第一章Part6『得ることができない記憶の断片』
ゆっくりと視界を塞ぐ瞼と、ぼんやりする視界には暗闇を照らす明かりが映る。
呼吸ができる。誰かが話す声が聞こえる。口を開ける事もできる。手足も動く。音を遮断するほどに激しい耳鳴りがするわけでもなく、視界がゆっくりと映るわけでもない。それらを確認した上でサヅキは自覚する。
生きていると。
ソファーの上で横になる体を勢いよく体半身を起こし、未だよく分からない状況を知るため周囲を見回す。
やっぱし、何かが変だ。何かこー忘れているんだよな・・・・でも何だ?
サヅキは何かに違和感を抱き、再び周囲を見回す。とサヅキの居るリビング、台所の部屋の明かりが点いていたことに気がつき、フッとその違和感んが何なのかを知った。
僕の記憶が無い。しかも、さっきから気になっていたけど首が妙に痛い。
これまでの記憶が消えたわけではない。ソファーで寝てしまい一度起きたところまでは覚えているがそのあとの記憶がぽっかりと空白で思い出すことができない。なのに、
嫌なっていうかスゲエ痛いことがあったってことだけが何となく感じるんだよなぁ。
違和感の理由はサヅキは納得したが、次は、記憶の空白部分についてサヅキは首を傾げてしまう。
そんなとき、背を向けていた台所から物音を耳にしたサヅキは、
「―――だぁ・・・」
「誰かいる?」と声をあげようとした喉は声を出す事ができないほどに掠れきってサヅキは咽たように咳き込んでしまった。苦しむ咳の声が聞こえたのか台所からこちらに足を運ばせる音が聞こえ、サヅキはソファーの後ろに目を向けた――先にはヤツがいた。
「やあ、サヅキくん」
黒のローブを身に纏った者―――カオナシを睨みつけた瞬時、瞼に焼き付けた物即ち自分の屍体を見たあの瞬間がフラッシュバックした。
あっ、そっかそういうことか。空白の原因はこいつだったのか。僕はカオナシ(こいつ)に理不尽に首を切断されたんだ・・・ああ、思い出した。
憎悪の感情に心は染まりサヅキは鋭い目付きでカオナシを睨み、ふいに喉に右手を伸ばし、胴体とくっついている事を感触で確認する。そんなサヅキに目をやるカオナシは、
「なーに、心配しなくても首はついてるから大丈夫だよねえ。それに、君には少し驚いてもいるよ」
変声機を通したような声を耳が捉えると今にも殴りかかりたい感情が溢れ出ることを堪えサヅキはカオナシの言葉に首を傾げる。
「意味が分からない顔をしているねえ。いいねえその表情、ここで教えないとどんな顔をするかも気になるところだけど、教えたほうが面白くなるから教えるけどねえ
まあ君の記憶通りサヅキくんは―――一度死んだ。で、実際私の魔法で死んだ事が記憶に無いようにしたはずだけどなぜか、君だけは思い出してしまったのだよ」
尻下がりになると強弱が変わり予想外のことになってしまったことを感じさせる口調に変わり、サヅキは「僕・・・だけ・・・・?」と吹けば消えてしまうくらいに掠れきった声で疑問を返す。意識もしてないのに頭から足先まで体全身に力が入り、額から頬を伝って変な汗が流れる。
「君だけは思い出してしまった」そう放たれた言葉に違和感を抱き、その疑問を知ろうと必死に思考を回転させるが納得の行く回答は知れず、困惑する。そんな困惑する姿を好ましく眺めるカオナシは更に彼に疑問を重ねさせる。
「芯だのは君ひとりじゃないんだよ。でも残念ながらその人は自分が一度死んだ記憶が無い。今もその人は平然とこの時間を過ごしている。では、誰でしょう?一度だけ名前を挙げてみな。正解かどうか教えてあげる。赤毛の女の子?元騎士さんの女?男?三分の一の確立、さあ、誰でしょう!」
変声機を通しているはずなのにカオナシの言葉は楽しげな声に聞こえるが、どうでもいい。今は誰がこいつに殺されたのかを考えるほうが重要と判断。でも、一つこれとまた別に疑問に思ったことは、殺されたのかが誰なのかを知ったところで何になる?という疑問が浮かんだが、今はこのモヤモヤした感じを押さえるのが先だと判断した。
「エミ・・・・いや・・・・エルだな」
考えた挙句に出た答えを掠れきった喉で口に出すとカオナシは肩を落とし、
「正解するなんて・・・・サヅキくんはつまらない。だからこうやってこの世界に――」
尻すぼみになっていく言葉の最後にカオナシはサヅキが知ろうとする明確な答えを出す前にカオナシが背を向ける台所からリビングに来たエルの言葉が最後までカオナシの言葉を続けさせなかった。
「おっ!サヅキ、目が覚めたか。いやー、良かったよまだカオナシが居る間に目が覚めてくれて」
片手には木のコップを持ち、笑みを浮かべながらこちらに駆け寄るエル。そんな彼を二人はエルの方へ視線を向け出迎える。エルはサヅキに近づくと片手に持っていたコップを差し出し、それを両手で受け取り中を見ると透明な色をした水が入っていた。
「これは・・・?」
「エミリー特性の治癒水!味覚変化魔法が使われているから好きな味を想像したらその味を味わえるだぞ!」
差し出されたものを喉に通す前に一度中身を確認する。と初耳の単語がいくつか出て来るが後の味覚変化魔法については何となく理解できた。
味覚変化魔法の簡単な説明をしたエルは「どうだすごいだろう」と自慢げに鼻を鳴らす。それに対してはサヅキは内心では「エルさんが作ったわけではないよね!」と軽く孤独にツッコミを入れて、勢い良くコップを口元に運び治癒水とやらを喉にとした。
「あ、甘い」
「へえ、サヅキは甘い味を想像したのか。大体最初はこれを飲むときみんな私の言っている意味が理解できない者もいるのだがな。まあ何も想像できなかった者は元味が苦い治癒水を喉に通したとき、苦い思いするんだけどな」
最後に「特にサラなんかは」と付け加えがはっはっはと笑うエル。一度死んでおかしくなったんじゃないかと思うくらい今朝とは何かが違うと感じつつサヅキはソファーから立ち上がり、手に握るコップをエルに戻し、豪快に欠伸と背伸びを同時進行する。
「エルさん。変な事だと思うけど、死んだ記憶とかない?」
想像外の質問にピカオナシはピクン、と肩を動かし驚きを密かに表し、エルの動きが硬直するように固まる。彼だけの時間が止められたように呼吸、揺れ全ての動きが止まり、やがてそれは解凍されたように動き出す。
「はは、それは冗談かサヅキ?冗談ならまだまだだな!私が面白い冗談が言えるように極めてやろうか?」
そんな事を言うエルはサヅキを微笑ましくみる。が、サヅキからみたらどうも変な違和感しか抱かなかった。
エルではない。何かが変だ。おかしい。まるで・・・そうだ、人が変わってしまったかのようにエルがおかしい。と頭の中はそんなことで埋め尽くされる。
「んで、カオナシ、サヅキがお前に用があるみたいだったけどもうそれは済んだのか?」
「ほお、私の用があるのかねえ」
エルは肉親に向ける笑顔でカオナシと会話をし互いに話が噛み合う。傍からしたら普通のことだろう。でもサヅキからしてはおかしな事だ。今朝、彼からカオナシのことについて聞いたとき、質問をするが質問とあっていない答えを返す。詰まるところ、話が噛み合わないと捉えていたが今この状況をみている限りそんな風には見えない。
「確かに僕はあなたに用があります。けど、それは二人だけのときに聞きたいです」
「何か私以外に聞かれてはいけないことなのかねえ?」
サヅキは首をしゃくり頷く。カオナシはその頷きをみてエルへ首の向きを変え、
「まあそういうことなので、まずは今起きている人をこちらに呼んでください」
不審に思った顔をみせるエルはすぐに破顔してエミリーの名を呼ぶ。名を呼ばれたエミリーは台所か顔を出し、リビングに足を踏み入れエルの隣に並ぶと、
「サヅキくん、少し息をしないでねえ」
一瞬、意図の分からない事を言われ「え?」と素っ頓狂な声を漏らしたサヅキは慌ててカオナシから言われたとおり口と鼻を片手で塞ぎ息を止める。
すると、カオナシは得体の知れない粉を二人にかけた刹那、命が失われた鳥が空から落ちる様にエルとエミリーはその場にだらしなく倒れる。
「終わったねえ・・・サヅキくん、息、していいよ」
息をしていい許可が出たサヅキは呼吸の通路を塞ぐ手を外し、空気を体内に取り込むと嗅覚を鋭く刺激する臭いが鼻を通して伝わり、思わず再び塞ぐ。
「え、エルさんたちに何をした?カオナシ!」
「私がペラペラとそう簡単に話すとは思って欲しくないねえ。でも安心してえ、二人はちゃーんと息をしているからさあ、ね」
すると、目の前に横たわる二人から寝息が聞こえほっと安堵の吐息し、サヅキはソファーをバックにしカオナシと対面する。が、サヅキは顔をしかめる。
「私にそんな顔を向けるとまた、痛い目に遭うよねえ」
「生憎、あなたへの印象的にこんな顔が自然と出てしまうので仕方が――はぐっ!!」
嫌味を口にしていた途端、再び眼球を何度も抉る錯覚をみた。本日二回目の事だ。これは現実なのか?という疑問が頭に一瞬浮かぶが、痛みに嘔吐感が増すばかりで体にはそんな余裕が無い。
サヅキは気づけば体は地面に這い蹲っていた。額にはダラダラと滲み流れる大量の汗が地面に落ちる。肺にある酸素が全て消えてしまったのではないかと酸素を求めるように荒くなる呼吸。二回目だが、これほどキツイのは未来永劫慣れる事は無いだろう。てか、そもそも慣れてしまったらもう人間の領域を超えるってことになりそうだ。なので、絶対に慣れる事は無いだろう。
這い蹲るサヅキを哀れむ様に、
「痛い?」
「ヒュー、ヒュー、・・これが痛いと感じないなら人じゃないね」
「でも、サヅキくん君は凄いねえ。普通ならこの痛みを体験した君みたいな幼い体の子はみーんな治癒魔法をかけられない限り、頭が狂ちゃうのに君はどうしてかなあ?ははは、面白いね。サヅキくんは」
言っている意味が理解できないが僕は普通ならおかしくなっていた。ということなのか。
憎悪。サヅキの瞳には憎悪の光が微かに宿る目でカオナシを見上げる。それを見るカオナシはうっとりとした声だと不思議と感じさせる口調で、
「その目、いいねえ。サヅキくんをもう一度殺したい気持ちになるよ!私は!そんな目を君はしているねえ」
癪に障るカオナシの言葉を無視の方向にシフトし、サヅキは大分痛みが引いてきたと感じた刹那、床に這い蹲る体を起こし、額に滲んでいる汗を拭う。それから服についた汚れを叩いて落とし目線をカオナシに向ける。
「大きく横道にズレたけど、僕はカオナシさんにいくつか聞きたい事があります。答えてもらえるでしょうか?」
「・・・・いいだろう」
サヅキの口調に冷静さが宿ったことにカオナシは一瞬の間を置き了承する。がその後に「私からも要件がある」と息を継ぎ、
「私が聞くことに先に答えた後、何でもサヅキくんの質問に正直に答えよう」
えっ、また横道逸れるの?と不安な顔を見せつつサヅキは断りたい気持ちも若干ありつつ「わかった」とカオナシの要件を呑む。だって、カオナシは何でも正直に答える、と言ったのだから。
カオナシの言葉を真に受けている訳ではない。カオナシの事だから何でも正直に答えるっということは嘘な可能性も有る。またどうでもいい事に時間を取られた挙句、僕の質問に答えてくれないだろう。
最悪な結末を予想していたサヅキだが、
「サヅキくん、この一日で何かしら過去の記憶について思い出したとなどはないかねえ?」
案外普通の事だった。
予想と外れた質問にサヅキはふいに素っ頓狂な声が漏れた口を片手で一度塞ぎ、否定の意味を表すため頭を振る。
「いや、ないな」
「なら、銀髪の人を今日見かけたかねえ?」
銀髪?精々サヅキの記憶の中に今日の間に銀髪という目立った色をした人なんてみた記憶は無い。
サヅキは首を左右に振り否定する。それを確認したカオナシは次の質問をする。
「黒のローブをした男は見かけなかったかな?」
「あなた以外なら今日は一度も見かけていない」
「・・・・そうか」
三回目の否定でカオナシはサヅキから聞くことはこれ以上無いと判断したのか、カオナシは顎でしゃくってサヅキに順番を渡す。
思っていたよりも早く自分に対する質問の終わりにサヅキは嬉げな気持ちを微笑でつい外に出してしまう。
「さあ、約束どおり君の番だよ。
「サヅキくん、君は・・・・なぜ笑っているのかねえ?」
「そんな細かい事はどうだっていいんだ。僕からは三つ聞きたいことがあるんだ。それにあなたは答えてくれ。
一つ目、エルさんが別人の様になっていたのはなぜなのか。二つ目・・・・・・僕は、僕はなぜ記憶が無いの・・・?教えて下さい。そしてもし僕の家族がいるのなら家族の元へ返して・・・・・・・・・返りたいです」
視界が歪みそれは瞬きと同時に頬を伝って床へ落ちる。無意識に出る涙。サヅキはそれを優しく拭い、髪を振り払い再びカオナシと向かい合う。自分の過去を話してくれると信じて、胸が締まるような痛みから解放されると信じて、サヅキはカオナシを見る。
「・・・・・ップ、プククククウハハハはははあ!」
「・・・あれ・・・」
一瞬、カオナシが何で笑ったのか理解ができなかった。でも、次の言葉でその笑いの意味が分かった。
「君は馬鹿なのかい?私は最初に言ったではないかねえ?私はペラペラと簡単にはなさないって。学習できていないねえ」
「・・・やっぱりかよ」
予想していた通り、「何でも正直に話す」ということは嘘だった。分かっていたけどやっぱり辛い。
サヅキは胸が幾つも針に刺されるような痛みが感じその場に尻を着く。
悔しかった。何か自分がカオナシに期待を抱かせた自分が許せない、そして予想していたけどやっぱり心は苦し過ぎる。
溢れ出る感情は涙と共に地面に滲ませる。遣る瀬無い気持ちとなったサヅキは口を開かずその場で無抵抗だ。そんな彼を見下ろすカオナシは、
「これだけ教えてあげるよねえ。サヅキくん、君は選ばれたんだよ!この世界を救うために別世界からわざわざ来てもっらたのだよねえ。はい、以上これ以上は何も言えないよー」
楽しげにそれサヅキに伝える。サヅキはその意味を問い質そうと下を向いていた顔を上げると、
「本当は言ってはいけないけど、記憶を取り戻したいなら騎士団附属の学校に入る事だねえ。そしたら、もしかすると・・・・君の記憶を取り戻せる。可能性はあるよ」
「・・・え?どういうこと、だよ?」
耳元で囁いたカオナシに疑問符を浮かべるサヅキ。その疑問に答えを聞く前に、
「うおおおっ!」
彼の雄叫びと同時に小さく風が吹き、風の源なったものはカオナシの首元で弾かれた。
「おや?気持ちよく睡眠していたはずなのになぜ私に剣を向けることができたのかねえ――卿よ」
「んなもん単純だよ。寝たフリをやっていただけだ」
「粉を吸ったはずでは?なぜかねえ?」
「お前、自分の失言を思い出せ。息を止めろってサヅキに言ったとき、実は私も息を止めて何をしたかエミリーを見ていたら急に倒れ始めたからそれを真似ただけ」
「ふーん。面白い事をすっー―!」
瞬きの一つだった。瞬きを一回した次の瞬間でカオナシの首元で小さく火花を散ったのを目が捉えた。
甲高い音が鳴り響き、エルは舌打ちする。
「弾かれたか」
すかさずエルは右手で握り締めるロングソードを横に振る。とそれを大きく一歩後ろに下がりカオナシは外へ繋がる扉のノブに手を引っ掛け、
「色々と聞きたいことが卿にできたけど、次の機会にするねえ」
最後にサヅキに向かって軽く手を振り外の暗闇の中へカオナシは姿を消した。サヅキの脳では本当に一瞬の出来事で未だに脳が追いつかず目をパチクリと白黒させる。
そんなサヅキの目の前にはエルがロングソードを腰の鞘に収める姿があり、エルは悔しそうな顔でエミリーやサヅキへ目を送り、「すまない」と悲しげな口調で声にした。
エルは横たわるエミリーを抱え二階へ上がる。この場にただひとり取り残されたサヅキは未だにエルがカオナシに何をしたのか理解が追いつかずソファーに背を預け、そのままうとうとと意識は遠ざかる。
仕舞いには支えきれなくなった瞼が落ち、サヅキを暗い彼方へと誘い込んだ。
結局、何もわからなかったな・・・・・。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
冷え切った夜風を物凄い速さで切りながらカオナシはユキの木村から第二ヒスタル王都へ向かっていた。
そんな時、
「ッ!?」
ふいに足を何者かに掴まれ体勢を崩すがカオナシは綺麗に地面に着地。
後ろを振り向く。
すると、呻き声のような声を出す無数のアンデットがカオナシを取り囲んでいた。アンデットは所々の皮膚や体の部分が欠けていて固まっている血を垂れ下げてゆっくり、ゆっくりとカオナシへ近づく。
それと同時にアンデットから漂う死臭も強度を増す。
死臭がカオナシの嗅覚を刺激するが全くその臭いには揺るがない。
「面倒が増えた、ねえ」
カオナシは手元から親指と人差し指で持てる程度のナイフを両手いっぱいに取り出し、構える。
臨戦態勢をとるカオナシを前にし、アンデットたちは体中に浮き出る血管のような赤黒い線が光始め暗い森の中を切り裂く。
「夜襲をしてきてこっちが態勢をとると、君たち腐敗しいているアンデットさんの血は活発になるのねえ。ホントつまんない」
「――グウ、ギャアアア!!」
深夜の夜空に響き渡るアンデットの叫びが轟き、アンデットは一斉にカオナシに容赦なく襲い掛かる。とその約一秒後、カオナシは十メートル近く飛び上がるという凄まじい跳躍を発揮させ空中で回ると同時に指の間に握り締めるナイフを砲撃のように無数のアンデットの体に向かって一直線に突き刺さる。
ナイフが脳髄に刺さったアンデットは走る勢いのまま重心を前方へ向け倒れる。
地に両足が着くときにはカオナシの目の前からアンデットは一人残らず、今度こそ本当の亡骸になっている。
「少し時間が取られちゃったねえ」
カオナシはアンデットの亡骸を背に第二ヒスタル王都の防壁を目指して走り出す。
高さ100メートル近くの防壁の上にて。
カオナシは無人の防壁の上を歩き、ある人物の後ろに立つ。
「遅かったじゃない。私の使徒さん」
「少しねえ、面倒なモンスターに絡まれてしまったのだよねえ」
カオナシは敬意を示すようにある人物の背に向かって一礼する。
カオナシを背にする人物は防壁から半身を飛び出し素足をパタパタと動かしユキの木村を遠くから眺める。
ユキの木村の中に一つの明かりを保つ民家――ヴァルバレイン家を紅い双眸で凝視し、楽しそうに笑みを浮かべる。
「ねえ、私の使徒さん。えーっと、あの人たちからはカオナシって呼ばれているっけ?私もその呼び方が良いかしら?」
「私はどちらでも構いませんよねえ」
「私の使徒さん。いえ、カオナシさん。――その口調嫌いだわ。今は私達しかいないのだし、フードを外さなくてもせめて、口調だけでも変えてくれるかな。いつも通りに」
嫌悪を感じさせる声に応えるカオナシは、「はあ」と何の意味も無いため息を溢す。
「わかった。それで、いつも通りの事を言えばいいの?」
「話が早い人は好きよカオナシ。で、サヅキくんの様態は」
「目が覚めた彼の記憶にはこの世界に来たときの記憶は一切ないと判断してよろしいと思います。それに、彼にはまだ人並み以上の能力があります」
カオナシは視線をユキの木村へ向ける。そこに微かな明かりが保たれている民家に目をやりながら今日の事が脳裏を過ぎる。
目が覚めたサヅキに出会い、会話をして彼の内心の言葉を聞くことができ、私は彼を殺した事、痛め付けた事などを。
思い出す度にフードに隠れる口元が緩んでしまう。
――ああ、何て滑稽な表情だろう。
「ねえ、カオナシ、やっぱし彼をあの子と合わせて一度例の事をしてもらった方がいいよね?」
「答えを出す前になぜ、あなたの方から彼に顔を合わせないでしょうか」
以前から考えていた。あの人はサヅキくんの様態が知りたいのになぜ自分の目で彼を確認しないのかと。
毎度、彼にはあまり興味がないカオナシからしてみれば面倒くさいと感じる。が契約の一つでもあるからという仕方が無いと思う気持ちでカオナシは動いている。
「たぶん、私が今、彼に会ってしまうと彼の記憶にある私が思い出されてしまうもの」
表情がみれない分、悲しげなのか、楽しげに言っているのかが判断は付かない。
予測だがあの方は楽しげに言っているのだと私は思う。その証拠に。
「だって、今彼に会ったところで、なーんにも楽しくないもん。私はサヅキくんが大好きだもの。だから彼をもっともっとこれから地獄に落さないなら会う意味がないよ」
啜るような舌なめずりの音が聞こえ、カオナシは眼前に映る人は彼が苦しむ姿の想像をうっとりとしているのだと、目の前の背中から感じる。悪寒が全身に宿りカオナシはフードの中にある口元を引き攣らさせざるをえなかった。
この人はやっぱしどこかネジが打っ飛んでいる。
「あなたの質問には答えたわ。それで私の質問の答えは?」
無感情の問い質しにカオナシはふと我に戻る。
「別にいいじゃないの?あれをして貰ったほうが今後の動きを考えると合理的だと思うわ」
そう。これからサヅキに起こる出来事は彼にとって途轍もない苦しみと絶望の日々がしか待っていないことは知っていた。
それでも、彼にはその道を辿ってもらう必要がある。だからカオナシは止めようとは思わないし彼を哀れに思いもしない。その覚悟の上での決断だ。
「ねえ、カオナシ。あなたって、とぉーっても悪い子なのね」
背後に立っているカオナシの方へ首を傾けるが既にカオナシの姿は無く、そこには静寂の空気とひんやりと透き通った風が吹いていた。
「・・・また、何も言わずに帰っちゃった。まいっか」
軽い気持ちで発して、再び視線をユキの木村へ向ける。
村の明かりは全て沈黙し紅く染まった月だけの光で照らされる村は何度も思うようにこの第二ヒスタル王都から見たら、
「やっぱし人が住んでいるようには見えないよね。まあ、それもそうか。この私の魔法で幻想錯覚を生み出す結界と言えば良いのかな。それをユキの木村に張っているからだーれも、あの村に人が住んでいるとは思わないよね」
真夜中の王都の防壁の上でクスクスと小高い笑い声が月に照らされる世界に広がりポツリと呟く。
「君はこれから先、どんな顔をするのかな――鐘白サヅキくん♪」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
物凄く地面と距離がある防壁の上からカオナシは身軽に地に着く。
そして今まで息苦しかったローブを外そうとした刹那、耳新しい音を聞くはずなのになぜか耳障りで不快さを感じさせる音が聞こえる。
酷い匂いが嗅覚を刺激し、カオナシは視線を巡らせると眼前に広がる広大な森の奥から何か硬いものを懸命に噛み砕く咀嚼音が伝わる。
「また、アンデット達が人を食べているのかな」
不思議と興味が湧き出てカオナシは音のする発信源へ足を運ばせる。
少し森の奥へ進むと同時に匂いの強さは増し、それと付き添うように咀嚼音も大きくなり、カオナシはその音と匂いの正体を目にした。
無残に残酷な姿化とした幾体もの死体を顔見知りの二人魔族が貪り食っていた。
オークと呼ばれるモンスター。だが、普通のオークとは違い体格は通常のオークの数倍大きく、
「あ?誰かと思えばオデの獲物を奪った人っ子ではないか。何の用だ」
人と同じ言語を話すことができる。その理由は『魔族』だからだ。
『魔族』というのは魔女の魔力を体内に入れ込むことによってモンスターが人と同じ言語を発したり、または通常以上に体中にある魔力を活性化させ力、能力を高める事ができる。
「あんたらの食っている音がうるさかったから来てみただけだよ。てか、その人達はどこから捕ってきたの?」
「安心したまえ。私達はあの方の命令でこの家畜以下の人間を食べているから」
「いや、私はどこの人たちなのかを聞いているだけなの。それに答えて」
質問の答えになっていない言葉をもう一人の魔族はカオナシに返す。
傍らにいるオークとは違い、返り血を浴びていない黒の正装のヴァンパイアは何やら横倒れ既に息を引き取っている人の下半身の臓物から十字型の短剣を突き刺し鮮血を採っている。
眼鏡を付け執事の役割を主に果たすこのヴァンパイア――ロゼヴァリア。
「君は愚かだね。気づかなかったかい?普段なら王都を守る衛兵さんたちがいる筈だが、防壁の上には衛兵が一人もいなかったことに」
ニヤニヤと悪い笑みを向けてくるロゼヴァリアの姿に、カオナシは目線をオークへ。
オークは口の中に詰めこまれる人の脳髄を鋭い歯で噛み砕く。その度に人なら不快にさせる音を鳴らし、ゴクリ、と音を立てて飲み込む。
見るからにこの二人に殺された連中は皆、鎧を着ている。そして二人は鎧、衣服類を脱がそうともせずそのまま貪る。
「まさかとは思うけど、ここにある数十という数の死体は上にいた人たち・・・?」
「ご名答。その通りだよ。私とこのオークがあの者達を片付けました」
「オデをオークって言うな!オデはオールロットだ。魔女様が付けてくれた名でオデを呼べ」
癪に障ってしまったオールロットは苛々を一体の死体にぶつけるように死体の四肢を捻り取り、血を周囲にある大木にまき散らす。
その撒き散らす血を少量浴びたロゼヴァリアは嫌そうに血が付いた服を叩く。
「オデは強い!オデは強い!ニンゲン、殺す!食う!」
ガッハハハと不気味に笑うオールロットの声を森中に響き渡る。
「はいはい。君が強いのは分かったよ、オールロット。私が悪かった。だからもう静かにしてくれまいか?このままだと王都の中にいる衛兵が来るかもしれないからさぁ」
ロゼヴァリアは一つ頭を低くしてオールロットに頭を軽く下げた。それを目視したオールロットはなぜか満足そうに口を閉じ、再び死体に掴みムシャムシャと食べ始める。
ロゼヴァリアはオールロットが落ち着いたことで安堵のため息を外に溢すと、目線を十字型の短剣へ。それを見て何かを納得したように「終了」と言葉に出し、臓物に刺さる短剣を抜き、懐へ入れる。
そんな行動を目にしたカオナシは彼が何をしているかが気になり、
「その血液を採った短剣をどうするの?」
「君には関係ない話だが、話そう。実はついに私の奴隷となるモンスターの製作にこの血液を入れることによって成功するのだ。だからこの血液は私の奴隷ちゃんにあげる物です」
血液を抜き取った死体の臓物を撫で下ろしながら快楽感を得た表情をみせるロゼヴァリア。仕舞いにはジュルジュル、と唾液を啜り、
「失礼。私はこれ以上己の欲望には耐え切れない」
我慢の限界と告げ撫で下ろして臓物を死体から引っ張り出し、鋭い歯で引き千切り口の中へと詰め込む。
これ以上ここにいたら私の頭が狂いそうだ。さっさとここを離れるか。
益々、血生臭くなるこの場にいると理性が保てなくなると判断したカオナシは森を出ようとした時、
「良かったら君もどうだ?我々の食事に歓迎するよ?」
ロゼヴァリアの言葉から君も一緒にこの人達を食べないか?と誘われ、カオナシの足は止まる。
口元を一度拭い、背にしていたロゼヴァリアの方へ向き直し、カオナシは横たわる死体に一瞥する。
「お誘いは感謝するが生憎、私の腹は満たされている」
「そうか。それは残念だ。魔族は人のー―血と肉を食べる事で強くなり、生命の源となるのだが、君はどこかで済ませてきたのなら仕方が無いな」
「行く前に最後。あまり衛兵達を殺り過ぎると王都の連中が動き始めるよ」
「ご忠告感謝します。我々もその辺は考えていますのでご安心を」
カオナシはもう一度口元を拭いこの場を去った。