その些かメルヘンチックな外観の家の中から、若い女の悲鳴が轟いていた。
そんなものが聞こえてくれば、普通は辺りも騒然とするのだろうが、何故か不思議とそんな様子は見えない。
家の外にいる数人の者たちが心配そうに佇んでいるだけで、誰もその声の主を助けようとする素振りさえ見せなかった。
「痛い、痛い、痛い…… ク、クルス、助けてぇー!! あぁー!!」
「パ、パウラ、もう少しだ、がんばれっ!! 俺はずっとここにいるからな!! 安心しろ!!」
「いやぁー!!」
この会話をもう何度繰り返しただろうか。
十回? 五十回? いや、すでにもう百回以上は繰り返している。
そう、ここはクルスとパウラの冒険者夫婦の家だ。
そして今はパウラが絶賛出産中だった。
今日はクルスの仕事が休みだったので、二人が仲良く昼食を食べていると、その途中にパウラが急に産気づいたのだ。
彼女は既に臨月を迎えていたし、すでに予定日も過ぎていたのでいつ生まれてもおかしくはなかった。
それでもいざ妻がお腹を押さえて蹲ると、クルスは動転してしまったのだ。
ただ右往左往するだけで、産婆を呼びに行こうともしていない。
そんな亭主の尻をパウラが蹴飛ばした。
さっさと産婆を呼んで来いとばかりに、家から蹴り出したのだ。
そして自身は迫りくる陣痛の痛みに耐えながら、床に布団を敷き、身体を横たえて産婆が到着するのを待ち続けた。
しかし、やっと産婆が到着しても、彼女のお腹からは中々赤ん坊が出てこなかった。
ご存じのように彼女はとても小柄だ。
身長は150センチしかないし、所謂幼児体形の身体は決して骨盤も広くはなかった。
それに対して夫のクルスは、身長190センチに体重は130キロもある巨漢だ。
無精ひげの目立つ厳ついその外見は、まるで熊のようだと見る者全員に言われるほどだった。
そんな男の子供を授かったのだから、パウラが難産になるのも無理はなかった。
妊娠初期からすでに彼女の腹は特別に大きく、普通の妊婦に比べると明らかに一回りは大きかった。
痩せて細いその身体とはアンバランスなくらいの大きさのお腹を見る度に、出産時は覚悟するようにと産婆は言っていたのだ。
パウラの陣痛が始まってから既に半日経っていたが、未だに産道から赤ん坊の身体は見えず、彼女は今にも死にそうな悲鳴を上げ続けるだけだ。
そんな妻の手を強く握り締めながら、クルスは横に佇む老婆に声をかけた。
「な、なぁ、婆さん、嫁は……パウラは大丈夫なのか? もう半日以上も苦しみ続けているが、全然赤ん坊が生まれる気配すらないじゃないか」
「何を言っとる。初産であればこのくらいは普通じゃ。中には一日以上かかる場合もあるのだから心配するな。お前は嫁さんを元気づけておればええ」
「あぁー!! いやぁー!! はぁ、ひぃ、ふぅ…… うあぁ!!」
「ほれっ!! お前さんももう少し気張れ!! そうそう、もっと腹に力をこめるのじゃ!!」
「お、おい、本当に大丈夫――」
「うるさいのぅ!! そんな熊のようななりをしておるくせに、肝っ玉の小さい奴じゃ!! 嫁が必死に気張っておるんじゃから、お前さんも力一杯力づけにゃいかんよ!!」
もうすでに何度もこの会話を繰り返しているので、些か産婆もイラっとした様子だ。
肩を小さく丸める巨漢の男にイラついた視線を投げつけると、嗄れた指で産道を指示す。
「ほれ、ここを見てみい。ここがもう少し広がらなければ、子供も通ってなど来られん。だからもう少しかかるということじゃ」
そう産婆に説明されたクルスは、赤ん坊が通るには明らかに狭すぎる産道を見つめながら、何やら信じられないものを見るような顔をしていた。
「こんな小さな入り口から赤ん坊が出てくるのか? 俺には信じられんが……」
思わずつぶやいた彼の言葉に瞬時に反応すると、産婆は咄嗟に突っ込みを入れた。
「あのな…… 確かにお前さんからすればここは入り口かもしれんが、赤ん坊にとっては出口なんじゃよ、この阿呆が」
「す、すまねぇ……つい……」
などと自分の股間をネタに二人が話しているのを聞きながら、パウラは恨めしそうに睨んでいたのだった。
そんな調子でさらに四時間ほど経過すると、遂に産道から大きなものがその姿を現した。
それは間違いなく赤ん坊の頭だった。
うっすらと見えたその髪は細くて短かったが、間違いなく赤い色をしていた。
その様子にクルスは思わず叫んでしまう。
「パ、パウラっ!! 赤ん坊の頭が見えたぞ!! 赤い、髪が赤いんだ。お前と同じ赤毛だぞ!!」
「ひぃ、ふぅ、うぅー!! いやぁー!! はぁ、ふぅ……うあぁ!!」
「ほれ、頭が見えたぞ。もう少しじゃ、頑張って息むんじゃ!!」
「うあぁ――!! ふぅ、はぁ、うぅー!!」
「が、頑張れ!! もう少しだ。あぁ、顔が見えたぞ!! 入口から顔が見えた!!」
「だから出口じゃと言っとろうが!! この阿呆が!!」
「す、すまねぇ」
「ひぃ、ふぅ…… ふあぁー!! はぁ、ふぅ、うあぁ、あぁ――――!!」
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ――!!」
「この子が……あたしたちの子…… うふふ、本当にかわいいわね」
その赤ん坊は、女の子だった。
いまは母親の胸に抱かれて、すやすやと眠っている。
そんな二人の姿に愛おしそうな視線を送りながら、クルスが感極まっていた。
「あぁ、お前はよく頑張った。そのおかげで、こんな天使のような赤ん坊が生まれたんだ。よかった……本当によかった…… お前と赤ん坊にもしものことがあったらと思うと、俺は……俺は……うぅぅ……」
丸一日近く苦しみ続けたパウラはまさに疲労困憊といった様子で、すでに身体を起こす気力さえないようだった。
それでもすやすやと眠る赤ん坊をその胸に抱いて、愛おしそうに頬ずりをしている。
その姿は、天使を抱きかかえる女神のように見えて、クルスは思わず涙を流してしまう。
そんな夫の意外な一面を見ると、まさに女神のような笑顔でクルスを見つめた。
「クルス……ほら、泣かないの。そんな熊みたいななりして、涙なんか一番似合わないんだから。この子に笑われちゃうわよ」
「うぅ、面目ねぇ」
初産なので普通よりも時間がかかったとは言え、やはりパウラのお産は難産に近いものだった。
その原因は、やはり赤ん坊の大きさだったようだ。
両親が大きいからと言って必ずしも赤ん坊も大きいとは限らない。
それでも生まれてきた子を見る限り、間違いなく父親に似たのだろうと思わざるを得ないほどの大きさだった。
体格が父親似なのはいいとして、顔までそうであれば目も当てられない。
しかし幸運なことに、どうやら顔は母親似のようだ。
確かにクルスの面影も垣間見えるが、その愛らしく整った顔の造形は間違いなく母親のものだった。
多分に親の贔屓目もあるのだろうが、この子はきっと父親に似て背が高く、母親に似て愛嬌のある美人に育つだろう。
生まれたばかりの赤ん坊を見つめながら、二人がそんな夢を語っていると、最後にクルスがぼそりと呟いた。
「そうか…… 肝心なところが母親似ってことは、こいつも将来は貧乳に――」
ズガンッ!!
「うごっ!!」
爽やかな初夏の日差しが降り注ぐ青空のもと、思い切り妻に殴りつけられた夫の悲鳴が響き渡ったのだった。








