第364話 イカ夫人
ステージの時間となり、予定通り午後の部が幕を開けようとしている。
香をステージ上にさらうために指定された観客席へ時雨達が座ると、周囲は相変わらず子供連れで賑わっている。
「香、あんな目立つステージで歌えるの?」
「大丈夫だよ。観客席に時雨ちゃんが私を見守ってくれてるからね」
加奈も時雨同様に香を心配して声を掛けると、香は笑顔で時雨の腕を組みながら答えて見せる。
「それならいいけど、もしも緊張したら掌に人の文字を描いて心を落ち着かせるのよ。それでも駄目なら、素数を数えて平静を取り戻すの」
「人の文字は何となく分かるけど、素数を数えるのはネタでしょ」
「素数は孤独な数字……ステージ上で孤独な香をきっと元気づけてくれるわ」
加奈は香の肩にそっと手を添えてアドバイスを送る。
素数の下りは単純に加奈がネタとして言いたかった台詞だと思うので、あまりツッコミを入れる気にはならなかった。
「皆が観客席で見ていてくれているし、全然孤独じゃないよ。それに素数ってどんな数字か僕はしらないし」
孤独ではないと香は時雨の頬に顔を近付けて突っぱねる。
素数に関しては小学校、中学校で習っている筈なので別の意味で心配になってしまうが、香らしい返答が返って来たので、あとは温かく見守るとしよう。
イカ男爵役の彼に付き添って救急車に運ばれた進行役の女性の代役は魚介レンジャーが所属する大学サークルの演劇部から派遣されて来た。
幸いにも、進行役は何度か経験済みなのでこちらに支障はないようだ。
問題はやはりイカ男爵役のミュースだ。
時雨はミュースにキャスティルをイメージしてイカ男爵を演じて下さいと軽くアドバイスをしていた。
結果、語尾のゲソはタコに変化した訳だ。
台詞はこの短期間で全て暗記したミュースはやはり優秀な女神であるのだが、肝心の演技力はやはり素人であった。
キャスティルの豪胆な性格と物怖じしないミールの性格を足して割ったら、丁度良い塩梅なイカ男爵が出来上がるだろうなと時雨は思う。
ミュースにそこまで求めるのは酷であるが、せめて悪役らしさは全面的に出さないと舞台は成立しない。
煙幕と共にイカ男爵の登場シーンになると、ここから台本と違う展開になった。
「私はイカ男爵の永遠の伴侶であるイカ夫人! 今日は男爵の代わりに私が魚介レンジャーを地獄へ導いてあげるから覚悟なさいタコ」
語尾のタコはせめてもの悪役らしさを強調されているが、イカなのにタコなんだと子供からは疑問の声が上がっている。
しかもミュースは申し訳ない程度で腕にイカの触手を身に付けている以外は素顔をさらけ出している人間の姿である。
イカ男爵で登場するより、急遽その伴侶であるイカ夫人の設定で登場した方が無難だと判断したのだろう。
颯爽とイカ夫人は跳躍してステージ中央に立つと、子供達の反応は上々で掴みは悪くない。
それどころかイカ夫人の美貌に当てられた子供連れのお父さん方にも良い反応が見られて、同伴しているお母さん方はそんなお父さんを鋭い目付きで睨んでいる。
(頑張って下さい)
時雨は心の中でイカ夫人を演じているミュースに激励を送りながら、人質を取るシーンに迫っていた。




