第38話 ごちそうさま
「今日は桐山先輩と一緒だと思ったけど、こんなところで会うとは夢にも思わなかったよ」
香は時雨がカラオケ店にいるとは思わず、驚いた声を上げると、紅茶が入ったカップを手にする。
「まあ……気晴らしにね。香は今日、英語の補習じゃなかった?」
時雨もカップに二人分の紅茶を注ぐと、今日の放課後に英語の小テストで成績が芳しくなかった生徒を対象に補習が行われる事になっていた。
時雨はギリギリ補習を免れたが、香は引っかかってしまった。
「その予定だったけど、先生が風邪で学校を休んでいるから中止になったよ」
「そうだったんだ」
ゴールデンウィークも近付いているこの時期に風邪とは、先生もついていない。
「代わりに補習用のブリントを配られて、明日までに提出する事になっているけどね」
学校側に連絡を入れていたらしく、宿題として分厚いプリントの束を用意していたようだ。
「それなら、早く帰ってプリントを仕上げないと駄目だよ」
「気分を一新させて臨もうかと思ってね。歌い切って一息入れようと紅茶を淹れに来たら、こうして時雨と運命的な出会いをしたって訳よ。宿題も一気にやる気が湧いてきたかな」
運命的な出会いかは分からないが、それで香のモチベーションを保つのに一役買っているのなら、深く突っ込まないでおこう。
時雨が紅茶を淹れ終えると、香は持っていた紅茶のカップを台座に置いて、背後からぎゅっと抱きしめる。
「ふぅ……こうしていると、紅茶で喉を潤すよりも気分がいいな」
「香、ここは人の往来があるから恥ずかしいよ」
「もう少し、このままでいさせて……」
香はうっとりした顔になると、彼女の温もりが背中を通じて伝わってくる。
(甘えん坊だな……)
時雨は諦めて香の我儘に付き合っていると、不意を突いて左頬にキスをして解放した。
「ごちそうさま。じゃあ、私はもう行くね」
突然の出来事に時雨はその場で固まってしまうと、香は鼻歌交じりで紅茶のカップを持って退散する。
左頬に手を当てると、何が起こったのかやっと理解して思考が追い付いて、その場でへたり込んでしまった。
丁度そこに店員の一人が軽食をどこかのカラオケルームに運ぼうとしていた時、時雨の姿を発見して心配そうに声を掛ける。
「お客様、大丈夫ですか?」
「え……ええ、平気です。失礼しました」
時雨は慌てて立ち上がると、自分が淹れた紅茶をその場に残して凛が待つカラオケルームへ戻って行った。




