第340話 母と子の姿
時雨が前世の母親の顔を見たのは馬車で転落する前日であった。
いつものように服用させている薬を飲ませて、ささやかな家族との一時を過ごした記憶が蘇る。
鏑木時雨として異世界転生した後は前世の母親や弟の安否を心配し、夜も眠れない日々がしばらく続いた。
(そんな事が……)
現実を受け止めきれない時雨は頭が真っ白になりそうな衝撃で、柚子を凝視する。
もしかしたら、時雨を驚かすための冗談ではないだろうか。
元々、柚子は悪戯好きな一面を持っている姉なのだ。
そうだ、そうに決まっている。
時雨は自分に言い聞かせながら、いつもの調子を取り戻したかのように平静を装う。
「もう、お姉ちゃんは私を驚かせようとしてもその手には乗らないよ。悪戯されるのは加奈だけで十分だからね」
困った姉だと時雨は途中だった柚子の背中を再び洗おうと試みる。
だが、柚子はそれに応じずさらに語り掛ける。
「私の誕生日に時雨はプレゼントを渡してくれた時があったね。王国の草原に広がる花畑から一輪の綺麗な花を摘んでくれた」
たしかに柚子の言う通り、時雨は母親に一輪の花をプレゼントした事があった。
まだ香が生まれる前の時雨が幼い子供の頃に色々と思案した結果、母親を喜ばせる精一杯のプレゼントだった。
時雨と母親しか知らない事実を突き付けられると、時雨は込み上げる感情と共に泣き崩れてしまった。
「ごめんなさい……俺が母さんを殺したようなものだ。母さんやシャインを路頭に迷わせて不幸にさせてしまった」
時雨はまるで柚子に許しを乞うように懺悔する言葉を並べる。
いつの間にか時雨は前世で家族と暮らしていた口調に戻り、柚子を母親だと認めていた。
時雨が前世で亡くなった事で身体が弱かった母親に薬を提供できなくなり、生活費も途絶えてしまった。
時雨の不幸が連鎖的に家族も不幸を呼び起こし、結果的に悲惨な死を迎えたのだ。
きっと恨んでいる。
そんな自責の念が時雨を支配する。
「ロイドが謝る必要はないよ。今まで騙すような真似をしてごめんなさい」
「謝るのは俺の方だよ。俺が母さんを苦しめたのだから、その償いをしないといけない」
「そんな必要はないよ。こうしてロイドの……時雨の元気な顔を見れただけで私は幸せなんだよ」
柚子は時雨を優しく抱き締めると、柚子の放った言葉は時雨の凍り付いた心を解き放ってくれた。
そこに映っているのは紛れもなく、かつての母と子の姿だった。




