第455話 ツンツンしていない
薄暗く、どんよりとした空気が張り詰めている。
体を動かそうとしても、その意思に反して全然動けない。
おまけに声も発する事もできず、まるで金縛りにあったかのようだ。
(うっ……)
黒いフード男が放った甘い香りが微かに鼻に付いており、それが倦怠感を引き起こしている原因なのだろうか。
状況は最悪、この甘い匂いに身を任せていたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。
どうにか脱出しなければと時雨は無理に体を起こそうとするが、やはり全然動けない。
この不快な甘い匂いを取っ払いたいが、辛うじて視線を動かす事はできた。
倦怠感と共に、何か大切なものが欠落していくような恐怖感が徐々に芽生え始めて、時雨は反射的に声を上げようとするが、喉が焼けるような痛みで言葉にならなかった。
同級生の香や加奈の顔が走馬灯のように蘇り、先輩である紅葉の顔や姉である柚子に続いて最後に大切な姫君である凜の顔がこちらへ微笑んでいる。
(ああ、待ってくれ)
時雨は手を伸ばそうとするが、それも叶わず見守る事しかできない事に歯痒い気持ちで一杯だ。
嫌だ、このまま消えたくない。
抗おうとするが、体は動かず恐怖心から目に涙が浮かび上がって来る。
呼吸も比例して荒くなり、こいつに呑み込まれて終わりだと諦めかけた時だった。
覆い被せるように柔らかい感触が時雨の全身を包み込んだのだ。
その正体については分からないが、あの不快な甘い匂いは搔き消されて新たな甘い匂いが上書きする形で心地良い気分だ。
思わず匂いに釣られて腕を伸ばそうとして見ると、鉛のように動かなかった体を動かす事ができた。
「おっ、目が覚めたようだニャ」
呑気な声が耳に入る。
頭の中を整理すると、声の主が白猫のミールであるのはすぐに分かった。
薄暗い空間はいつの間にか消え失せており、天井の照明が少々眩しく感じた。
落ち着いて周囲を見渡すと、時雨のすぐ横に白猫のミールが香箱座りしながらこちらを窺っている。
「よかった、ようやくお姫様のお目覚めね」
奥から加奈の声が聞こえると、氷枕を抱えながら時雨の前に現れる。
手際良く時雨の後頭部に敷かれていた氷枕を新しい物に取り替えると、時雨は不思議そうに加奈を見つめる。
「大丈夫だったの?」
「それはこっちの台詞よ。時雨と理恵が玄関前で倒れていたのを偶然見つけられたから良かったけどね」
どうやら、玄関前に倒れていたところを黒猫の鳴き声で時雨の存在に気付いたらしく、加奈が部屋まで運んで介抱してくれたらしい。
先程まで洞穴にいた筈なのだが、見覚えのある家具や部屋の間取りでキャスティルが借りているマンションだ。
「怪我とかは本当に大丈夫なの? あの変なフード男に何かされたりしていない?」
「女神様のおかげさまで私の怪我とかは治ったけど、フードの男って何の話?」
首を傾げる加奈は熱に当てられて混乱しているのではないかと心配になって時雨の額に手を当てる。
「熱はなさそうだし、後は美味しい物でも食べて体力付ければ平気っぽいね」
「ああ……いや、何でもないよ」
悪い夢でも見ていたのだろうか。
時雨は起き上がろうとしたが、本調子ではないのか足元がよろけそうになり慌てて加奈が体を支えてくれた。
大事に至らなくて良かったと安堵する加奈は目を覚ました時雨のためにコップに水を汲んで落ち着かせようと飲ませてくれた。
「ありがとう。おかげで助かったよ」
「友達として当然よ。まあ、時雨としては恋人とかに介抱してくれた方がよかったかな?」
「……いつもの加奈で安心したよ。やっぱり、ツンツンしているより今の方が素敵だよ」
意外な返答に加奈は訝しげに首を捻ってしまう。
倒れた衝撃で頭でも打っているのではないかと心配になったが、白猫のミールは加奈の心情を察して「心配ないニャ~」と答えてくれた。




