第295話 夢
夜も更けて時雨達は布団に潜って寝息を立てている。
時雨は何もない真っ白な空間に一人ぽつんと立っていると、空間全体から聞き覚えのある声が時雨を呼び止める。
「やあ、気分はどうだい?」
空間全体で声が反響すると、声の正体はミールであった。
「早速、約束を果たそうと思ってね。時雨君に良い夢を見せてあげるよ」
露天風呂で時雨が要望した事をどうやら聞き入れてくれるらしいが、正直不安だ。
「それより、ここはどこなんですか?」
「ここは時雨君が描いた夢の中だよ。とりあえず、一時的に私が夢の支配権を握る形でこんな殺風景にしているだけだから安心していいよ」
本当に夢を支配できるとはさすが女神だなと時雨は感心してしまう。
良い夢を見たいと言ったが、あくまでぐっすり睡眠を取って明日に備えられたらいいな程度
の軽い気持ちだった。
「人によって良い夢とは千差万別。時雨君が普段できそうにない事も今なら可能だ」
「それは……凄いですね」
「その顔は信じていないね。まあ、実感が湧かないのも無理はないか。私にかかれば、こんな夢を見せる事もできるよ」
ミールが指を鳴らすと、真っ白な空間全体が揺らいで見覚えのある空間へと変化する。
時雨が通っている学校の教室だ。
いつの間にか時雨は旅館の浴衣から学校の制服に着替えており、教室にクラスメイト達がぞろぞろと入室を始める。
そしてガヤガヤと賑やかな声が教室全体を包み込む。
「いつもの教室だ」
夢であるのは理解しているが、現実と寸分変わらぬ光景に驚きを隠せない。
「時雨、ちょっとこっちに来てよ」
時雨を呼ぶ声が聞こえると、香と仲の良いギャル仲間の理恵だ。
「理恵、どうしたの?」
時雨は何の疑いもなく、教壇の前で立っている理恵の下へ近付く。
いつもは香と一緒に呼ばれる事が多かったので、時雨だけ呼ばれるのは珍しい。
メイクや服の相談なら香の方が詳しいし、勉強も理恵の方が時雨より成績は良い。
考えられるとしたら、カラオケの面子が足りないとかだが、ここは夢の世界だ。
「つ・か・ま・え・た」
息遣いが荒く、教壇の前で理恵が時雨を力強く抱き締める。
香や加奈ならともかく、理恵がこんな大胆な事をする娘ではない。
そのまま床に押し倒されてしまうと、理恵は時雨の顔を捉える。
周囲のクラスメイト達は時雨と理恵を気にする様子もない。
再び、指を鳴らす音が教室全体を包み込むと、時雨以外の人物は動きを止めて、ミールの声が響き渡る。
「日常が非日常へと塗り潰される瞬間、人は感情が昂ってドキドキしたりするものさ。夢だからできる芸当だけど、このまま続きを再開するかい?」
「わ……分かりました! ミールさんの力は存分に理解しましたので元に戻して下さい」
「おや、やっと理解してくれたかい。でも、この夢はお気に召さなかったようだね」
さらに指を鳴らしてミールは教室を真っ白な空間へと戻すと、教室にいたクラスメイト達も消えて時雨の制服姿も旅館の浴衣へ戻されていた。
夢とは言え、理恵に押し倒された感触は今でも鮮明に残っている。
あまりにもリアル過ぎて、夢であるのを忘れかけてしまうぐらいだった。
「さて、楽しい夢か。時雨君は純粋な子だから、童話の主人公になりきって夢を満喫するのはどうだろうか?」
「私が童話の主人公を演じるのですか。自慢じゃありませんが、私は大根役者で学校の演劇会でも台詞のない木の役とかしかできませんよ」
ミールから夢の提案を持ち掛けられる。
童話の主人公になりきり物語を進める体験アトラクション。
面白そうではあるが、童話の主人公を演じる柄ではないので一歩踏み出せず尻込みしてしまう。
「大丈夫さ。細かい部分は私が補助するから、時雨君は主人公になりきって物語を楽しんでくれればいいよ」
「そうですか……それなら、自分なりに頑張ってみます」
「おっ、やる気になったようだね。とりあえず、この童話から始めてみようか」
ミールの後押しもあって、時雨は不安ながらも挑戦する覚悟を決めた。
童話はミールが選択すると、早速真っ白な空間は変化して童話の物語が始まろうとする。
それと同時に時雨の衣服も物語に相応しい姿になる。
「ちょっ……何でこんな姿に!?」
変化が全て終わると、時雨は自身の姿に驚いてその場で蹲ってしまった。
海で泳ぐために買った水着に着せ替えられていたのだ。
(水着の主人公なんていないよ)
周囲を見渡すと、物語の舞台となる場所は砂浜の海岸であった。




